モーリアック・(黒い天使) と神
       左子真由美

 フランソワ・モーリアック (一八八五〜一九七〇)の小説は、ひたすら一つのテーマのみを描いている。それは一見静かで穏やかな家庭の中に潜んでいる救いようのない孤独であり、満たされない愛への渇望である。舞台も限定されている。モーリアックの生れ育った場所、フランス西南部ボルドーを中心としたランド地方。ぶどう園があり、農園があり、松林が続き、その果てに砂浜と港が広がる。都市の自由な空気とは正反対に閉鎖的で、封建的な「地方」が舞台である。
 閉塞感に満ちた狭く小さな人間関係。その中でモーリアックは執拗に何を描こうとしたのか。カトリシズムの作家である彼は、人間の醜い姿を描きつつ、神との接点をどう求めていたのか。彼の描いた(黒い天使)たちはどう救われるのか。または、永遠に救われないままなのか。

 モーリアックはボルドーのブルジョワジーの家庭に生れた。同地の代々もっとも裕福な家柄である。また、母クレールは敬度なカトリック教徒であり、典型的な良妻賢母であったと言われる。彼は、ボルドー大学文学部に入り、二十一歳の時に大学終了、まもなくパリへ赴く。そして、そこで作家としての第一歩を踏み出すことになる。文学的な交友もひろがり、ジャン・コクトーなどとも知り合う。しかし、モーリアックはまず作家ではなく、詩人として出発した。彼は、二十四歳の時、処女詩集「合掌」を出版している。しかし何といってもその名が知られるようになるのは、三十七歳の時、一九二二年に出版した 「癩者への接吻」からである。ランド地方の自然を背景に、土地の有力な資産家の息子ではあるが、身障者へ嫁いだ美しい女性の苦悩と魂の葛藤を描いている。これによってモーリアックの名はフランスのみならず、海外へも知られることとなった。
 「愛の砂漠」 (一九二五) もまた同じ舞台で繰り広げられる悲劇的ドラマである。高名な医者である父クーレージュとその十八歳の放蕩息子が、同時に同じ女性マリア・クロスを愛するという物語。女性は美しい未亡人だが、身持ちが悪いということで評判の女であり町の有力者の愛人でもある。それぞれに孤立してしまう人間の心の深部を鮮やかにえぐり出し、ランド地方の自然の荒々しさと共に、果てしない孤独を、出口のない暗闇を描き出す。

 その夏、レイモン・クーレージュは十七歳になった。暑い水涸れの夏だったのを覚えている。あの夏ほど、暑くるしい空が石の町にのしかかっていたことはないように思う。だが一方、ボルドーの夏のことを思い出す時、心にうかべるのはやはり、市のすぐ近くを囲んでいる暑気のよどんだ森と砂とに覆われた丘のことだ。その丘のため、北風がさえぎられる。ボルドーは公園を除けば、樹々の少ない町である。喉が死ぬほど渇いた子供たちには、この公園はいかめしい高い柵の向こう側で、地上の最後の緑が終ってしまうようにみえるのだった。
         (「愛の砂漠」Vより)
こういった土地の特性はそのままモーリアックの文学の特性にもつながっているだろう。風土とか気候は人間の感性とは切り離せない。ランド地方は酸性の不毛の土地であり、排水も悪く自然の恩恵に恵まれない地方であった。しかし、十七世紀の終りから松の植林、排水工事などによって変革し、ヨーロッパでも一等級の森として(百万へクタール)知られるが、繁栄の期間の後おおきな危機に陥る。すなわち工業の発展による競争のため、材木、樹脂などの製品が売れなくなったこと、さらに昆虫や火災による被害などである。灼熱の太陽に晒される不毛の土地、その土壌なくしてはモーリアックの文学は生れなかったであろう。
 父も息子もどちらもマリア・クロスとの愛を成就することは出来ない。互いに満たされない愛の欲望に身を焼き、砂漠の砂粒のようにバラバラと崩れてゆくしかない。絶望的な愛の姿が綿密な心理描写で描かれ、読者は愛の不在といういたたまれないようなペシミズムにさいなまれるばかりだ。そこには欲望が赤裸々な姿で現われ、それ故に孤独に陥ってしまう人間の愚かさ、つまり現実の姿のみがあらわになる。モーリアックの神はいかなる形で文学の中に存在するのだろうか。救済はどこにあるのだろうか。
 ブルジョワジーであったことの悲劇も大きい。財産に固執し、いかに対面を保つか、家名を汚さずに生きるか。そういった階層であることの不自由さ。一九二七年、彼が四十二歳の時に出版した「テレーズ・ディスケイルウ」の主人公のテレーズもそういった階層の女である。
 テレーズは満たされない結婚生活から全てに絶望していく女。優秀な頭脳や情熱を持ちながら、それを生かすすべを知らず、何かを求めつつも、求めるものの実態を掴めず埋没してゆく。テレーズの結婚は経済的に恵まれていた。テレーズの夫や夫の両親に村する態度も申し分なかった。夫婦の間にいさかいや不和はない。けれど、田舎の退屈な静寂の中でテレーズのこころは病んでゆく。別れ話の理由が何一つないということ、何も感じないということ、それこそが彼女の悲劇だった。
 そして、ついに夫の殺害を試み、失敗するはめになり、裁判を受けるが、テレーズの殺意の立証を崩し、無罪にしてくれたのは何とその夫だった。
 だが、夫が守りたかったのは、テレーズではなく家の名誉でしかなかったのだ。最後にはテレーズはただ一人でパリに出て、新しい生活を始めようとする。疲れ果てたあげくの脱出であったが、それでもここでは一抹の希望のひかりが射している。古いブルジョワジーの封建的な観念を抜け出そうとする新しい意志の力を見ることが出来る。まさにブルジョワジーであることの悲劇から、自己を取り戻そうとする新しい展開なのだ。

