千葉県富津市
*参考資料 『千葉城郭研究』第7号 『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』 『日本城郭体系』 『房総の古城址めぐり』
*関連サイト 埋もれた古城 内房正木氏を捜そう会
青木浦見張番所(富津市青木字三の手)
青木浦見張番所は弘化2年(1845)、飯野藩主保科正丞が設置した。JA富津市や市役所支所のある辺りにあったという。市街地化されているので遺構はもはや消滅してしまっている。
足柄山烽火台(富津市鶴岡字足柄)
足柄山烽火台は佐貫城の南西1Kmの所にある。足柄山と言っても箱根とは関係なく、佐貫小学校のすぐ東側の比高25mの小規模な山である。佐貫城の烽火台の1つであったかと言われる。空堀が残っているという。
不入斗(いりやまず)常代城(富津市不入斗)
房総には「とこしろ」という地名を持つ城址がいくつもあるが、この城も常代(とこしろ)を冠している城である。「とこしろ」の正確な語源は不明だが、ある程度古いタイプの城によく見られる地名のようである。
峰上城の2km西、不入斗川添いの荒木谷の東側にそびえている比高80mほどの山上である。土塁や土橋、櫓台などが残っているという。近くまで車で行けるかと思って細い道を走っていったのだが、右は崖、左は土手のうえ車幅ぎりぎりという厳しい道で、最後は行き止まりになってしまい、にっちもさっちもいかなくなってしまった。この細い道沿いには何軒も家が建っているのであるが、こういうところに住んでいる人は、毎日こんな辛い道を運転していて平気なのだろうか・・・。
城主等は未詳であるが、おそらくは峰上城の支城の1つであろう。
岩坂烽火台(富津市岩坂字天王台)
岩坂烽火台は、八雲神社や墨田区健康学園などがある比高20mほどの台地上にあり、峰上城などへの連絡を目的とした狼煙台があったところであるという。台の跡が良く残っているというが、それがどこかは残念ながら確認できなかった。
天文21年(1552)、椎津城の真里谷信政が里見氏に背き、北条方に付くと、当時峰上城にいた正木弥五郎も、里見氏を見限り、北条方に転じたという。その正木弥五郎が警備のために築いたのがこの烽火台だと言われている。
この3つの砲台施設はすべて幕末に沿岸警備のために築かれたものである。
天保13年(1842)、佐貫藩主安倍正身により設置された大坪山砲台は、現在東京湾観音が建っている場所にあった。比高100mほどの絶壁上である。遺構らしきものは認められないということだが、観音像の南側にちょっとした高台がある。あるいはこれが砲台に関連のあるものであろうか。
また、駐車場に入る手前南側に、土塁状の地形が残っている。後世のものである可能性が高いと思われるが、もしかしたら番所の土塁の名残なのかもしれない。
大坪山烽火台はその400m南、嘉永年間に江戸幕府が設置した。かつては土塁が残っていたというが、現在では湮滅している。
七曲砲台は、東京湾漢音の1km北西の天望台のある所にあったという。嘉永3年会津藩によって設置された。後には陸軍によっても監視所として利用された。しかし現在では遺構は特に見られなくなってしまっているという。
この展望台に行ってみようと思ったのだが、どうにも行き方が分からなかった。東京湾観音の所から見ても、Googlemapでみても、展望台のようなものは見えない。どこから行けるのであろうか。
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| 東京湾観音の先の展望台から七曲砲台方面を見たところ。この展望台は平坦で見晴らしがよく、砲台を置くには格好の場所である。 | 東京湾観音。高さは60m近くある。遠くからでもよく見える観音像である。 |
*関連サイト 埋もれた古城 *参考資料 「千葉県の歴史」(資料編中世1)
金谷城は造海城の8km南方、鋸山の手前の標高118mの切り立った岩山の上にある。造海城と同様、武田氏が南方の里見氏に対する押さえの城として築いたが、後に里見氏に奪われ、里見水軍の基地の1つとなった。二郭以降は、健康保険組合スポーツセンターとして、体育館・テニスコート・プールなどが建設されているのですっかり改変されてしまっている。主郭部のみは、体育館の裏山として残っているが、背後は土取りをされて痛々しい岩肌の崖になってしまっている。センターの脇から上がれそうな石段が見えているのだが、柵に鍵がかかっているので中には入れない。
センターの脇のパットゴルフ場の脇をすり抜けていくと、四つ足門の跡がある。遺構らしきものを見ることができるのはここくらいだ。しかしここもセンター建築の際に埋められてしまったらしく、遺構は地下にあるらしい。よく本などでは岩場を切り通した間に4つの柱跡があるのを見かけるが、現在その状態を見ることはできない。
