松戸市



 *松戸市には高城氏の本拠地であった小金城があった関係で、その支城と思われる多くの城郭が存在していたが、そのほとんどは宅地開発のため現在では消滅してしまっている。小金城、根木内城、相模台城、松戸城以外はもはや遺構も認められない城がほとんどなのだが、ひとまず列挙してみよう。



1.小金城(松戸市小金大谷口)











2.根木内城(松戸市根木内字城の内)

  

3.相模台城(岩瀬城・松戸市岩瀬) 

 相模台城は、標高25Mの広大な台地上に展開していたが、現在台地上には相模台小学校、東京拘置所支所、聖徳短大などがあって、すっかり改変されており見る影もない。写真の土塁上の高まりがわずかに小学校の脇に残っているくらいである。千葉県なのに相模台とは奇妙な名だが、鎌倉末期に北条相模守高時がこの地に居城したことによると言う。
 天文7年(1537)第一次国府台合戦で、この地は小弓公方方の前線基地として使用された。そのためか「本土寺大過去帳」では、この合戦を「相模台合戦」としており、また「国府台合戦記」でも、小弓公方の終焉の地のように記されているがこれは誤りであろう。










 

 

 

4.松戸城(松戸市松戸字根古屋、戸定) 

 松戸城は、相模台城の支城として築かれ、寛正6年(1465)、原信濃入道父子が立て籠もり上杉方と争ったという。その後は小金の高城氏の支城となり、天正10年には高城胤辰が居城していた。徳川氏の支配にはいると松戸は旗本の知行地となり、高木筑後守正次が館を設けて居館した。
 らにその後、明治17年になって徳川慶喜の実弟で最後の水戸藩主であった徳川昭武がこの地に戸定邸を建設した。戸定邸は現在も残されており、現在は戸定歴史公園として市民の憩いの場となっているが、城址らしいたたずまいを十分に残している。しかし遺構そのものはあまりはっきりとしたものを見ることはできない。
 戸定(とじょう)は、外城がなまったものだという。














5.馬橋城(松戸市三ケ月字三け月台)
    三ケ月(みこぜ)馬橋城

 馬橋城の跡については、他に八が崎にあったという説もあるが、千葉氏に関係の深い蘇羽鷹神社が鬼門の北側に位置しており、また南に妙見社があること、千葉氏の家紋の「三日月」が地名になっていることなどから、この辺が城址だったと思われる。比高20mほどの広範囲の台地であるが、市街地のまっただ中で、すっかり宅地化されているために、城址は消滅してしまっている。都市にある城址のたどる典型的な運命である。「鎌倉大草子」等で、千葉常胤が、小金に居住した旨のことが記されているが、この中世前期の小金城が、ここ馬橋の城ではなかったかと言われている。戦国時代には高城氏の支城の1つとなっていたことだろう。なお「千葉県所在中近世城館跡所在詳細報告書」には三ケ月の地にあるのを三ヶ月馬橋城、馬橋地区の第三中学校にあったのを馬橋城として区別している。







6.栗ケ沢城(松戸市栗ケ沢字若芝)

 栗ケ沢城は、根木内城の2kmほど東南、小金原団地のある台地上にあったという。「城郭体系」によると、寛正元年(1462)に高城下野守胤吉が初めてこの地の領主となって築いた城だという。ただし築城については永正3年(1506)の説もある。後に高城氏は北方の、もっと要害のよい地に根木内城を築いて移っていくことになる。「本土寺大過去帳」には延徳4年(1490)に「高城新右衛門、同子息彦九郎 クリカサワ」とあり、この年に高城氏の一族と思われるこの2人が討ち死にしたであろう事が想像され、彼らの居城として少なくともこの頃までは、城館は存在していただろうと思われる。城址は宅地開発のために消滅した。







7.行人台城(松戸市久保平賀字行人台)

 行人台城は、根木内城の西南200mの所にあった。根木内城との距離の近さから、根木内城の出城であったと思われる。「城郭体系」にはわずかながらも土塁や空堀、郭、腰曲輪などが残っているとあるが、現在では更に宅地開発が進んでしまったためか遺構は消滅してしまっている。城址のあった台地の基部にはかつて戦死者の墳丘と呼ばれていた束があったという。文明年間から永正年間にかけて、高城氏は、太田道灌と千葉氏との抗争に巻き込まれ、何度か合戦をしているが、いわゆる「行人台の合戦」で戦死した死者を埋葬した塚であったと言われている。





8.幸田城(松戸市幸田字花輪)

 幸田城は、小金城の1km北にあったという。前ケ崎城からも近く、西に700mほどの位置である。幸田3丁目の幸田貝塚の近辺である。伝承はとくにないが、かつては土塁や空堀が残っており、中世居館の跡であったらしい。この近辺には高城氏の家臣団の居館がいくつも存在していたらしいことから、幸田城もそうした家臣の居館の1つであったと想像される。ここも宅地開発により消滅してしまっている。






9.幸谷城(松戸市幸谷字宮ノ下)

