静かの海
                                                             

 愛していた。愛してた。最初は、ちゃんと――愛してた。


 何よりも眩しくて、何よりもかけがえのない、奇蹟のような女だった。この世に存在するということが信じられなくて、まして俺の傍に居て俺の名を呼んで俺に笑いかけてくれているなんて、そんなことはとても現実だとは思えなかった。夢か幻だと・・・

 ほんとうは俺はひとりなのだと。

 そう思っていなければ、そう思って終末への気構えをしておかなければ。でないと、目が醒めた時にどうなるか判らない。そのことが一番、怖かった。彼女を喪うかも知れないということよりも、自分の死という可能性よりも、その恐怖は重たくて切実で、そして一番――、


 現実に、近かった。
 そうだ。
 最初から俺は独りだったのに、そのことは全く変わっていないのに、――今までは平気
だったのに。俺はきっと耐えられなくなる。最初から居もしなかった幻の女を・・・おまえを、追い求めてしまう。その不在に、喪失感の巨大さに圧し潰されて、全てを見失ってしまう。そうすれば、きっと俺は――

 狂ッテシマウカラ・・・。



「ねえ、海を知らない?」
 その声は、市の雑踏の中にあって信じられないほどの明瞭さで彼の耳へと届いた。たった一瞬、――たった、一言。それだけで、彼の全てが停止した。あっという間に周囲の喧騒が遠のいていく。自分が立ち止まっていることにも、彼は気づいていなかった。思考も止まった頭には、罵声も抗議も何一つ届かなかった。ただ視線だけが、餓えた獣のような烈しい光を宿して彷徨っていた。その言葉を発した人物を求めて。
「海が何処にあるのか、誰か教えてよ。ねえ」
 波のように繰り返し押し寄せては、行く手を阻む人々の群れを彼は乱暴に掻き分けた。そのたびに浴びせかけられる罵詈雑言と呪いの飛沫は、肩の動きで払い落とした。そしてようやく、彼は見つけた。手当たり次第に同じ問い掛けを発しては、邪険に押し退けられてよろめくその姿を。子供だった。声変わりさえしていない、恐らく十を一つか、せいぜい二つ出た程度の、まだ幼い少年だった。
「ねえってば――誰か」
「るっせえな、ガキがこんな所をウロチョロするな! 踏み潰すぞ!」
 山師とおぼしき男にドンと手加減なしで突き飛ばされて、子供の細い身体は大きくぐらついた。そのまま、路端に広げた店の中に倒れ込んでしまう――その、一瞬前。凄まじい速さで伸びた手が、小枝のようなその腕を掴むとぐいと引き上げた。
「大丈夫か?」
「あ・・・と、うん」
 危なかった――そう言いたげに肩でふうと息をついてから。少年の視線がぐるりと巡らされ、自分の腕を掴んだままでいる男を正面から捉えた。
 真っ直ぐな、まるでものおじしない瞳。はしばみの色をした、透明なその光。眼の前の男を見つめた真っ直ぐな視線はそのまま、ニコリ――と音がしそうなほどに大きな動きで、その時小さな顔が笑顔になった。
「どうも有り難う」
「・・・いや」
 今度は彼の方が戸惑う番だった。それからやっと気づいたように、少年の腕を放す。そのことは海の真ん中で命綱を切られたような心細さを彼にもたらした。そしてそう感じたことに彼は驚き、もう一度途方に暮れた。その隙を見透かしたような少年の声が彼へと届いた、
「ねえ。海までどう行けばいいのか、知らない?」
「――うみ」
 その一言のためにこの少年を捜したくせに、いざ突きつけられると彼はたじろいだ。おうむ返しに呟いたその声は、反問でも確認でもなく、単に自分にちゃんと判らせるための言葉だった。だが少年の方は、拒絶以外の反応はこれが最初だったのだろう、たちまち目を輝かせた。重ねて問いかけてくる、
「小父さん知ってるの? ね、どこ? どこにあるの?」
 刹那、彼の表情を歪めた沈鬱な色が何を意味するものなのか、そんなことは少年には判ろう筈もない。地団駄でも踏みそうな勢いで詰め寄ってくる小さな身体へ向けて、低い声音が落とされたのはその時だった。
「行くつもりか?」
「うん」
「おまえ一人でか?」
「そうだよ」
「行ってどうする。何か余程の用でもあるのか?」
「・・・・」
 どうでもいいようなことを――としか少年には思えないことを――しつこく訊いてくるその男に、少年は少しばかり戸惑ったようだった。軽く眉根を寄せるような表情を作っている。自分が訊きたいことを知っていて焦らしているのか、何の役にも立たない説教でもするつもりなのか、それとも知らないくせに好奇心だけで詮索しているのか。少年も測りかねているらしかった。
