奴隷(続き)
[9:ブランド]
この言葉を聞けば ルイ ・ ヴィトン、グッチ、プラダ、アルマーニ などのいわゆる ブランド( Brand )もの を連想しますが、英語の辞書を引いてみて下さい。古期英語で「 炎、火 」の意味から、家畜などに押す 焼き印 の意味もあります。 アフリカの奥地から奴隷捕獲人によって捕獲され、前述の奴隷海岸と呼ばれた奴隷積み出し地域に集められた黒人達は、船便を待つ間に積荷として奴隷貯蔵庫に押し込められましたが、その際に所有権を示す為に背中や肩、腹などに 焼き印を押されました 。写真の左側は焼き印用の コテ ( 焼きごて ) ですが、これを火で高温に熱して彼等の肌に 「 焼き印 」 を押しましたが、人間に対してこのようなひどいことを、よくも平気でできたものです。 アフリカからの奴隷貿易は 19 世紀まで続きましたが、イギリスで奴隷貿易禁止令が出たのが 1808 年、イギリスでの奴隷 制度の廃止 は1830 年代、アメリカ合衆国では 1863 年、ブラジルでは 1888 年でした。 奴隷貿易には ヨーロッパのいわゆる文明国のほとんどが手を染めていましたが、 そのほとんどがキリスト教徒であり、神に敬虔な祈りを捧げながら、その一方で非人間的行為を繰り返していました 。これを読む人の中に キリスト教の信者がもしいたら、その感想をぜひ聞きたいものです。
[ 10:奴隷船 ]![]() 奴隷達を運んだのは奴隷船でしたが、これらの奴隷船 ( Slave Ship ) はせいぜい 2 百〜3 百 トンの小型船で、奴隷は家畜同様に、身動きもできない 「 すし詰め 」 状態に積み込まれ、反乱や自殺を防ぐ為に船内でも鎖でつながれていました。食物も飲み水も不足し衛生状態も劣悪な為に、伝染病、脱水、自殺、虐殺などにより、数多くの奴隷が航海中に死亡し、あるいは海に投げ込まれて殺害されたといわれています。以下はある イギリス人が 1829 年に奴隷船上で見た状況の報告です。
この貨物船は、 505 人 の男女の奴隷を乗せていた。乗組員達は 17 日間の航海中に、そのうちの 55 人 を海中に投げ込み、残りは上甲板と中間板の間で、格子付きの昇降口の下に閉じ込められていた。彼らはお互いの両脚の間に座っていて、夜も昼も手足を伸ばすこともできないほど、詰め込まれていたが、それでもこの船は奴隷船としてはましな方だと思われた。奴隷船では普通は ( 天井の ) 高さが 1 メートル足らずの場所に、場合によってはその半分しかない所に押し込められていた。奴隷の足と首に鎖が付けてあることもしばしばあった。 [ 11:奴隷船を巡る裁判 ]イギリス人船長の ルーク ・ コリンウッドが指揮を取り 17 人の船員で運航され、 440 人 の奴隷を積んだ奴隷船 ゾング 号は、1781年9月6日、西アフリカのサント−メ島からジャマイカに向けて出航しましたが、乗組員が通常の方法(超過密状態)で奴隷たちを船に搭載した結果、衛生状態の悪化から病気になり、それと共に栄養不良から11月29日までに、六十名の奴隷が航海中に死亡しました。「英国における黒人奴隷」という本の記述を引用しますと、
棺桶よりも狭いスペースに 二人の奴隷が左足と相手の右足を、左手と相手の右手を鎖で繋がれた状態でいた。1781年11月29日に船長のルーク・コリンウッドは、乗組員と残りの積荷である奴隷を飲料水不足から守る為と称して、病気の奴隷を全て海中に投棄することを決心しました。彼は乗組員を集めてこう説明しました。
注:)
この船はジェームス・グレグソンと、英国の港町、リバプールにいる多数の奴隷商人との共有財産でしたが、船長のコリンウッドは劣悪な環境から病気になった奴隷たちを病死(自然死)にはさせずに、水不足を理由にして生きたままで海中に投棄することにより、保険金の支払いを受けて、彼と船主達の利益を最大限に守ることを決心しました。
