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吉岡憲法と新免無二斎の御前試合

吉岡憲法は将軍家お抱えの剣術指南役。新免無二斎は美作の国の郷士。義昭は無二斎の盛名を聞き、御所に呼び寄せて憲法と立ち会わせた。結果は三本のうち二本とった無二斎の勝ち。義昭はこれを賞して無二斎に「日下無双兵法術者」という称号を与えたという。しかし、この記録は無二斎の子宮本武蔵に関する碑文(小倉碑文)や記録(平田家系図・二天記)には見えるが、少なくともrig.lamは義昭関連の本ではお目にかかったことがない。そこで当然「本当にそんなことがあったのか?」という疑問が湧いてくる。

著名な方々のご意見から

中西 清三:『宮本武蔵の生涯』
この試合の記事の書かれている小倉碑文は書かれたのが武蔵の死後9年というわずかな月日しか経っていない時なので、ありもしないことが書かれて許されるはずはない、と肯定派です。

司馬 遼太郎:『真説 宮本武蔵』
義輝のように剣術が出来なかった義昭が、有能な兵法家を護衛としようと考えて、当時京にきていた無二斎を呼び寄せ、話を聞いたあげく憲法と立ち会わせたとしている。それだけの盛名を持ちながら,なぜまた美作の田舎にこもってしまったのか、と疑問を投げかけてはいるが、少々性格に難があったため、人に嫌われて田舎住まいを余儀なくされたのかも知れない、と肯定も否定もしていません。

岡田 一男:『宮本武蔵のすべて』「武蔵の家系と系図」
信頼できる話ではない、と否定派です。

吉川 英治:『随筆 宮本武蔵』
義輝の時ならあり得る話ではあるが、義昭にそんな暇はなかった。いくら高名であったとしても、わざわざ美作の田舎から剣術を見るためだけに呼び出すはずがないし、吉岡のほうで勝負を受けたとも思えない。この当時は竹刀など無く、木刀の勝負だから、3本勝負は「死ぬまでやれ」というに等しい。と全面的に否定されてます。


rig.lamの意見

いきなりマイナーな話題です。(武蔵ファンにはお馴染みの故事ですが)
やはり吉川先生の「死ぬまでやれ」が強烈ですねえ。義昭様がそこまで言うか?(言うかも・・・)
というより、やはり、義昭様のほうの記録には見えないというのが一番怪しいと思います。当時の剣術家はまあハッタリかましてなんぼでしたから、これは無二斎のでまかせであった可能性は否定できない。吉川先生のいわれるほど義昭様も忙しくはなかったとは思いますけど、御前試合となれば、他にも義昭様の側近とか公卿衆とかも同伴したと思いますから、実際あったらだれか記録に残しているのではないでしょうか。個人的にはこの逸話好きなんですけど。

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