元山その歴史 元山開港から終戦まで


 少年少女時代を北朝鮮の元山(ウォンサン)で過ごした我々にとって、元山は「幻の故郷」ともいえよう。鉄道もまだないその昔、ウサギの立ち姿に似た朝鮮半島の、長い耳の付けねにあたる永興湾の奥、港町元山は交通の要衝、我々の祖父母達を初め、初期の多くの日本人は日本海を渡って元山に入り朝鮮各地に行った。

ここではその元山を中心としながら明治以降の朝鮮の近代史を紐解いてみよう。

明治元年(1868)ー李朝 日本の国書受け取りを拒否

明治元年12月、日本使節・対馬藩家老樋口鉄四郎らが、明治新政府の樹立を通告するために朝鮮の釜山浦に入港、しかし、大院君政権下の李朝は、日本使節が持参した国書の受け取りを拒否する。理由は第1に、文面に「皇上」「奉勅」の文字が使われていること、第2に、署名、印章ともこれまでのものと異なっていることであった。「皇」は中国皇帝のみに許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味し、朝鮮王は中国皇帝の臣下ではあるが、日本王の臣下ではない、こんな傲慢かつ無礼な文書を受け取ることが出来ないというのが李朝側の考えだった。

明治9年(1876)ー日朝修好条約締結

明治8年、李朝の態度に業を煮やした日本政府は朝鮮の国論を揺さぶろうと砲艦外交に出る。 まず小砲艦を釜山に派遣、一方的な発砲演習を行う示威行動に出る。次いで沿海測量の名目で砲艦「雲揚号」を江華島に向かわせ、沿岸各所に要塞や砲台のある内国河川にボートで無断侵入、かくして「雲揚号」が仁川沖の江華島から砲撃を受けたことに始まる江華島事件を契機として、日朝修好条約(江華島条約)が締結される。この条約には釜山の他2港を開港する約束が盛り込まれた。明治12年に釜山が開港され、ついで元山(明治13年開港)、仁川(明治15年開港)が開港予定地となる。

明治13年(1880)ー元山開港

開港前の元山は葦や荻の繁る原野で少数の住民が半農半漁を営んでいた土地だったという。そしてここを日本居留地として定め、道路や埠頭など必要な施設が建設された。

かくして明治13年5月20日、初代の前田総領事を初め、多くの日本商人、すなわち大倉組、池田組など土木関係者や三菱商会、住友商会といった貿易関係者等が汽船「秋津丸」に乗船してやってきた。直ちに領事館を開庁したのを初め、警察署、官立生々病院の建設、真宗大谷派東本願寺及び天照皇太神宮が造営されている。

この年、日本人の人口は235名(内女性は25名)

明治16年(1883)ー小学教育所開設

元山では小学教育所を東本願寺別院に設置、居留民子弟の教育(生徒数12名)が始まる。これが明治21年には名称も共立小学校となり、正式に公立の小学校となる。また、この頃仁川が開港され、京城(ソウル)に居留地が定められると、この方面に移転する者が多く一時居留民は173名に減少した。

さらに元山里での朝鮮人の暴動(明治15年)、コレラや天然痘の発生(明治18、19年)、赤田川の氾濫(明治20、26年)等、居留民にとって厳しい状況が続いたという。

この年、朝鮮はアメリカ、イギリス、ドイツ、さらに翌年にはロシアとそれぞれ修好条約を結ぶ。

明治17年(1884)ー甲申政変

福沢諭吉らの影響を受け、金玉均、朴泳考らの独立党である開化派は、朝鮮を日本のような伝統的な君主中心の近代民族国家にすべく、国王の了解の下、クーデターを起こす。ところが閔妃の助言もあって、国王は変心、清軍に救援を求める。軍隊出動の名目を手に入れた清の袁世凱は武力介入し、ここにクーデターは失敗する。

彼らは日本に亡命するが、金玉均は後に上海で刺客により暗殺された。明治維新ならぬ朝鮮維新はならなかった。

また明治22年に咸鏡、黄海の両道での大豆不作のため、朝鮮政府は輸出禁止措置をとったが、布告手続きに遅れにより、元山の日本商人らがすでに買い付けた大豆の集荷ができず、そのため被った損害賠償を朝鮮政府に求めた事件、すなわち防穀令事件も起きている。この頃さらに排日運動も盛んになる。

