『映画「指輪物語」雑感』(2002.3.3)
『ン/韓国語のリズムとビート(1)』(2002.4.30)
『ン/韓国語のリズムとビート(2)』(2002.5.2)
『この空は君のもの』(2002.5.14)
『“群像系”ドラマ(1)基礎編』(2002.5.31)
『“群像系”ドラマ(2)詳細編』(2002.5.31)
『“群像系”ドラマ(3)応用編』(2002.5.31)
『“群像系”ドラマ(4)おまけ』(2002.5.31)
『通過旅行』(2002.9.4)


『“群像系”ドラマ(1)基礎編』(2002.5.31)
山崎姉弟の間ではかねてより(もう5〜6年前から)話題になっていたNHKの海外ドラマが、世間的にも注目を集めるようになりました。本屋に行くと『千と千尋の神隠しガイドブック』と『全部見せます!海外ドラマのスター達』とかいった雑誌が隣り合って平積みにされていたりします。「時代がやっと追いついてきたネー、フフン」と一瞬鼻高々になってみたものの、実際のところ、僕自身もじわじわと盛り上がってきた海外ドラマ人気を支える大多数のひとりでしかすぎないのだけど。そう、おそらくは、僕(と姉)が海外ドラマを「発見」する前にも既に海外ドラマはコンスタントに紹介され、かつ、人気を得ていて、それに気づいていなかっただけなのではないかと、ここまで書いて気づいてしまいました。がっかり・・・。
(気を取り直して)さて、最近ではBSやCS放送、地方のテレビ局なんかでも多数の海外ドラマが放映されていたりしますが、独り暮らしの我が家は当然のことながら地上はオンリーなので、僕の中の海外ドラマはNHKのものに限定されています。そんなNHK限定ながら、僕が注目する海外ドラマは“群像系”のドラマたちです。「ER」「ビバリーヒルズ青春白書」「フルハウス」等が、このカテゴリーに入れられます。これらは、勝手に僕が“群像系”と呼んでいるだけですが、テレビ朝日の「はみだし刑事情熱系(主演:柴田恭平)」や「はぐれ刑事純情派(主演:藤田まこと)」とは全く関係ありません。あ、話がずれました。もとい、“群像系”とは、主人公が多数いるということです。日本のドラマでも「愛という名のもとに」とか「あすなろ白書」「男女7人夏物語」のように5〜7人くらいのグループを主人公とするドラマがありましたが、厳密にはそれらは“群像系”ではありません。彼ら、主人公グループには、描かれ方の密度にヒエラルキーがあり、やはりグループ内には依然として〈メイン〉と〈サブ〉の差があるからです。「愛という名のもとに」を例にとると、唐沢寿明や鈴木保奈美と自殺してしまうチョロ(中野英雄)の間には、誰もが明らかに〈メイン〉と〈サブ〉の差を見ているはずです。(ましてや、中島宏海という女優がその主人公グループの中にいたことをみなさんは覚えているだろうか?)日本のドラマは、仮に「群像を描く」といったところで、結局のところ〈メイン〉の主人公を中心にしてドラマは進み、〈サブ〉を巡るストーリーは主人公のドラマを進めるためのきっかけづくりにすぎないという事になります。
という訳で、“群像系”ドラマ理解してもらう良い例(多分、多くの人はNHKの海外ドラマを見ていないと思うので、ポピュラーな例を示さないといけないですよね)は日本のドラマではなく、日本のTV市場に燦然と輝く金字塔、ご長寿アニメの筆頭である「サザエさん」です。もう、おわかりですね。そう、「サザエさん」の主人公は〈磯野家の人々〉つまり群像なのです。サザエ、カツオ、波平と毎週30分の中で繰り広げられる2〜3話のエピソードごとに、次々と〈メイン〉主人公は入れ替わります。これが“群像系”です。「サザエさん」は、この他にもいくつかの点で“群像系”ドラマの特徴と符号します。それでは、「サザエさん」とともにそれらの特徴を見ていきましょう。