 だが結局は、知っているとも言わない代わりに知らないとも言わない彼の態度が決め手となったようだった。仕方ないなと言いたげに軽く嘆息すると、開き直った口調を頭上へと投げつける。
「よっぽどの用だよ!」
 右肩から斜めに下げて左手で庇うように抱えていた布の鞄を抱えなおし、前の方へ持ってくる。そして少年は、賭の眼の前へとそれを突き出すと、そっと鞄の口を緩めた。
「・・・骨!?」
 あちこちが欠けて殆ど原形を留めていないが、それでも彼には判った。少なくとも彼は、見間違える筈はなかった。それを幾度か、彼は目にしてきたから。それと同じものを造ろうとしたことさえあったのだから。少年が大切に抱えていたのは、人間の骨だった。恐らくは――これは、頭蓋骨。
「おれの母ちゃんだ」
 怒ったような口調で言うと、少年は鞄の口を締め直した。労るような動作で鞄ごと持ち直すと、もう一度左手でしっかりと抱える。
「あの降砂のことは、おれ、まだ小さかったからよく覚えてない。でも、全部が壊れちまった後で一からやり直すってことがどれだけ大変かってことは、よく判る」
 父ちゃんはおれと母ちゃんを守るために砂に打たれて死んだんだ。そう少年は続けた。怒ったような口調がますますつっけんどんになっていく。それは怒りのためではなく、涙をこらえているのだと彼には判った。
「おれがひもじくて泣いたりしないように、ちゃんとおっきくなるようにって・・・母ちゃん、いつも言ってて。働いて、働きすぎて、たった三日寝込んだだけで死んじまった。・・・砂から生まれた海が見たいねえって・・・最期に・・・言った」
 ――あの恐ろしい紅い砂から、海が生まれたなんておまえ、信じられる? 海って判るかい、蒼くってね、大きいんだよ。波が何度も何度も打ち寄せてきて、ざあん、ざあんって・・・母ちゃん、むかーし昔に海の傍に住んでたから知ってるのさ。母ちゃんの知ってた海は砂にやられてなくなっちゃったけど、でも新しい海が出来たんだもんねえ・・・あれがあったから、皆やり直せたんだもんねえ。ああ、見てみたかったねえ・・・紅い砂から生まれた、蒼い海をさ・・・。
 吐息のような、微笑のような、細い細い声だった。大きな声で叱り飛ばして、大きな声で笑っていた母の、そんな声は少年は聞きたくなかった。海なんて知ったことじゃないと大声で叫びたかった、さもなければ、おれが連れていってやると胸を叩いて言いたかった。 でも何も言えなかった。泣くのをこらえるだけであの時は精一杯で。見てみたかったなんて過去形で言うなと、せめて訴えたかった! だけど・・・。
「見たかったんなら見せてやる。おれが連れて行くんだ。それで探してるんだ。・・・海を」
 判ったかよ、と言いたげに睨み上げてきた気迫はなかなかのものだったが、顔中が涙でぐしゃぐしゃだったので、迫力は幾らか減少していた。だがその分は、間に壁を下ろすようなこんな台詞で補った。
「死んだ奴に囚われてとか、おまえがそんなことをしても母ちゃんは喜ばないとか、・・・死んだ者のことは早く忘れろとか、あんたがそういうことを言うつもりなんだったら、おれはもう行くからな。他で訊いたっていいんだ、一番沢山人が集まる市に来てるんだから」
 やっと、ここまで来たんだから。
 口には出されなかったこの言葉は、代わりに少年の風体が告げていた。ぼろ布と大差ないマントは陽に晒されてもう元の色も判らない。痩せた頬に細い手足、子供らしい丸みを失った身体。褐色の髪には砂がこびりついて、ところどころ房のように固まってしまっている。その中で、はしばみ色をした瞳だけが――不当な世の中に対して憤りを隠そうともしていないのに、それでも。
 しんと澄んで、涼やかだった。
 ・・・何があっても誰が何と言おうとも、これだけはやり抜くのだという勁い意志に裏打ちされた瞳。静かにさえ見えるその色。深い深い、その光。―― 確かに見たことのある、眼。
 ――やらせない。止めてみせる。
 不意に一つの声が耳元に蘇って、彼は思わず視線を逸らした。口調は重く、何かを悼むかのように深かった。
 この少年の眼は―― 。
「・・・死者におまえが囚われているんじゃない」
 痛い。あの記憶は、まだこんなに痛い。それは自分が生きている限り、きっと薄れはしないだろう。でも・・・約束、したから。
「おまえが、死者を捉えているんだろう・・・?」
 驚いたように少年が目を見張っている。彼を真っ直ぐに見上げてくる。ああ・・・こんな処まであいつに似ている。重なり合う既視感、引き込まれてしまうような感覚。不意に足元が危うくなる。狼の姿をした少年に、――その身体に植えつけられた人工知能に、目の前のこの少年は本当に・・・よく、似ていた。
