千葉県船橋市

*参考資料 『日本城郭体系』 『房総の古城址めぐり』 『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』 『東葛の中世城郭』 

 

1.夏見城(船橋市夏見6丁目) 

 長福寺のある、比高6mほどの台地先端部に主郭があったと考えられる。寺院本堂の脇に、わずかながら重厚な土塁と堀の痕跡がかろうじて残されている。このL字型に残された土塁によって囲まれた先端部が1郭ということになるが、これだけではいかにも狭い。台地そのものが削られてしまっているのか、1は主郭ではなく、別に先端に設けた小規模な郭であるのかのどちらかであろう。
























 夏見の比高15mほどの台地上の先端部にあり、現在は新福寺という寺の敷地になっている。台地上は宅地化されているので城域がどの辺りまでであったかは知るすべもない。新福寺の裏に小さな曲輪が残っており、周囲を土塁が取り巻いている。写真は土塁の一番高いところで5mほどの高さがある。土塁の外側は低くなっており、堀の痕跡が認められる。諸伝については明らかではないが、夏見氏の居城であったという。



















2.城の台城(船橋市本中山城ノ庭)


    

 京成東中山駅の西側、多聞寺の裏手の台地は、かつて城の台と呼ばれ、中世の城館の跡だという。この土手は、以前は西の稲荷神社まで続いていたと言うが、明治時代に総武線の鉄道敷設のための土取りのため掘り崩されてしまい、遺構の多くもその時に失われたらしい。現在、台地上は完全に宅地化されてしまっているので、遺構らしきものを見ることはできない。伝承はなく詳細は不明である。
















3.船橋城(船橋市市場町城の腰)


海老川に臨む船橋中央卸売市場のある微高地は、船橋城の跡と言われている。「千葉実録」には、船橋弥太郎という者が源頼義に従って、前9年の役に従軍したという。また、船橋飛騨守と言う者は、馬加康胤に属して、東常縁の軍勢と戦ったという。船橋城などなかったという説もあるが、遺構がすっかり失われてしまっている今となっては何とも言うことができない。しかし海老川と周囲の沼沢地を天然の要害として、土豪の居館などは存在していたのかも知れない。
















4.米ケ崎城(船橋市米ケ崎城の内)

 宮前川を北側に控えた比高5,6mほどの台地上の一帯を「城之内」と呼び、その地名が城があったことを示している。かつて台地そのものが大規模に表土を剥ぎ取られてしまっているということであるが、現在でも、台地先端部にはかなり大きな土塁を見ることができる。
 台地のあらかたは広大な畑となっているが、その中央部には意富比神社が鎮座している。

























米ケ崎の恵富比神社の周辺は城之内と呼ばれ、かつての米ケ崎城の跡と言われている。この辺は昭和40年頃の、埋め立て用の土取りのためにかなり改変されてしまっているので、遺構は明らかではないが、南側の斜面の付近には写真のように土塁状の高まりが一部残されている。土塁の外側は切り立った土手になっており、土手の高さは比高7〜8mと、たいして高くはないが、城塁らしさを残している。城主等は不明だが、近くの夏見城と何らかの関係があったものと思われる。
















5.高根城(船橋市高根字城見山)



 

6.金杉城(船橋市金杉)



 

7.八木ケ谷城(船橋市八木ケ谷字東庭、大堀、古木戸)

 八木ヶ谷の長福寺、およびその南側に展開する「八木ヶ谷市民の森」一帯が城址であったという。
 長福寺やその周辺には、土塁と思われるものや、神社や鐘楼台として用いられている土壇がいくつかあり、これが遺構であるかと思われる。しかし、土壇は城郭遺構というよりは、古墳を利用したものとも思われ、城としての構造は明白ではない。
 ただし、境内やその外側にはかつては、堀や土塁が存在していたと言われているので、寺院を中心として堀と土塁によって区画された数郭を持つ城郭であったと考えられる。断片的に残る土塁はその名残と見てよいのだろう。しかし、どういう城であったのかは、現状からでは想像できない。