金谷城の旧状を復元することは難しいが、「千葉県の歴史 中世資料」に収録されている測量図などから想像図を描いてみた。山頂部から左右に尾根が延びた中央部には段々の平地があり、ここにひな壇のように郭が配置されていたものと思われる。現在、地形はかなり改変されているが、このような構造そのものは現状からでもうかがうことができるのである。とはいえ、この図はまったくの想像図にすぎない。いずれ、もっとちゃんとした資料を手にいれることができたらきちんと描き直してみたいと思う。
山上の1,2が主郭ということになるが、ここはかなり狭い土地のようで、物見程度の場所ではなかったかと思われる。ここを「要害」と呼んでいるらしい。その下の3,4辺りがわりと広く、ここが実質的な主郭部であったと見てよいであろう。現在、体育館の建っている場所である。発掘時の図面を見ると3には4棟ほどの建造物、4にはかなり大きな2棟の建造物があったことが分かる。城主の居館はこの辺りであったろうか。またこの4の北西下に岩盤を掘削した所に建てた四足門があったことが分かっている。
その下の段が「根古屋」、さらに下が「木出」となり、北東下の大手口まで城郭建造物が建ち並んでいたのではないかと想像される。発掘遺物としては、15世紀後半から16世紀後半頃の貿易陶磁や瀬戸・美濃製品が発見されているが、伝えられている城の存続時期とほぼ一致しており、遺物の上からも城の存続した時期が明らかになっている。
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| 金谷城の登り口。大手はこちら方向であったという。ここからあがるとすぐにスポーツセンターである。 | 金谷城の四足門の跡。現在では埋め戻されているため、遺構を見ることはできない。 |
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鋸山から見た金谷城。背後をざっくりと削り取られてしまっている。 |
| 金谷城は初期の里見氏の居城の1つである。天文2年(1532)、天文の内乱によって里見義豊に殺害された里見実堯は金谷城を居城としていたと言われる。その後、里見家の家督は義豊を討った義堯に受け継がれていくが、金谷城は重要な拠点・・・海城として維持され続けて行ったのであろう。妙本寺の日我上人の書き残した「いろは字」の奥書には、天文22年(1552)頃、北条氏と里見氏との抗争が行われ、日我は金谷城に避難したが、城は焼き討ちにあって炎上したという内容の記事が見られる。金谷港は三浦半島からも近く、ここを制圧することは北条氏にとっても大きな意味があった。しかし、これで廃城になったわけではなく、「毛利家文書」における「関八州書状覚書」(天正18年)には、里見方の城としてその名前が見え、城主は真崎(正木)淡路守とある。戦国期を通じて、この城は金谷の港を押さえる拠点として大きな価値があったものと思われる。 | |

小久保陣屋は大貫漁港の東側、現在中央公民館のある地にあった。明治元年、徳川慶喜が江戸から駿河・遠江に移封されると、そのため駿遠二国の領主たちは各地に移転させられることになるわけだが、遠江相良藩1万石の田沼意尊は、天羽1万石となり、そこで築かれた陣屋がこの小久保陣屋である。もっともすぐに廃藩置県となったので、陣屋の存続期間はごくわずかであった。
中央公民館の前には陣屋跡を示す石碑が建ち、碑の背後には市指定の史跡となっている弁天山古墳という前方後円墳がある。この古墳も城郭の一部として利用されていたものであろう。古墳の下は石垣によって補修されている。
古墳上に上がってみると、後円の部分が繰り抜かれ、そこに何か建物が建っている。何かと思って覗いてみると、建物の中には発掘された石室が保存されていた。どうやらこの建物は露出した石室を保護するためのもののようである。
なお、陣屋跡はかつて大貫小学校の敷地にも利用されていたらしく、公民館の前には「大貫小学校発祥の地」という碑も建っている。
陣屋跡には井戸もある。しかし、小学校に伴うものなのか、陣屋の遺構なのかはっきりしない。
陣屋跡の南端部には、石垣と門の跡があるが、これもどちらかというと、小学校関連の名残のように見える。
島戸倉砲台(富津市金谷島戸倉)
島戸倉砲台も幕末に造られた一連の砲台の内の1つである。国道127号線を鋸山方面から北上すると、島戸倉トンネルを抜けて、丑山トンネルをくぐる時、このトンネルの西側に海に突きだした岬が見える。石井造船所の北側辺りである。この位置にあったということだ。しかし遺構等は不明。
城ヶ谷城(富津市笹毛城ヶ谷)
城ヶ谷城は県道新舞子海岸線の笹毛と稲郷のバス停の間の東側にそびえる山のことである。伝承はないが、城ヶ谷と呼ばれ、何らかの砦があったものと思われる。笹毛地区にあるので笹毛城と呼ばれていたものかもしれない。
