1:学童集団疎開の記録写真

記念写真 これらの写真は私たち東京都豊島区巣鴨の仰高北国民学校( 小学校のこと )5年生の男子が、長野県の山奥にある寺へ学童集団疎開をしてから二ヶ月後の昭和 19年 ( 1944年 )10月に、報道関係の仕事をしていた或る児童の父親が面会に来た際に撮影したものです。

右の写真は疎開児童を二組に分けて、先生一家、寮母、寺の人達と一緒に撮ったものです。

写真をクリックすると拡大します。拡大写真にある青い印は私です。

(1)寺での生活
75名の児童が寝起きしたのは寺の本堂とそれに続く3部屋でしたが、夜に布団を敷くと歩く隙間もない状態なので、足もとの布団を踏みながら歩きました。

児童のなかには寝小便をする子供も数名いましたが、親御さんも心配だったのでしょう、先生に事情を話して 「 おねしょ布団 」 を持たせて疎開していました。

その当時はまだ食料事情も悪化せずに、それなりの食事が支給されていましたが、昼間は元気に野山を駆け回っていた子供も、 夜になると親兄弟のことを思いだしては シクシク泣く者もいました

そのうちにホームシックに耐えられなくなった児童2人が、無一文で夜中に寺を脱け出して真っ暗な田舎の夜道を13キロ歩き、最寄りの J R の駅から無賃乗車をして 7時間も汽車に乗り、東京の自宅にたどり着いた事件がありました

私にはとうてい出来ない冒険だと当時は思いましたが、今考えると小学 5年生の彼等にとって、母恋しいの 一念はそれほど強かったのかと感心しました。

疎開当時の村の生活には、まだゆとりがあったために、村の婦人会の人達がよく慰問に訪れました。畑でとれた農作物や、家でとれた柿や リンゴを沢山持ってきてくれました。

おかげで食後のデザートに果物を食べることができて皆が喜びました。

しかし昭和20年になると、食料事情が一段と悪化して品不足から配給制の野菜の入手も困難になりました。そこで先生が村や地区の責任者にお願いして配給 ルートとは別に、農家から直接、野菜を分けてもらうようになりました。

野菜の不足の次がお米の不足となり、それが我々を襲った飢餓生活のはじまりでした



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