 市民の森内部には、明らかに人工的な、土塁と堀による区画があちこちに見られる。しかし、どれも痕跡程度になってしまっていて、明瞭なものではなくなっているうえに、それらをトレースしてみても、城としてのまとまりを感じることができない。
 城址近辺には、かつて牧関連の施設が展開していたと見られ、市民の森内部に点在する、土塁や堀らしきものは、城郭遺構ではなく、牧関連の遺跡である可能性も高いと見られる。
 城址には「大堀」「古木戸」といった地名も残っているというが、これらの地名は牧関連の施設にも見られるものである。
 といったことを勘案すると、これらの地名は、いわゆる城ではなく、牧関連の施設の名残であった、という可能性もある。
 いずれにせよ、現状の遺構からだけでは、これがどのような城であったのか、さっぱり見当もつかない。














八木ヶ谷市民の森内部に残る土塁。比較的、城塁らしく見える部分である。 二重土塁になっている部分。内部は通路となっている。
〔以前の記述〕八木ケ谷城も、低い台地上に展開した城で、長福寺の辺りがその中心であったという。長福寺の入り口の脇には3mほどの高さの土手があり、この上に神社が祭られている。あるいは、物見台の跡であろうか。付近に「首切り場」と呼ばれる場所もあるという。また長福寺の隣にある「八木が谷北市民の森」内には土塁状の高まりが幾筋も見受けられる。ただし、この辺りには野馬除けの土手が多く残されているというので、どこまでが城郭遺構であるのかははっきりしない。
城主は八木ケ谷式部胤宣であったという。また「本土寺大過去帳」の明応8年(1499)10月20日の項の八木ケ谷兵部卿良宗も、八木ケ谷城と何らかの関連があった人物と考えられる。




8.楠が山城(船橋市楠が山)

  楠が山城その2

 楠が山城といえば、一般に上記のリンクにある、台地北部に残る土塁や堀のことをさすのだと思っていたが、現地近辺にお住まいの方から、「地元では、台地南端の青蓮寺や日枝神社の辺りを楠が山城であるといっている」という情報をいただいて、改めて、台地南端部を再訪してみることにした。
 台地に上がる切り通しの車道の途中から、無住の青蓮院に続く登り口がついている。そこを上がった所に、30m×50mほどの平場があって、そこに青蓮院のお堂が建っている。
 お堂の背後には高さ1.5mほどの土塁が盛られている。これを見た瞬間、「やはり城跡だ」と思ってしまったのだが、土塁の外側に回ってみると、堀が掘られていない。外側とは土塁一本だけの区画に過ぎず、城としての防御性には難があるといえる。この土塁はどうも、城郭遺構というよりも寺院に伴うものと見た方がよさそうである。
 青蓮院から南西端の日枝神社に向う通路の端には土塁が盛られており、一見、この通路は横堀状に見える。北西側の日枝神社も土壇の上にあり、神社の入り口は虎口状に見えなくもない。また、青蓮院との間には堀状の窪んだ地形も見られる。さらに神社周辺には祠などが祭られている塚などがいくつか点在している。
 これらを見ると、なんとなく城跡のような地形に見えなくもないのだが、しかし、かといって、「城である」と決定付けるような遺構があるわけでもない。悩ましい限りである。
 ただ、この場所は台地南端部であり、下は比高15mほどとはいえ、天然の切岸といっていい急斜面となっている。その下には、県道57号線をはじめとして、いくつかの街道が通っており、小川も流れている。交通を監視するのにもふさわしい場所である。また、南西部の平野部に対する眺望も開けている。
 こうした点からすると、台地北縁の楠が山城よりも、むしろ城郭をいとなむのにふさわしい場所であるといっていいかもしれない。「城があった」という伝承が実際に残っているというならば、こちらが本来の楠が山城であった、と見てもよいのではないだろうか。しかし、実際にこれが城であったとしても、本来の構造などはさっぱりよく分からない。

青蓮院東南の、やや横堀状に見える部分。 青蓮院背後の土塁。外側に堀が掘られていない。




9.金堀城(船橋市金堀字殿山)




10.小野田城(船橋市小野田字台)