そこで彼は 11 月 29 日に 54 人 、12 月 1 日に 42 人 、その後 36 人 と、 3 日間で合計、 132 名の奴隷 を生きたまま海に投げ込みました 。投げ込む為に最後に残った 10 名の奴隷たちは死刑執行人の手を無視して、自らの勇気を持って海へ飛び込みました。ところで サメの多い海域では船から奴隷の投げ込みが始まると、餌を求める サメが集まってきて、船のまわりを泳ぎまわっていたとのことでしたが、奴隷たちの運命は溺死するのが先か、サメに喰われるのが先か、のいずれかでした。 1783 年には ゾング 号に関する裁判が イギリス本国で開かれましたが、そこで審理の対象になったことは 132 名 の奴隷を、生きたまま海に投げ込んだ 殺人行為に関してではなく 、奴隷を失ったことによる経済的損失を保険業者と船主側との間で、 どちらが負担するか ということでした。当時の帆船では風が弱いと船が進まずに、しかも積荷の馬が貴重な水を大量に消費するので、やむなく馬を海中に投棄する場合がありましたが、裁判長は 積荷である奴隷は馬と同じであると判断 して、保険業者に対して保険金の支払いを命じました。 皆さんは アメイジング ・ グレイス ( Amazing Grace ) という歌をご存知ですか?。音楽に趣味がない私でも聞いたことのある良い曲ですが、実はこれは賛美歌 ( 第 2 編 167 番 ) なのだそうです。 聞きたい人はここをクリック。 この作詞者の ジョン ・ ニュートンは 18 世紀に イギリスで 奴隷商人をしていた男でした 。彼は荒くれ者であり、奴隷に対しても冷酷な男でした。しかしある日奴隷船に乗り大きな嵐に遭遇し、死に直面したとき、初めて 「 神様、助けてください。 」 と叫びました。幸い命は助かりましたが、その後に彼が 7 才のときに亡くなった母が残してくれた聖書を読みはじめ、自分が犯した多くの罪を悔い改めて クリスチャンになり、後に牧師になりました。
ところで私は学生時代に航海科の授業で、 ホース ・ ラチチュード ( Horse Latitude、馬の緯度 ) という言葉を習いましたが。大航海時代に、南北の緯度 20 度 〜 30 度にかけて横たわる中緯度高圧帯の凪ぎ ( ナギ、無風状態 ) の中で帆船がいっこうに進まず、しかも積み込んだ馬が毎日水を 30 リットルも必要とするため、やむなく馬を海中に投棄したことから、この緯度を馬の緯度とも呼ぶようになりましたが、その当時の 「 経緯 」 を今に伝えたものでした。更に付け加えると、無風地帯から脱出するために船から手漕ぎの ボートを下ろして漕ぎ、帆船を ボートで曳航することもありました。 参考までに冬など成田空港から グアムに向けて離陸すると、関東周辺の海は北西の季節風により 一面に白波が立っていても、 1 時間 10 分ほど南下して小笠原列島の父島 ( 北緯 27.1 度、東経 142.3 度)、母島付近まで来ると海面が平穏になり、火山列島 ( 南北硫黄島 ) や、マリアナ諸島の最北端にある ファラロン ・ デ ・ パハロス ( Farallon de Pajaros 、日本名 ウラカス) 島 ( 北緯 20.5 度、東経 144.9 度 ) に近づくと無風状態となり、鏡の如き海面を機上から見ることができました。
[ 12:日本人奴隷の輸出 ]ポルトガル人は、それまでアフリカなどで奴隷貿易を営んできましたが、15 世紀に アジアに進出すると東洋貿易を独占し中国人を奴隷として買い込み、各地に売り飛ばす奴隷貿易を始めました。日本においては 1543 年に ポルトガル人が初めて種子島に漂着し鉄砲をもたらしましたが、その数年後から早くも 日本人を安く仕入れ、奴隷として海外へ売り飛ばす奴隷貿易が始まりました 。
その結果 16 世紀の後半には、ポルトガル本国や アメリカ、メキシコ、南米 アルゼンチンにまでも日本人奴隷は売られるようになり、天正 10 年 ( 1582 年 ) に ローマに派遣された有名な 天正遣欧 ( てんしょうけんおう ) 少年使節団 の 一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃して、驚愕しましたが、その会話が記録に残されています。( 写真は使節団の正使である伊東 マンショ、 13 才が、ローマ法王に拝謁に行く際の騎乗姿 ) 「 我々の旅行の先々で、売られて奴隷の境遇に落ちた日本人を身近で見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣 ( 牛や馬 ) の様に ( 同胞の日本人を ) 手放す我が民族への激しい怒りに燃え立たざるを得なかった。」1607 年に南米 ペルーの リマ でおこなわれた人口調査によれば、当時の人口 25,454 人のうち、日本人の奴隷として 男 9 名と女 11 名 がいたことが分かっています。天正遣欧 ( てんしょうけんおう ) 少年使節に関する本を読むまで、いわゆるポルトガルとの 南蛮貿易 により多数の日本人が奴隷として、遠く南米にまで売られていた事実を全く知りませんでしたが、皆さんはご存じでしたか?。
