震災 -それから- 1


 

一部開通(1995年 2月中旬?)
平日はウイークリーマンションから会社に出勤して週末は実家に戻り、
月曜だけは実家から直接会社に通う日々が続く。
時間がかかると言われた各路線の復旧も、不眠不休(だそうな)での作業のおかげで予定より早く開通している。
阪急は間もなく大阪-岡本間が復旧。しかし岡本-御影までの区間の復旧に時間がかかるそうだ。
JRは大阪方面からは住吉までが開通。同じくそこから三ノ宮までの区間の復旧に時間がかかるらしい。
大阪方面へ通勤する人は、まず阪急で御影まで乗って、そこで一旦下車。徒歩15分ほど先のJR住吉駅まで歩いて行って、そこでJRに乗り換えて行く。
 
つい先日開通したばかりの御影駅。板を打ち付けまくって、なんとかしのいでいる姿がなんとも痛々しい。降りるとバタバタと音がする。板だもんね・・・。
で、そこから住吉駅まで歩く。皆、うつむき加減で急ぎ足で歩いている。大行列になっているのに、ほとんど話している人はなく、黙々と駅に向かっているのだ。足音だけがザッザッと響く。
住吉駅近くには全壊した家々がそのままの状態になっていた。
避難先のポスターを貼っている所がほとんどだったが、ある家は壊れた家の断片が道路にまでなだれこんでいて歩道をふさいでいた状態だったので、「ご迷惑をおかけします」と、通行人に向けてのお詫び状を貼っていた。
 
そんなの、お互いさまだから謝らなくてもいいのに・・・。
自分の家がこんな大変な状態なのに、通行人に対して申し訳なく思っているこの家の人がすごく気の毒に思われた。
 
駅の階段には焦点の定まらない目をした男性が仁王立ちになって立っていた。着ている物もパジャマだったように思う・・・。
今回、こういう人を何人か見かけた。
会社の先輩は「春先だからやろー。地震のせいやないって」と、言っていたが、そうかな・・・。なんだか「おかしくなっている」というよりは、ショック状態で「呆然と」している、そんな感じだったけどね。
「近所の本屋さんのおじさん、この前道の真ん中に仁王立ちになって立っていたわー。何するでもなく立っているだけ。ショック状態なんかしら・・・」先日、母もそんなことを言っていた。
その本屋の再開のめどは立っていない。

 

告別式(1995年 2月中旬)
テレビで高校の同級生Tちゃんの死を知ってから、一ヶ月後ぐらいに告別式は行われた。
テレビを見た直後、同じ高校の仲良しだったAさんに何年ぶりかに電話して、家族からお葬式の予定があったら連絡してくれるように頼んでいた。
しかしウイークリーマンションに連絡をくれたのは、意外にもTちゃんのお父さんだった。日にちと時間を聞き、しどろもどろにお悔やみを述べ、電話を切った。
お悔やみを言う機会なんて、あんまりなかったしなあ・・・。こんな時何を言ったらいいんだろう。
 
その日、道に迷い告別式には遅れて行った。同じ区内とは言え、山手幹線より下にはほとんど行ったことがなかったし。
会館の前でAさんはイライラしながら待っていた。
「何やってたのよ!」「ごめん、道に迷っちゃって・・・」
 
会館では式がもうかなり進んでいて、誰か親戚かと思われる男性が挨拶していた。「小柄なN子さん(Tちゃんのこと)、今も皆さんの座っている側にちょこんと腰掛けて、私たちの事を見ていると思います。」
焼香を済ませ、ご家族に挨拶をする。
もう一ヶ月経ったからだろうか。家族は案外淡々としていた。
ショックでかえって感情など出ないものなのかもしれない。
 
Tちゃんてお姉さんが3人もいたんだ・・・。
高校で仲良かったとは言え、卒業後は交流がほとんどなく、家族構成や、その後の進路のことなど、初めて知る事ばかりだった。
 
短大卒業後は家のそばの小さな会社に勤めていたこと。
あの日、自宅は全壊。嫁いでいたお姉さん達は無事で、二階にいたお父さんも無事。一階にいたお母さんは怪我をして現在は入院中であることなど・・・。
「お母さんは家の下敷きになっていたけれど意識はあったのね。で、同じ部屋に寝ていたN子の事が気になって一生懸命『Nちゃん、Nちゃん!』て、呼んでいたらしいんです。その時間、トイレに起きることが多いから、トイレで倒れているかとも思ったんだけど・・・。」
会社の方からも心配して、しょっちゅう連絡が入るが見つからない。手がかりもない。
二日経っても進展はない。
三日目の夕方、崩れた家の下に手のようなものが見えたと言う。
しかし外は既にかなり暗くなっており、それ以上は捜せなかったそうだ。
だけど、会社には連絡した。
「よし、わかりました!」
翌朝、会社の男性陣が何人か駆けつけた。
「男手が何人かあると、やっぱり違いましたね。そこからはあっという間でした。」
「あっという間に」遺体は運び出された。
 
頭のそばに大型テレビが置いてあったそうで、そのテレビで頭を強打しての死だったようだ。
死亡時間も地震発生時間からわずか数分後のことだったそうで、ほぼ即死。ほとんど苦しまなかったことが、せめてもの救いかもしれない。
一ヶ月経っていたけれど、話を聞きながら涙が出てきた。
ただ死んだ、という情報よりこうして生々しい状況を聞く方が、改めて「友人の死」というものを身近に感じる。
誰が地震なんかで死ぬなんて思っただろう。
そんなもの見越して、テレビを置く位置なんて考えるはずもない。
そこにテレビがなければ。一階で寝たりしなければ。いつもみたいにトイレに起きていれば。
 