 小野田にある安房神社の周辺を「城」といい、さらに付近の光明寺、祖師堂を含む一帯が小野田城の跡であったという。
 以前来た時には、安房神社のある高台だけが城址かと思っていたので、「ずいぶん小規模な物見台」程度のものであるといった印象を受けたのだが、後で、光明寺の背後などに大規模な土塁が展開しているということを知って、再訪してみることにした。
 実際、光明寺の背後には郭内からでも高さ3mほどはありそうな土塁が長く延びている。この土塁は西側の梨畑のある台地との間を区画しており、民家のある4の区画の西側で、南側方向に折れていき、南端の祖師堂がある辺りまで続いている。
 南端の祖師堂のある高台も、物見の砦のような独立形状をした場所であり、郭であったといえそうである。
 これらの土塁によって囲まれた、安房神社から祖師堂にいたる区画が小野田城の城域であったという。安房神社と祖師堂との間の3の部分は低地となっているが、それでも、高さ4mほどの切岸状斜面で、さらに下の低地からは高い地形となっている。
 しかし、構造的には変わった城であるという印象を受ける。通常、城は台地の縁に築くものであると思う。確かにこの城も台地の縁を利用しているのではあるが、この城の場合は、台地の縁に土塁を築き、その外側のより低い部分を城内として区画しているのである。つまり、土塁の内側の城内は、台地上の城外よりもだいぶ低い地形にある。防御という視点から見た場合、これでははなはだ心もとない。
 もちろん、郭内の方が低くなっている城館というのも、千葉県内にはいくつも存在している。しかし、この城の場合、土塁の外側に堀がいっさい認められない。郭内の方が低い城館の場合も、通常は土塁の外側に堀を伴っているのが当然であり、それがないのは非常に不自然である。これでは、外側から内部に侵入する方が、内部から外側に出るよりも遥かにたやすい。
 また、台地の縁に土塁を築いて、その下の低地そのものを城郭として取り込むという発想そのものに無理があるような気がする。果たして、これが本当に城であるといっていいのだろうか。
 私の印象では、台地縁部にある土塁は城郭に伴うものではなく、別の意図(馬込であるとか)によるものであり、土塁によって郭内部を守るためのものというよりも、内部のもの(馬など)を外に逃がさないようにするための構造物、といった種類のものではなかっただろうかと感じるのである。
 本来、城と呼ぶべきものは、やはり「城」の地名を残す、安房神社の周辺のごく狭い範囲の部分だけであり、小野田城は小規模な物見の砦、といった性格のものであったのではないだろうか。
 もし、これら全体を城郭であると見るならば、本来、安房神社周辺でしかなかった城を拡張する際に、台地縁部までの範囲を強引に城域に取り込むために、台地縁に土塁を築いた、といった解釈をすることになるが、上記の通り、城の構造としてはかなり無理がある。
 この城に関しての印象は以上の通りであり、城郭類似遺構が築かれることによって、かなり惑わされてしまうような場所である、というように私は感じる。

安房神社脇の土塁。高さ2mほどある。 梨畑の脇には土塁が長く廻らされている。しかし、ヤブになっていて分かりにくい。
(以前の記述)小野田城は、船橋市の最北端、国道16号線の近くにある。城址は比高10m程度の低い台地となっており、その中心部には光明院という寺がある。寺の東側にはそこから6mほど高くなった郭状の部分があり、この上には安房神社が祭られている。この部分が城址で一番高いところで、物見台かとも思われる。神社の脇には城郭遺構と思われる写真のような土塁が取り巻き、神社の東側の土手は、切り立った崖となり、腰郭のようなものも部分的に見られる。この辺りには、「城」とか「城外」といった地名が付けられている。城主等は不明である。




11.船橋御殿(船橋市本町四丁目)

 

 船橋御殿は、徳川家康が鷹狩りに出かける際の休憩所として設けられたものである。船橋市街地の真ん中にあったのだが、市街地のため遺構は全く残っていない。だが、住宅街の片隅にひっそりと東照宮が建っている。東照宮といえば日光があまりにも有名だが、家康とゆかりのある土地には各地に東照宮が祭られていたものとみられる。しかしここの東照宮は祠のような小ささで、おそらく日本で最も小さな東照宮だろう。



12.栗原藩陣屋(船橋市西船六丁目) 

 栗原藩陣屋なるものが本当に置かれていたものかどうかはっきりしないが、存在してたという説もあるので解説しておこう。江戸時代初期、成瀬正成は1万5千石を拝領し、この地にやってきた。当時この辺りは栗原と呼ばれていたので、それで栗原藩というわけだ。陣屋が実際に建設されたかどうかは確証がないが、この地には成瀬氏の菩提寺(宝成寺)があり、この寺院を陣屋代わりに使用したのではないかとも思われる。



13.坪井城(船橋市坪井字城)

