足尾銅山、鉱毒事件
[1:四大公害(病)]![]() 日本には四大公害(病)と呼ばれるものがありますが、熊本県の水俣湾で発生した、新日本窒素肥料水俣工場の排水に含まれたメチル水銀による「水俣病」、新潟県の阿賀野川流域で発生した、昭和電工鹿瀬工場からの排水によるメチル水銀が原因の「新潟水俣病」、富山県神通川流域で発生した三井金属神岡鉱山からの廃水に含まれていたカドミウムが原因の「イタイイタイ病」、三重県四日市市で発生した硫黄酸化物による大気汚染が原因の「四日市ぜん息」のことです。 昭和31年(1956年)5月1日に新日本窒素肥料水俣工場の附属病院長、細川一(はじめ)が、「原因不明の中枢神経疾患の発生」を水俣保健所に報告しましたが、これが水俣病についての公式発見の日となり、今年(平成18年、2006年)が丁度五十年目の年に当ったので、各地で水俣病のシンポジウムなどの行事が催されました。写真の少女は水銀により汚染された魚を、日常生活で食べた母親から生まれた、胎児性水俣病患者
注:) これに関するマスコミ報道の中で、水俣病は「公害の原点」などと書いたり述べたりしていましたが、それは大きな誤りであり、公害の原点は今から百年以上前に起きた、足尾銅山の鉱毒事件でした。それに関しては栃木県出身の父親から子供の頃に何度も話を聞かされていたので、渡良瀬(わたらせ)川流域に住む栃木県と群馬県の農民達や「川漁師」たちが、足尾の鉱毒排水により如何に被害を蒙ったか、また時の政府が農民、漁民の訴えをどれほど無視し、対策を怠り続けたかを私は知っていました。郷土の偉人である代議士の田中正造(しょうぞう、1841〜1913年)が熱心にこの鉱害問題と取り組み、国会で政府を追求し、社会に訴え続け、遂には愛する妻を離婚し身命を賭して、 明治天皇の馬車に直訴 したことも知っていました。しかし時の流れの中で今では彼のことを知る人も少なくなったので、この機会に述べることにします。
[2:足尾銅山]![]() 足尾銅山と聞いてもどこにあるのか知らない人が大部分だと思いますが、かつては栃木県上都賀(かみつが)郡足尾町(現日光市足尾町)にありました。しかし昭和48年(1973年)には四百年続いた銅山の歴史に幕をおろして閉山しましたが、そこへ行くには群馬県の高崎と栃木県の小山を結ぶ、 J R 両毛線の桐生(きりゅう)駅から第三セクターの「わたらせ渓谷鉄道」に乗ると、1時間20分で足尾町に着きます。 足尾で銅が初めて採掘されたのは1573年〜1603年の安土桃山時代から徳川初期だといわれていますが、その後慶長15年(1610年)に備前(岡山県)出身の農民が地表に露出していた銅の鉱脈を発見しました。銅鉱脈の発見に喜んだ幕府は、その年に足尾に銅山奉行所を置き直轄方式で銅の採掘を始めました。 足尾銅山からは多くの銅を産出しましたが、記録によれば寛永5年(1628年)に足尾の銅で江戸城の屋根を葺く為の 銅瓦12万枚 、及び日光東照宮用の銅瓦等を製造して幕府に納入しました。
元禄16年(1703年)には同じく足尾から産出した銅で 128万枚 の銅瓦を製造しましたが、江戸の芝(現港区、芝公園)にあり、徳川将軍家の菩提寺として六人の将軍の墓がある増上寺や、同じく上野の寛永寺などの築造や江戸城の増築の際に屋根を葺くのに使用されました。 写真は増上寺の大門(だいもん)ですが、小学校二年生(昭和16年、1941年)の時の遠足で増上寺に行った際には、貸し切りの市電(当時)に乗り、大門前で乗り降りしました。大門は当時からコンクリート製でしたので、戦災に遭っても残りました。 ところで元禄3年(1690年)に伊予国(愛媛県)の新居浜で、大規模な銅の鉱脈が地表に露出しているのが発見された為に、翌4年に別子(べっし)銅山が開発されましたが、元禄10年(1697)における日本の銅の生産高は当時の世界一で、長崎貿易の輸出の半分は銅であったといわれています。 足尾銅山からの産出は17世紀にピークを迎えましたが、18世紀になると生産量が次第に減少し幕末には掘り尽くされて衰退し、半ば廃鉱状態になりました。