第一海堡・第二海堡はいずれも大戦中に富津岬の先の海上に設置された要塞である。現在はわたるすべがなくなっているが、Googlemapでみると、だいたいの構造は分かる。


竹ケ岡陣屋(富津市竹岡字陣屋)
文化9年(1812)、異国船打ち払いのため、松平定信は白河藩に竹ケ岡台場の建設を命じたが、それに伴って築かれた陣屋が、この竹ケ岡陣屋である。竹岡小学校のすぐ東側の低い台地上で、現在はわずかに土塁のみが残存している程度である。この陣屋には会津藩、忍藩、二本松藩、柳川藩などの武士200人ほどが在番していたという。
(造海城の項目参照)
十宮(とみや)城は上総湊駅に望む岬上の半独立台地上にあった。国道127号線の「十宮」のバス停の100mほど北西に見える写真の台地である。この台地は国道からだと比高15mほどしかないが、海からは30m余りある。
この城について特に伝承はない。松本さんが発見した城である。規模はさほど大きくはないが、頂上に東西に細長い郭があり、その北側に一段低く腰曲輪がある。また、この郭の周囲は切岸になっており、この辺りが城郭と認知した構造であるということである。しかし、道はなく薮なので、夏の探索はとても厳しい。
上総湊を望む位置にあり、港を抑える番所的な機能のあった城であろう。
鳥海館(富津市梨沢)
鳥海館は、鳥海氏の居館があったところで、鳥海氏は文化年間に改姓するまでは吉原氏といい、この地の豪族であった。戦国時代、吉原玄蕃助は峰上城の尾崎曲輪に「二十二人衆」として在番していた。鳥海家には古文書が残されており、「千葉県史料」の中世編諸家文書に収録されているが、その中の北条氏朱印状によると「峰上城の尾崎郭22人衆に兵糧を送る。以降も北条方として一層の忠勤を励め」という旨の事が記されている。これはどういうことなのだろうか。なぜ峰上城主宛ではなく尾崎郭22人衆の吉原玄蕃助宛になっているのだろう。城主とは無関係に吉原等が北条方として行動していたのだろうか? だいたい峰上城の尾崎郭はそんな広い郭でなく、22人も住めないと思う。いろいろと謎の多い文書だ。
館跡は、梨沢地区の公民館の向かい側の台地上で、民家の敷地内となっているが、土塁が残されているという。この公民館はかつての天神山小学校梨沢分教場の校舎を利用したもので、その片隅にその旨を記した石碑が建っている。この梨沢地区は渓谷沿いの隠れ里のような土地で、仙人でも住んでいそうな山深くのどかな所である。
梨沢常代城(富津市梨沢)
梨沢常代(とこしろ)城は天羽城と鳥海館の中間点くらいの所にある。比高100m近い険しい山の上で、城址には腰曲輪、土橋、櫓台、井戸などが残っているという。山の斜面に腰曲輪を並べるような構造の城であるらしい。いって見たいところだが、この辺は野生のイノシシが多く棲息しているようで、登ってみるのがちょっと怖い。
城址の山麓には、妙蔵寺という寺院がある。この辺は岩山を切り崩して穴を掘った「やぐら」が多いところで、妙蔵寺の脇にもやぐらがいくつか残っている。また、500mほど北には、富津市指定の文化財になっている「岩見堂やぐら」が残されている。
根木田城(富津市宝竜寺古作)
佐貫城の南に向かい合う比高60mほどの山で、新規に発見された城址である。千葉城郭研究会の佐衛門尉殿に教えていただいたものである。ありがとうございます。小規模な砦とはいえ、切り立った物見台に櫓の跡を示す柱穴が明瞭に残り、堀切の下に石積みと伴うなど、注目すべき遺構がいくつも見られる。技巧的な構造が見られるが、規模が小さいことから、佐貫城防備のために物見台的な役割として築かれた城なのではないかと想像される。
2002年の3月まで、発掘調査が行われているが、やがては館山自動車道建設のために破壊されてしまう運命にある。
(現在は館山自動車道が開通しているので、遺構はすべて破壊されてしまった。)
旗本山砦(富津市西大和田)
旗本山砦は八幡山砦とも言い、三船山合戦で正木時茂が陣地を置いたところであったという。しかし山が削られてしまっているので旧状は不明である。
服部館(富津市相川字柳糸)
服部館は天羽城の西1.5kmほどの河岸段丘上にある。服部氏はこの地の豪族で、ここに居館を構えていたものであろう。この地域は、武田氏と里見氏、また戦国後期になると里見氏と北条氏が争いを構えた所で、こうした小さな領主たちもあれこれと翻弄されたことであろう。館跡付近に石垣が残っているが、この石垣はとても立派なもので、中世の居館の遺構であるのかどうかはとても疑わしいと思う。おそらく神社か何かの跡であろう。
富津陣屋(富津市富津826−1)
富津陣屋は松ヶ丘陣屋とも呼ばれ、富津地区の中心部、富津小学校の西500mほどの所で、公民館の向い辺りのところにあった。文化年間、松平定信によって各地に海防のための砲台や陣屋が築かれたが、富津陣屋もその1つで、文化9年(1812)に築かれた。