「早くお袋さんを自由にしてやれよ」
 無理矢理意識を逸らそうとして、結果ひどく乱暴な口調を投げ出すことになった。が、少年の方はそれが気にならなかったらしい。否、違った方向での興味を抱き始めているらしかった。目の前に立った、未だ生々しい傷を抱えて生きているように見える男に。死んでしまった方がきっと楽だろうに、それでも――独りで、生きているこの男に。
「・・・うん。だから、小父さんも一緒に行こう。・・・海へ」
 にこり、ともう一度、大きく頬をほころばせて笑う。鞄を抱えた左手はそのまま、空いた右手を差し出してくる。俺もか、と言いたげに戸惑っている大きな右手を、強引に握りしめる。懸命に指を広げて。
「おれ、まだ子供だから、忘れちゃうかも知れない。何で死んじゃったんだよって母ちゃんを恨んじまうかも知れない。・・・母ちゃんのこと、放せなくなっちゃうかも知れない。だから傍で小言を言って、おれがちゃんとやれるとこを見届けてくれよ。・・・頼むから」 小父さんってそういうの得意そうだしさ、という、この言葉は殊更に冗談めかして口にした。それから、拳でも飛んできたかと思わせる動作で身をすくめる。だがその瞳は、ずっと彼を見つめていた。悪戯っぽい表情、――真摯な光。懇願するような。
「・・・・」
 断るつもりだった。あの海にもう一度行くなんて、傷を広げるようなそんな真似はしたくなかった。贖罪なら、生きていくだけで充分じゃないか――あいつに救けられた命を棄てないようにするだけでは足りないなんて・・・誰にも、言わせない。生きていかなきゃならないのは俺なんだ。俺なんだから。
「・・・名前は?」
 だから口をついて出た言葉が耳にまで到達した時、彼はひどく困惑した。こんなことを言うつもりじゃなかった、今のは違うと取り消したくなった。が、次の瞬間、少年が見せた輝くような笑顔と弾んだ声音が、彼の言い訳を吹き飛ばした。
「ルカ!」
「・・・ルカ!?」
 神なんてものが、もしもこの世にいるなら。ちょっとここまで連れてこい、そう毒づきたい衝動に駆られて、瞬間彼は思わず拳を固めていた。右手は少年に掴まれているから、左手の方を。もはや悪い冗談では済ませられない事態だと思った。出来ることなら・・・逃げだしたかった。後も見ずに全てを投げ出して、穏やかな孤独の膜の中へと逃げ帰りたかった。けれど。
 ・・・この子が、手を放さないから。
「あっ、女みたいな名前だって、そう思ってんだろ! おれだって好きで名乗ってる訳じゃないぞ!? 仕方ないじゃないか、父ちゃんがつけたんだから」
 憤慨したような口調は、しかし一転して消え入るような声音になった。
「・・・初恋のひとの名前なんだってさ」
「・・・・」
 こらえきれずに、彼は笑った。声を立てて、本当に久しぶりに――笑った。涙が滲んだ・・・多分、そう、笑いすぎて。
 父ちゃん女好きだったからなあ、きっと子供も女の子が欲しかったんだ。ませた口調でそうぼやいている少年の頭へと、左手を伸ばす。握っていた拳をほどいて、大きく掌を広げて、ぽん、と小突くような感じで――包み込む。ルカは・・・、
 少年のルカは、笑っている。
「判った。一緒に行って、小言を言いまくってやる。おまえが言い出したんだからな、後悔するなよ」
「おーじーさん! 別におれ、小言を言ってくれって頼んだ訳じゃないぞ。海まで連れてってくれって――」
「まず説教その一だ。小父さんって呼ぶのはやめろ。俺は生まれてこのかた、甥なんぞ持った覚えはない」
「んじゃ教えてくれよ、名前!」
 少年の名がルカであることが、彼に名乗るのを躊躇わせた。ルカと名のつく者から呼ばれるには、その名は彼には重すぎたから。執着とエゴと呪いの代名詞。
「・・・小父さんでいい」
「何だよ、それぇ!? 名乗れない理由でもあるのかよ、あ、もしかしてあんた・・・お尋ね者?」
 まくし立てた挙げ句、上目遣いになって見上げてくるルカに彼は苦笑した。軽く眉を上げてみせる。
「だとしたらどうする? やめておくか? 俺は別に構わんぜ」
「・・・行くよ! 行くって言ってんだろ、最初から! さっさと出発しようぜ、お・じ・さ・ん!」
「それが人にものを頼む態度か。『行って下さい』、だろうが」
「・・・一緒に行って下さい、お願いしまス!」
 うるせえなこれでいいんだろ、そう言いたげにぺこりと頭まで下げてみせるルカに、彼は鷹揚に頷いてみせた。
「よし」
 遠のいていた市場の喧騒がようやく耳に蘇ってきて、二人を包み込んでいった。ざわざわと、潮騒のような音を立てながら。