この年、税関設置される。

明治26年(1893)ー朝鮮人入学許可

元山の小学校には前年に幼稚科も併置されており、校舎増築をきに、朝鮮人の入学を許可する。生徒数は高等科、幼稚科も含めて59名。

元山の日本人人口は795名(内女性は185名)

この頃、極東への進出をうかがうイギリス、フランス、ロシアは度々しかも数隻の軍艦を元山に来航させている。

明治27年(1894)ー日清戦争勃発

甲午農民武装蜂起(東学党の乱)。東学農民軍が政府軍を破り全羅道中心の全州を占領。国王高宗と閔氏政権は清国に鎮圧を要請、清国は軍艦を派遣する。日本も公使館と居留民保護のため軍艦及び兵力を入れる。7月25日、日本海軍が牙山沖で清国の軍艦を砲撃、ここで日清戦争勃発に至る。

元山では、第5師団、第3師団が元山港に上陸して平壌総攻撃に参加、清国軍主力を破り、鴨緑江を越えて清国に侵入する。第3師団の歩兵一中隊が元山守備隊として常時駐留することになる。しかし、この頃居留地の治安状況が必ずしも良くなく、度々暴動が発生している。

明治28年(1895)ー下関条約調印、三国干渉、乙未事件

明治28年2月、日本の勝利に終わり、日清間で下関条約調印、朝鮮の独立を明記する。

しかし、下関条約で清国から得た遼東半島を清国への返還せよとロシア、ドイツ、フランスの三国が要求、いわゆる三国干渉起こる。日本はやむなく領有権を放棄、しかるに三国は遼東半島を初め各地の利権を獲得する。

台湾は日本に割譲される。

日清戦争で勝利したにもかかわらず、朝鮮内部では親露派が台頭、その後ろ盾は王妃・閔妃であった。朝鮮の改革派は閔妃を排除して逆転を試みるに閔妃の政敵、大院君を引き込む。大院君は政治的役割、日本は軍事行動を引き受ける。10月、日本軍の守備隊及び日本人壮士らが景福宮に侵入、閔妃暗殺事件(乙未事件)を起こす。事実上第2次景福宮クーデターである。

この頃、元山の日本人人口1,362名(内女性は271名)

明治33年(1900)ー義和団事件

欧米列強の清国侵出が度重なるなか、列強の侵出を激しく攻撃する義和団事件が清国で勃発した。日英米露独伊墺の連合軍が中国へ軍事出動、暴動は鎮圧されたが、ロシアは兵力を満州に駐留させたまま、事実上の占領状態を続ける。これに対し明治35年、日本とイギリスは日英同盟締結。しかし、ロシアはフランスと同盟を結び、南進策を推進する。シベリア鉄道完成、ロシアの南進に万全の態勢が整う。

明治36年8月、日露協商会議でロシアに満州からの撤兵を要求するが、ロシアは拒否、ロシアは日本に対し、北緯39度線で韓国を分割しそれぞれの勢力下に置くことを提案するが日本は拒否、ここでロシアが満州の占領を宣言する。

明治32年、朝鮮で初めての鉄道、仁川と永登浦の間に開通、翌年さらに京城まで伸び、京仁線が完成する。

明治37年(1904)ー日露戦争勃発

韓国と満州をめぐり妥協の余地のなくなった日露が衝突する。2月8日、日本軍が仁川に上陸し、旅順港でロシア艦隊を攻撃する。仁川へ上陸した軍隊はソウルへ入城制圧し、日韓議定書が調印される。明治38年になると旅順陥落、奉天会戦、日本海海戦と勝利を確定し、38年9月にアメリカの斡旋で日露講和条約(ポーツマス条約)調印となる。

38年11月には第2次日韓協約(乙巳保護条約)が結ばれ、韓国は完全に日本の保護国(韓国に外交権はない)となる。

明治38年1月、釜山・京城間の鉄道、京釜線が完成、さらに満州との国境新義州への京義線の開通は同年12月となるが、これで朝鮮半島を南から北へと貫く1本の路線ができあがることになる。戦争が鉄道建設を促進させたと言えよう。