明治維新後は日光県(栃木県)が銅山を管理しましたが、明治5年(1871年)に民間に払い下げられて、明治7年(1873年)からは古河(ふるかわ)財閥の創始者となった古河市兵衛が実質的に経営に当たりました。その結果明治元年(1867年)から明治9年(1875年)までの九年間に僅か 525トン に過ぎなかった銅の生産量が、明治15年(1882年)には年間で 293トン となり、更に明治19年(1886年)には年間で 3,600トン 以上も銅を産出するようになりました。古い坑道の近くには別の鉱脈があることを、市兵衛は他所の鉱山での採掘経験から知っていたからでした。
[3:鉱毒による被害の発生]![]() エジプトにおける毎年のナイル川の氾濫が肥沃な土砂を流域のデルタ地帯にもたらした様に、それまでは渡良瀬(わたらせ)川の洪水によって運ばれた土砂は肥沃であり、農作物をよく生育させました。ところが銅生産量の飛躍的増加は、必然的に多量のズリ(鉱石と共に掘り出された廃石、土砂)を生じましたが、これらを処理せずに野積みのままで放置した為に、雨が降ると鉱毒を含んだ水が流れ出して渡良瀬川を汚染し、下流地域にまで汚染が広がりました。 写真はズリの堆積。 明治18年(1885年)に渡良瀬川の鮎の大量死が発生しましたが、その当時は原因が分からずこれを同年8月12日に最初に報じた朝野新聞も、足尾銅山が 原因かもしれない という記事の書き方をしていました。同年10月31日の下野(しもつけ)新聞によれば、足尾銅山周辺の山の木が前年頃から枯れ始めていることを報じていましたが、この二つが足尾銅山の 鉱毒水と煙害 (銅を精錬する際に発生する亜硫酸ガス)を結びつける最初の報道になりました。明治21年(1888年)の洪水の際には鉱毒により更に多くの魚類の死骸が見られるようになり、農作物の収穫は減少し、甚だしいところでは作物が枯れる事態になりました。そこで地方議会や村民から、鉱害の実情調査の要望が出されました。
[4:陸奥宗光と古河(ふるかわ)財閥との官民癒着]上記の要望書に対して政府は何も対策を講じませんでした。そこで明治24年(1891年)12月24日。栃木県選出の衆議院議員 田中正造(しょうぞう) は、「足尾銅山鉱毒ノ義ニ付質問」と題する質問書を第二回帝国議会に提出し、その日開催された第二回帝国議会の本会議場の壇上で、次のような言葉で演説を始めました。「瑞穂の国(みずみずしい稲の穂の意味から、日本国の美称)の農民は、豊かな川の水から恩恵を受け幸せに暮らすが、唯一、群馬、栃木の両県を流れる渡良瀬川の流域の農民にはそれが許されていない。上流に近年出来た足尾銅山の流す毒水の為に稲はすべて枯れ、芋は育たず、魚も住まぬ川となっている。被害民の救済と、今後の防止策を求める意見書を提出しても農商務大臣は未だ何等の返答も行っていない。」 ![]() 農民達や地方議会からの訴えをこれまで国は一切無視し続けてきましたが、それには理由がありました。その当時第一次 山県内閣(1889年〜1891年)、及び第一次 松方内閣(1891年〜1892年)で農商務大臣を務めていた陸奥宗光(むつ・むねみつ、1844年〜1897年)の次男の潤吉が、公害の元凶であった足尾銅山を経営する、古河(ふるかわ)市兵衛の娘婿(跡取り養子)であったという事情からでした。