去る四月の或る日曜日、一人の友を偲ぶ集まりがあって出かけたところ、七十三歳か七十四歳になる高等学校同窓の者が六十五名参集していて、まずその数に驚き且つ又感銘をうけた。われわれが惜別の心を寄せた友は、昨年末の大和座通信九十三号に、その急逝を記させていただいた岩倉一雄君である。
さて私は、当日参加できなかった友人に、この偲ぶ会の様子を知らせる手紙を送り、その中で次のような一文を認めた。《全くと言っていいくらい邪気のない彼の人柄が、巧まずしてこれだけの人を参集させたのでしょう。かつては、社会の要所には彼のような高士高潔の人物がいて人間の流れを円滑にし、汚泥の沈積を防いでいたのだろうと思います。今は、着飾ってはいるものの性情卑しく、心の中身は悪意と邪気で一杯という人間が、肝心の重要な拠点に棲息跋扈していて、世の中を劣悪化させているように思えてなりません。昔から狂言の稽古人には、知性に裏打ちされた雅味が感じられ、その上世相についても一家言をもった人が多かったように思います。私が稽古を始めた頃(昭和三〇年)を振り返っても、稽古人のほとんどは男性で、画家・俳人・大店の主人・教員などといった多士済々の人たちでした。つまり、人生の有為転変をたっぷり味わい、その中で色々な稽古事を体験してきて、最後に落ち着いた先が狂言であったという推測と理解が成り立つような方たちが、未だ青二才の私にさまざまな精神的影響を与えてくださったように思います。さて、四〜五年前に岩倉君の心を狂言がとらえたようです。剛柔併せ持ち、人の心を正しく、しかも優しく洞察し、何の衒いもなく真偽を正す行動をとれる彼のような人物をも惹きつける力が、古典芸能「狂言」に内蔵されているという証しを私は彼を通じて確認することができたような気がします》
大和座狂言事務所主催の催しには必ずと言っていいほど顔を出し、誠実に謡を歌っていた彼の姿が、今もはっきり瞼の裏に焼きついている。それに又後日いろいろお話を伺う中で、彼が大勢の方たちを私たちの催しへ勧誘案内してくれていたことがわかった。古典と言うものの存在理由を正しく理解し、自らへの適切な摂取を果たし、その上で普及をも必要と考えてくれた岩倉君の鋭い感性に、私は大いなる敬意と悔しい惜別の情を衷心より贈る者である。と同時に、古典伝統的なるものと人間の関係は、ごく普通にかく有ってしかるべしという好例を見る思いがするのである。先進近代国家建設への方向に舵を切り、西欧合理主義思想を無節操に摂り入れて国作りをしてきた結果、今日に至って「根幹を持たぬ人間への変容」という重大な問題が生じたと論説する人が多い。そして、信じられないような事件が起こる度に、この意見が論卓に顔を出す。日本人の変容あるいは崩壊と論じられる現象は、自国の古典伝統的なものが人間形成の場に正しく組み込まれて作動していない事が原因で起こると考えられる。人間の背骨である人格と感性は、その民族が歴史的に積み上げてきた古典文化を様々な形で体験し、その体験刺激が各人の心身へ日常的に注入されることによって形成される。少なくとも西欧では、国家の基盤にこの仕組みがしっかり埋め込まれているように思われる。わが国にあって古典というものが、在りのまま無垢の姿で存在し、誰でもが気軽に触れられる様相にないという現状が、衆人の目に怪しく映り、近年やっとその事について考え始める人間が現れ出したように思う。
古典伝統芸能については、西欧の有名店の豪華なカタログを見せられるような様相で紹介がされる。ブランド商品を宣伝する、高級感満載の目録のような印刷物の氾濫がそれである。カタログは国の意向に沿った内容で作られた(国の古典文化行政の方針に沿った)ものであるから、上流階級を自負自認する者たちは、まずこれを一応粗略には扱わない。つまりセレブ意識を満足させる、ブルジョワ志向の催しという枠囲いが一つ出来上がるわけである。郷愁を持って情緒的に古典を鑑賞したいと考える常識派の良民大衆は、憧れをもってこの目録を大事にして歓ぶが、一方多様な価値観を理解する文化人層のインテリゲンチャの中には、このカタログが見せかけであるという匂いを嗅ぎ取って、容易には近付かない。国家や民族の文化などに何らの意識も持たない大多数の大衆は、もともと古典伝統芸能に毛筋ほどのつながりも持っていない。その結果、驚くほど多数の国民が、この国に生まれながら、この国の古典伝統芸能に一度も触れる事なく死んでゆく。これが只今、我が国の古典伝統芸能を取り巻く国民の一覧図である。そして困った事に、この最後の分類の中に、国の将来を担う青少年が含まれると思われるのである。