 狼、という名を持っていたその少年を初めて見たのは、育ての親の老人を手伝って軽快に駆け回っている姿だった。連れであった村の人々とは違い、容姿の特異さなど彼にはどうでも良かったから、一番最初に印象に残ったのはその屈託のない澄んだ瞳だった。老人を呼ぶ声音には、信頼と尊敬と、それから役に立ちたいという熱望とが乗せられていて、あのどす黒い空気の中をどこまでも明るく透っていった。

 覚えてるよ。ちゃんと覚えている。あの時、おまえのことを眩しいと思った。こんな子供もいるんだなと、感嘆に近い感情を覚えた。灯台守の老人だって、おまえのことをどれほど大事に思っていたか。自分の命より、守り通してきた灯台より何よりも、あの老人はおまえを選んだ。
 そのことは、おまえにとって重荷だったか? 自分の命が重かったか? 生きていかなければならないということは、軛にしかならなかったのか・・・?
 そうでなかったらいいと、今更ながらに俺は祈る。もう、そうすることしか出来ないから。二度と、やり直すことは出来ないから。
 おまえは・・・俺が、殺してしまったのだから。

 あの時も。
 村人の狂気めいた偏見に晒されて、暴力的な糾弾の前にうずくまって少年が泣いた、あの時も。彼には何も出来なかった。少年を護る役割は、彼のものではなかったから。彼に出来たのは、引き返す道すがら、少年と保護者の灯台守とに対する村人たちの悪態を止めさせることだけだった。
 それなのに、一体どこで食い違ってしまったのか――次に少年と対峙した時、少年にとっての彼は育ての親の仇だった。少年が保護したいと願うものを破壊しようとする、敵だった。真っ直ぐな、――彼女と同じ、その瞳に精一杯の敵意を乗せて睨みつけてきた。ルカハ殺サセナイ。


 彼女は殺させない――護ってみせる。それは、俺が・・・誰よりもこの俺が、願っていたことではなかったか? 胸を張ってそう言い切ることの出来るあの少年を、俺は・・・
 俺は、あの時に初めて明確に、あいつを憎んだのではなかったか。

 羨望。嫉妬。破壊欲。そんなものの全てを、吹き飛ばすほどの切実さで心が叫んでいたのは、しかし・・・憎しみではなかった。本当は、別のものだった。


 俺は、おまえになりたかったんだ・・・。


 彼女を護りたかった。本当は護りたかった。どんな姿になっても、どんなに変わってしまっても、最後までこの手で、ちゃんと彼女を護りたかった。
 見つめていて欲しかった。傍に居て、俺の名を呼んで、俺だけに笑いかけて。あの真っ直ぐな、澄んだ瞳で。優しい、海鳴りのような声音で。
 彼女の笑顔を平穏を護りたかった。彼女の平穏を護りたかった。彼女の全てを護りたかった。自分のプライドもエゴも我儘も、自分の命すら捨てても、彼女一人を守り通したかった。あの、灯台守の老人のように。
 そして、――おまえの、ように。

 なのにどうして、俺にはそれが出来なかったのだろう。彼女だけじゃない、好意を抱いたもの全てを、俺は結局この手で・・・
 
 ――ルカ!