公害の防止に努め農民を保護すべき立場にあった農商務大臣が、公共の利益を守らずに、我が子可愛いさから官民癒着の私利私欲に走り、自己の職責を怠っただけでなく、鉱害の原因究明をする行為さえも妨害しました。 若き日の陸奥宗光は紀州藩を脱藩して坂本竜馬などと一緒に長崎で海援隊に加わり、貿易、海運に従事しながら倒幕を計画した革命運動家でもありましたが、功なり大臣に出世をすると極端に堕落し、公私の区別すらつけなくなるという、政治屋の醜悪さを露呈しました。 農民達が鉱毒に関する地質調査を農商務省地質調査所に依頼したところ、返って来た返事は 依頼には応じられないというものでした。しかし農商務大臣や財閥の圧力に屈しない硬骨の学者もいて、農科大学(現東大農学部)の古在由直(こざい・よしなお、1864〜1934年)助教授は、土壌を詳細に調査し分析した結果、 土壌汚染の原因は、足尾銅山から排出された銅化合物と硫酸であるとする調査報告書を提出しました。鉱山採掘事業が公益に害を及ぼす時には農商務大臣が許可を取り消す権限がある事を田中正造が説き、足尾銅山の採掘を即時禁止せよと迫りましたが、陸奥宗光からの答弁は一切得られませんでした。政府の態度は以後農商務大臣が変わってからも、何年間も続きました。 [5:新聞報道]、読み難い文章の一部を、現代風に書き換えます
特に群馬県知事に対しては、警察官不足の事態を予想し、あらかじめ憲兵隊派遣について憲兵隊司令官とも打合せておくよう指示していた。ついに明治33年2月、群馬県邑楽郡渡瀬村下早川田雲竜寺に参集し大挙上京しようとする被害地住民と、警備の警官隊とが衝突するという事件が起こった。この事件で野口春蔵の外四十一名に、兇徒嘯聚(しょうしゅう)罪が適用された。
明治33(1900年)2月14日、毎日新聞
明治31(1898)年10月31日、毎日新聞
謹んで栃木県第三区衆議院議員選挙人諸君に申上候、正造儀これまで諸君の御信用を受け、衆議院議員に当選し、多年在職罷在候処(まかりありそうろうところ)、数年来専ら足尾銅山鉱毒被害の救済に関し、奔走致し来り候ため、議院において内治外交の大政に献替(けんたい、善をすすめ悪をいさめて主君を助けること)して職責を尽す能はざる(遂行できなかった)のみならず、諸君に応答(問いに答える)の義務をも欠き候程(そうろうほど)の次第にて、国家に対し誠に慙愧狃怩(ざんきじくじ、自分の言動、行いに恥じ入る)の至(いたり)に存侯(ぞんじそうろう)に就ては、一昨二十三日断然議員の職を辞退致し候、是より諸君と共に粉骨砕身、鉱毒問題の解決に従事仕候間(じゅうじつかまつりそうろうあいだ)、此段諸君に御報告仕り、併せて従来の御厚誼を奉謝候、敬具。 ![]() 国会議員を辞職した上で直訴の累(るい、好ましくない関わり)が家族に及ぶのをおそれて妻を離縁した田中正造は、明治34(1901年)12月10日に、議会の開会式を終えて帰る天皇を日比谷交差点で待ち受け、「お願いでございます」と天皇の馬車に駆け寄ろうとしましたが、護衛に捕らえられて直訴は失敗しました。しかし不思議なことに彼は何のお咎めも受けずに、翌日釈放されました。
田中正造を不敬罪で起訴すれば、足尾の鉱害問題が必ず司法の場に持ち出されるであろう。そうなると鉱害に対する政府の失態が暴露されるので、それを避ける為に、彼を一時的な狂人に仕立てて問題の隠蔽を図ろうとしたのでした。
というものでした。ちなみに幸徳秋水(1871〜1911年)とは日露戦争に反対し後に無政府主義者となり、明治天皇の暗殺を計画した大逆事件(明治43年、1910年)の首謀者として処刑されました。
