子供の頃の思い出(その一)


私は昭和 8年 ( 1933年 )に東京市 ( 当時 )牛込区 ( 現新宿区 ) 北山伏町で生まれましたが、大久保通りに面した牛込郵便局の東側に ある、現在の日経新聞牛込配送センタービルがある辺りです。幼児の頃に豊島区巣鴨五丁目( 当時 )に引越したため、子供の頃の思い出 の殆どは巣鴨にありました。

[ 1:一銭( せん )婆さん ]

子供の頃は未だ貨幣の単位として、銭( せん )が通用していました。家の近くに 「 一銭婆さん 」と呼ばれた子供相手の駄菓子、おもちゃ などを売る店がありましたが、銭( せん )単位の商いをする店番の女性が多分 六十才前後の人だったせいもあって、その店を子供たちは 「 一銭婆さん 」と呼んでいました。店の土間に台を置きその上のガラスの蓋のある箱には、あんこ玉、あめ玉、せんべいなどが入ってい ました。あんこ玉を買うと子供達は、直ぐに割って中を確かめました。もし当たりを示す小さい紙片が見つかれば、もう一つ貰えたから でした。

駄菓子の他にも メンコ、べーゴマ、鳥モチ、鳥竿、凧、とんぼ捕りの網など、子供が遊びに使う道具も売っていました。 家の近くに 三越 デパートの社長の お屋敷 があって、門の前には大きな ライオンの銅像がありました。屋敷内には池をめぐらした庭園があ り大きな木がたくさん茂っていたので、夏になると子供達は塀の外から 鳥竿 ( 注参照 ) を伸ばし てセミを捕ったり、時にはお屋敷の裏口の戸を開けて無断で中に入り、セミ捕りをして遊びました。

東京巣鴨の空襲による焼け跡写真 お屋敷という言葉は最近あまり使われなくなりましたが、私達の イメージからすれば道路からその家の建物が見えない程の広い敷地の中 に建ち、樹木に囲まれた家のことです。最近では豪邸という言葉がよく使われますが、それには建物の豪華さという意味があっても、敷地 の広さまでは含まれないように思います。

セミを捕るには当時は鳥竿に鳥 モチを塗って捕りました。一銭婆さんの店で鳥竿と鳥モチを買い、鳥モチを良く練ってから鳥竿の先端部 約 二十センチの部分に竿を回しながら指で鳥 モチを塗りました。この鳥竿を木に止まっているセミの体に接触させてモチの粘性によりセミ を捕らえるのです。高い所にいるセミには竿が届かないので、釣り竿のように竿を継ぎ足してセミを捕りました。

セミを捕り損なうと逃げる際に オッシッコを出すセミがいて、頭に掛けられたこともありました。子供達の間で オッシッコを掛けられると、 大人になって ハゲになるといわれていましたが、六十才近くから頭がハゲてきたのは セミ捕りの報いかも知れません。

鳥竿で捕ったのは セミだけでなく ヤンマと呼ばれていた大型のトンボも捕りましたが、ヤンマには 銀ヤンマと金 ヤンマの二種類がありまし た。夏の夕方に家の前の大通りの アスファルトに水を沢山撒いて水溜まりを作ると、ヤンマがどこからともなく飛んできて水たまりにしっ ぽを濡らす行動をしました。子供達はヤンマが水を飲みに来たと思っていましたが、後から考えるとヤンマはお尻から水を飲む訳ではなく、多分産卵行動だったと思いました。

注:)
鳥竿 ( とりざお )は昔から鳥刺し竿とも呼ばれていて、鳥 モチと呼ばれるモチノキ、クロガネモチ、ヤマグルマなどの樹皮を摺り 潰して作った粘着性の強い薄茶色の接着物質を、小鳥や昆虫を捕らえるために竿の先に塗って使うものでしたが、その粘着力は数日間 持続しました。

[ 2:巣鴨の脳病院 ]

デパート社長が住むお屋敷の隣には、地元で巣鴨の脳病院と呼れていた精神病患者の入院施設がありました。現在東京都世田谷区上北沢 にある都立松沢病院は、明治時代に京都に次いで日本で二番目に設立された精神病院ですが、大正8年 ( 1919年 )に世田谷に移転す るまでは巣鴨にありました。元々の名前は東京府癲狂 ( てんきょう )院といったのだそうです。

癲狂院が移転した後に巣鴨の脳病院ができましたが、病室の周囲は外部に対する目隠しの為か沢山の樹木に覆われていたので、夏には セミ の楽園となり子供達は、セミを捕るために裏から敷地内にそっと入りました。

