小林常雄・墨彩画集/ダブリン補習校に勤務していたときの手記(その1・2)



私の父

小林常雄の残した水墨画、掛け軸、書などを集めて画集を作りました。
このページはその中から抜粋したものですが多くの皆さんに見て頂ければ天国の父も喜ぶと思います。上の絵は「インカ遺跡/ペルー・マチュピチュ」 

制作にあたり家族からもやはり一言入れたほうが良いということになった。
母は一晩かかって一筆どころか長い挨拶文を書き上げて私の所に届けに来た。書いているうちに父との思い出がよみがえり涙の作文になったらしく母の目は真っ赤だった。(04.10.20 洋)
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ごあいさつ

人間の死は突然やって来るんですね、思いがけないことでした。

亡くなる前日の平成15年12月20日土曜日、主人と二人で買い物に出かけ、クリスマスプレゼントにカシミヤのセーターを2枚求めました。
夜になって、あれこれ着てみては鏡の前でポンポンと胸をたたきながら「柔らかくて、とても暖かいね」といっていた主人の嬉しそうな顔が忘れられません。

そして「明日は日曜だから洋が来るね」と言い残し、ベッドに入りました。

翌12月21日、朝食の支度をして主人を待っていたのですが、なかなか二階に上がって来ないので前日に始めた表装にもう取りかかったのかと思いつつ様子を見に一階に降りて行きました。

すると主人が洗面台の前で倒れており、私は夢中でホッペをたたきましたが何の反応もなく、すでに意識はありませんでした。

主人は生前から願っていたように誰に迷惑をかけることもなく、静かにこの世を去って行きました。

晩年は水墨画に精根を傾け、いったいどこにそんなエネルギーがあるのかと思うほど細かく細かく書き上げて行きました。

それが120号の大作に仕上がると私は「ウーン」と唸らんばかりに圧倒されるものを感じておりました。

それにしても何を考え、何を求めてこれだけ多くの絵を残したのでしょうか。

たまたま息子から主人の遺作を写真に収めて画集を作りたいとの案が出ました。

「それは父さんもきっと喜ぶよ」そんなことで事が運ばれ、素晴らしい画集が完成いたしました。

一枚めくればそこには主人と私の世界があり、二人で歩いてきた人生と道程が刻み込まれています。情景が浮かんで新たな涙と胸のつまる思いです。

私はこのかけがいのない宝物になった画集に励まされ静かに生きて行きたく思います。

この画集の制作にあたり、何も分からない私共に親身になって多くのお力添えをいただきました株式会社ジャパンマテリアルの吉江社長はじめスタッフの皆様には、心より感謝申し上げます。  小林光枝


あれほど器用にいろいろなことが出来る人はめったにいないと思います。
その中のほんの少しでも、こうした形で皆様に楽しんでいただければ父も
きっと喜ぶと思います。  小林 清

いったいどんな思いで描いていたのか寡黙な父は誰にも語ることなく、ただ作品を残していった。しかし、ここに納められた数々の作品からは押し付けがましさのない優しい絵心が伝わってきます。  小林 洋

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アレキバの聖堂(ペルー)

レバノン追憶

聖堂暮色

聖堂

アイルランド門

ギリシャ悠久

アイルランド古城

大峡谷

グランドキャニオン

ペルー農場の蔵会

毬栗

玉蜀黍(とうもろこし)

ほおずき

紫陽花(あじさい)

ポインセチア

ダリア

胡蝶蘭

水辺(秋)

水辺(春)

びわ

小林常雄(こばやし つねお)

大正11年9月6日 新潟県岩船郡山北町府屋に生まれる 
平成15年12月21日 東京都中野区鷺ノ宮の自宅にて、くも膜下出血のため意識を失い搬送先病院で息をひきとる(享年81歳)
 
軍歴とその後の履歴
○昭和18年10月末「第十三期海軍飛行専修予備学生」として土浦航空隊に入隊、志願(21歳)新潟第一師範学校卒業直前11月から3月まで基礎訓練、半日学課、半日体育

