明治の時代に入り、大阪で淀川が大洪水を繰り返すようになりました。江戸幕府の時代には家屋の建築と山林伐採の規制があったのですが、明治になってそれらの規制が撤廃されたために大阪で建築ブームが起こり、淀川上流部の山林が丸裸になってしまったことで生じました。
明治政府は淀川を治める方法が分かりませんでした。そこで治水先進国のオランダから土木技師を招くことになりました。明治5年、最初に来たオランダ人技師はドールンとリンドです。ドールンとリンドは淀川観測を行い、淀川上流部の山林の荒廃と淀川から大阪湾までの広範囲に土砂が堆積していることを確認しました。そして明治6年2月に明治政府に「大阪港築港計画」を提出しましたが、事業費がかさむことを理由に却下されました。そこでドールンらは「大阪港築港計画」には優秀な技術者の招請が必要であると明治政府に申し入れて、オランダより新たにチッセン、エッセル、デ・レーケの3名の技師が明治6年9月に来日しました。
デ・レーケは淀川上流部において裸の山の植林工事の設計をすると共に、「砂防堰堤」を造りました。また明治政府の依頼に従って川幅130m、水深1.5mの「淀川低水路」(天満橋〜京都伏見観月橋の40kmの淀川中流部)をエッセルと共に設計し、工事を指揮しました。これは淀川の治水と共に、蒸気船を大阪湾から伏見港まで航行させることを目的とし、また和船も航行させることを目的としていたので、淀川中流部を蛇行させるというものでした。