古典伝統芸能の世界では、演者の名を告知するに際して、幾つかの特定の苗字が並ぶ不思議がある。同じ姓を名乗ると言う事は、何らかの姻戚関係につながれた一族郎党の集団ということである。この姓を名乗ってさえいれば、いかに若輩未熟であろうとも選ばれた者としての特権が与えられ、将来が約束されるという世界に類例を見ない独特の構造様式がある。芸術分野における評論・研究というものは、真理の探究と新人の発掘を主体に展開され、恣意的な専横や固定を正す姿勢をもつものである。しかるに古典芸能の評論は、先ずこの特殊集団構図に疑問を呈する事がなく、むしろその存在を歴史的故実によって飾り立て、普遍的でない鑑賞様式を説いて、特別な芸術であるかのような風様作りに徹しているようにみえる。またこの構図からは、家の子以外の新人が登場する機会は皆無だから、評論家による正真正銘の新人の発掘などはありえない。その上この構図しか知らない愛好者である観客は、演者の思想や信条に即した演劇芸術的解説を求めてなどいないから、批評は独善的かつ専門的な記述が専らで、心に響いて思想にまで影響を与える考究が生まれない。このような需要と供給の論理で、今日の古典伝統芸能社会構造が存在しているのである。そしてこの構図は、国の古典芸能文化行政のままに形成されたものであって、奇妙な権威的衣をまとわされているがために、市民権を得る事の出来ない古典演劇文化という装いから脱皮ができないままでいるのである。
この間、小学四年生になった娘が、学校から「生きる力」と題したリーフレットを持ち帰りました。発行者は文部科学省(初等中等教育局教育課程課)で各頁を飾る標題を紹介すると、次のとおりである。《「生きる力」をはぐくむという理念は―これまでも、これからも大切〜「生きる力」とは―知・徳・体のバランスの取れた力〜社会全体ではぐくむ「生きる力」〜新しい学習指導要領では、学校で子どもたちの「生きる力」をよりいっそうはぐくむことを目指します〜家庭をはじめとして、社会全体で、子どもたちの「生きる力」をはぐくんでいくことに、ご理解とご協力をお願いします》そのほか、《学習指導要領の改訂のポイント・授業時数の増加・具体的な改善内容・小・中学校における、平成二十一年四月から実施のスケジュール・子どもたちの現状》などに関する記述が一五頁に綴られている。例えば「伝統や文化に関する教育を充実します」とある項目を見ると、国語の時間では…小学校で古文・漢文の音読を行います。社会の時間では…小学校では国宝などの文化遺産、中学校では江戸時代の教育・文化や近現代史など、歴史学習を充実します。音楽の時間では…唱歌や和楽器の学習を充実します。保健体育の時間では…中学校で男女共に武道を必修にします、と読める。そして最後に、浅田真央さん、石川遼さん、紺野美沙子さん、野村萬斉さん、野依良治さん、日野原重明さん、よしもとばななさんに「生きる力」の趣旨にご賛同いただき、「生きる力」のサインをいただきました。と締めくくられている。
これは国の機関である文部科学省が、国民に読むことを奨励している公式文書である。父兄の一人である私にとっては、この書の一読を政府から要請されているのである。理屈は抜きにして、私はこれを精読して大変不快を覚えている。子どもの生きる力を育む事に、わざわざ国から理解と協力を願われる筋合いはない。親なら願われずとも当然、日々その事の重要を認識して子どもと接している。文部科学省の役人は、この当然の事を、そう考えない親が多いと判断して、このような老婆親切心の冊子を作ったようである。おまけに今話題の有名人を登場させて、興味関心を引き出そうと目論んでいるようでもある。そうだとしたら、これは国民を著しく愚弄する姿勢である。私は当事者(父兄)の一人として、痛烈にそう感じている。教育は人間の根幹である。根幹については、格調高く毅然とした文言で真理を問いかけてほしいと思う。国家は、真理については振れることなく低きに合わすこともなく、凛とした態度を示すべきである。「生きる力」を培い育むものは、人間の手垢に汚れていない、あるがままの古典伝統文化である。これは世界に共通する自明の理である。古典文化は、国家機関が恣意に統制管理するべき性質のものでは決してない。民族の財産である古典が遍く国民の心に根を張り、果実の自由な摂取を可能にする社会機構の整備にこそ、国は力と資金を費やすべきである。この自明の理を活かす抜本政策に取り組むことなく、膨大な税金をつぎ込んでは小手先の補綴を繰り返しているのが、わが国の現況であるように見えてしかたがないのである。全国の幼稚園、小・中学校の児童生徒に配られた、この小冊子制作に要した費用は如何ほどであったのか。これこそ税金の浪費だと言えそうである。(五月二十五日)