注:) 天正 15 年 ( 1587 年 ) 6 月 18 日、豊臣秀吉は 宣教師追放令を発布 しましたが、その理由は ポルトガル人が キリスト教の布教を熱心におこない神の恵み、慈悲を説きながら、その一方で南蛮貿易において多数の日本人を安く仕入れ、奴隷として船に連行し、海外に売り飛ばす事実を知ったからでした。秀吉の言葉を伝える「 九州御動座記 」 によれば、
バテレン ( 注参照 ) どもは、諸宗を自分達の キリスト教に引き入れ、それのみならず 男女数百の日本人 を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である。という記述がありました。
注:)
[ 13:異教徒の虐殺は正義なり。虐殺と奴隷化の容認 ]一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教などはいずれも排他的、独善的宗教であり、たとえば イスラム教では毎日 5 回の祈りの際には、「 アラー( アッラー ) は偉大なり、アラー( アッラー ) の他に神なし 」 と唱えています。そして右手には剣、左手には コーラン( 聖書 ) といわれるように、いざとなれば異教を信じる異教徒や、正統な信仰から外れた異端者は殺すのが当然のこととされました。
十字軍の創始者である ローマ教皇の ウルバヌス 2 世 ( 1042頃 〜 1099 年 ) は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地である エルサレムから、異教徒を 根絶やしにする ことが、神の意志にかなうことであり、その為の戦いを聖なる戦いとして聖戦と称しました。神の代理人である ローマ教皇の命令は絶対であり、異教徒、異民族は殺すべしとされましたが、そうすることが神の御心 ( みこころ ) に沿うこととされました。 その結果 十字軍により神の敵である ユダヤ人に対する虐殺、シナゴーグ ( ユダヤ教の宗教施設 ) の破壊がおこなわれ、何千人もの ユダヤ人が殺されました。特に1099 年 の エルサレム 攻略では、 7 万人 の異教徒が虐殺されましたが、この思想は彼が初めて述べたものではなく、旧約聖書の時代からありました。 キリスト教徒だけでなく、 ユダヤ教徒も同じでした 。試しに旧約聖書の ヨシュア記、第 8 章 〜 第 13 章 を読んでごらんなさい。神と十戒を契約した モーセ ( モーゼ ) の後継者で ユダヤ人の指導者 ヨシュアとその軍勢が 、異教徒を如何に虐殺したかが詳細に記されていました。( 8 章−25 節 )には男女あわせて 12,000 人を殺した と書いてありました。「 大人も子供も老人も 1 人残さず殺した 」、「 すべての人を撃ちほろぼした 」、( 10 章−40 節 )には 1 人も残さず、すべて息のあるものは、ことごとく滅ぼした、( 11 章−11 節 ) には彼等はつるぎをもって、その中のすべての人を撃ち、ことごとくそれを滅ぼし、息のあるものは、ひとりも残さなかった、などなど、殺すということがこれでもか、これでもかと、繰り返して出てきます。 彼等が滅ぼした都市や国家は、エリコ、アイ、エルサレム、ヘブロン、ヤルムテ、ラキシ、エグロン、ゲザル、デビル、などなど合計 20 以上の町や都市に及び、その王を殺し、住民を 1 人残らず殺しにしましたが、ヨシュア記は神の 「 しもべ 」 に手向かう者を皆殺しにした記録でした。 キリスト教徒が西インド諸島や新大陸 ( 南米 ) の メキシコ、ペルーにおいても先住民の インディオに対して虐殺に次ぐ虐殺をしましたが、それが神の命令に従うことであり、宗教の名の下に虐殺を行うことに、良心が痛むはずがありませんでした。