 坪井城は、八千代市との境界近くにある。県道57導線(千葉鎌ヶ谷松戸線)の「坪井」のバス停の南300mほどの所だが、城址は消滅してしまっているらしく、遺構らしきものを見ることができない。城という字があり、付近には貝塚があるという。しかし、どこが城址であったのかもはっきりしない。伝承だけの城であるのかもしれない。



14.船橋海賊屋敷(船橋市市場字城の腰)

 「月刊地理」に載っていた「船橋の海賊屋敷(滝口昭二)」によると、市場の城の腰という字の辺りには地籍図で細長く屈曲した地割が確認され、本土寺過去帳にある「船橋の海賊」の城であったのではないかという。市街化のため現在では遺構はまったく見られない。





15.飯山満(はざま)城(船橋市飯山満城の腰)

 飯山満城は東葉高速鉄道「飯山満駅」の東700mほどの所にあったらしい。「城の腰」という字が残っている。光明寺の北東200mほどの所である。城内はほとんど宅地化されており、遺構らしきものは見られない。しかし、北側の台地下の部分から城址方向を見ると、写真のような土手が見える。この削られた部分は後世の改変であろうが、土手はなんとなく城塁のように見えなくもない。方100mほどの、土豪の居館だったのではないだろうか。
 














16.小穴城(古和釜城・船橋市古和釜)

 小六城は、楠ヶ山城の南700mほどの所にあったらしい。「古和釜十字路」というバス停の南西300mほどの所にある「古和釜西口」というバス停の所から北に入っていく細い道があるが、ここを進んで200mほど行ったところの、西側の畑地一帯が城址であるらしい。ぱっと見た所、一面の平たい畑地であるので、耕地整理ですっかり失われてしまったのかと思ったのであるが、よくよく見れば、北東側の畑縁はやや高く土塁のように見えなくもない。この辺りの薮に進入して見た所、写真の堀の跡を見つけた。現状では幅2m余りと、きわめて小さいものであるが、かつての水堀の名残であろうと思われる。
 城の歴史等も分からない。小六城と呼ばれているらしいので、なんとか小六といった者の居館であったのではないかと一応推測できる。














17.鈴身館(船橋市鈴身字御竹)

 左衛門尉殿に教えていただいて、鈴身館を探しにやってきた。
 鈴身地区の北東、小川を渡った北側の辺りは比高7,8mほどの台地となり、この北西端に写真の鈴身神社が祭られている。ここには「御竹(みたけ)」という地名が残っている。「御竹」は「御館」がなまったものと考えられるので、この場所に中世の居館があったのではないかと想像される。
 神社のある部分は2段になっており、台地南端の方には高さ3,40cm程度の低い高まりが見られるが、これを土塁と見るべきなのかどうか難しい。しかし、この南側の下は切岸のような急斜面である。また神社の北側には深さ1,5m、幅4mほどの切通しがある。しかし、これも後世のもので、遺構と呼ぶには難しいものである。台地上はかなり広く、かつて水田として用いられていたのか平坦になっており150m×80mほどはある。東端の方まで行ってみたのだが、結局はっきりとした遺構は発見できなかった。館跡という伝承についても、地元の聞き取りで確認することはできなかった。
 鈴身神社は寺院と一体化したもので、札所に指定されており、休みの日になると観光バスでお参りに来る人がそこそこいるということであった。








18.その他の中世遺跡

 その他にも次のような中世遺跡があるということだが、城館関連遺構であるのかどうかははっきりしない。

小室台遺跡(船橋市小室)

源七山遺跡(船橋市坪井町)
 坪井城の南600m、東葉高速鉄道の「船橋日大前」駅の北東に当たる。東側の小川に臨む低い台地上であるが、ここは宅地か工場用地に整理されるらしく、現在(03.7.12)完全に土が掘り返されている。少し前まで発掘も行われていたらしいが、すでに遺構も湮滅してしまったらしい。

西ヶ堀込遺跡(船橋市田喜野井)

ユルギ松遺跡(船橋市飯山満町)
  これは、飯山満町の大宮神社周辺らしい。城址が神社となっていることはよくあるが、特に城館遺構を思わせるものは発見できなかった。

・峰台館(船橋市宮本六丁目)
 峰台館は峰台小学校のある台地にあったという。しかし遺構等はなく詳細は不明である。またこの台地の低地には峰台遺跡と言う中世の低地遺跡が存在している。(「房総中近世考古」第1号」)





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