『“群像系”ドラマ(2)詳細編』(2002.5.31)
【特徴その1】これは既に述べましたが、〈メイン〉の主人公が入れ替わるという点です。時間軸のない(いっこうに年をとらず、年月の進行のない)「サザエさん」では、入れ替わる主人公は〈磯野家の人々〉に限定されていますが、“群像系”ドラマでは主人公グループは〈メイン〉の入れ替えだけでなく、定期的にグループのメンバーをも入れ替えてしまいます。「ビバーリーヒルズ青春白書」の場合、ドラマのスタート時の便宜的な〈メイン〉主人公のブランドンとブレンダ(この双子の兄妹がビバリーヒルズの高校に転校してくることから物語が始まる)は、ドラマ終了時には主人公グループにその姿はなく、ビバリーヒルズを離れて、自分の道を歩んでいるということになっています。なぜ、こうしたことが起こるのかというのは【特徴その2】番組が非常に長寿である、という点にあります。日本のドラマは基本的に1クール(3カ月)の放映を前提にしてつくられますが、海外(アメリカ)ドラマの場合、はじめから人気が出れば(つまり、視聴率がよければ)シリーズ化する意図を持って制作されています。アメリカのドラマの場合、パート2、パート3という意味合いで第2シーズン、第3シーズンという言い方をしますが、「ビバーリーヒルズ青春白書」は第10シーズンでようやく完全終了となりました。「サザエさん」のように途絶えることなくという訳ではないものの、“群像系”ドラマもなかなかの“ご長寿”番組なのです。そしてたいていの場合「サザエさん」と違い、ドラマの中でも時間が流れています。それをいいことに、番組製作者たちは人気のないメンバーや次のシーズンのキャスティングができなかったメンバーを「夢を叶えるためにニューヨークへ行って」しまったり、「遠いアリゾナの大学に進学」してしまったりしたことにしてドラマの舞台から姿を消してしまいます。同様に、「夏から同居することになったいとこ」を登場させたり、人気の高い「会社の同僚」を主人公グループに格上げしたりと、それはもうモーニング娘。も真っ青の交代劇を繰り広げるのです。そうした交代をスムーズに行うため、そして“ご長寿”番組化を容易に可能にするために【特徴その3】ドラマの舞台は限定的で、その中の日常が描かれる、という点があげられます。あまりに劇的でありすぎると、“ご長寿”化に際してその後のストーリーをつくりにくくなります。日常的な話題(恋愛とか、仕事)に、その時々の社会問題・世相(エイズ問題や一般人による拳銃の所持問題)などを滑り込ませる、これが“ご長寿”の秘訣なのです。“カツオ朝の知恵比べ”“タマの忘れ物”“そろそろ秋ですね”・・・「サザエさん」の各エピソードのタイトルは、社会問題に切り込むものではないにしろ、勝手にそれらしいものをいくらでも思いつくぐらい日常的であることは非常に“群像系”的であるといえます。また、「ビバリーヒルズ青春白書」は、ビバリーヒルズ(の高校や大学)、「ER」は、病院の救急救命センター、「フルハウス」は文字通り家(ハウス)が舞台になっており、この舞台を離れることはほとんどありません。舞台が限定されることで、その限られた舞台を少しでも離れるストーリー展開を加えるだけで、ひとりの人間をドラマの世界から消す事ができ、一方で、いままで一言も触れられてこなかったいとこが舞台の外から突然姿を表わすことを可能にするのです。
さて、ここまで見てきて、「サザエさん」は、大枠の世界観を共有しているとはいえ、時間の流れを利用したメンバー交代劇を持つことの出来ないが故に、“群像系”ドラマのダイナミズムを表現しきれません。しかし今、日本にもこのダイナミズムの可能性を秘めたドラマが、放映されていることに気づかれないでしょうか。それは、石坂浩二の淡々としたナレーションが綾なす橋田寿賀子ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』に他なりません。今日のこの日記は、たまたま見てしまったこのドラマの中に“群像系”のダイナミズムを発見した衝撃を伝えるために筆をとったのです。(ホントはキーボードだけど)。さあ、話を進めましょう。

『“群像系”ドラマ(3)応用編』(2002.5.31)
まずは、“群像系”ドラマの特徴をおさらいしておきましょう。
【特徴その1】〈メイン〉の主人公が入れ替わる
【特徴その2】番組が非常に長寿である
【特徴その3】ドラマの舞台は限定的で、その中の日常が描かれる

【特徴その3】『渡る世間は鬼ばかり』(以下『渡鬼』)では、「サザエさん」の〈磯野家の人々〉同様、〈岡倉家の人々(とその家族)〉が主人公グループを形成します。ドラマの舞台は、岡倉家の父・大吉の家と長女・五月の嫁ぎ先である中華料理屋“幸楽”を中心にその他の娘達の嫁ぎ先の家庭どもありますが、基本的に大吉の家と“幸楽”に限定されていると言えるでしょう。(現に、僕が今日見た回はこの2つの場所で90%以上のシーンが進行していました)また、このドラマがオールスタジオ撮影(数少ない屋外のシーンでさえも)であるという点からも、二重に限定的な舞台であると言えます。そして、この舞台で描かれているのは、大吉の娘達の家庭での日常なのです。そこには、脱サラ、離婚、進学(いわゆるお受験)といった今日的な問題が、しっかり描かれています。

【特徴その2】そんな誰にでも共感できる家庭(あるいは一族)の事情が人気を博し、1990年の番組開始以来、幾度かの中断を挟みつつ、海外ドラマ風に言えば現在第6シーズンを迎えています。いまや『渡鬼』は、TBSの視聴率ドル箱番組となのです。

【特徴その1】そして『渡鬼』が〈メイン〉の主人公が入れ替わるという意味では“群像系”海外ドラマを超えているとも言えるでしょう。“群像系”海外ドラマですら、その時々で〈メイン〉となる主人公が存在していたにも関らず、『渡鬼』では明確な〈メイン〉を設定することすらできない状態に至っています。大吉の家では、まだ大吉を〈メイン〉と位置づけることもできますが、“幸楽”では、おそらく想定されている〈メイン〉であるはずの五月は、強烈なキャラクターの姑(赤来春江)と息子(えなりかずき)の台頭によって、“幸楽”主人公グループの中での〈メイン〉と〈サブ〉の差をつくりだすことができず、“幸楽”主人公グループまさに“群像”として描かれているのです。