脳病院には面会に来る人もなくひっそりとしていて、病室には大部屋と一人用の小部屋がかなりありました。大部屋には 四〜五人の人が いましたが、小部屋には重症の患者が入るらしく、頭を垂れたままでじっと動かずに座っている人、何かぶつぶつ言いながら動物園の熊 のように、常に動きまわる人などがいました。

あるとき セミ捕りに来た私達に向かって、床まで鉄格子がはまった小部屋の中から浴衣を着た女の人が手招きをするので近づくと、急に ニタニタ笑いながら浴衣の前をまくって見せたので、私達は慌てて逃げ出しました。別の子供の話では病室の近くに行くと、猛烈に クサイ 臭いがする。病人達が大小便を垂れ流しても、後始末をしてもらえないみたいだとのことでした。

私が かいま見た昭和初期の精神病院とはこのような状態でしたが、大人になってから読んだ本の中で

日本の精神病者は、二重の不幸を背負っている。精神病になったことと、日本に生まれついた ことである。
と書いてありました。日本における精神病患者に対する医療行政、福祉行政の遅れと、設備の悪さ、特に看護人の患者に対する虐待の 存在を指摘していました。


[ 3:都電、荒川線 ]

都電 その当時家の近くには王子電車 ( 王子電気軌道 ) と呼ばれた チンチン電車が走っていました。大正2年 ( 1913年 )から運行を始めた この電車も、最盛期には 53両の車両を運行していましたが、昭和十七年( 1942年 )には戦時体制下での政府の方針により、東京市 ( 当時 )の市電に合併されました。昭和18年7月から東京市が東京都となったため、それ以後は都電と呼ばれるようになりました。現在も都内で唯一運行している、都電の荒川線 ( 三ノ輪橋−早稲田間 ) の前身でした。

王子電車 昔の路面電車 ( 子供の頃は市内電車と呼んでいましたが ) は屋根に取り付りつけられた長い ポールを、後方に傾けた状態で架線から電気を取って走りましたが、ポールの先端には溝が ある小さい車輪が取り付けられていて、それがバネの力で架線に密着していました。しかし架線が カーブする箇所などでは、走行中に ポールが架線からよく外れました。すると車内で切符を切る車掌が急いで電車の後部に行き、ポールに取り付けたヒモを操作して、 ポールの先端を架線に戻しました。今ではポールから写真のようにパンタグラフにとって代わり、走行中にモーターへ流れる電流が 突然切れる不具合もなくなって、ワンマン運行になりました。

都電の踏切

三〜四才の頃には毎日母親に手を引かれて、近くの市場に夕食の買い物に行きましたが、帰りには直ぐそばにある庚申塚 ( こうしんづか ) 停留所の踏切で電車の通過を見るのが習慣でした。何台見ても私が帰ろうとしないので、 三つ電車を見たら帰ろうね と母親と約束させられました。

その当時は大きくなったら王子電車の運転手になろうと思いましたが、人生とは先が分からぬもので それから 20年後には飛行機の パイロットになりました。70才になった今でも上京した折りに懐かしさからこの踏切を訪れると、子供の頃のこと、20年前に亡くなった母親のことなどを思い出します。

昭和40年代から自動車が急増し、速度の遅い路面電車は邪魔者扱いされて廃止されましたが、都電の荒川線だけは生き残りました。 その理由は王子電車という私鉄の時代から主に専用軌道を走り、道路面を走る区間が非常に少なかったこと。そのために自動車交通の 障害にはならなかったからだと思います。

[ 4:フガフガ爺さん ]

家の近所に身寄りのない爺さんが住んでいましたが、気の毒なことにこの人は兎唇 ( みつくち )だったので、いつも口に マスクをして いました。爺さんの家が貧乏だったため、兎唇の形成手術を受けられなかったのだと思います。そのため話す際に言葉が口から出るよ りも鼻に抜けてしまい、フガフガという音しか聞こえなかったので、近所の子供達は フガフガ爺さんと呼んでいました。いま考えると 重度の口蓋裂を伴う兎唇であったと想像します。

口に障害があっても根が優しい人だったので、爺さんは子供達とは大の仲良しでした。登校の際に自分の家の前の道を掃く爺さんに会うと 「 爺さんおはよう 」 と皆が挨拶し、爺さんは 「 フガフガ 」 と答えたものです。「 今朝は寒いねー 」というと 「 フガフガ 」 言いながら 身振り手振りで寒いことを示しました。爺さんが子供達に人気があったのは、後述する売れ残って生きが悪くなった 商品 を子供達に タダで呉れたという理由も少しだけありました。