○19年4〜6月、練習機(赤トンボ)訓練、茨城県「谷田部航空隊」

○7〜9月、零戦訓練、茨城県「神ノ池航空隊」(現在の大洗海岸の南)

○10月〜昭和20年1月、零戦実戦部隊、上海龍華航空隊、多くの戦友が交戦で戦死する

○2月〜4月中国青島航空隊、零戦はなくなり「白菊」という木製の単葉機で昼間は危険で飛べず夜間訓練だけ、ここで*「特攻隊」に編入され、戦友が度々飛び立っていったが通信機等も不備ですべて消息不明であった。
*注:「特攻隊に編入」とありますが、もし終戦が延びていたならば私はこの世に存在しなかったのであります

○5月〜8月終戦まで韓国「浦項(ほこう)航空隊」(現在ポハン)8月19日早朝、本隊の福岡に集結、直ちに解散「長期休暇」の名目で帰郷。階級は海軍中尉、飛行時間約二千時間
  
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○昭和20年9月から教職に就く(教諭・小学校4年半、中学校18年、教頭・小学校1年、校長・小学校3年、中学校4年、指導主事6年)

○53年から3ヶ年ペルー国「リマ日本人学校」に勤務、海外在住の日本人子弟の教育に従事(外務省派遣)

○56年6月から日本で教職にあたる。この間に在外教育施設(日本人学校、補習校)派遣教員選考委員を文部省より委任され昭和56年10月、一般教員選考試験および昭和57年10月、校長選考試験を担当する。

○58年3月退職

○同年4月から3年間アイルランド共和国「ダブリン補習校」に勤務、日本人学校と同様の授業、ただし土曜日だけ(海外子女教育財団派遣)

○64年から2ヶ年、メキシコ・グァダラハラ「日墨学院」でメキシコ人日系人子弟の日本語指導(ボランティア活動として)

○平成3年帰国、帰国後は水泳、習字、描画、工作(木工、電気)といった趣味の日々をすごす。
 
○趣味の墨彩画では平成5年より亡くなる15年までの11年間、日本南画院展に出展し第39回(平成11年)「大峡谷」、第40回(平成12年)「聖堂」で佳作賞を受賞

○平成15年12月21日付けで勲六等瑞宝章を受章

ダブリン補習校に勤務していたときの手記(その1)

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(当時皇太子であった現天皇陛下御夫妻がダブリンを訪問された時の手記。以下原文のまま)

「昭和六十年三月四日 皇太子殿下御夫妻奉迎」
両殿下は気軽によく話しかけられた。忘れないうちに記憶をたどって記しておきます。

◎四日(月) 空港にて子供たちと出迎え
大使婦人「校長先生と奥さんです」と紹介。
皇太子「どうもご苦労さんです」
私「どうもご苦労様でございます」                   

光枝「お待ち申し上げておりました」「お会いできまして嬉しゅうございます」  
妃殿下「寒いところ有り難う」「いつも子供たちのために有り難う、またお会いできるんでしょうね」
光枝「はい、また後でお会いいたします」

◎四日(月)午後四時半 アイルランド外務者招待
空港でお会いしただけなのに、よく憶えておられ感心しました。

皇太子「校長先生でしたね」
私「はい、そうでございます」

皇太子「生徒はどのくらいなんですか」
私「二十五人ですが今日は二十人でした」                 

妃殿下「先ほどはどうも有り難う」
光枝「またお会いできて嬉しゅうございます」
妃殿下「私もそうです」

光枝「ダブリンはとても寒うございますので風邪など召さないようになさってください」
妃殿下「有り難う、またお会いできるんでしょう」

皇太子殿下は日焼けしたようなお顔で髪など少々伸びたままの姿。
妃殿下は化粧などほとんどされていない素顔に近い。
「ゆび」など荒れ気味だった。聞くところによれば殿下のお食事など、ご自分でなさるとか。
両殿下とも温和、聡明、高貴、とアイリッシュにも大変よい評判でした。