オーム真理教の教祖浅原に帰依した信者と同じで、敬虔な信者であればあるほど、異教徒を ポア ( 殺す )する ことに何の後ろめたさを感じなかったからです。 キリスト教徒にとって異教徒を大量虐殺することも、奴隷にして売買することも神の意志に叶った正当な行為とみなされました。15 世紀から 17 世紀前半にかけて、ポルトガル、スペインなどの ヨーロッパ諸国が、航海、探検により海外進出をおこなった大航海時代には、航海者や宣教師から ローマ教皇宛てに、
「 異教徒は人間でありましょうか?。」との問い合わせが頻繁に寄せられましたが、その答えは、
「 人間ではないので、殺すも奴隷にするのも自由である 」と答えていました。 汝、殺すなかれ という新約聖書の マタイによる福音書 、「 19章−18節 」の戒律は、キリスト教徒に対してだけ適用されました。つまりキリスト教は布教の際には隣人への博愛を説きながら、その一方で キリスト教の神を信じない異教徒はもはや人間ではなく、それらに対する虐殺に次ぐ虐殺を 2 千年以上前から続けてきましたが、それが キリスト教の本質でした。 一神教と自爆テロに戻るにはここをクリック。 [ 14:アメリカの奴隷市場 ]ハリエット ・ ストウ夫人 ( 1811〜1896 年 ) が書いた名作、 「 アンクル ・ トムの小屋 」及び「 アンクル ・ トムの小屋への鍵、A key to Uncle Tom's Cabin 」 がありますが、以下の文章は後者の中に収められている一節です。奴隷売買の実態を目撃した人の気持ち、売られる人 ( 奴隷 ) の気持ちが伝わってきます。当時 奴隷は動産 として取り扱われたので、所有者の意志によって、勝手に売買されました。そのため南部の大きな町には必ず奴隷市場 ( Slave Market )があり、夫婦や親子、兄弟姉妹が、事前の予告もなしに突然 バラバラに売られました。黒人奴隷たちにとって、家族はいつも崩壊の危機に直面していたのでした。
![]() 植民地における農場主達は奴隷の労働力を生産に利用するだけでなく、あたかも 家畜を繁殖させて売る ように、奴隷の夫婦が産み育てた多くの子供達や、時には夫や妻までも別々に売り払い、金儲けをしていましたが、これが僅か 1 世紀半前の、アメリカ社会の姿でした 。 この絵の奴隷夫婦もセリ(競売)に掛けられていますが、もし別々の買い主に買われたならば、その瞬間に夫婦が引き裂かれることになります。
アメリカでは 50 年前まで、米国の 憲法で保障された自由と平等 は、白人についてのみ適用され、 奴隷の子孫であった黒人 に対しては認められませんでした。黒人指導者の マーチン ・ルーサー・キング牧師 ( 1968 年に暗殺 ) による、仕事と自由、そして公民権を獲得する為に、 25 万人 が参加した ワシントン大行進などの黒人による大衆行動の結果、昭和 39 年 ( 1964 年 ) に初めて 公民権法 が成立し、公共の場所や公立学校における人種差別は一応法律で禁止されましたが、1992年に死者 54 人、負傷者 2,383 人を出した ロサンゼルスの大暴動や、フランスにおける昨年の人種暴動に象徴される様に、アメリカや ヨーロッパの社会には現在も 白人による、人種差別、偏見が厳然として存在していますし、有色人種である 日本人も差別対象の例外ではありません。 欧米のキリスト教国は 300 年続いた奴隷貿易により大いに儲けましたが、奴隷貿易の根底にあったものは 白人以外の人種に対する 蔑視、人間性の否定 でした。 相手を 異教徒や野蛮人とみなせば 、どんなことでも許されるとする考え方であり、その延長線上にあったのが太平洋戦争における、 日本兵に対する残虐行為 であり、一晩に 10 万人もの焼死者を出した 東京大空襲 を初め、60 もの都市に対する無差別爆撃をして、女性、子供を含む 非戦闘員に対する大量虐殺でした。その頂点となったのが、広島、長崎への 原爆投下実験 でした。
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