ニーチェが「悦ばしい知識」の中で〈神の死〉を宣告したのは一八八二年のことである。十九世紀後半は産業革命によって工業化が進み、万国博覧会が開かれ、大衆が力を持つようになり、大きく社会が変革していった時代であった。その中で、それまでの絶対的価値というものが見失われていった。さらに、二十世紀に入って初めての世界大戦が起こった。ヴァレリーが「精神の危機」を書いたのは第一次世界大戦終結後まもない時期である。
 その中でヴァレリーは次のように書いている。

  ヨーロッパ文明に対する錯覚は消滅し、いかなるものを救出するにも、知識は無力であることが証明されている。科学は、道徳的野心を抱いて命にかかわる傷を受け、その応用の残忍さのために名誉を失ったかのようだ。理想主義は辛うじて勝をおさめたが、深く傷つき、抱いた夢の責任を負うている。現実主義は裏切られ、うち倒され、罪と過失のためにおしつぶされている。切望も諦念も共に愚弄されたのだった。信仰は戦場で入り乱れ、十字架には十字架が、新月旗には新月旗が対峠した。懐疑家たちでさえ、このように唐突で、このように激しく、このように心を揺り動かし、そしてまるで二十日鼠をもてあそぶ猫のように、われわれの思考をもてあそぶ出来事のため、唖然となったのだった。(「マルムル・レイモン著 高橋隆訳『ポール・ヴァレリーと精神の誘惑』国文社 昭和51年より)

価値観の崩壊したヨーロッパで、神はどのような姿で存在するのだろうか。とりわけモーリアックの神は。テレーズを因習に満ちた田舎から都市へと脱出させることによって、果たそうとしているのであろうか。モーリアックに「小説論」(一九二八)というエッセイがある。私はその中に答えがあるような気がしてならない。
 その「小説論」の中に次のような文がある。