こうして、“群像系”の3つの特徴を既に内包している『渡鬼』ですが、「サザエさん」ですら成しえなかった“群像系”のダイナミズム、つまり“時間の流れを利用したメンバー交代劇”についてはどうなのでしょうか。確かに、三女・文子の夫(三田村邦彦)が海外転勤で姿を消したり、五女・長子の姑の恋人(相川欽也)が登場したりと、出演者の出入りは確かに存在しますが、これらの役柄は厳密には主人公グループと呼べるほど、ストーリーの中に深く関与していません。では、『渡鬼』は「サザエさん」を超えて真の“群像系”の称号を得ることはできないのか。
実は『渡鬼』は期せずして、既に何年も前に“群像系”のダイナミズムを経験していたのです。それは、大吉(藤岡琢也)とともに初期の『渡鬼』の〈メイン〉を形成してきた妻・節子を演じていた山岡久乃さんの突然の死によってもたらされたものでした。そのため第4シーズンは冒頭から、その数日前に節子が旅先で急死したという設定で始まり、節子の旅行中に大吉の店を手伝っていた節子の親友としてタキさん(野村昭子)が登場。おそらく制作側は主人公グループの交代を意図しない、これまで通りの「サザエさん」的群像ドラマとして『渡鬼』を位置づけていたと思われますが、この不測の事態に対応するため受動的ながら、現実(ドラマの外)の事態をドラマのストーリーに引用しつつ“時間の流れ(この場合は、病の進行もしくは老い)を利用したメンバー交代劇”をつくりだしたのでした。
「家族」という主人公グループの中に、偶発的に取り込まれた他人。「サザエさん」的群像ドラマの壁を打ち破ったタキさんという存在は、その後、息子との確執というタキさんを〈メイン〉とするストーリーも加えられて、順調に主人公グループメンバーとしての地位を固めてきたように思えたものの、息子との和解がそれなりに成立した現在の『渡鬼』では、“頼りになる大吉の店の従業員”という主人公グループ外の地位に落ち着きつつあるようにも見られます。『渡鬼』は、タキさんという他人を取り込んで、よりダイナミックな“群像系”へと姿を変えてゆくのでしょうか、それとも「サザエさん」的群像のマンネリズムに回帰してしまうのでしょうか。それは寿賀子ちゃん、あなたの右手にかかっているんですよ。

『“群像系”ドラマ(4)おまけ』(2002.5.31)
ホントに海外ドラマと『渡鬼』にそんな共通点があるのかよ、と思われる方のために、『渡鬼』が海外(アメリカ)を舞台に成立するのかを少し考えてみましょう。(あまり参考にならないか?)

舞台は、中西部の地方都市。街の中心から少し外れた住宅地に、ビストロ「オカクーラ」がある。店の主人ポークは、ビジネスマンから転身、趣味の料理の腕を磨きこの店を開いた。「あんたに料理はできないよ」と最初のうちまくし立てていた妻のマリアは、結局開店の日が迫ると「料理がまずいなら給仕がよくなくっちゃね」と率先して店の一切を取り仕切ってくれた。だが、その妻ももういない。今は、妻の親友だったフォーリング夫人が妻に代わって常連客達に笑顔と罵声を振りまいてくれている。「あんたの体も一度味わってみたいもんじゃねぇ」「あいにくあたしゃアイルランド系なんでね、ここ(イタリア料理店)じゃご賞味いただけないんだよ」
ポークとマリアには、5人の娘がいた。「娘ばかりだと寂しいものね、大きくなるとみんなよその家へいってしまう」マリアはよくそんな愚痴をこぼしながら、嫁に行った娘達の家のことに気を揉んでいた。
そんなマリアのいとしい娘達。一番上の娘・メイは、下町の老舗カフェ「ジョイラック」の若旦那と結婚した。マリアはこの結婚に猛反対したが、メイは半ば駆け落ち同然で家を出ていった。「旦那はいい奴だけど、あの母親がいけねぇなぁ、散々メイの事をこき使いやがって」ポークは、「ジョイラック」の家の女主人・キミーとはあまり反りが合わなかった。だが、それでもメイはそれなりに幸せそうであり、ポークはささやかながらもその幸せが続くことを心から願っていた。
メイには、娘と息子が1人ずついて、子供たち(ポークにとっては孫だが)は、時々学校帰りにポークの店に現れては、ディナーの仕込みをしているポークの横で、あれやこれやと「ジョイラック」の家での出来事を話をしていった。孫娘のシンシアはとても利発な子で、いつも・・・・

とまあ、こんな感じで十分あり得そうな気がするんですけど、どうでしょう。もとの話が話だけに、「スタイリッシュな」とか、「都会的な」とかいった感じにはならないでしょう。

なにはともあれ、長々とお読みいただきありがとうございました。