◎五日(火)午後四時 ナショナル美術館
美術館の一室に日本の重要な文化財が展示されることになり、そのテープカットを殿下がされた。

約百八十点の展示品に品名が英文と、和文は毛筆で細字を私が書くという後々までに残る仕事をさせていただいた。

『皇太子はご覧になられて「この毛筆の文字はとてもきれいですが、どなたがお書きになったのか、明治の置土産ではないですか」と話されておられたということで大変評判が良かったよ』ということをお聞きしてほっとしました。

皇太子は帰られるとき「日本語の学校の校長先生でしたね」と話しかけられた。

◎五日(火)午後六時半 バークレーコートホテル
邦人(日本人)との接見、ここでも立食形式。

(補習校のお母さん方が六〜七人のところに殿下がこられたので)
光枝「殿下、この方々は全部補習校のお母先生になるのです」「皆さん本当の教師ではないので、とても苦労があるようです」「それに遠い方は車で一時間半も運転してこられるのです」

皇太子「ああ、そうですか、専門の先生は?」
私「私だけでございます」(笑)

殿下は一人一人に「あなたは何を教えていますか?」とお聞きになりました。そして、
皇太子「どんなところが難しいですか?」
一母親「人数が学年一人とか二人とかで、もっと多いと良いと思います」
皇太子「少ないとやりやすいんじゃないですか?」(つづく)

ダブリン補習校に勤務していたときの手記(その2)

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私「少ないと一人一人の個性がはっきりして、それに応ずることの難しさだと思います」「人数が多いと集団として一斉指導するしやすさがあるということだと思います」
「子供たちは日曜から金曜まで現地のアイルランドの学校なので、土曜日だけ補習校で日本語の保持に努め、国語、算数を主に勉強し、私が時々習字と図画を指導しております」

皇太子「それは結構なことですね」 

私「現地の子供と一緒の機会が多いので国際交流のうえからは良いとこだと思います」
皇太子「そうですね」「これからも頑張ってください」

◎六日(水)夜八時 ロイヤルホスピタル
日本側答礼の晩餐会。大統領夫妻、首相、外相などの要人。
日本側は大使館のほか数名。タキシードを貸衣裳店から急ぎ借りる。

(五日夜、両殿下の御夕食が大使公邸であった。
その晩のためにダブリンの数名が一〜二品の料理を大使から依頼された。我が家は「こんにゃく」と「カマボコ」作りだった。母さんが風邪気味でカマボコは私が主に作って届けてあったのでした。)

私、光枝「お招きいただきまして有り難うございました」
皇太子「ああ、カマボコ、ありがとう」「美智子がとても沢山食べましたよ」「私もいただきました」
私「どうも有り難うございました」
光枝「まあ、どうも有り難うございました」

妃殿下「昨日はカマボコを沢山いただきました」「とても美味しくいただきました」「いろいろ有り難う」
光枝「そうですか、有り難うございます」
「妃殿下、お待ちいたしておりましたのに、もうお別れでございますね」(涙)
妃殿下「そうですね」「無事におつとめを終えてお帰りになってくださいね」(涙)
光枝「有り難うございます」「どうぞお元気でお過ごしください」

(次に私に)
妃殿下「お板、どうも有り難う」
私「有り難うございます」「日本でもう一度お会いできますことを期待申しております」
妃殿下「そうでございますね」
私「ご無事にお帰りになりますように」

両殿下にとってアイルランド最後の夜、和やかな晩餐会は十一時まで続いた。
七日(木)大統領の昼食会の後、夕刻ロンドンに向かわれた。

○大使夫人から後日
『五日、夕食会の時、妃殿下は「校長先生のカマボコ、とても美味しい」「もう一ついただきましょう」と夕食会で“校長先生のカマボコ”がすっかり有名になってしまいました』ということでした。

○両殿下からの贈り物として、菊の御紋の記された立派な箱に入れられた七宝焼きの小皿を二枚いただきました。
日本の象徴、淡いピンクの「さくら」の図柄でした。



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