| 僕は普段あまり映画館には行かないのだけれども、珍しくこれだけは大きなスクリーンで見なければと思い、かついい具合に友達に誘われたので、封切り直後の話題の映画「指輪物語(Lord
of the Ring)」を見てきた。感激が冷めないうちに、それに纏る思いつきをいくつか書き留めておく。
映画のなかに登場する小人の一族(ホビット族)の人々は、小人症の役者を集めているのだと思って、これだけたくさん集めるのは大変だな、と思いながら見ていたが、実際は比較的身長の低い役者を使って、あとは映像のトリックでそのように見せているらしい。
かつて、『ホームアローン2』を製作時に主演の少年マコーレ・カルキン君が成長期で『ホームアローン』撮影時にくらべて背がずいぶんと伸びてしまったために、相手役に190cm級の役者を揃えてカルキン君が小さく見えるようにしたという逸話が思い出される。はじめに「子供だ」とか「小さい」とかった先入観を与えられている場合の人の心理とは、かくもいい加減なものらしい。
映画の帰りに本屋に寄って、『Lord of the Ring』の記事を読んでみたのだが、
雑誌の批評の中では、「他のシーンとの関連がないようなエピソードがあったりして、脚本が悪い」というコメントが述べられていた。けれど、このような独自の“世界”を描くような作品では、そういった中心的なストーリーとは関係のないエピソードの存在が必要不可欠だ。
例えば、M・エンデの『はてしない物語』では、途中で登場しなくなるサブキャラクターに対しても更なる物語の存在を示唆するかのように、「○○のその後の冒険については、また別の機会に、別の物語として語られるべきであろう」と記述されている。(このフレーズは、物語の中で何度も登場する)そして、このフレーズは物語の中で何度も登場し、「今語られている物語の背後に、いまだ語られていない広大な物語空間の存在する」という感覚をつくりだす。
『Lord of the Ring』での、ストーリーの中では孤立した感のあるエピソードも同様に、いま観客が映画(あるいは物語)として見ているストーリーだけがこの物語空間内のストーリーではない、という広がりにおいて、地と図の固定化した「物語」が地と図が常に反転する可能性に満ちた「世界」になるのである。
『聖書』が様々な物語の輻輳する「聖書の世界」を提示することにより、読む人(キリスト教徒)の中にキリスト教的世界を強固に構築しているように、こうした「世界」を提示する「物語」(あるいは「物語」を提示する「世界」)は、何事かを人の心に植え付ける機能を持っているようである。
メディアの発達した社会においては、それが厳密にはフィクションであるかどうかがわからないという意味で、ニュース等の一見確かな情報も、「世界」を提示する「物語」であるといえるだろう。
※つい、気に入ったフレーズが書けたので意味なく、太字にしてしまいました。
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