 小説家はすべてを描き得るし、描くべきである、とジャック・マリタンはどこかでいっている。ただしそれには条件がある。対象と馴れ合わずに描かねばならず、主題と堕落をきそうようなことがあってはならぬ、と。問題はまさにそこにある。作家は堕落した人間を高みから描きはしない。それらの人間は、生きることにかけてはその創造者より強いに違いない。作家が彼らを導くのではなく、かえって彼らのほうが作者を引きずってゆく。もし対象と馴れ合わぬとすれば、批判があり干渉があることになり、作品は失敗するであろう。それは聖書でなければできぬ仕事である‥・しかし、聖者ならば小説を書きはしない。聖徳は沈黙である。小説のお浄めをし、そのなかから悪魔を追い払うことは不可能である。(ベルナノスがしたように、悪魔の角をつかまえるのでなければ)。
 たしかに、堕落の機会を与えるような人間はのろわるべきであろう。カトリック作家は、堕落させてはならず、しかしうそをいうわけにはゆかず、肉の要求をそそってはならぬが、人生を偽造することは控えねばならず、この二つの深淵のあいだのせまい峰を渡らねばならない。
   (筑摩書房 世界文学体系 川口篤訳より)

小説とはもとより正しいもの、聖なるもののみを描くものではない。神の教えの教典ではあり得ない。フランス語で物語はHistoireであるが、Histoireは同時に歴史という意味を持つ。私はしばしば人間の歴史を最もよく跡づけているのは小説ではないかという思いを抱くことがある。善悪とりまぜて人間のありのままの姿を措くことが出来るのは小説でしかないと思うからだ。たとえ物語は虚構であっても、小説は否応なく時代を反映している。モーリアックのカトリック作家としての立場をこの文の中に見ることが出来る。また同様のエッセイ「小説家と作中人物」の中では次のように語っている。

  批評家はしばしば、私が、自分の主人公にたいしサデイスム的態度でいきりたち、彼らを憎むがゆえに彼らを汚穢にまみれさせるのだと信じた。もし私がそういう印象を与えるとすれば、その責めを負うべきは、ひとり私の手腕の微力、無力のみである。なぜなら、事実は、私は自分の創作したもっとも好ましからぬ人物を愛しており、あたかも母親が本能的に生まれつきもっとも恵まれぬ子をひいきにするように、彼らが惨めであるだけいっそうを彼らを愛しているからである。《蝮のからみあい》の主人公あるいは毒殺犯人テレーズ・デケイルーは、いかほど嫌悪すべきものに見えようと、私がこの世で嫌いな唯一のもの、人間のなかにほとんど許しえぬ唯一のもの、すなわちうぬぼれ、満足をもっていない。彼らは自分自身に満足していない。彼らは彼らの惨めさを知っている。

 人間の現実を真っ正面から見るならば必ずしも美しい姿ばかりではない。そういった現実をあるがままに描く手法は、フランスの伝統的な小説のあり様に密着している。「女の一生」や「ボヴアリー夫人」のリアリズムがモーリアックの小説の中にも生きている。彼は醜さ、弱さを描くことによって、より人間の本質に迫ろうとし、ゆえに「堕落させてはならず、うそをついてはならず、肉の要求をそそってはならぬが、人生を偽造することは控えねばならず」という二つの深淵のあいだのせまい峰を渡らねばならなかったのだろう。
 もう一度モーリアックの言葉を借りるならば、「‥・かくしてこれらの作品は、かの大都会の下水を思わせる。汚れた下水の水は、河にそそぎ、河と合して海に達する。この異端の女、この肉の女も、否応なくわれわれを神に導く」(「小説論」よりコレットの《シュリ》および《シェリの最後》について書かれた文より)
 優れた文学における感銘は、あるいは神へ近づく一歩かもしれない。たとえ砂漠の嵐のような感動であっても、人間を描ききったものにはどこか荘厳なものがあるのではないだろうか。一つの完成された彫刻、絵画、または音楽のように人を黙させるものがあるのではないだろうか。そして、それはもしかしたら芸術=神と呼んでも良いものではないだろうか。そこにモーリアックの神が存在すると考えるのは勝手な解釈であろうか。

  ※ジョルジュ・ベルナノス フランスの小説家
  (一八八八〜一九四八)。処女作《サタンの太陽の下に》以下《喜び》など独特の作風を示す。

参考文献「二十世紀のフランス文学」 慶應通信
    「愛の砂漠」講談社文芸文庫 遠藤周作訳
    「テレーズ・ディスケイルウ」
          講談社文芸文庫 遠藤周作訳
    「ポール・ヴァレリーと精神の誘惑」
        マルセル・レイモン 高橋 隆訳
                国文社
    「モーリアック」世界文学体系 筑摩書房