明治37ー38年ー日露戦争時の元山

ウラジオストックの極東海軍艦艇を補足すべく出動の我が海軍艦艇24隻、運送船2隻が元山に入港。ところが4月、運送船全州丸が城津に向かう途中、ロシア艦に遭遇、撃沈される。さらに商船五洋丸が来襲のロシア艦4隻に撃沈される。また6月、旭町では来襲の駆逐艦1隻、水雷艇6隻により200発の砲撃を受け、2カ所で火災が発生する。8月には松亭里付近で敵の斥候と衝突、9月、陽日渡で両軍の戦闘が行われる。さらに城津居留民が元山に引き揚げてくるなど在住の居留民にとっては不安な日々が続く。バルチック艦隊が蔚山沖の海戦で壊滅したとの報にやっと安堵する。

虎島に砲台を設け、元山要塞司令部を置く。

明治38年、元山公立小学校は終戦時まであった元山神社下の場所に新校舎を建設移転する。
明治40年、第一普通学校創立(朝鮮人のための小学校)。
ここで元山公立小学校は元山居留民団元山公立尋常高等小学校となる。(尋常科6年、高等科2年、幼稚科は分離)新町私立幼稚園開園。

明治34年、38年にも赤田川が大氾濫を起こす。氾濫に備え堤防を築く。明治40年長徳島に灯台点火。

明治41年元山ー咸興間に電話開通する。

明治40年に元山の日本人人口4,162名(内女性は1,028名)

明治40年前後ー反日義兵闘争、日韓合邦運動など

反日義兵闘争は日清戦争後に「衛生斥邪」「反日反露」を掲げて武力蜂起を行ったが、明治40年8月に韓国軍隊の解散命令が出されて以降とくに活発化した。全国各地で明治40年から43年までに衝突回数2800回、参加義兵数は14万人にものぼる。また、これとは別に武力によらずに愛国啓蒙運動を展開した大韓自強会や新民会もあったが、これら各団体間の強固な連帯を生み出すことが出来ずに挫折することになる。

この時期、韓国の政治・社会運動は義兵闘争や愛国啓蒙運動だけではなく、それとは正反対に日本との同盟関係を強化し、さらに日韓合邦を推進しようする大衆運動が存在した。李容九をリーダーとする一進会の日韓合邦運動である。会員数は自称100万はオーバーとしても最盛時には20万位ではないかとの推測もあり、他に比較するもののない最大の勢力だったと思われる。当時の朝鮮の人口1,300万、一握りの「親日反動分子」の動きとして無視するには大き過ぎる。

明治42年10月、安重根が伊藤博文をハルピン駅で暗殺、韓国併合を早めたとも言われる。

明治43年(1910)ー日韓併合

明治42年、一進会は韓国皇帝、曽弥荒助統監、李完用総理大臣に対して日韓合邦に関する上奏文と請願書を提出し、合邦声明書を国民に配布するが、猛烈な反発を受け孤立する。翌(明治43)8月、日本側から韓国政府へ条約案が提示され、韓国閣議を通過、李完用総理大臣と寺内正毅統監との間で「韓国併合に関する条約」が締結される。李容九らが意図したような日韓の対等合邦はならず、後に「だまされた」と述べたと伝えられる。

日韓併合時の元山

まず、居住していた人々は、少数の三国人を除き、日本人4,345人、朝鮮人10,289人、日本人の出身別では九州が40%で最も多い。元山は地理的条件からいって、貿易港としての商業都市であり、まだ鉄道の開通していないこの時代、専ら日本海を利用した我が国、特に阪神、北陸との関門であり、元山以北あるいはシベリアとの交易中継点であったが、大部分は我が国との間のものであり、朝鮮から我が国への輸出は大豆、海産物など食料品、輸入は綿布、織物、酒類、砂糖、食塩、煙草といった生活消費財で、輸出額は約100万円、輸入額は約270万円となっている。

警察、郵便局、税関、病院はもちろん、裁判所、監獄、測候所、財務署、銀行、新聞社、商工会議所など各種機関があり、宗教団体では日蓮宗頂妙寺、高野山大師教会支部、浄土宗知恩院別院、メソジスト教会があった。

教育関係では当時、民団立尋常高等小学校の他、私立幼稚園、日語学校、教育会補修学校があるが、さらに明治44年には元山居留民団によって商業専修学校が設立された。これは後の元山公立商業学校の前身である。