トゲ抜き地蔵 爺さんは家で何かの内職をしながら、毎月 四の付く日 に開かれる近くの トゲ抜き地蔵の縁日 に、夏の間だけ夜店を出していました。現在では お婆ちゃんの原宿 とも呼 ばれて縁日以外の日でも混雑したいますが、その当時も今以上の賑わいでした。爺さんの売る品物は とのさま蛙、 沢ガニ 、 ひよこ などの生き物だけで、客の子供達とはフガフガ言いながら手振りを交えてやりとりし、結構意味が通じました。 蛙を買うと蛙の足にヒモを結わえて渡してくれました。

国民学校 ( 小学校 二年生の時 ( 昭和16年、1941年 ) の遠足には、電車に乗って東京の郊外( 現、足立区 )にある西新井大師に行 きましたが、そこは川崎大師と共に著名な真言宗の寺院です。「 西新井 」の縁起については、

天長 3年( 826年 )東国に旅行中の弘法大師は、悪疫の流行で村人が難儀をしているのをみて十一面観音の像を刻み、堂を建てて祈ると共に自分の像を刻んでそれに災厄を封じ込め、地中に埋めました。以来悪疫はピタリと止んだので、感謝した村人は後に大師像を掘り出して、観音様と共に祀りました。この掘った後から清水が湧き井戸となったので、堂の西側にあるところから「西新井」と名付けました。
その当時の西新井大師の周囲は田圃や畑ばかりでした。そこの田圃や水路には 「 とのさま蛙 」や 「 沢ガニ 」 が沢山いるのを発見しました。フガフガ爺さんは自転車に乗り東京の郊外まで来ては蛙やカニを捕り、縁日で売っていたことが分かりました。

ちなみに沢ガニとは甲羅の長さが二センチないし二.五センチほどの小さいカニで、谷川をはじめ田圃や小川、池など全国どこにでも 住む、ありふれたカニの種類です。

ひよこについては雌雄 ( しゆう ) 鑑別師という職業があって、孵化したひよこの オス、メスを素早く鑑別し、卵を産む メス だけを 育て、オスは全部捨てられることを知りました。爺さんは捨てられた オス のひよこを拾って家に帰り、色を塗って1羽5銭で 売っていたのでした。

昭和19年 ( 1944年 )の夏に当時国民学校 ( 小学校 ) 5年生だった私達は、米軍機による空襲を避けるために長野県に学童集団疎開 をしましたが、爺さんはそこに住み続けました。翌年4月13日の空襲  では 皇居や赤坂離宮 の一部も炎上し、巣鴨の辺りも焼け野原となりましたが、 被災直後から焼けたトタン板で 「 掘っ建て小屋 」を作り、焼け跡に住んでいた人達の話では、空襲以来 フガフガ爺さんの姿を見た人は誰 もいませんでした。

爺さんがもし無事でいたならば、障害者にとって長年住み慣れた場所に必ず戻るはずですが、戻らなかったのは空襲の際にどこかで死亡 したからだと、人々は ウワサしました。

今では当時のことを知る大人は殆ど亡くなり、子供だった私も 70才になって冥土からのお迎えが近くなりました。あの世で フガフガ爺さん に会ったならば、成仏した人は年を取らないらしいので、私の方が年上になっているかも知れません。爺さんとは空襲に遭った時の話や、 昔話などをするつもりです。最早 フガフガせずに、普通に話すことができるでしょうから。( 合掌 )

注:1)
平成13年の初詣には 60年振り に西新井大師に行きました。東武鉄道大師線の西新井大師駅から大師の山門に入るまで普通な らば10分程度の距離ですが、人混みで1時間程度かかりました。その周辺はすっかり都市化されてしまい、田圃や畑、用水路はもうあり ませんでした。かつてはそこに沢山いた「 とのさま蛙 」や「 沢ガニ 」なども−−−。

注:2)
昔はひよこのオス、メスを見分けるには 肛門鑑別 といって、生まれたてのひよこの肛門付近の 複雑な形状を見て オス、メスの判断をしていました。その初生雛雌雄鑑別師という資格を持つ人は高給で雇われましたが、高等鑑別師と もなると 5百羽のひよこの オス、メスを 45分で鑑別し、その正解率が 98 パーセント以上という技術を持っていました。

しかし最近では遺伝子技術の発達により、ひよこの メス だけに現れる 伴性遺伝子の特徴  を組み込んたひよこを作り出し、 メスの羽根の特徴 からオス、メスを判断する 羽装鑑別 が主流となりました。その結果鑑別に熟練した技術経験はもはや不要となり、パート従業員のおばさんでも簡単に鑑別できるようになりました。

