我々は互いに敵視するよう、それぞれ別な色の ペンキを塗られて、殺し合いにかり立てられた闘鶏の如く扱われた。
と述懐していました。
[ アウン ・ サン将軍とその娘 ]
その当時英国からの独立運動を指導した アウン ・ サン ( Aung Sang) 将軍は、昭和 15 年 ( 1940 年 ) 8 月と、戦時中の昭和 18 年 ( 1943 年 ) 3 月に東京を訪れています。日本の支援により ビルマは同年 8 月 1 日に バーモウを首相として臨時政府を樹立して独立を果たし、アウン ・ サンは陸軍大臣となりました。
しかし日本が太平洋戦争において形勢不利になると、昭和 20 年 ( 1945 年 ) 3 月 27 日に突如、日本に対して敵対行動を取り日本軍を攻撃しました。
のちに政治の主導権争いから昭和 22 年 ( 1947 年 ) 7 月 19 日に、32 才で反対派により暗殺されましたが、彼の未亡人 キン ・ チーはその後 「 インド駐在、ビルマ大使 」 を勤めました。その娘が 1991 年に ノーベル平和賞をもらった アウン ・ サン ・ スー ・ チー 女史です。
注:)表と裏から見ることの必要性
アウン ・ サン将軍の例を引くまでもなく歴史を見て感じることは、他国民が 一筋縄ではいかずに、日本人にはみられない、 したたかさ を持つということです。
相手を利用する場合には主義や思想にこだわらず、誰とでも手を結び何でも利用するが、不要となればすぐに離反するだけでなく、自分の利益になると思えば裏切りは当然のことで、 「 昨日の友は今日の敵 」 として攻撃することも当たり前です。
冷徹な打算 に基づく国際関係においては、日本人が好む 信義 など、全く存在せず、中国や インドネシアを初め アジア諸国が、日本からあれほど多額の O D A 経済援助を受けながら、日本の安保理常任理事国入りに 反対票を投じた事実 からも裏付けられます。
つまり自国の国益確保だけが目的であり、国家間に信義や恩義などは、爪の アカほども 存在しない 現実を日本人は知らなければなりません。
アウン ・ サン ・ スー ・ チー 女史について日本では マスコミの報道から、民主主義の闘士、正義の味方のように思われていますが、別の見方や事実もあります。英国から ミャンマーへの帰国後の初演説を、昭和 63 年 ( 1988 年 ) 8 月 26 日に首都 ヤンゴン ( ラングーン ) にある有名な シュエダゴン ・ パゴダの西側広場でおこないましたが、壇上に並んだ 11 名の代表者のうち 9 名は、ビルマ ( ミャンマー ) では誰もが知っている著名な共産主義者でした。
共産主義と西欧民主主義は共存できるのでしょうか?。彼女を知る人達によれば、彼女は独立運動の著名な将軍の娘として 気位が非常に高く、高慢で自己主張をするのみで他人の言葉を聴かない。
その政治姿勢については自分の言うことは全て正しいとして、軍事政権のすることに何でも反対するがその対案が全くない、あるいは 一部の政治家の リモコンにすぎないなどの、厳しい見方をする外国の ジャーナリストもいます。
この点について彼女自身も、
さまざまな政治色をもったベテラン政治家が数多くいて、私の実際の行動を助けてくれているのは確かである。
と述べていました。
彼女のことに限らず何事につけても 一方の面だけから見たり、一つの情報に基づき判断をする、いわゆる 素朴な材料論者 の手法を採るのではなく、少なくとも表と裏の両面から見ることが、正しい評価をするために必要です。
その観点からすれば、かつて中国には 「 泥棒や ハエがいない 」 とか、北朝鮮を 「 地上の楽園 」 であるとの、虚偽の宣伝に熱心に荷担した日本の多くの マスコミは失格ですが、その行為を反省することもなく今も偏向した情報、正しくない情報を送り続けています。