重苦しい空気の中、Aさんと帰途につきながら、これを機会にまたこれからもちょくちょく連絡を取り合おうね、と言った。
が、その後、数回会っただけでまた音信が途絶えた。

 

半壊(1995年 2月下旬?)
その後数回会ったAさんに、自宅を見せてもらったことがある。
「家は半壊扱いになったの。見に来る?」
彼女の家に行くのもこれが初めてだった。
小さな家はどうにか建っていたが、中に入るとめちゃくちゃだった。家の中は暗く、壁や畳はゆがみ、崩れかけ、これでも「半壊」扱いなのかと首をかしげたくなるような惨状である。
もう人が住めるような環境じゃないんだからさー、「全壊」じゃないの??
家には土足のまま上がり、崩れた床に足をとられないように気を付けながら恐る恐る進んだ。探検隊にでもなったような気分だ。
私の家、ホントに運が良かったんだな・・・。
今さらながら後ろめたい気分になった日だった。

 

「週刊金曜日」(1995年 2月下旬?)
父が買ってきた「週刊金曜日」の投書にこんなのがあった。
「地震が起こった時、山の手の方は比較的被害が少なかったと聞いたが、その時、被害の大きい地域の人達に対して救いの手をさしのべたのか」
その他にも行政の対応がどうのこうのと、立派な意見を書いていたように思う。
そう、ご立派な意見をね。
投稿者は東京在住のじーさま。
そんなこと言ってるあんたこそ、東京から駆けつけたんかい?
安全な場所からぬくぬくともっともらしい事を書き付けている様子が目に浮かぶようだ。
ライフラインは万全。おそらくこたつなどに暖かく入りながら書いてきたのだろう。
 
被害が小さくても、周囲のあちこちに火の手はあがるわ、何か爆発音のような音はするわ、どこを歩いても今にも崩れそうな塀や壁はあるわ・・・。
この辺が火事になるかもしれない可能性はまだまだあるし、はっきり言って自分の事で精一杯だったんですわ、などと100万回言ったところでこういう「上っ面の正義」を振りかざす人にはわからないんだろうな、と思う。
すぐさま救助に向かった人はもちろん立派。
「自分の家族より世間様が先!」と、よそに駆けつけて結局家族を死なせてしまった消防員の話なども実際にあったようだが、それもどうかと・・・。自分の安全を確立してから、他人様の手助けをする(私は結局しなかったけど)というのが、そんなに悪い事ではないと思うんだけど。
少なくとも、この消防員が「週刊金曜日」のじーさまよりは全然立派だってことはわかってるけどね。

 

現実逃避(1995年 3月中旬&5月G.W.)
あれは3月の連休だったから、春分の日あたりか、私は沖縄は波照間島に行った。
旅行好き、こんな時期なのに、そそくさと旅行に行く。
5月には北海道にも行った。
札幌のユースホステルの受付に言われた。
「そうか、神戸はもう復旧したんですね。」だって旅行に来れるぐらいだもん。
うー、旅行には行けるけど復旧は全然よ。
経験者しかわからないと思うけど、これ、現実逃避なんです。
慣れないウイークリーマンションからの通勤。やっぱり大阪は苦手。西九条は治安もあんまり良くない。帰り道、いっつもアーケードの工事をやってて街自身に「落ち着きのなさ」を感じる。大阪は平坦で、山も海も見えない。
週末に神戸に戻っても、ライフラインが完全に復旧していない我が家。なんとなく雰囲気もジメーッとしている。
テレビを点ければ地震の話題ばっか。行政は何をしてるんだとか、今度のは人災だとか、ボランティアの問題意識とか。
あー、もう!
で、逃げ出したんですわ。
旅行して、一旦体勢を立て直そして出直してこようかと。
 
同じ事考えてる人はけっこういるようで、沖縄で泊まった民宿は、神戸の人間が他にも何人か来ていて、他地域の人に驚かれた。
 
沖縄滞在中に、地下鉄サリン事件発生。世間の興味は一斉にそっちに移っていった。

 

ホントに大丈夫?
六甲道駅前の「億ション」、週刊誌に、「数年前にできたばっかりなのに全壊扱いになり、住民は途方にくれている」と、書かれていた。
外側には大きなヒビが無数に入ってる。
確かにありゃダメだなと、思っていたらある日きれいにヒビは塗り込められ、2002年の現在もそのまま使われている。
他にも、大きく傾いたボロボロの木造アパート、どうやって元に戻したのか傾きを直し、そのまま何事もなかったかのように使っている。
阪急六甲の駅の柱だって、ごついヒビがいってたから、これも取り壊しかーと思っていたのに、やっぱりある日きれいに塗り込んでヒビを隠してしまっていた。
 
おいおい。
本当に大丈夫なの?
なんて言ってる我が家の離れもちゃちい造りで、祖母が生前「私が死んだらすぐに建てかえるように」と、言っていたにも関わらず、未だにあのままになっている。今回の地震でも奇跡的にもったしなあ。
いずれにせよ、地震被害の大きかった地域で物件を買う時には聞き込み調査が必要ってことやね。

 

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