Isshiki Hujinaga

一色藤長年表

さまざまな史料から集めた藤長に関する年表です。
新しい情報が入り次第更新していく予定です。マイナー人物の割には、義昭に従ってなにかと書状に連著していたりするので、義昭と行動を共にしていた間は充実していますが・・・・。

疑問がある事柄には、【?】マークを付しています。
藤長の動向 主な出来事
1537
天文6
式部少輔に任ぜられる。【?】*1
3/7 毛利元就、尼子氏の生田城を落す。
7/15 武州河越城北条の手に落ちる。
8/10 六角定頼近江守護となる
12/1 毛利元就、大内義隆と和す。
1543
天文12
10/26 鹿苑寺にて猿楽を見る。【?】*2
8/25 ポルトガル船、種子島に漂着、鉄砲伝来。
1544
天文13
足利義輝より、領地を賜う【?】*1
10/23 京極高延、大原高慶と争い戦死
1552
天文21
4/13 従五位下式部少輔に任じられる*3
1/10 上杉憲政、北条氏康に追われ、長尾景虎を頼る。
1/28 足利義藤、三好長慶と和す。細川勝元逃亡。
7/23 毛利元就、備後流山・旗返等諸城を降す。
1564
永禄7
9/11 足利義輝に随行し、摂津有馬湯山へ。
1/8 里見義弘、北条氏康と国府台で戦う。
1/29 上杉輝虎、常陸小田城を攻める。
2/6 竹中重治、稲葉山城を奪う。
2/17 上杉輝虎、下野佐野城を攻める。
5/13 義輝、上杉輝虎と北条氏康を講和せしめる。
7/23 北条氏康、岩槻城を奪う。
7/29 武田晴信、飛騨に出兵し、上杉諸城を攻める。
1565
永禄8
7/28 細川藤孝と謀り、興福寺より一乗院覚慶を脱出せしめる。
8/6 覚慶より上杉景虎あて書状に、藤孝・和田惟政と共に連著。
10/11 京都清水寺へ、藤孝・飯川信堅と共に連名で禁制を与える。
3/2 北条氏政、関宿城を攻める。
4/17 毛利元就、富田城の尼子義久を攻める。
5/19 三好義継・松永久秀等、義輝を弑す。
1566
永禄9
8/29 義秋に従い、若狭へ移る。後、越前一乗谷に随行。
2月 一乗院覚慶還俗し、足利義秋と改名する。
2/4 松永久秀、筒井順慶と戦う。
2/16 上杉輝虎、常陸小田城を落す
2/17 三好義継、畠山高政を破る。
4/20 島津義久、伊東義祐を破る
9/29 織田信長、墨俣に築塁、木下秀吉に守備さす。
9/29 武田晴信、上野箕輪城を落す。
1567
永禄10
12月 一乗谷にて、朝倉義景の催した宴に出席
10/3 佐竹義重、結城義就を攻める
10/8 織田信長、美濃国稲葉山城を岐阜とあらため本拠をここに移す。
1568
永禄11
3/8 南陽寺における宴に出席。
6月 紀伊粉河寺に、藤孝と連著で、義昭に忠功を励むよう命ずる。
10月 細川藤賢邸の観能に出席。
2/8 足利義栄、征夷大将軍に任ぜられる。
4/15 足利義秋、義昭と改名する。
4月 織田信長、お市の方を浅井長政に嫁さしむ。
7/25 織田信長、足利義昭を立政寺に迎える。
9/13 六角承禎、観音寺城を棄てて伊賀へ走る。
9/21 足利義昭入京。
10/18 足利義昭、征夷大将軍に任ぜられる。
10/24 織田信長、岐阜へ帰る。
10月 木下秀吉、京都守護代となる。
11/7 上杉輝虎、越後本庄城を攻める。
12月13 今川氏真、徳川・武田に攻められ、掛川城に逃れる。
1569
永禄12
3月 吉川元春あて御内書に、上野信恵とともに奉書を添える。
4/14 二条第新造祝の観能に出席。
5/28 山科言継・細川藤賢・織田信広と酒宴
1/5 三好政康ら、義昭のいる本圀寺を囲む
1/10 織田信長入京。
2/2 信長、二条第を造営。
3/8 家康、徳川を称し、今川氏真と和す。
4/8 信長、フロイスの在京を許可する。
4/14 義昭、二条第に移る。
4/16 信長、内裏を修理する。
5/17 今川氏真、家康に掛川城を明け渡し、伊豆に移る。
9/10 武田晴信、八王子城を攻める。
10/16 信長、義昭と不和になり、岐阜に帰る。
10月 佐竹義重小田氏治を攻め、小田城を陥す。
10/27 上杉輝虎越中に入り、椎名康胤を攻める