敗戦後 57 年が経ちその間太平洋戦争についての日本の功罪のうち、 罪(?)についてはこれまで内外の歴史家、評論家により十分過ぎるほど議論されてきましたが、その基本姿勢は、 勝てば官軍、力は正義なり ( Might is right ) の東京裁判史観に沿ったもの、あるいは 自虐史観や マルクス主義の イデオロギー に色濃く染まった観点からのものが大部分でした。そして彼等にとって不利になる 功 の部分 については、意図的に 無視され続けて きました。
[ 公平な評価の必要性 ]
戦争終了後 アジアは勿論のこと アフリカなど殆どの植民地が白人の過酷な支配から解放され、次々に 100 を越える植民地が独立の道を歩みましたが、その契機を作ったのは他ならぬ日本であったという 歴史の事実、果たした役割の大きさ について、公平に評価しなければなりません。
英国 サッセックス大学の クリストファー ・ ソーン教授は著書 「 太平洋戦争とは何だったのか 」 において、
日本は敗北したとはいえ、アジアにおける西欧帝国主義の終焉 ( しゅうえん ) を早めた。
帝国主義の衰退が容赦なく早められていったことは、当時は ( 西欧人にとって ) 苦痛に満ちた劇的なものだったが、結局は ヨーロッパに各国にとって利益だと考えられるようになった。
と述べ、日本の太平洋戦争 ( 大東亜戦争 ) において果たした役割を 評価しています。同様にある ヨーロッパの歴史家によれば、
太平洋戦争は ヨーロッパ人が、アジアで 傲慢 ( ごうまん ) に振る舞うことができた時代の終り という、アジアの歴史における大変化をもたらした、
とありました。
無知無能、怠惰、貧困、不潔などと白人支配者から蔑まれ、卑しめられた植民地における有色人種の間から、戦後に民族主義が台頭し、白人支配を打破し てアジア、アフリカで多数の植民地が独立しましたが、これは太平洋戦争なくしては決して起こり得なかったことです。
もし日本が日露戦争に勝利せず、太平洋戦争も戦わなかったとしたならば、アジア、アフリカ地域の民族はいまだに欧米列強の植民地支配で虐げられていたに違いありません。
現に日本が戦に敗れると、従来の植民地支配を継続しようとして イギリス、フランス、オランダ軍が アジア地域に舞い戻り、インドネシアから マレー半島、インド、ベトナムに至るまで独立戦争の戦火が長期間絶えなかった、という事実からもそれはうかがえます。
イギリスの歴史家によれば、アジア、アフリカ諸国の独立は太平洋戦争により、国によっては 百年も早く訪れたと述べました。さらに日本は 一般的な意味では戦争に敗れましたが、
アジアの全植民地が欧米諸国による支配から解放され、独立を果たした事実を見るとき、前述の クラウゼビッツの戦争論に従えば、日本は疑うことなくアジア人の 「 植民地からの解放 」 という戦争目的を達成した。つまり結果的には 戦争に勝った のだ
という見方すらあります。前述の東京裁判の オランダ代表判事を勤めた レーリンクは、著書でつぎの様に述べています。
日本は 西洋諸国の植民地を解放した罪 によって罰せられたが、その後 四半世紀 ( 25 年 ) も経たないうちに、昭和 35 年 ( 1960 年 ) に国連が植民地を保有することを 不法行為 であると宣言し、その後、国連総会が植民地の保有を 犯罪として 規定すらした。
参考までに
国連で 植民地主義が 悪 と見なされるようになったのは 、太平洋戦争開戦当時 ( 1941 年 ) 、アジア と アフリカの独立国は日本を含めて
僅か 5 箇国 しかなく、あとは欧米の植民地でしたが、有色人種国の日本が白人国家に敢然と戦いを挑んだ姿を見て民族主義が台頭し、旧宗主国と独立戦争を戦うことができたからでした。
その結果旧宗主国も戦後の時代の流れに抗しきれず、ほとんどの植民地が独立し、 国連に 百 を超える議席 を得たため、それら新興国の発言力が増大したからです。