朝鮮人のための教育機関として公立元山普通学校(初等科192名)の他、私立の初等科、高等科の学校が5校(内2校はキリスト教系)もあった。

一方、日清、日露の戦争を経て元山は軍事上の1つの拠点ともなっていく。元山守備隊、元山憲兵分遣所、陸軍輸送部釜山支部元山出張所、永興湾要塞司令部、永興湾海軍防備隊が設けられていた。

大正時代(1912-1926)の元山

交通関係では大正2年元山駅が落成する。翌大正3年8月(1914)京元線(京城ー元山間)開通する。これでやっと日本から元山まで、日本海の長い船旅によらずとも、朝鮮海峡を渡りさえすれば、釜山で列車に乗って来られることになる。

また、大正5年には元山ー永興間にも鉄道が開通する。

学校関係では
大正3年には元山公立実科高等女学校が開校する。
大正4年には元山里尋常小学校の創立、後に本町5丁目に引っ越して、元山本町尋常小学校となる。
この時点で元山尋常高等小学校は元山泉町公立尋常高等小学校となる。
大正10年に元山公立実科高等女学校は元山公立高等女学校と名称を改める。
大正10年4月元山中学校が開校する。
これで元山にはさきの元山公立商業学校と共に、3つの公立中等教育機関が揃うことになる。

その他、大正5年には上水道が設置される、しかし、コレラや赤痢の流行も報じられる。

またロシア革命の影響で、大正9年には多数の白系ロシア人が避難してくる。

大正13年には元山ー仁川間の電話が開通する。

大正14年には元山にラジオが現れる。飛行場建設のため元山里の埋立工事始まる。

大正2年、元山の日本人人口は初めて7,000人を越え、7,166名(内女性は1,765名)

1914(大正3年)第1次世界大戦始まる。日本は軍需景気にわく。

大正8年3月1日(1919)ー朝鮮独立3・1運動と元山

3・1運動といわれる朝鮮独立運動が全鮮各地で勃発した。京城において朝鮮独立宣言を発表すると共に、朝鮮独立万歳を叫ぶ示威運動に始まり、朝鮮各地での大衆暴動となって広がった。しかも日を逐うに従って各道に広がり、3月下旬には13道全域に及び、4月中旬以降になってようやく鎮静した。元山においても騒擾30余カ所に上ったという。

昭和4年1月〜 元山ゼネスト

昭和4年(1929)ニューヨークで始まった株の暴落は世界恐慌に発展するが、この頃労働者や農民の階級意識が高まり、労働争議や小作争議が活発になってきた。
元山ゼネストの発端は、昭和3年9月、ライジングサン石油会社で、日本人現場監督が朝鮮人労務者に暴行したことへの抗議からストに入ったことによる。会社側が団体交渉を拒否、この訴えにより元山労働連合会が昭和4年1月から労働傘下の全労働者がストを支持、しかし、争議が長引くにつれ組合側は動揺し、全面敗北となった。
当時の加盟団体は54、組合員総数は約2000名であった。

昭和初期から終戦直前まで(1926〜1945)の元山

鉄道関係では昭和3年9月に咸鏡線(元山ー会寧間624キロ、会寧は満州との国境の町)が開通する。また昭和6年4月平元線の着工があるが、開通時期は調査不足のため不明。

昭和3年、元山ー清津間の長距離電話が開通する。昭和2年には赤田川に大虹橋が架かる。昭和8年、元山ー九州間の電話が開通する。続いて昭和11年には元山ー大阪間の直通電話が開通する。

昭和3年には元山の日本人人口1万人を越える。

いよいよ時代は戦時色濃くなり、
昭和6年(1931)9月 柳条湖事件 満州事変の発端となる。軍部の独走が始まる。
昭和12年(1937)7月 蘆溝橋事件が起こり、日中戦争始まる。

昭和16年(1941)12月8日 真珠湾攻撃により太平洋戦争始まる。しかし、その前 1939年9月1日 ドイツ軍がポーランドに侵攻、ヨーロッパで第2次世界大戦がすでに始まっている。

昭和19年の日本人人口調査では元山に14,590名、咸鏡南道全体では69,110名、平壌には31,804名、新義州には10,430名となっている。

リュック1つを背中に背負っての脱出劇では、戦前の面影を伝える元山の写真はほとんど失われてしまったが、それでも日本内地の親戚にあったものなど数少ない貴重な何枚かを、それぞれ持ち寄ったのがある。何度もコピーを繰り返しているので、画質は悪いが添付してみる。