11/20 上杉輝虎、佐野館林城を攻める
11/28 武田晴信、駿河の北条諸城を攻める。
1570
元亀元
2/3 細川藤孝とともに、大友宗麟宛て御内書に添えて帰陣祝儀を通達。
4/10 武田晴信、義昭と藤長に料所を進呈すると申し出。
4/25 丹後国において、軍勢結集の命を下す。
4/30 坂井政尚、蜂屋頼隆へ丹後の国の軍隊結集の状況を報告。
5/4 波多野秀信へ越前金ヶ崎における織田軍敗退を通知。
10月 細川藤孝とともに、三好方の御牧城を攻める
1/1 信長、義昭に条書を承認させる。
1/4 武田晴信、駿河深沢城、花沢城を陥とす。
1/28 毛利輝元、出雲へ侵入し、多久和城を陥とす。
4/17 毛利輝元、尼子氏の居城、牛尾城を陥とす。
4/23 大友宗麟、佐賀城主竜造寺竜信を囲む
4/25 織田信長、越前手筒城を陥とす。
4/25 北条氏政の弟、上杉輝虎の養子になる。
4/26 信長、越前金ヶ崎城を陥とす。
4/30 信長、浅井・六角の挙兵を知り、帰京する。
6/4 柴田勝家、近江野洲川で、六角勢を破る。
6/28 姉川の戦い。
8/20 竜造寺隆信、大友宗麟を肥前今山で破る。
8/30 義昭、摂津中島に出陣。
9月 武田晴信、御嶽、鉢形等を攻める。上杉輝虎、北条氏支援のため、関東に出兵。
9/12 本願寺光佐、三好に通じ諸国に挙兵させる。
9/24 浅井・朝倉勢、比叡山に拠る。
12/13 信長、勅を奉じて、浅井・朝倉と和す。
1571
元亀2
7/5 織田信長、義昭が藤長に曇華院領山城国大住庄三ケ村を与えたことを非難。
3月 肥前大村純忠、ポルトガル人に長崎を開く
5/11 松永久秀、織田信長に反抗す
5/12 織田信長、伊勢長島一揆を制する
5/22 北条氏政、佐竹義重を攻める
8/20 織田信長、浅井長政の小谷城を攻める
8/28 和田惟政、荒木村重・中川清秀に攻められ戦死
9/12 比叡山焼き討ち
10/1 北条氏康死去
12/17 今川氏真、徳川家康を頼る
1573
天正元
10/28 義昭の京都復帰の条件に関して、毛利氏より藤長に連絡。
11/29 義昭より、紀伊国由良まで供奉したことに対する褒状を賜る。
2/26 浅井長政・朝倉義景、武田信玄と謀り、信長に対して近江に挙兵。
3/7 足利義昭、信長と断交。
4/4 信長、二条城を囲む。
4/7 義昭と信長、勅命を奉じ和す。
4/12 武田信玄死去。
7/1 義昭、山城国槇島城で挙兵。
7/18 信長に降服し、後に河内国若江城に移る。
8/20 朝倉義景自害。
8/27 浅井久政・長政父子自害。
11/9 義昭、若江より和泉堺に移る。後、紀伊由良興国寺に移る。
1574
天正2
石山本願寺に呼応して進撃できないことについて、義昭より責められる
4/14 本願寺・北条・武田等に信長に対する抗戦に関して急報するよう命じられる。
4/14 喜入季久・伊集院忠棟・平田昌宗らに、義昭の現状を報告。
1月越前に一向一揆蜂起。
4月 本願寺光佐、信長に反する。
7月 信長、伊勢長島の一向一揆を討つ。
1575
天正3
2/23 信長、安土城に移る。
4月 本願寺光佐、摂津国石山で、信長に抗戦する。
5月 毛利輝元、信長と断交する。
5/21 長篠の戦い
7/15 第一次木津川沖の戦い
6/9 佐竹義重、結城義親を破る。
10/21 本願寺光佐、信長に和を請う。
1576
天正4
義昭の鞆動座に遅れて参上し、不興をこうむる。
2/8 義昭、紀伊国由良より備後国鞆へ移る。
1577
天正5
義昭親征の拠点を得るため、近畿地方に派遣
4/1 毛利輝元、謙信を促し、越前近江に出兵させる。
7/8 上杉謙信越中へ出兵
8/8 織田信長、謙信にそなえ、柴田勝家を加賀へ送る。
8/15 上杉謙信七尾城を落す。
8/17 松永久秀、信貴山城で挙兵。
10/10 松永久秀自害。
10/23 織田信長、秀吉に播磨を攻略させる。
11/20 織田信長、右大臣に任命される。
11/27 秀吉、播磨上月城を落す。
1581
天正9
このころ、息子範勝誕生
3月 田邊城を棄て、浪人となる。【?】*4