 何か叫んだのかも知れない――それとも、がばっと撥ね起きただけか。けれどその時、彼にはそんなことに気を回す余裕などなかった。ねっとりとした闇が身体の中にまで押し入ってくるようで、半身を起こした姿勢のまま、寝台の上で懸命に息をつく。物凄い勢いで胸が動悸を打っているのが判る。汗が幾筋も、背中や胸や頬を走っては流れ落ちていく。ついに来た、という暗い確認に似た思いが、彼に深いため息をつかせた。ルカと旅を始めてから、一週間。それと同じ数だけの夜を隣合って過ごしてきたが、この夢を見たのはその夜が最初だった。
 よく保った、というべきなのかも知れない。努めて目を逸らそうとしてきた自分の中の暗黒。夢の形を取ってどうしようもなく溢れ出た、――あれが、真実。
 ふと、隣から寝息が小さく響いてきて、彼は思わず息を止めた。ふうっ、と細く、吹き出すようにして呼気を逃がす。――寝ているルカを起こさないように。
 その夜は月もない。彼らが泊まれるような安宿では油も宿泊料金のうちだから、ランプの灯は就寝時に消したままだ。彼は闇に慣れてきた目を懸命にこらして、ルカの所在を確かめようと試みた。悪足掻きのように。
 自分が何をするべきか、本当は判っていたけれど、その行動に出る勇気はまだなかった。ひどく不安で、心細くて、どうしようもなかった。この世にただ独り取り残されたような喪失感。たまらなかった。出来ることなら先刻の夢を何とか振り払ってしまいたかった。現実のルカを――生きているルカを確かめて、せめて安心したかった。
 微かに盛り上がっているシーツの形が、闇にぼんやりと浮かび上がって見える。それが緩やかに上下しているのを見て取って、彼はもう一度、深い嘆息を吐いた。安堵――じゃない。彼には判っていた。判っていた・・・。
 ――先払いの料金を払った後、宿帳に名を書く時にルカは懸命に伸び上がってそれを読もうと試みた。えっ小父さんもホントはルカって名前だったの!? 部屋に入ってから、はしゃいだ声でそう訊いてきた。そんな訳ないだろと短く言い捨てた彼に、ちぇっと唇を尖らせてみせたその表情。一瞬後にはコロリと変わって、今度は悪戯小僧のような顔つきをしてみせた。クスクス笑いと共に言う、ね、おれたちきっと親子に見えたよね? 今度から人前では、おとーさんって呼ばなきゃなあ。やめろ気色悪い、そう返したのは、だから勿論冗談で――。
 ・・・これこそが、夢だったんだ。
 自分に言い聞かせるように、胸の奥で呟いて。彼はやっと、行動に移す決心をした。そっと寝台から足を下ろす。脇にかけてあった自分のマントを取ると、そのまま踵を返して歩き出す。どんなに足音を殺しても、やたらと軋むボロの床がひどく腹立たしかった。あの子が起きちまうじゃないか。
 そっ――と扉を開け、彼は廊下へと滑り出た。後ろ手に扉を閉める。パタン、という小さなその音は、短すぎた二人旅の終わりを告げるにはあまりにもあっけなかった。
 これでいいんだ。闇の中を足早に歩きながら、彼はもう一度自分に言い聞かせた。これでいい。所詮、無理な話だったんだ。この俺が、誰かと一緒に居られる筈がない。いや、一緒に居るべきじゃないんだ。そいつを少しでも好きなら。・・・不幸に、したくないなら。これまで俺がしてきたことを考えてみろ――先刻の夢の通りじゃないか。一緒に、居ちゃいけないんだ・・・。
「おっさん!」
 だから、こんな怒声が闇を裂いて背後から投げつけられた時、彼は心底仰天した。飛び上がってしまったかと思ったほどだ。ひどく後ろめたい気分で、仕方なく振り返る。・・・ルカがいた。
「一人で黙って、一体どこ行く気なんだよ! こら、答えられるもんなら答えてみろ!」
「・・・ペガルまで来れば、海まではもうすぐだ。宿の女将にでも訊けば判る。もう、おまえ一人でも大丈夫だろう」
「そういう問題じゃないだろ! あんた、一緒に来てくれるって言ったじゃないか――見届けてくれるって約束したじゃないか! それなのに、ここまで来ておれのこと置いてくのか!? 大嘘つき、馬鹿野郎、クソジジイ! ひどい・・・よ・・・」
 くしゃくしゃと顔を歪めて、そのままわんわんと泣き出してしまう。彼は今度こそ本当に途方に暮れて、呆然とルカを見下ろした。こんな時どうすればいいのか、まるで判らない自分に心底嫌気がさす。本当に・・・どうして俺は、こんな奴なんだろうか?
「ひど、ひどい、よ! うえっ、置いてくなんて、ひっく、お、小父さんの、馬鹿野郎!うえっうえっ、お、オトナは嘘、ついちゃいけないんだぞ! ひっくひっく、地獄に堕ちるんだぞ、し、知らないのかよ! う・・・」
 何とか言葉らしいものを綴るのは、そこまでが限界だった。もう後は手放しで泣き出してしまったルカを、いつの間にか傍まで歩み寄っていた彼の腕が抱き寄せる。ドンドンと小さな拳を叩きつけられながら、それでも放さずに抱きしめる。
「・・・済まなかった・・・ルカ」