更に産卵を目的としない肉用の地鶏の育成が増加したためにオス、メスの鑑別は不要になり、ひよこの雌雄鑑別師は次第に職を失って 行きました。

[ 5:南京虫捕獲器 ]

私の家から歩いて15分ほどの所に前述の 高岩寺 のトゲ抜き地蔵ありましたが、 トゲ抜き地蔵の縁日は昔から夜店が沢山出て色々なものを売っていました。今でも覚えている珍しい品物に「 南京虫捕獲器 」というも のがありました。その当時は殺虫剤といえば蚊取り線香の除虫菊と 「 ノミ取り粉 」しかなかったので、ノミ、シラミ以外にも、不潔な 家や安い旅館、時には場末の映画館の中などにも南京虫がいました。

南京虫

私は南京虫に刺されたことも見たこともありませんが、別名を トコジラミ、英語では Bedbug といいます。ものの本によれば茶褐色、 扁平楕円形、光沢のある虫で オスは長さ 5〜6 ミリ、メスは長さ 5〜8ミリ幅 3ミリの吸血虫で、柱の割れ目、壁の隙間、床、畳、 椅子の隙間などに昼間は潜み、暗くなると活動し、刺されると激しい痒みが何日も続き、掻いているうちに丘疹となり、さらに水疱 になることもあるのだそうです。

今でも外国の安い ホテルなどに泊まると、ダニや南京虫の被害を受ける場合が珍しくなく、外国の航空機では不潔な乗客が機内に持ち 込んだ南京虫が座席の椅子に潜み、機内で刺されたという例がありました。

子供の頃に見た南京虫捕獲器とは屋根の雨樋を小型化したような形で、長さが3尺 ( 90 センチ )のものが何本もあり、それを布団の 周囲に繋いで置いて寝る仕組みでした。夜暗くなると人の臭いを嗅ぎつけて南京虫が活動し、捕獲用の雨樋( ? )を乗り越えようとす ると、樋の内側はすべすべした材質でできているため、一旦中に落ちると雨樋から逃れられずに、そのまま捕獲されるという仕組みで した。

夜店で商品を売るおじさんの説明では、 これを使えば毎晩 10匹は軽く捕れるよ ということでしたが、実際に それを買って行く人がいました。そんなに多く捕れるのは、よほど南京虫が多くいる不潔な家に違いありません。 しかしその当時から寝相が悪くて掛け布団を常に動かす私には、到底向かない器具だと思った次第です。

友達から聞いた話から当時の警察の留置場にも、南京虫が沢山いたことを知りました。家の近くの風呂屋には私より 2才年上と、1才 年下の兄弟がいました。ところがある日銭湯の定休日に風呂屋の仲間がその家に集まり、脱衣場で バクチを開帳していた最中に警察の 手入れを受けて、全員が逮捕されるという事件がありました。

[ 6:南京虫に刺されると ]

兄弟の父親も逮捕されて留置場に長い間留置されていましたが、帰宅した父親の手足や首筋は南京虫に刺された跡だらけで、特に首の 周囲は首飾りでも掛けたように、刺されて掻いた跡がおできになっていたそうです。

ところで最近の留置場や拘置所 ( 刑務所 ) の南京虫については、有力な情報があります。ムネオ・ハウスで有名になった 北海道の鈴木ムネオ や、 総理!総理!を連呼し金銭問題追求に際しては他人に厳しく、自分の不正には極めて優しかった 秘書給与詐欺罪の 社民党の辻本 キヨミ などは、「 お縄頂戴 」してからの出所後に、南京虫の被害については何も語りませんでした。更に首飾り( ? )などの虫刺されの痕跡も見られませんでしたが、 それには次の二つの場合が考えられました。

  1. 過去の生活環境において、南京虫に刺された豊富な経験があり( ? )、虫刺されに免疫力を既に持っていた。

  2. 留置場や拘置施設では寝具を含めて、既に害虫が完全に駆除されてしまった。

虫刺され

ものの本によれば南京虫には刺し口が二つあるので、刺された傷跡が二つずつ並んでいるのが南京虫の特徴だそうです。睡眠中に刺さ れると必ず目が覚めるほど激しい痒みに襲われ、それが一週間前後続き、その後は痛痒くなるとのことでした。

しかし人間の生活環境 に対する適応性というべきか、あるいは自然の摂理とでもいうのでしょうか、過去に何度も南京虫に刺されたことのある人は、自然に 体内に免疫力ができてきて、初体験の人に比べると痒みの症状が次第に軽くなり、おできや皮膚炎にもならないといわれています。

