千葉県飯岡町


伊達城(海上郡飯岡町塙字伊達ノ城)

 国道126号線が、県道211号線と交わる交差点がある。この交差点の名前は「古城坂下」と言うので、ここまで来れば城はすぐ目の前であると言うことが分かるはずである。ここで県道221号に入ると、目の前に崩落防止工事の施された急峻な台地が迫ってくる。これが伊達城の跡である。比高は30mほどであろうか。県道は山の間の切通しを抜けて、北側に進んでいくが、その切り通しのちょっと先に台地上に上がる道がつけられている。台地上は広大な畑になっているので、軽トラなら上がっていけるような道である。
 しかし、台地上には何も城らしき遺構は残っていない。台地の大部分はキャベツ畑となっているが、北西のAの辺りがけっこう高くなっている。しかし土塁と言う感じではなくて、自然に地勢が高くなっているような状態である。
 また、畑の前後にはやや土手状になっている部分があるが、これも城塁というよりは、畑地を削平した際にできたものと見るべきであろう。と言うように考えると、この削平が行われる以前は、台地上はそれほど平坦ではなかったのかもしれない。
 「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書」には櫓台などの遺構が残っているとあるが、現在、それらしい場所はない。(あるいは切り通しに面している高台のことなのであろうか。ここには土塁状の高まりもある。) ところで、この台地は北側の多くの部分を削り取られてしまっている。ひょっとすると、城の遺構の多くはすでに消滅してしまっているのであろうか。ただし、城址は独立形状の台地であり、東側の細い尾根一本で接続されており、周囲みな厳しい崖であることから、城を営むには格好の要害の地であったこと明らかで、地勢としては城を置く場所であったとはいえると思う。果たして本当にこれが城であったのかやや疑問も感じるが、下記にあるような伝承や、古城坂といった地名などからして、城があったことはまちがいないのであろう。
 この城には、正木弾正に攻められて落城したという伝承がある。その際に、金の鞍を付けた馬を沈めたと言う伝説も残されている。その堀がどこであったのかも探してみたのだが、分からなかった。「城郭体系」には「水堀も残っている」とある。水堀があるとすれば、それは城址の北側下の水田地帯になっている辺りに違いない。そこで、その辺りで農作業をしている方にそのことを伺ってみた。だが、「金の鞍の伝承はあるが、それがどこなのかはよく分からない。水堀というのは、すでに埋められてしまったんじゃないかな」ということであった。この水田地帯に面して「圃場整備事業記念碑」が建っているのだが、これによると昭和55年頃に圃場整備が行われたようである。城のあった山が削られたのもその時のことであったのかもしれない。
 さて、この城は「伊達城」として紹介されている。おそらくそれは、地元で「だてんじょう」と呼ばれているために、このような文字を当てたものだろうと思う。「伊達城」と聞くと、いかにもすごい城のように想像してしまうのであるが、この「だてんじょう」というのはおそらく「たての城」がなまったものであろう。「たての城」それはすなわち「館の城」であり、比較的古い時代の、居館的なものがあった場所を指しているのではないだろうか。であるとすれば、戦国期の城のような遺構がみられないこともしょうがないことのであるのかもしれない。正木弾正に攻められたという伝承からすれば、永禄年間にも存続していた城ということになるが、実際にはこの伝承そのものが怪しいと考えた方がよいかもしれない。

南側から見た城址。地形的にはいかにも城を置くのにふさわしい場所である。 台地上はけっこう広く80m×150mほどはある。一面の平坦な畑が広がっている。
(以前の記述)地元では「だてんじょう」と呼ばれている。この城のある台地は、比高30mほどだが、海に近い平地に断崖のように突き出た丘陵で、眺望がとても良い。九十九里の白波が遠目でもよく見えてきれいだった。城址は主に畑や山林となっている。土塁や水堀が良く残っていると言うが、はっきりとは確認できなかった。
 城主は塙氏だと言われている。塙氏は海上氏の一族だと言うが詳しいことは分かっていない。里見氏が正木時忠をこの地に派遣し、下総の城を攻撃させた時に、伊達城も攻撃され落城したという伝承がある。また、その際に、金の鞍を付けた馬を埋めたというような伝説も残っている。









佐貫城(海上郡飯岡町上永井字佐貫)

 

 佐貫城は、写真の刑部岬の突端の更に先にあったという。かつては、この先100mほども岬が突き出ており、そこが城の中心部であったと言われているが、この先は波による浸食で削られてしまい、城址のほとんどは消滅してしまったという。
 佐貫城は片岡常春の城として有名だ。この岬の案内板にもその旨が記されている。片岡常春は源義経と親しかったが、そのために義経が源頼朝に追討された後に、ここ佐貫城も攻撃されたという。追討にあたったのは千葉常胤を中心とする千葉氏の一族で、片岡常春は周辺の豪族たちを集め佐貫城に立て籠もったが、衆寡敵せず、城は落城し、一族討ち死にを遂げたという。
 刑部岬はとても眺めの良いところで、ベンチにのんびり座って、海風にあたりながら景色を見ているだけでも、とても心地よい。この岬の標高は60mもあるといい、飯岡漁港から、遠く九十九里の先までよく見ることができる。









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