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安芸・備後に残る義昭墓
安芸・備後に残る義昭墓今回はこのサイトをご覧になって寄稿くださったIKKACYU様の安芸・備後にある義昭墓についての検証記事を掲載させていただきました。 本文はIKKACYUさまよりいただいた原稿に一部りくらむが編集を加えております。 掲載の写真はすべてIKKACYUさまよりいただいたものです |
(1)智教寺の天下墓 県道6号吉田瑞穂線沿いの安芸高田市美土里町智教寺には、足利義昭のものと伝えられる「天下墓」という灰塚があります。灰塚は荼毘に付した場所に土を盛ったもので、現在、灰塚の上に祠が立っています。近代まで五輪塔が三基あったらしいのですが盗まれたそうです。 この天下墓は、毛利側と豊臣側との和睦まで足利義昭を立てて上洛することを主張していた吉川元春が、毛利・豊臣和睦の後隠居した地であり、大朝の日山城麓豊平町海応寺にある吉川氏城館跡や吉川元春墓、千代田町側にある万徳院跡にも比較的近い場所です。 観光協会による天下墓の説明によると、 「毛利氏を頼り備後鞆の津に来たり数年滞在の後、毛利氏とも不和を生じ出雲の尼子氏を頼って山陰に向かう途中この地に病み山陰行きを断念、智教寺を建立して住すること数年、ここにて逝去、この地の住民火葬地に墓を建て、天下墓と称す。」 とあります。ちょうどその頃、安芸国吉田で毛利氏や吉川・小早川氏などが会し、軍議して豊臣と和睦を決め、吉川元春は隠居したことは事実のようです。
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(2)可行乎山(イコーカ山)の宝篋印塔 備後には足利義昭の墓と伝えられるものは2基あり、その一つが福山市の備後赤坂駅東傍の可行乎山(イコーカ山)古墳南西傍にある宝篋印塔です。昔はこの古墳の南西丘陵にまだ池下山古墳群と呼ばれる4基古墳があったと言われています。この池下山古墳群ががあったとされる場所は現在の備後赤坂駅東側付近と思われ、ちょうど宝篋印塔が向いている方角になります。 現在、この池下山古墳群と池下山石棺群が混同されることが多いようですが、『福山市史』によれば石棺の出土地はイコーカ山古墳の南から南東にある丘陵であり、「赤坂・津野郷古墳分布図では古墳群と石棺群を区別しており、イコーカ山古墳の南西に続く丘陵の古墳についての記述はありません。 『福山市史』の編纂は古墳群が鉄道開発によって削られた時期からずいぶんと経過しているとはいえ、池下山古墳群についての記述がないのは、掘削された際に、この丘陵からは何も出土しなかったからとも考えられます。
現地に立つ足利義昭の墓とされる宝篋印塔の説明板には、 「十八世紀半ば、毛利藩の有馬喜惣太の「中国行程記」では、池奉行の墓と記されている」 とありますが、これは足利義昭が堺で没した史実を知っているために書かれた記述の可能性もあり、もしかしたら本当に足利氏ゆかりの人物の灰塚なのかもしれません。
写真 (上左)イコーカ山の宝篋印塔 (上右)『福山市史』に掲載されているイコーカ山の写真 (左)宝篋印塔の説明 |
(3)常国寺の義昭墓
もう一つの備後の足利義昭のものと伝えられる墓は、同じく福山市上山田の廣昌山常国寺という寺にあります。常国寺は、毛利と豊臣の和睦後に足利義昭が一乗山城城主の渡辺元を頼った際に住まわされたとされる渡辺氏の菩提寺で、桐が彫られた将軍門があり、寺のいたるところに足利氏の紋である丸に二つ引き両紋が装飾されています。常国寺の義昭墓は、寺の裏手の山中にあり、素人目には墓が2基並んでいるように見えます。『備後史夜話』によると五輪塔が義昭墓(供養塔)とされていますが、『福山市熊野町誌』によれば、 「戦前は高さ30cm、1m角の土台の上に宝篋印塔が建っていたが、戦時中に子供らが足利は国賊だといって塔を谷に落としたらしく、現在は相輪のみが只一本48cm角の石の上に立っているだけ」 とあるその通りの状態です。 宝篋印塔があった横に建っていた五輪塔であるということは、足利氏になんらかの関係があった別の人物を弔うために立てたものであるのかも知れません。 写真 常国寺の足利義昭墓 |
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