 ああ――、

 やっと・・・言えた。


 じわりと熱いものが胸にこみ上げてくる。ルカの涙の熱さがそのまま染みてくる。小さな身体に触れた指の先から、抱きしめた腕から、身体の中へと流れ込んでくる。溢れ出していく。どんどん、どんどん、・・・どんどん。
 ずっと言いたかった。この簡単な言葉を、ずっと――ずっと、言いたかった。ちゃんと声に出して目を見て、・・・おまえに。
 ルカ・・・ヌクテ。
 おまえ、たちに・・・。
「・・・小父さん・・・泣いてるの?」
 顔を彼の胸に押しつけているせいで、どことなく籠もって聞こえるルカの声が遠く耳に届いてきて、彼は微かに微笑んだ。しゃくりあげる隙間から、それでも不思議そうな響きはそのままなのが、ひどくこの子らしかった。だから彼もそのまま、正直な言葉を返す。心の底からの声で。
「そうだよ」
「・・・どうして・・・?」
「・・・どうしてかな・・・」
 あの時。
 還ってこいと聴こえたのだと、あの男は言った。ひどくぶっきらぼうな口調で。だけど、言われるまでもなかった。ちゃんと彼にも聴こえていた。あの声が。懐かしい、ヌクテの声が。そしてルカの声も。どうどうと押し寄せる波の音の中で、ちゃんと・・・聴こえていた。逝カナイデ。全テガ滅ンダ無ノ状態デ、ソンナ想イノママデ。モウ一度、モウ一度、――もう一度・・・。
「行こう」
 不意に腕の中のルカがこう断言して、彼は驚いたように視線を落とした。闇の中の筈なのに、ルカの顔がきらきらと光って見える。闇の中だからこそ光り輝く、夜空のあの月のように。
「今すぐに、行こう。もう近くなんだろ、海へ行こう。なっ、いいだろ!?」
 もうルカは泣いていなかった。急き込むように言い募るその少年は、以前彼が知っていたルカにも、そしてヌクテという名の少年にも似てはいなかった。
 ルカ――という名の、一人の、人間だった。
「でないとおっさん、逃げちゃうからな」
 言わずもがなのことを付け加えて、チクリとこちらの良心を刺してみせるやり方も。その後で首をすくめて、悪戯っぽく笑ってみせる動作も。全て、この少年だけのものだった。
 過去ではなく、現在を――そして未来を、生きていく力を持った一つの命。
「逃げないよ――もう」
 弁解めいた口調で呟いている彼に、ホントだな!? と念を押しながら、ルカは慌ただしく踵を返した。もう一度、宿の方へと駆け戻っていく。
「おい、どうした!?」
 呼びかける彼の声には振り返らず、ルカは大声で叫び返してきた。
「母ちゃんを忘れてきちまった、畜生! もう一つ、貸し追加だからな、おっさん!」
 どうやら彼は、すっかり“おっさん”に格下げされてしまったらしい。ぽりぽりと頭を掻きながら、それでも彼は、不謹慎にも心が温かくなるのを感じていた。
 あんなに大切に抱えてきた母親の頭骨を放り出して。裸足のままで、勿論マントも羽織らずに。
 そうしてルカは、俺を追いかけてきてくれた。
 行くなと、それだけを言うために。
「有り難う・・・」
 ぽつりと呟いた拍子に、彼の頬の下辺りで躊躇っていた涙のひと雫が、すっと流れて地面へと吸い込まれていった。



