川谷城(君津市川谷字柿ノ沢)
*参考資料 『君津市史』
*鳥瞰図の作成に際しては『君津市史』の図を参考にした。
県道32号線の宮川橋の西側の台地上に浄蓮院という無住の寺院があるが、川谷城は、この西側の比高130mほどの山の中腹に位置している。山上ではなく中腹にあるところがこの城の特徴である。下の県道からの比高は30mあまりとなっている。
実は『城郭体系』に紹介されている川谷城というのは、この山の山頂部分(「宿畑」)を指している。たしかにここには若干の平坦地があり、北西部には細長く整形されたミカン畑が4段ほどあるらしいが、「宿畑」という地名が示すとおり、畑の跡であろう、と『君津市史』は述べている。
しかし「根小屋」「大木戸」といった地名が残るように、この山に中世城館があったことは間違いない。ここでは『君津市史』の指摘にしたがって、山の中腹部分を川谷城と捉えておくこととする。もっとも、山上の部分が城郭遺構である可能性もゼロというわけではないが、郭の規模からすると、城の主要部はこの図の1,2,3辺りと見てよいのではないか、ということである。
中断の平場の中では1が最も高所にあり、長軸40mほどある。その周囲には切岸加工が施されており、2よりは2m、3よりは5mほど高くなっている。この郭で目立つのは東側の城塁付近にある2つの塚状の土塁で、これは土塁というよりも、もともと古墳であったのかもしれない。2つの古墳の間は虎口状になっており、実際、これを虎口として使用していた可能性もあるだろう。
2の南側には土塁によって開口された虎口が見られる。1,2,3と3つ合わせればそこそこの広さを確保できるので、この3つの郭によって構成された城であったということができるであろう。
浄蓮院の奥の墓地の脇から上の2郭に至るまでには切り通しの道が付けられている。一応、これは本来の登城道であると思いたいが、この山自体が畑として使用されていた時期もあるようで、あるいは後世の改変によるものなのかもしれない。切通しの道は途中で竪堀とに分岐しているが、これも竪堀というよりは、古い時代の道であった可能性もある。
とざっと、これだけである。久留里城の東側1kmと近接した位置にあることから、久留里城の出城と見るのが一般的な解釈ということになるが、上総の城にしては変わった構造をしているということが気になる。この辺りの城郭で、山の中腹だけを用いて、こうした形態に築いた城というのは他には知らない。もちろん、久留里城ともその築城思想は異なるものである、そういう意味では何かと違和感を感じさせる城ということになる。
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| 山麓にある浄蓮院。無住の寺院である。 | 2郭の虎口。土塁によって形成されている。 |
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| 1郭にある古墳状の土塁。2つの土塁によって挟まれた部分が虎口のようにも見える。 | 主要部に続く切通しの山道。 |
| (以前の記述)川谷城は久留里城の1km東北にある。浄蔵院の南側にそびえる比高150mほどの険しい山上にある。久留里城よりも500mほど高い位置である。城址には土塁、空堀、木戸の跡などが残っているという。登城口もありそうなのだが、今回は時間がなく登ってみることはできなかった。 「城郭体系」では、北条氏が久留里城の付け城としてこの川谷城を築いたのではないかという説を支持しているが、付け城にしては久留里城にあまりにも近すぎ、位置も東側にあることから、この説にはどうも賛同できない。久留里城の出城と考えるのが一番自然であろう。城址からは瓦なども大量に見つかったと言うが、臨時の築城で瓦まで使うことはまずなかっただろうと思われるので、むしろ近世に入ってからの建築物によるもの(たとえば畑の小屋とか)と考えるべきなのかも知れない。 |
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