人名辞典などの記述が主になります。
なかなか彼の人生は謎が多い(というか、誰も重要視してない)せいか、いろんな生き方をしたことになっているようで(^_^;
戦国時代の武将。父は晴具(はるとも)。室町将軍足利義藤(義輝)から一字を与えられて、藤長と名乗った。天文二十一年(1552)四月、従五位下式部少輔(『歴名土代』)。幕府御供衆(『永録六年諸役人附』)。
永録八年(1565年)五月十九日、松永久秀らが、阿波国の足利義維の遺子義親(義栄)と通謀して将軍義輝を暗殺すると、義輝の弟の奈良興福寺一乗院門跡覚慶(足利義秋、のち義昭)も幽閉された。これに対し義輝の近臣細川藤孝と一色藤長は、各方面に画策して謀略をつかい、七月二十八日の夜に覚慶を脱出させた。
藤長らは、近江甲賀郡和田の豪族で幕府御供衆の和田伊賀守惟政の館に落ち着いた。八月五日、覚慶は上杉輝虎にあてて幕府の再興を表明するが、藤長・藤孝・惟政らは八月六日付で連署して、輝虎の重臣河田禅忠らに依頼している。十月十一日付で、京都の清水寺成就院に与えた覚慶の禁制は、藤長・藤孝・飯川信堅の連名であるが、それは幕府奉行人としての形式である。
同九年八月義秋(二月に還俗)に従い、藤孝らとともに若狭国を経て越前敦賀に移り、やがて一乗谷の朝倉義景の館に随行した。同十一年六月、紀伊粉河寺に対し、藤孝と連署で義昭に忠功をはげむように命じている。同十二年三月、将軍義昭が吉川元春に与えた御内書には、藤長と上野信恵が奉書をそえている。
元亀元年(1570)四月十日、武田信玄は義昭と藤長とに料所を進呈すると申し入れた。
そして天正元年(1573)十月、、前将軍義昭の依頼により、これを京都に復帰させようとした毛利氏は、藤長に連絡し、その条件につき義昭からの同意を求めている。この和平交渉は失敗し、義昭は紀伊興国寺に滞在する。のち義昭は藤長に対し、当地まで供をしたことにつき褒状を与えている。
同二年義昭は石山本願寺と呼応して進撃したいのに実現しないと藤長を責めている。同五年、藤長は備後鞆から義昭の命で近畿地方に派遣された。慶長元年(1596)四月七日没。
金地院崇伝はその甥。 (奥野 高広)
一色氏
・・・また持範の子孫藤長は、十五代将軍の側近として活躍したが、のち織田信長・豊臣秀吉に仕え、子孫は徳川氏に仕官したが、十七世紀半ばごろ断絶した。
丹後宮津城主、持範の曾孫式部少輔晴具の子、天文二十一年從五位下に叙し式部少輔に任ず将軍義輝に仕へて供衆に列し足利義昭・織田信長・豊臣秀吉に歴事して宮津城に居る、石田三成藤長を迎へて交を厚うす藤長は細川忠興の親姻なり故を以って三成藤長をして忠興を誘わしむ藤長駑才三成の奸計を察せず使を遣はし藤孝父子を招いて曰く我卿と倶に故太閤の恩顧厚誼に浴す志を翻して幼君を翼戴すべしと藤孝父子亦藤長をして徳川に属せめんと欲し之を召す忠興其父に謂いて曰く藤長若し從はずんば之を戮し以って三成の羽翼を殺ぐべしと藤長使命を聞き悦んで田邊に赴く忠興曰く幼君の為めに事を計らんと欲せば先ず三成を滅すべし三成實に幼君を以って囮と為し己と合はざる者は侯伯の功ありと雖も皆之を亡し天下を奪はんと欲するの姦謀なり往年関白を滅し或は秀秋を讒し今また内府を伐たんと欲す暴惡勝て算るに遑あらずと藤長怒りて曰く内府却て嗣君を謀り四海を奪はんとするの兆鏡に掛けて見るが如し因て三成と倶に太閤の舊恩に酬いんと欲し命を塵芥より輕んず足下父子の如き不忠を懐く者にあらずと忠興大に憤りて曰く子大言を吐かず宜く東師と力を竭して戦ふべきなり藤長大に忿り将に忠興を斬らんとす忠興乃ち刀を把りて藤長を斬る藤長の從者百四五十人闖入す細川氏の家士長岡忠長、有吉武蔵等出て悉く之を戮す、子範勝あり
・・・以後丹後をめぐり若狭武田氏としばしば争い、戦国時代には藤長が丹後田辺城(舞鶴市)に拠って将軍足利義昭・織田信長・豊臣秀吉に仕えるが、藤長没後、子範勝は1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属し、細川忠興に攻められ失領。
一色氏は、其の先公深、足利宮内少輔泰氏の七男にして、子孫代々足利将軍家に忠勤し、世々の将軍家より、偏諱を賜はりし者少からず。
・・・晴具は将軍義晴、藤長は将軍義輝の初名義藤の偏諱を賜はりしに見て、その信任の程を察すべし。将軍義晴・義輝父子の忠良彦部雅楽頭晴直の姉が、一色式部少輔藤長の室たり、藤長の女が、将軍義昭の妹寶鏡寺理源の生母たるが如き事實ありて、其の關係淺からざりしなり。
されば、一色藤長は、将軍義昭が、未だ南都一乗院門跡覺慶といひし頃より、之を保護し、三好・松永等の魔手、義昭に加はらむとするや、藤長、細川兵部大夫藤孝・武田大膳大夫義統等數十人と共に、義昭を奉じて、江州矢島に隠れ、将軍家復興の機會を窺へり。其の後義昭、織田信長の擁護する所となりて上洛し、やがて将軍となるに及び、藤長常に其の左右に近侍し、元龜四年(天正元年・紀元二二三三年)七月、将軍義昭、信長を圖りて成らず、反つて失脚し、祖先の祇を絶つに至りしかば、藤長乃ち其の遺孤義喬を奉じて、又しても近江に逃れ、坂本に隠匿せり。
そこから考えると、一色藤長はいつでも足利義昭を見捨てて他家に身を寄せても、細川幽斎同様、厚く遇されていたと考えてよかろう。にもかかわらず、一色藤長が義昭を見捨てなかった最大の理由はやはり『これで一発あててやる』である。