田邊城を棄て、信長に仕える【?】*5
3/22 家康、武田勝頼の遠江高天神城を落す
9/10 柴田勝家、伊達輝宗と結び、景勝に備える。
11/1 吉川元春、馬山で秀吉と対峙。
12/24 武田勝頼、韮崎に築城。
1582
天正10
3/11 武田勝頼自殺
5/7 秀吉備中高松城を水攻め
6/2 明智光秀、本能寺を攻め、信長自害
6/13 秀吉、山崎の戦いで光秀を破る
6/19 北条氏直、滝川一益を上野神流川原で破る
6/27 清洲会議にて、織田信秀を信長の嗣子と定める
7月 上杉景勝、信濃川中島を平定
8/28 長曽我部元親、十河存保を中富川で破る
9/8 細川忠興、一色義定を丹後宮津城にて誘殺する。
1583
天正11
8/15 丹後川辺宮の能会に出演*6
4/21 秀吉、柴田勝家を賎ヶ岳で破る
4/23 秀吉、勝家を越前北庄で攻め、勝家自害する
5/2 織田信雄、岐阜の織田信孝を攻め、信孝自殺。
1584
天正12
8月 丹後円隆寺の能会に出演
3/24 島津義久、肥前で竜造寺隆信を破る
4/9 徳川家康、長久手で三好秀次を破る
11/11 織田信雄、秀吉と講和する
1585
天正13
3月 有吉四郎右衛門邸の能会に出演
2/24 前田利家、蓮沼で佐々成政と戦う
4月 北条氏直、佐竹義重と対陣
6/16 秀吉、長曽我部元親を討つ
7/11 秀吉、関白に任ぜられる
8/20 佐々成政、秀吉に降伏す
8/2 真田昌幸、上田城で徳川勢を破る
1586
天正14
2/12 円隆寺の能会に出演
2/14 米田助右衛門邸の能会に出演*7
11/3 宮津城の能会に出演
12/22 小笠原少左衛門邸の細川家能会に出演
1/21 家康、秀吉と講和する
7/16 伊達政宗、陸奥二本松城を落とす
10/18 島津義久、大内氏を討つ
12/19 秀吉、太政大臣に任ぜられ、豊臣姓を賜う
1587
天正15
1/22 宮津城の能会に出演
11/17 米田助右衛門興行の能会に出演
1/1 秀吉、九州征伐の軍を編成
5/5 島津義久、秀吉に降服
7/28 上杉景勝、新発田重家を滅ぼす
1588
天正16
5/27 有吉四郎右衛門邸の能会に出演
6/11 一如院の能会に出演
11/1 宮津城の能会に出演
11/2 宮津城の能会に出演
11/8 田辺城の能会に出演
1/13 足利義昭出家し、秀吉と共に参内
4/14 後陽成天皇、聚楽第御幸
1589
天正17
11/13 中嶋左近邸の能会に出演
11/14 松井佐渡邸の能会に出演
11月 秀吉、北条攻めの軍令を下す
1593
文禄2
12/4 宮津城(?)の能会に出演
1/7 小西行長、平壌を退く
1/26 小早川隆景ら、碧蹄駅で明軍を破る
5/15 小西行長・石田三成、明使と共に名護屋に帰る
8/29 加藤清正ら、晉州城を攻める
1595
文禄4
3/18 瑞光寺の能会に出演
6月 瑞光寺の能会に出演
7/15 豊臣秀次、秀吉の命により自害
1596
慶長元
4/9 藤長没
1/5 秀吉、征明軍を編成する。
1/26 秀吉、京を発し、肥前名護屋へ向う。
4/12 小西行長、釜山に入港。
6/14 黒田長政、平壌を攻略。
1600
慶長5
石田三成をかばったため細川忠興に斬殺される。【?】*5
7/2 石田三成、大谷吉継と家康追討を議する。
7/13 西軍、丹後田辺城の細川幽斎を攻める。
7/19 西軍、伏見城の鳥居元忠を攻める。
7/19 徳川秀忠江戸を出立
7/21 徳川家康、江戸を出立
7/29 石田三成、伏見に到着。
8/10 西軍、美濃国大垣に至る。
8/14 東軍、福島正則の尾張清洲に至る。
8/26 東軍、大垣城を囲む。
9/15 関ヶ原の戦い。
9/21 石田三成捕らえられる。
9/27 家康・秀忠、大阪城に入る。
10/1 石田三成・小西行長処刑
*1
共に『寛永諸家系図傳』『寛政重修諸家譜』に見られる。義輝が将軍になったのは、天文15年であるから、天文13年に義輝から領地を拝領するという記述は誤りではないか。また、藤長は義輝(義藤)の諱を頂戴しているが、義輝の将軍就任以前に式部少輔になっていたら、義晴の諱を頂戴しているはずではないか。

