寮の近くの小さなコーヒー店

Pousse Cafe 9

ある時、寮のあった荻窪駅から少し入った所に、小さなビルができました。

その一階に、小さなコーヒー店が開店しました。

緑色のペンキで塗った鉄枠のガラス扉を開けて中に入ると、5〜6人で満席の白木のカウンターと2人席が2つありました。

店主は定年で会社を勤め終えた初老の静かなおじさんでした。

コーヒーが好きで、会社員時代はあちこちのコーヒー店を飲み歩いていたそうです。

注文してからミルで豆を挽き、一杯一杯、あまりに丁寧にコーヒーを淹れるので、怒って帰る忙しい人もいました。

日曜の朝はいつもここでゆっくり過ごしました。

常連も増えました。

気のせいか気持ちに余裕のある人が集まっていた様に思えます。

音楽好きの人、詩人、絵描き、近所の商店主・・・・。

同人誌に掲載された詩人の詩は、こころに楔を打つ様な戒めの詩でした。

何に影響された訳でもないのですが、ゆっくり流れる時間の印象が心の片隅に残っています。

同じビルの隣りは洋食屋さんでした。同じ様に7〜8坪の小さな店です。

いつ行ってもあまりお客がいないので他人事ですが、少し心配でした。

この店も気に入っていました。

店は小さく、メニューも大衆的なのですが、店主の服装、態度は一流料理店のシェフの頑固さでした。

お金のあまり無い時代で、頼むのはエビピラフとコンソメスープの様な物でしたが、ピラフにはプチプチの芝エビが7〜8尾そのまま入っていましたし、コンソメスープも手が掛かっているのが分かりました。

そのうちに、そのビルの2階にピンクサロンができました。

ケバケバしい電飾看板と、呼び込みのお兄さん。夕方の5時頃から近づき難くなりました。

それでもコーヒー店へは、日曜の朝には、大体時間を潰しに行っていました。

しばらくしておじさんは休みがちになり、おじさんの子とは思えない程愛想のいい2人の息子や上品な奥さんが交代でお店に出ていました。

ある時僕は、都合で数キロ離れた所へ引越してしまいました。

時々休みの日には行っていたのですが、半年程間を置いて訪ねた時、奥さんからおじさんが病気で亡くなった事を聞きました。

会社勤めを終えて、念願のお店を出してからわずか2年半位の事でした。

おじさんは自分の気持ちに素直にやりたい事をやったのです。

短い時間ではあったけれど、ほんとの時を過ごしたのです。

隣りの洋食屋のおじさんも自分の気持ちに素直にやっていました。

その辺が魅かれる所かも知れません。

おじさんになってしまった今頃思い出すのです。⇒NEXT[おだてるか、しごくか]





横溝軒に戻る