平成10年第1号掲載分

山麓のトピックス

縄 文 の 里

『縄文のビーナス』にみる縄文人

(縄文中期に文様文字が存在した)

山麓の棚畑遺跡より4500年の眠りから覚めた縄文のビーナス。(発見された当時の発掘写真右)
日本で最も古い国宝としてこの度新装された茅野市尖石縄文考古館に展示されております。
10年前初めて縄文のビーナスを目にしました時の新鮮な驚きは今も鮮明に記憶しております。
縄文のビーナスは縄文中期(4500年前)の遺跡より発掘されました。縄文時代の約10、000年は現代から見ると気の長くなる様な期間です。この時代縄文人はどのように生活していたのか急速に解明されつつありますが最近では想像していたよりははるかに文明的な生活をしていたことが判ってきております。
この時代文字は無かったとされておりますが、はたしてそうであったのでしょうか。
この国宝縄文のビーナスの頭部に巻かれた紋様は何を意味しているのでしょうか。
紋様を忠実になぞらえてみますと、下記の様な紋様が浮かび上がって参りました。
左右対称の紋様ではなく全くの非対象で、紋様文字とみられない事もありません。
最近専門家の間では縄文人は本土では倭人として朝鮮、中国の混血傾向が進み、北海道では純粋に近い形でアイヌ族として残されてきたとされる意見が多くなってきております。琉球人も然り。骨相学的にDNA鑑定分析にその証明がなされつつありますが、まだ確定するに至っておりません。
民族衣装を纏ったアイヌ族の最も古い写真ですが、縄文のビーナスと重なって見えるのは私だけでしょうか。
左側と右側はいずれもアイヌ民族の女性正装衣装です。頭の鉢巻きは『マタンブシ』と呼ばれているものでその形状は何種類かあるようです。
アイヌ族には文字は無いとされてきましたが、身に付けたこれらの紋様は何を意味するのでしょうか。
アイヌ言語は変遷を重ねてきておりますが、系統だった現在に通用する言語体系であることが判っております。
系統だった言語が在ったならば必ず部族を表す紋様(文字)で衣装、装身具を飾ったのではないでしょうか。文字は必ず存在したと見る方が自然と言えます。

*写真はアイヌ民族博物館HPより引用させて頂きました。

土器においても全盛期の縄文中期にこの様な様々な紋様が残されております。上はサンショウ魚、下はイモリの文様の土器と専門家は見ていますが、象形文字と見えないこともありません。

縄文後期,晩期(2300年〜3000年前)から弥生時代に入ると土器などに家、舟、狩り、動物等の素朴な線画が見られる様になりますが、専門家はそれまでの縄文人は絵心が無かったからとしております。しかしこの様な紋様を描いていた縄文人が2000年経過した後に線画表現に移行したのでしょうか。

現代においても100年を経過すると話し言葉も、習慣も大きく様変わりしています。縄文時代は10、000年も続いたことを考えると、象形文字の紋様が衰退し縄文後期には単に紋様としての意味しか持たなくなったことも考慮に入れるべきと思います。
とくに縄文中期以降の寒冷化により集落が大きく分散、移動を繰り返したことも要因と思われます。

最近インドのドーラビーラ遺跡で見つかったインダス文字の解読が始まっております。縄文古代文字も専門家による解明がなされることを期待しております。   
下の原遺跡 縄文中期土器/ 紋様展開図
山口中ツ原遺跡 縄文中期土器/紋様の図
(尖石考古館案内リーフレット掲載写真引用)

最初に縄文のビーナスと呼ばれた山形県西の前遺跡で出土した土偶(重要文化財)はあまりにも現代的な造形の土偶には驚かされます。
この土偶は頭部には紋様が見られませんが、衣装を纏っております。
この衣装と見られる腰部に文字と思われる紋様が描かれております。
縄文中期4000年前に制作されたものとされております。
考古学専門家の中には当然縄文期に文字が存在したものとして研究を進めておられる方がおられると思います。しかし専門家の方々も未だ解明出来ないため我々の目に触れる発表がされていないものと考えられます。今後も古代文字の夢を膨らませて行きたいものです。
この山麓に『古代共通語研究会』が存在していることを知りました。絵文様(文字)や縄文言葉の勉強会で、縄文遺跡を学会に認めさせるきっかけ造った土地柄だけに熱心な方々が大勢おられました。是非研究を極め世間に知らしめて戴きたいものと考えます。
縄文王国であった信州からの発信を期待しています。
          眠りから目覚めた仮面土偶