 あの時も、ずっと音が聴こえていた。どうどうと、世界の果てに打ちつけてくる圧倒的なあの音。温かな水の中を漂いながら、ここはどこなんだろうと俺は考えていた。ヌクテが絶命する瞬間にも間に合わず、全てを否定され、拒絶されたままでとうとう終わってしまったという絶望感がまだ生々しく残っていて、胸に抱いていた筈のルカの死体が無いこともひどく不安で。でもそれでも、ここに居れば安心だという思いが俺を包んでくれていた。
 母親の胎内はこんな感じかな――そんな気がして、ちょっと笑いたくなった。そして気づく、自分が自分ではなくなっていることに。
 俺は小さな魚だった。慌てて手を動かしてその身体を確かめようとしても、鰭の形をしたものがはたはたと蠢くだけだった。そんな馬鹿な、と愕然としたその目の前で、鰭はみるみるうちに変容して先端が尖り、指を形成していった。ぬめぬめとした吸盤、鰓、そして呼吸可能な肺。しなやかに身体をくねらせて泳いだ水の層の感触、初めて嗅いだ空気の匂い、そんな記憶が身体中に蘇ったその瞬間、俺は、尾を靡かせて大地を走ることの出来る脚の存在に気づく。下顎はどんどん発達していって筋や腱を噛み裂ける勁さを持ち始め、鰓には縁取りが成されて耳の形に変貌していく。緑の湿地に君臨していた獣の姿だ。そして瞼が、鼻が、額が、直立可能な脚が、ものを掴める手が――造られていく。五本の指をしっかりと握りしめて背を丸め、膝を胸に抱えて水中に漂う人間の――胎児の俺が居た。
 そして溶明。海が――それまで存在しなかった蒼い海が、そこにはあった。
 目の前に広がる、この海が。
「うわ・・・あ・・・! でっ・・・かあい!」
 闇は次第に、濃紺へと色を変えつつあった。夜明けが近づいているのだ。空気が流れ出しているのが判る。そしてその中で、海は数えきれない波を広げ、どうどうとどこまでも巨大な音を響かせながら、そこに在った。耳を圧する潮騒。微かに白く浮かび上がる波頭。ヌクテが・・・ルカと一緒に造った、海だ。
「悔しいな」
 先刻まではしゃいで、波打ち際を走っては波に足を撫でられて歓声を上げていた筈のルカが、不意にぽつりとこう言った。姿ははっきりとは判らない。表情も見えない。彼から少し離れた所に、ぼんやりと小さな影が浮かんでいるだけ。
「やっぱり、悔しいよな。生きてるうちに見せたかったと思うよ・・・死んじゃってから連れて来たって、母ちゃんにはもう、この波の冷たさとか凄い波音とか、何も届かないじゃないか・・・。おれが小父さんくらいだったら、母ちゃんのこと背負ってでも連れて来れたのにって思うと・・・悔しいよ、ほんとに」
 ルカは少し泣いているようだった。肩から下げたあの鞄を、ゆっくりと撫ぜていた。彼には――何も、言えなかった。ただ一つのことを除いては。
「俺は・・・キサ、って云う」
 遅くなったけど、と決まり悪そうな声音を足元に落としてから。意を決したように顔を上げ、彼はルカを見据えた。
「今からは小父さんじゃなく、名前で呼んでくれ」
「・・・小父さん?」
 脈絡も何もないこの申し出に、ルカは呆気に取られたようだった。青い空気の中で、自分の話を聞いていたのかと言いたげにこちらを見つめているルカの小さな顔が見えている。その顔はやがて、ゆっくりと、笑顔になった。
 やさしい声が空気に溶ける。潮騒の隙間から、風に乗って届いてくる。彼の名を呼ぶ、
「・・・キ、サ・・・」
 その時
 不意に視界に光の矢が疾り、彼らは思わず目を瞬いた。夜明けだ。
 波がその指先に光を溜めて、幾重にも重なって打ち寄せてくる。光の道が真っ直ぐに伸びて、彼らの方へと近づいてくる。みるみるうちに水平線一杯に広がり、濃紺の闇が立ち
上がっていく。眩しくて・・・眩しくてたまらなくて、涙が――
「母ちゃん――!」
 不意に一声ルカが叫んだかと思うと、思い切り鞄の中身を、それから鞄そのものを、海へと向けてばらまいた。何とまあ乱暴な葬送もあったものだ。思わず呆気に取られて眺めてから、キサは何となく笑いたくなった。ルカにしてみれば真剣そのもので、これは神聖な儀式なのであろうから。でもそうは見えないところが、どうしようもなく、この少年だった。生まれた子の性別に関わらず初恋の女の名をつける男とそれを受け入れてやる女、そんな両親の間に生まれ育てられた子供――真っ直ぐな樹の若芽にも似た、この少年に相応しい訣別の儀式だった。
「・・・・」
 キサは何も言わなかった。少し離れた位置に退いたまま、波を睨み据えているルカをただ見つめていた。太陽が完全にその姿を現し、朝の光が辺りに満ちて、万物を照らし出し始め――そして、ルカがゆっくりと振り返る、その時まで。
 振り向いたルカは、真っ赤な目をして、乱暴な手つきで鼻の下をこすると、照れたように――笑った。