[7:政府の取った鉱害対策]政府が取った対策とは鉱毒水を渡良瀬川に垂れ流し続け、亜硫酸ガスを煙突から撒き散らす足尾銅山の鉱害源を断つのではなく、治水対策だけを推進するという見当違いのものでした。栃木県下都賀(しもつが)郡にかつては 谷中(やなか)村 が存在しましたが、その村は栃木県の最南部に位置して、渡良瀬川、巴波(うずま)川、思(おもい)川に挟まれた 洪水常襲地帯でしたが、その反面洪水が肥沃な土壌を運んでくれた為に、肥料が不要な穀倉地帯でもありました。谷中村の歴史は古く室町時代(1407年)頃に、すでに開けた赤麻沼畔の豊かな村でしたが、古来から地味が肥沃で魚貝類の生息も多く自然に恵まれた穀類豊穣の平和な農村として繁栄を続けて来ました。ところが明治10年(1877年)頃から渡良瀬川上流の足尾銅山より流出する鉱毒により、農作物や魚に被害が見られるようになり、さらに明治20年(1887年)以降には足尾銅山の生産が増大すると共に、その被害は渡良瀬川流域の広範囲に及びました。谷中村も例外でなく農作物の立ち枯れや魚の大量死など甚大な被害を蒙りましたが、政府は原因は洪水にあると判断し、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削(藤岡台地を開削して、渡良瀬川を赤麻沼に流下させる)と、足尾銅山の鉱毒を沈澱処理するため遊水池設置の政策を決定しました。
その為に政府は全村民に立ち退きを命じましたが、土地収用法に基づく用地買収は明治39年(1906年)から着手され、同年7月に谷中村は藤岡町に合併させられて村は事実上の廃村となりました。私が生まれる二十七年前のことでしたが、高校の同級生の中には廃村となった旧谷中村の出身者の子孫がいました。写真は旧谷中村にあった共同墓地の跡。 その結果、利根川と渡良瀬川の合流点に広大な遊水池ができましたが、これにより利根川と渡良瀬川の急激な水位の上昇を遊水池への放流により防ぎ、東京方面に洪水を起こす危険性を減らすことになりました。現在、渡良瀬(わたらせ)遊水池(貯水池)には有毒成分は無くなり、東京都の上水道源として利用されています。
右は旧谷中(やなか)村跡地の衛星写真ですが、 1:の黒いハート形は渡良瀬(わたらせ)貯水池 2:は足尾銅山からの鉱毒をもたらす、渡良瀬(わたらせ)川、上から下に流れる。 3:は思川(おもい)川 4:は巴波(うずま)川 A:は第一調節池(洪水の際に一時的に水を蓄える遊水池) B:は第二調節池(同上) C:は第三調節池(同上) です。
[8:戦後も続く鉱害]足尾銅山精錬所からの亜硫酸ガスの排出は足尾周辺の山々の木を広範囲に枯らし、その結果洪水を招きましたが、亜硫酸ガスの排出は戦後も続けられて、ガス除去設備が完成したのは昭和31年(1956年)のことでした。緑を失った山々は2,500ヘクタールにも及び、国や県による植林が現在も続けられていますが、鉱毒を含む土砂の流出対策や緑化の為の公費支出は、総額二千億円に及びました。その後渡良瀬川流域の群馬県太田市で昭和46年(1971年)に、カドミウムに汚染された コメ が見つかり、県は翌年、古河(ふるかわ)市兵衛が創業した古河鉱業(現古河機械金属)足尾鉱業所を汚染源と断定しました。農民九百七十人が賠償を求めた結果、古河鉱業は昭和49年(1974年)に15億5千万円(一人平均約百六十万円)の支払いに同意しました。田中正造が国会で足尾銅山による鉱害を追及してから百年以上が経ちましたが、その当時古河財閥の嗣子と親子関係にあった陸奥宗光や、古河市兵衛が適切な鉱害防止策を取っていたならば、これほど多くの環境破壊(鉱害)という負の遺産を、後の世代に引き継がせることはなかったはずです。
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