単郭方形の陣屋で、『城郭体系』や『千葉県所在・・・』を見ると土塁の一部が残っているという。しかし、現状を見てみても、宅地化が進んでおり、土塁が残っているようには見えなかった。あるいはすでに隠滅してしまっているのかもしれない。
富津陣屋には佐倉藩、会津藩、忍藩、二本松藩、柳川藩などの兵が配置されたという。
富津台場は富津岬の先端近くにある富津公園の中央部付近にある。周囲には幅20〜30mほどの大きな水堀がめぐらされており、台場そのものも小山状に高くなっているので、地図を見れば場所はすぐに分かる。台場の北側には広大な駐車場もある。
台場の規模は90m×200mほどある。南側の部分が高くなっており、その中央付近に、現在は展望台が建てられている。この高台の一段下に、北側に向って4箇所の砲台らしき窪みが見られる。(東側一段下にも小規模な同様の窪みがあるので、これを含めれば、砲台は5箇所ということになるのかもしれない。)
高台の東側にコンクリートで固められた一角があり、その下に穴蔵が残されている。おそらくここが火薬庫であったものだろう。
高台の北側は擂り鉢状に窪んだ地形となっており、その北側に長大な土塁が配置されている。この窪んだ部分は、一見すると巨大な枡形のようにも見えるのであるが、高台と同程度かそれ以上の面積があるので、実際には枡形などではなく、倉庫、あるいは係員のための施設などが置かれていた場所であったと思われる。
富津台場は海防のために置かれたもので、文政3年(1820)、百首台場などと共に設置された。しかし、現在見られる遺構は、むしろ明治以降のものであると思われる。
現地案内板によると、富津台場は、明治14年に、明治新政府によって3年の歳月をかけて築かれたものであるという。堀には海水を取り入れていた、とあるが、確かによく見ると、北西側に、海水と接続する水路のようなものがある。ここから海水を取り入れていたのであろうか。
海水利用であったため、斜面の崩落を防ぐために、腰巻石垣が積まれていた。近代的な石垣であり、一見すると、ごく最近積まれたのではないかと錯覚してしまいそうなものである。
富津台場の機能は、東京湾に侵入してきた敵を砲撃することにあったが、実際に実践で使用されることはなかった。しかし、この台場の大砲は、日露戦争の際にははずされて運ばれ、旅順要塞の攻略に使用されたという。
大正4年になると、さすがに旧式となった大砲ははずされ、陸軍技術本部の大砲試射場となった。24センチ列車砲も設置され、試射されていたと伝わる。
砲台は、戦時中まで維持されていたが、終戦と同時に不必要な施設となり、大砲は除去され、公園として整備されることとなった。
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| 台場正面入口に架かる石橋。 | 正面入口の虎口。両脇には近代の石垣が積まれている。両脇の土塁は高さ6m、幅10mほどと、かなり大規模である。ここから入ると、内部は巨大枡形のような広い空間となっている。 |
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| 4箇所ある砲台の窪み。やはり周囲には近代の石垣が廻らされている。 | 展望台から南側の堀を見たところ。幅30mほどもあり、堀とは思えないくらい広い。手前下の木の枝にはよく分からない鳥がたくさん留まっていた。ちょっと不気味である。 |
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| まるで受付台のような半円形の石組みが2箇所にあった。ここにも大砲が据えられていたのであろうか。 | 東南の橋の上から、南側の堀を見たところ。幅広で、堀というよりも湖のように見える。台場の高さは水面から15mほどである。 |
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| 東側にはコンクリートで固められた部分があり、その端には、このようにコンクリート製の小規模な枡形のような構造物がある。 | 左のコンクリート部分下には石室が造られていた。火薬庫か何かの跡であろうか。 |
| (以前の記述)富津台場はやはり海防のために置かれたもので文政3年(1820)、百首台場などと共に設置された。富津岬の先端近く、現在富津公園や展望塔があるところで、周囲には堀がそのまま残っている。この付近は公園として整備されていて、のんびり散策したりするのに本当にいいところ。写真の堀を渡って石段を登ると展望台があり、周囲を良く見晴らすことができる。石積みなども良く残っている。 | |
和田館(富津市障子谷)
和田館は、鎌倉時代の武将和田義盛の館があったところだという。虚空蔵山の南500mほどの所で、公民館のあるところの300mくらい西側である。遺構らしきものは特に見られない。館跡というのも伝承だけなのかも知れない。