つまり刺される回数が増えるに従い南京虫に対する耐性が増して、それとの共存が次第に容易になるのだそうです。

[ 7:北朝鮮の南京虫事情 ]

もと在日朝鮮人の脱北者がつづる、大学の学生寮における、それとの共存

部屋は息苦しいほど狭かったが、それよりも南京虫との同居には大変苦労させられた。一晩中南京虫に噛まれ、夜が明けると体中真っ赤 であるが、殺虫剤は配給制でどこにも売っていない。

大学の休暇は冬と夏に半月ずつあった。休暇になっても行くところがなかったので八畳の部屋に一人で寝泊まりした。しかし一人にな ると南京虫の猛攻撃を受けねばならなかった。八人を噛んで生息していた部屋の南京虫が、一人になった私に襲いかかったのである。 そんな ある日、私は南京虫を防ぐアイディアが浮かび実行した。机をきれいに掃除した後、部屋の真ん中に置き、水を入れた四個の タライの 中に机の脚を一つずつ置いたのである。

そして素裸になった私は準備しておいた白布一枚に体を包み、机の上に登り横になった。こうすれば南京虫をきっと防げると思った。 ところが夜明け前に南京虫の攻撃を受けてしまった。調べてみると私の真上の天井には南京虫が驚くほどたくさん集まってきて、私を めがけて落下していたのである。 半月の休暇から戻った同室の学生たちは私の話を聞き驚いたが、軍人出身の学生は「 何も驚くことはない。軍隊では南京虫とは言わず、 落下傘兵 と呼んでいるんだ」と言った。

我々学生は春には一ヶ月、秋には半月間農村に行って労働をした。ある時私は五人の学生と共に一軒の農家に入ってその家族と一緒 に暮らすようになった。農村に来ても大学の寄宿舎以上に南京虫からの攻撃を受けはしたが、最もひどく悩まされたのは蚤と シラミ からの 攻撃であった。しかし「 原住民 」 出身の学生たちは悩んでいる様子ではなかった。

彼等が悩まずに済むのは「 攻撃に対して長年鍛錬され、神経が鈍くなり、噛まれても平気で済むのだろう 」と神戸から帰国した友人が私に ささやいた。( 北朝鮮という悪魔、参照 )

[ 8:日本の南京虫事情 ]

「 百聞は一見にしかず 」、私を含めて南京虫を見たことが無い人のために、ホームページに南京虫の写真を載せることにしましたが、それを探すにはかなり苦労しました。図書館の昆虫図鑑は勿論のこと、毒虫、不快な虫など、虫に関するあらゆる本を探してみても、あるのはせいぜい ノ ミ の写真までで、南京虫の写真は見つかりませんでした。載せる必要が無いほど日常生活の場で、希な存在になっていたからだと思います。

最後にようやく写真を発見したのは我が家にあった国民医学大事典という、厚さ 9 センチの古い家庭の医学の本の中からでした。昭和 50 年 ( 1975 年 ) の発行当時は、未だ世間に ありふれた虫 だったのかも知れません。

ところが平成 16 年 6 月 29 日の読売新聞の記事によれば、

神戸市内の寺の住職が鳥取県、三朝 ( みささ )温泉の旅館に宿泊した際、ダニに刺され、かゆみで葬式などの仕事ができなかったとして、旅館を相手に休業損害など計 157 万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が同月 29 日神戸地裁であった。田中澄夫裁判長は シラミ ( 正しくは南京虫 ) がいたことを認め、「 客室の安全確認を怠った 」 として旅館に慰謝料 10 万円の支払いを命じた。

訴えによると住職は昨年 5 月 21 日、三朝町内の旅館に宿泊。全身にかゆみを感じ、ダニのようなものに刺された跡があった。帰宅後も 「 かゆみ 」 は治らず、治療に約 2 ヶ月かかり、1 ヶ月以上休業したという。判決で田中裁判長は 「 一緒に泊まった人は刺されておらず、百ヶ所以上刺されたとの主張は信用し難い 」 などと指摘し、休業損害は認めなかったが、客室でみつかった虫を保健所が 「 トコジラミ ( 南京虫のこと )」 としたことから慰謝料の 一部を認定。

旅館側は 「 田舎のことだし、 ある程度が出るのは仕方がない が、今後はさらに注意していきたい 」 としている。

とありましたが、そうなると 三朝 ( みささ )温泉の旅館では 南京虫 に刺されても仕方がない ということになるので、地方では依然として南京虫が生存し、活動している事実を認識する必要があります。


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