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春のうららの隅田川 上り下りの舟人が 櫂の雫も花と散る 流れを何に喩うべき 鴨長明は方状記でこう言っています。 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかた(あぶく)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」 弘法大師は、いろは47文字でこう表わしています。 「色は匂えど、散りぬるを、我が世誰ぞ、常ならむ 有為の奥山、今日越えて、浅き夢見し、酔い(ゑひ)もせず」 千利休は、「一期一会」を説いています。 流れを喩えるなら「無常」という事でしょうか。 今この時は、つぎには無いのだから、今この時を如何に生きるべきか。 山の上から川の流れを見て、流れの先を論じるよりも、流れの中で今 この時を懸命に生きよ。 「生き延びる知恵」を使わず、「生きる本質の知恵(般若)」で生きよ。 煩悩を捨てよ。 ・・・・・・・・・・・と言われているのでしょうか。 有為の奥山・・と言うのは、絶えず生滅する様々な因縁によって、我々は存在すると言うのを説くのは深山のように難しい。・・・と言うこと。 こんなに簡単に言葉で限定してはいけないのでしょう。 芝居は限られた短い時間の中で、観る側の心の糸に触れるものを表現し、喝采を浴びて来ました。 それは、笑いであったり、怒りであったり、悲しみであったり、それを観る事によって心の何かが開放されるものの追求でした。 様々な分野の戯曲が書かれて来ましたが、行きつく先は情念の世界だったのではないでしょうか。 自らを表現しようとする者は、すればする程、内の真実から離れて行く。 自らの心の奥にある真実は、誰にも語れない。 何故なら、自らでさえその本質は分からない。 大脳、小脳で整理された生きるための知恵がその本質を遮っているからです。 作家は、書く程に、描く程に、その虚偽に自己嫌悪し、飽き足らなくなるのです。 そして作家は、心の奥の本能から出てくる行動こそが、真実として伝わり、その美、その迫力に酔うと確信するのです。 古典能に"隅田川"と言う演目があります。 世阿弥の子、観世元雅が書いた狂女の話です。 さらわれた我が子を京から追って物狂い、隅田川で子の死を知る悲劇。 「物狂ひになぞらへて、舞をまひ、歌をうたひて狂言すれば、もとより雅びたる女姿に、花を散らし、色香を施す見風、これまた何よりも面白き風姿なり。」 能で優雅な美を"幽玄"と言い、それを舞台で表現することを"花"と言います。 極限の情念こそが美しい。 そして、その情念世界は、実際に心の奥で実体験したことのある人は、 その芝居に心の目が開き、心の開放につながると言います。 悲劇体験によって閉じていた心が、悲劇芝居を見て、心の開放がなされることをカタルシス(浄化)と言うのだそうです。 真実は心の奥にあって、その琴線に触れた時、その芝居は究極のものになるのです。 恋を知らねば、悲しみを知らねば、心を開いて行動せねば、その芝居の本質は解からない。 人の本質は分からない。 ・・と知った様な事を書いている僕は、人との心のふれあいを拒み続け、 本質が解からぬままに、終には朽ち果てるのが目に見えています。 解からぬままに隅田川です。 ⇒BACK[プースカフェ] |