昭和20年8月15日終戦 その前後の元山

8月6日 広島に原爆投下される。
8月9日 長崎に原爆投下される。

8月8日 ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄、日本に参戦する。
8月10日 雄基、羅津にソ連軍上陸
8月13日 清津にソ連軍上陸
8月15日 敗戦 ポッダム宣言を受諾、無条件降伏をする。

8月21日 いよいよ元山にソ連軍が上陸、元山はソ連軍に占領される。 ソ連軍巡洋艦2隻、駆逐艦3隻、砲艦2隻、輸送艦5隻、魚雷艇6隻上陸用舟艇多数、約9千名が永興湾に入ってきての占領である。元山の日本軍から多田司令官、元山航空隊司令官堀少将がソ連軍と交渉に当たる。

元山に配備されていた航空隊、守備隊などは翌日直ちに武装解除され、ほとんどはシベリア送りとなり抑留されたようだ。38度線以北で、ソ連軍に抑留された日本軍は7万6千名近いという。

元山でも昼間から銃声が聞こえ、ソ連軍による略奪、強姦、殺人、或いは朝鮮人による報復など、日本人住民は不安な日々を余儀なくされる。

ソ連軍は北朝鮮にある工場や施設の撤去を片っ端から、日本人男性を徴用して行い、ソ連へ持ち去っていった。その最大のものは水豊ダムの施設であった。

8月29日 元山日本人世話会(会長松本五郎)が結成される。日本人の生命の安全や円滑な日本人の引き揚げを意図したが、何もかも手探りで苦闘する。

一方、北朝鮮各地では日本人の集結が行われ、空いた住宅は全部接収された。咸興では約半数の住宅が接収され、1戸あたりの居住者は24名にもなったし、元山でも接収や同居をされない家は半数に過ぎない。高原など在住者と北方からの避難民合わせて600名は農場倉庫に集結させられ、発疹チフス、栄養失調、麻疹などで2割近くの人々が亡くなっている。迫り来る北朝鮮の厳しい冬を迎えれば、さらに犠牲者が出るのは明らかであったが、一向に引き揚げの目途は立たない。

翌昭和21年初め、ソ連軍の命令で日本人避難民に米の配給があったとき、一般朝鮮人に配給がないことが問題に、ここでようやく日本人がいなくなる方が食糧事情も住宅事情も良くなり、伝染病もなくなるとの考え方が朝鮮人側の指導層に広まる。やがて各地の日本人の脱出工作が黙認され始める。

昭和21年4月に入って、元山世話会は朝鮮側との交渉を重ね、世話会発行の戦災証明書があれば、鉄道の移動を認めるという了解を得る。ソ連軍の司令官もこの移動を許可しているので、これで国境の38度線まで到達できることになる。そこから国境線を突破して南朝鮮に入るのである。もちろん、ソ連軍も朝鮮赤軍も公式には認めないのであるが、暗黙に了承し、さらに協力することになる。

越境ルートは
1 京元線によるもの      元山ー三防ー鉄原ー金谷----京城
2 東海線によるもの      元山ー束草ー高城ー裏陽----注文津
3 元山から直接日本海へ    元山或いは桑陰---海路----注文津
であった。

その結果、4月7日〜7月10日までに南下した者、元山10,304名、咸興17,153名、興南7,971名、その他徒歩で南下した者など総計で38,808名と記録されている。

これでほとんどの人々は元山から南下していったが、世話会要員である一部の人達は残留して、北方から元山へ南下してくる人々の世話に当たり、栄豊丸によって最後の人々と共に元山港を離れたのが12月17日である。大変なご苦労であった。

【文責 川村 靖一】

参考文献

長徳 80周年記念号 元山公立中学校       編集    井上三治
泉友 第6号     元山泉町公立国民学校    代表責任者 村上 清
韓国併合への道    呉 善花          文春新書
日韓併合の真実    崔 基鎬          ビジネス社
植民地鉄道と民衆生活 高 成鳳          法政大学出版局
韓国併合       海野福寿          岩波新書
親日派のための弁明  金 完燮          草思社
元山の想い出     笠井久義          笠井久義
満州の誕生      久保尚之          丸善ライブラリー