*2
『鹿苑日録』にみられる。一色式部少輔とのみあるので、藤長の式部少輔受任が1552年だったら、藤長の父、晴員であると思われる。

*3
『系圖纂要』『歴名土代』にみられる。

*4
『系圖纂要』にみられる。
藤長が、丹後にいたとしたら、丹後一色氏の元で義昭の為に働いていた可能性もある。
信長の金ヶ崎攻略の時も、丹後で軍勢結集の命を下していることから、丹後に何等かのコネクションはあったことは確かである。
この後藤孝の元に走り、細川家に身を寄せることとなったのかも知れない。
ただ、丹後田邊城は、長岡藤孝によって天正9(1581)年に築城が開始されたものであるから、田邊城というのは疑問である。

*5
飯田忠彦著『大日本野史』にみられる。
藤長が信長に仕え宮津城主となり、石田三成に味方したため忠興に誘殺されたとする。

*6
『能楽研究』第八号収録の永青文庫蔵『古来番附(丹後細川能番組)』より。
これは細川忠興が丹後で催した能会の記録。
以下能会の記述はすべてこれを参照。
藤長は剃髪し一遊齋と号していた。この後死去するまで細川家に依っていたらしい。
それにしても・・・おどってばっかやんけぇぇぇぇ(ノT□T)ノ ~┻━┻

*7
米田助右衛門は、米田求政の嫡子・米田是政のこと。

【一遊齋さまFC】 【一色家系図】 【藤長の家系】 【藤長の先祖】 【藤長の生涯】
【藤長の子孫】 【一色義喬】 【ノッてる藤長】 【藤長年表】 【藤長資料集】