「これから・・・おまえは、どうするんだ?」
 砂浜に座り込み、潮風にばたばたとマントの端をはためかせていたキサが不意にぽつりとこう尋ねてきた時、ルカは小枝を握ってガリガリと線やら丸やらを描いていた。描くはしから波が打ち消してしまうので、何度でも何度でも繰り返して描かなければならない。ルカは忙しいのだった。だから、キサの声音に含まれた憂鬱の影になんか、気づいてやる暇はなかった。
「あー? そんなの判んないよ。だって一番の目標だった“海へ行くこと”は、もう終わっちゃったし。どうしようかねえ、ホントに」
「どうしようかねえ、じゃないだろうが。自分のことだろう、真剣に考えろ」
 キサは本気でムッとしたらしかった。声音にずんとドスが効いて、五割方迫力が増す。「そんなこと言ったってー、おれまだ子供だもん。考えても判んないことは一杯、いーっぱいあんの!」
「それじゃ大人になれ。今すぐなって、決めろ」
「キサあ、あんた自分の言ってること判ってる? ちなみにおれは、全然判んないんだけど」
「そりゃおまえがガキだからだ。自分の未熟さを威張るな、クソガキ」
「あぁー、何てこと言うんだこのおっさんは! あんたの方がよっぽどガキみたいだよーだ、老けガキ!」
「・・・ルカおまえ・・・言ったな?」
 すっく、とキサは立ち上がると、三白眼のままずかずかとルカの方へと歩いてきた。わああ、と歓声に似た悲鳴を上げて、ルカが小枝を放り出す。二人はもつれるようにして、海の中へと倒れ込んだ。ばっしゃん、と波が大きく跳ね上がる。その上を更に波が通り越していく。ばしゃっと波をはね除けて顔を出したのはキサが先だった。次いでルカ。当然のことながら、二人とも頭のてっぺんから足の先までものの見事にびしょ濡れだ。
 暫し、二人して顔を見合わせてから。ガキもガキ、子供の極めつけのような行動に二人は出た。ばしゃばしゃと波を撥ね散らかして、飛沫の掛けっこを始めたのである。歓声を上げるのはルカ、罵声を浴びせるのはキサ。馬鹿馬鹿しいほどに――平和な光景。
「判った。判ったって、キサ。おれ、ちゃんと考えたから聞いて」
 降参、というようにルカが両手を上げてこう言ったのは、それから暫く経った後だった。いい加減、波が冷たい。
「考えたって、何をだ?」
「・・・これだから・・・おっさん、呆けてんのか? これからどうするか考えろって言ったのはあんただろ!」
「あ・・・ああ。で、どうすることにした?」
「取り合えず」
 ピン、と指を立て、ルカは精一杯真面目くさった表情を作った。キサの注目を一身に浴び、満足そうに――けれどかなり寒そうに、言う。
「ここから上がろう。で、服と身体を乾かせる場所を探して、何かあったかいものを食べる」
「うんうん。それから?」
「ちょっと寝て、元気になって――」
「調子いいな。それからどうする?」
「それから、」
 上目遣いなルカの笑顔が、キサの目に飛び込んできたのはこの時だった。
「キサと一緒に村へ帰って、ずっと一緒に暮らす」
「・・・・」
「言っとくけど! 仕方なく、なんだからなこれは。勘違いすんなよ!?」
 キサの沈黙をどう誤解したのか、ルカは抗議口調でこう言った。続けて、ぼやくような声音を空へと投げる。
「おれよりあんたのが子供みたいだからさ、ちゃんと生きていけるのか心配で、目が放せなくなっちまったの。そんだけ! 判った?」
 そんなルカへのキサの返答は、掌で大きくすくって浴びせかけた波の一掻きだった。
「言ってろ。ませガキ」
 何すんだよという抗議の言葉よりも早く、くしゃみがルカの口から飛び出した。ちくしょー風邪ひいたらキサのせいだぞセキニン取れよ! ざばざばと波を掻き分けて砂浜へと上がりながらそう言うルカに、キサはニッと笑って答えてみせた。
「せいぜい取らせてもらうよ。責任を、な」
 海が笑う。波がさざめく。ざあざあと、懐かしい声で唱和している。
 何度でもやり直して。そのたびに生まれ変わって。そうして生きていって。わたしはここで・・・ずっと、見ているから。
 風邪ひく風邪ひく、とやかましくわめいているルカをいなしながら、キサは最後に少しだけ、海を振り返った。その瞳にはもう、あの悼みに似た感情はなく――光を遊ばせている波をそのまま映して穏やかに、
 ――晴れ渡っていた。一点の曇りもなく。
 この、どこまでも続く空のように・・・穏やかに。
 晴れやかに。


 
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