 幸谷城は小金城の南1kmほどの所にある。新松戸駅の東500mの位置である。「城郭体系」には「高城家文書」の内容が紹介してあるが、それによると、享保13年(1728)旗本の高城清胤(小金城主高城氏の子孫)のもとに幸谷の五郎右衛門という者が訪れ、「自分は、高城氏家臣で幸谷城の城主であった斎藤外記の子孫である」旨述べたという。城址にはかつては空堀や土塁などが残っていたというが、新松戸駅や武蔵野線の建設のために土取りされ、さらに宅地開発のために消失してしまった。







10.殿平賀城(松戸市殿平賀字原の山)


 殿平賀城は、小金城のすぐ東北500mほどの所にあった。やはり小金城の家老の居館があったところではないかと思われる。かつて、土塁、空堀、腰曲輪などが残っていたというが、現在この地には殿平賀小学校が建てられており、その建設のために台地は削られてしまい、城址も消滅してしまった。







11.中金杉城(松戸市中金杉字台)

 中金杉城も小金城のすぐ近く、北に700mほどの所にあった。やはり小金城の家臣の居館の後であろうと思われる。中金杉4丁目の南端に近いところの位置であるが、宅地開発により、現在では遺構らしきものは何も見ることできない。





12.中根城(松戸市中根字城之腰)

 中根城は馬橋駅の南500mの位置、国道6号線のすぐ東側の辺りにあったという。地元には伝承が残っているというが、それによるとかなり古い頃からあった城だったらしい。南北朝時代(貞和4年{1348})、千葉頼胤の孫貞胤は北朝に属し、四条畷で楠木正行と戦ったりしたが、その年の暮れに小金城に帰ってみると(この頃の小金城は馬橋城のことである)、城はすっかり荒れ果ててしまっていた。それを見るに見かねた付近の農夫が、松の枝3本を折り、そこに貞胤をくつろがせたので、彼は三枝松という姓を拝領したという。その後千葉妙見社の祭礼時の開扉は、代々三枝松氏が担当したと言うことである。室町以降、城がどうなったかわからないが、存続していたとすれば、小金城の支城としての機能を果たしていたことだろう。







13.根本城(松戸市根本字金山)

 根本城は相模台城の北600mほどの所にあった。常磐線と新京成船とが分岐する、その間辺りである。台地の先端部にあたるが、線路の建設のため地形は著しく改変されており、遺構はほぼ失われてしまっている。
 城内には写真の金山神社が祭られているが、神社の境内は狭く、かつてはもっと広かったのであろう。神社の上にも、富士浅間神社の参道が造られているが、この道はコンクリートや石で固められており、旧状とは大分違うと思われるが、この部分が櫓台のように見えなくもない。はっきりとした城郭遺構は特に見ることができない。
 南北朝時代に相模台城を攻略した新田氏が、相模台城の要害でないことを憂え、この地に城を構えたのが根本城の始まりだといわれている。その後、室町後期になると小金城の支城となったようで、天正年間に高城播磨守という者が根本村の鎮守を再興していることから、彼が城主だったのではないかといわれている。













14.本郷城(松戸市上本郷字北台)

 本郷城は相模台城の1.5km東北、明治神社(妙見神社)の辺りにあったという。特に伝承等はないが、土塁や空堀、物見台等があり、なんらかの城館があったであろうと考えられている。「城郭体系」によると、城址の近辺に小宮という旧家があり、そこには高城氏系図が残されているという。また。高城氏の家臣には小宮山土佐守という者がいるので、これが小宮家の先祖で、本郷城と何らかの関係があったものかもしれないともいう。







 


15.大堀城(松戸市下矢切)

 現在は失われてしまっているが、かつてこの辺りに大堀切が存在していたという。これがただの堀だったのか、城郭遺構なのかははっきりしないが、この辺りには現在西蓮寺がある。この寺院は、永禄7年の第2次国府台合戦で、北条方が陣を置いたところであるらしい。したがって陣城のようなものが存在した可能性がある。国府台城の1.2kmほどの場所で、やはり比高12、3mほどの河岸段丘上である。
 写真の右手上には西蓮寺があり、ここには野菊の墓文学碑がある。また、国府台合戦に関する案内板もある。また登り口には「永禄7年古戦場跡」云々と掘られた古い電信柱を用いた大きな標柱が建っている。この西蓮寺と北側の神社との間が大堀切のように見えるのあるが、実際はどうだったのであろう。
 以前訪れたときに、ここに「小弓公方の城跡」といった碑があったように記憶していたのであるが、再訪したときにはなかった。記憶違いであったのであろうか・・・・・・・・。











16.千駄堀館(松戸市千駄堀)

 

 千駄堀館は、「21世紀の森と広場」の西側、市立図書館の500mほど西の、武蔵野線の線路脇の辺りにあったらしい。ご多分に漏れず宅地化されている。詳細は不明。






 

17. 金ヶ作陣屋(松戸市常盤平陣屋前)

 

 金ヶ作陣屋は、その名も常盤平陣屋前という地名の所にあった。しかし残っているのは地名だけで、やはり宅地化の波に負け、まったく遺構をとどめてはいない。享保7年、小宮山杢之進が開所し、かつては土塁が一部残っていたという。






18.向台館(松戸市殿平賀)

 向台館は、小金城の東500mの所にあった。北小金駅の西北200mほどの所だが、宅地化によって消滅した。






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