初出:ニフティサーブ.詩のフォーラム.詩の投稿室.#17644.1996 / ©ならぢゆん 1996
急に暑くなったせいか、寝苦しくて眠れなくて。プールの底から浮かび上がるようにそっと床を離れた。台所で梅酒ロックを作りグラスを回しながら居間に運ぶ。冷えた甘い液体をきゅうっとすする。ぼんやりと闇を眺めて静けさに耳を傾けて。眠気を呼び込む為の儀式を数え上げる。
襖越しに聞こえる妻と息子の寝息はリズムが一致しない。
明かりをつけて押入れを開いて。無造作に積上げられた本の一冊を手に取って。読むともなく徒らにページをくってゆく。そのうちにふんわりと青い眠気が漂ってくるのを慣れた手つきでさっと捕まえて連れだって。こっそりと寝室に戻るつもりだった。旧い仲間と居酒屋の暖簾をくぐるように。
氷とグラスの触れ合う音がちりんと風鈴を思い出させる。
こちらの意図などお構いなしに、ボールペンで書き込まれた丸文字が私を捕らえる。見慣れた妻の筆跡−−十五年分ほど若やいではいるが。そのインクの青色がしみてしみて。ますます目が冴える。最初のページに戻り妻の書込みを辿り直す。学生時代の彼女の思考を追いかけることは、なんとなく前夜の交合を思い返すことに似ている。
僕の陰茎は経血に染まったことがある。
二十歳。出会ったばかりの彼女の肢体が弾むように滑らかに小さな文字に絡んでゆく。
「死は始めから
闇に浮かぶ白い背中
「生きることに
右腕の金色の産毛
「組み込まれていて
熱い頬
「なん十年もかけて
小さな乳房
「育ってゆく
ふともも
くちびる
「肉体を越えて
濡れた瞳
僕は欲情を感じて。耐えかねて。明りを消して。青臭い二十歳の抱擁とつつましい前夜の交合をかわるがわる思い浮かべて。暗闇に向かって。そして果てた、実直な老婆のように。グラスの中で氷が溶けて。かちりと小さな音を立てた。
この前、自慰をしたのは、いつだっただろうか。
明日になれば朝が何食わぬ顔をしてやっきて。僕はきっとそのまぶしさに目を細めて。そして萎えた陰茎の冷たい感触を死体のようだったと思い返す。雨戸を開くと朝顔が咲いている。青ざめた僕の唇に妻は何を読み取るだろうか。
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