大和座同人が隔月で連載しています大和座通信
大和座通信より (日々真面目 其の三十四)

近頃、恰好(格好)という言葉に引っ掛かっている。「恰好をつける」「恰好がつく」という言葉の意味に、囚われているのである。これまで幾度となく自省の念をこめて識者・先達の皆さんへ謝ってきた私の勝手気ままな物言いについて、その原因となる不審や憤懣などといった感情の起こってくるわけが、この言葉によって解明されるように思うのである。◆格好をつけるという意味は、あるモノの様子を良しとして、とりあえずそれを真似て同じ体裁を繕う事と解釈できる。であるから「恰好をつける」という段階では、それは未だ本モノではない。明治維新以来わが国は、先進西欧諸国のたたずまいをひたすら真似て近代文化国家の恰好作りに専念腐心してきた。「学ぶ」は「まねぶ」を語源にすると言われる。真似をして摂り入れた知識を自家焙煎し発酵熟成させて、借り物でない自家の思想が形成される。これが学習するということである。◆しかし私が、この様子について不審を感じると申し上げるのは、恰好をつけるために真似て体裁を整えるに必要な方策と体制だけが国のあらゆる処に張り巡らされ、表層のお祭り騒ぎが起こり、人間の思想までがこの風潮に左右されているという状況についての事である。その結果、軽佻浮薄・追随追従・猿まね・付和雷同・西高東低などなど、あまり好ましくない形容詞が、我が国の国体、政治、経済、文化、国民性を批評解説するに際して自虐的に使われてきた。使ってきた張本人は我が国を代表する知識人たちと、マス・メディアである。時たま世界中の人間から賞賛を受ける学者や研究者、また文化人や芸術家が現れると、待ってましたとばかりに国家的な報道騒ぎをを繰り広げ、広く日本人の誇りと自信を喚起しようとするが、所詮それは個人的な一過性の出来事に過ぎないものだから、根柢の憂慮すべき現状はいささかも改善される気配がない。わが国に限ったことではなく、マス・メディアというものは世界中同じ体質を持つものであるかもしれないが、正論と称した警句的な言論を展開しながら、一方ではそれを簡単に覆してしまう低俗な娯楽番組を大量に提供し続け、この矛盾したからくりを現代経済論理上やむを得ない社会現象だと云い放って、形振り構わず利益を追求している。この所業は、まさしく「マッチ・ポンプ」である。

我が国を蔽っていた暗雲が晴れてその本体が見えてきた時、わが目を疑う現実の姿に直面した日本人の多くは、衝撃と驚きを感じるに違いないだろうと思う。かく言う私も近年いよいよ驚愕に近い衝撃を覚えている。国は格好をつける体裁作りにのみ精を出し、生活情報を握るマス・メディアは、マッチ・ポンプを繰り返して喧噪の社会風潮を作り続けている。いつの間に日本は、このような様相の国になってしまったのかと驚いているのである。もっとも西欧近代文化思想と出会ってから未だ一四〇年しか経っていないわけだから、国の在り様が発展途上国並みに「恰好をつける」域を出ていないのは無理からぬ事という意見もあるようである。

近代文明と思想が東洋の島国を襲い、変革の嵐に見舞われた新政府は、それまでに在った芸能文化の処置に困る。芸術の芳香をふんだんに漂わせた西欧の音楽や演劇などの芸術と同列に扱うには不具合が感じられる。かと言って、大衆的民俗芸能として扱うのは勿体なくて憚られる。とりあえず西欧様式を摂り入れて恰好をつける上で当面さしたる支障の来たさぬよう、能・狂言・文楽・歌舞伎・邦楽などを一まとめにし、「古典伝統芸能」と付箋をつけて処理した事は、驚くべき知恵であったと言える。新体制国家をつくる志士の中に、脱帽して敬礼すべき知恵者の策士がいたようである。

やがて明治・大正を経て、日本人の意識の中に芸術思想が急速に芽生える。これまで遊芸の、或いは芸事のという風体の衣を着せられていた古典伝統芸能にもこの時、芸術思潮の冠水洗礼を施して近代思想との折り合いをつけるべきであったものが、付箋を付けて仕舞い込まれた時のまま一世紀半に近い年月放置されて今日に至っている事に不審を禁じえないのである。この例に等しく、恰好をつけただけで芯も基盤も構築しない事例が至る所に見られ、今日其処から腐臭が立ち昇り醜態が噴出しているのである。官僚機構から雲霞のように湧いてくる不祥事、政治の貧困と混乱、うたかたの浮草が如き芸能文化、教育の荒廃、商業行為における信じ難い道徳観念の欠如、あらゆる現場において、効率化が最新の英知であると推奨する欺瞞などなどは、すべて上辺だけを繕う「格好つけ体制」からもたらされたものである。

私は何も絵に描いたような正義論や定義定説を振りかざす積りはないが、物事の真理と対峙し、あえて難解なものにも向き合おうとする人間を馬鹿扱いするような社会は明らかによろしくないと思う。雑学をひけらかして、あたかもそれが教養であるかのように思わせたり、ボタンを押すスピードを競わせたりするクイズ番組は、底の浅い効率信奉人間を育てて、これが教育の荒廃に繋がっている。日常的に聞こえてくる言葉が、幼少年期の人間に重要かつ決定的な影響を与えると言われる。そして今、この根幹のところが危ぶまれている。西洋音楽を研究している教員や生徒の中で、何の疑いもなく西洋音楽が他の音楽に比べて優れていると言い切る人がいる。明らかにそこに人間を育てる芸術的勉学の匂いを感じて、その人たちは胸を張って洋楽を讃美するのだろうと思う。文化の基は言葉である。人間はその言葉を自らの国、又は民族が培った古典から嗅ぎ取り、汲み摂るのである。世界中の人間は、みなその様にして自分を知り他人を知って住み分けているわけである。

武智鉄二氏の名言に次のような一文がある。《何でもなくやれることを、何でもなくやれないようにして、その、何でもなくやれないところから、何でもなくやれるところをつかむ・・・と、いうところが、古典伝統芸能の根本です》簡単には解らない判じ物のような文章である。我が国の古典芸能は、何やら怪しげな衣装を身にまとって、伏魔殿の奥に潜むような生業でしか、これまで生き残って来れなかったという歴史がある。この複雑怪奇な難解さに芸術的意味を添付して古典伝統芸能を讃美するために、武智鉄二氏がこの文章をお書きになったとは更々思えない。我が国の古典伝統芸能文化を、このような妖怪染みた様子のものに仕立て上げたのは、他でもないこの国の古典文化行政である。氏はその事を多分に揶揄批判して、この一文を遺されたものと私は思っている。西洋の古典に匂う勉学の香りが、我が国の古典伝統芸能にも内蔵されていないはずは、決してないのである。

明日三日、金久・原・私の三名は、午後五時過ぎ関空を飛び立ってハワイのホノルル港へ行き、クルーズ客船「パシフィック・ビイナス号」に乗船する。この船は今年四月に日本を出港して世界一周の航海を続け、三日に最終の寄港地ホノルルに着いたものである。四日に出港して十三日横浜港に入港するまでの航海中に、二夜狂言公演をし、後もう一日午前中の狂言演習講義をすることになっている。洋上船内での狂言がどのように受け入れられるのか興味津々で出かけてこようと思う。(七月二日)

註:[マッチ・ポンプ](和製語。マッチで火を付ける一方、ポンプで消火する意)意図的に自分で問題を起こしておいて自分でもみ消すこと。また、そうして不当な利益を得る人。1966年の政界の不正事件で広まる。(広辞苑)