捕鯨と反捕鯨
[ 1:日本における捕鯨の歴史 ]日本ではいつ頃から鯨を捕るようになったのでしょうか?。日本列島の各地で縄文時代の遺跡から イルカなどの小型鯨類や大型の鯨類の骨が出土しているので、その当時から鯨類を食べていたといわれています。例えば昭和57年 ( 1982年 ) には石川県にある能都 ( のと ) 町 間脇 ( まわき )遺跡から大量の イルカや鯨類の骨が出土しましたが、その数は ゴンドウ鯨を含む 285の個体が確認されています。それ以外にも横浜市称名寺 ( しょうみょうじ ) 貝塚などからも イルカの骨が出土していますが、このような海浜遺跡からの イルカや鯨類の骨の出土例は、昭和36年 ( 1986年 ) 現在で 138箇所に上る のだそうです。さらに最近では青森県にある三内 ( さんない )丸山遺跡からも、縄文時代前期中頃に作ったと思われる祭祀用の クジラの骨刀が発掘されました。
縄文人がこれらの鯨類の肉を食用にしたことは間違いありませんが、では彼等がどのようにして鯨類を手に入れたのでしょうか?。恐らく最初は死んで海岸に漂着した 「 流れ鯨 」 や、病気で弱ったり シャチに追われて座礁した「 寄り鯨 」 が対象になったと思いますが、前述した間脇 ( まわき ) 遺跡から出土した石器 3,180 点の中に、石槍が 275 点あったことから、後には写真のような石槍 ( 長さ8.5センチ ) に柄を付けて道具として使用し、イルカ漁をしたものと推測されます。
713年に第43代元明天皇 ( 661〜721年 ) の詔勅により 諸国で風土記 ( 地誌 ) が作られましたが、玄界灘に浮かぶ壱岐島の 「 風土記逸文、壱岐国 」 には島の 鯨伏 ( いさふし )という地名について下記の説明がありました。
注 )、 風土記の逸文
鯨伏の郷 ( さと )、郡の西にあり。昔者 ( むかしもの )、鰐 ( わに = サメ のこと )、鯨を追いければ、鯨走り来て隠り伏しき。故に鯨伏 ( いさふし ) と言う。鰐と鯨と、並び石と化為れり。相去ること一里なり。俗に鯨 ( クジラ ) を言いて伊佐 ( いさ )と為す。東大寺を建立して大仏を造立したことで知られる、第45代聖武天皇 ( 701〜756年 ) の遺品を収蔵した正倉院の中には、 クジラの ヒゲや骨で作られた宝物 が収められています。 日本における古式捕鯨の発祥の地として有名な和歌山県 牟婁 ( むろ ) 郡 太地 ( たいじ ) 町には、長元8年 ( 1035年 ) に、
南牟婁郡有馬村に大魚上がる。長さ四丈八尺 ( 約14.4 メートル )、油三百樽を得るという記録があったので、熊野地方では遅くとも 11世紀には、前述した 「 寄り鯨 」や 「 流れ鯨 」を解体、処理し鯨油を採るなど、利用する技術がすでにあったことが分かります。 鎌倉幕府が編纂した編年体の公式歴史記録 ( 1180年〜1266年 ) である 吾妻鏡 ( あずまかかみ ) によれば、貞応3年 ( 1224年 ) に三浦崎で以下の出来事がありました。 原文は、 近国浦々大魚多死、浮波上、寄干三浦崎前浜之間充満、鎌倉中人挙買其定家々煎之、取彼油、異香満閭港 ですが、クジラの大量座礁死がありましたが、クジラを解体する技術が存在し、その大量の肉を販売する組織制度が既にあったこと、宗教的理由から クジラの肉を食べたことは公式文書に記載されていませんが、恐らく食べたであろうことが想像されます。照明用に使用する鯨油を採取する方法が広く知られていたこと、その際に変な臭いが港中にただよったことが分かりました。
[ 2:日本の古式捕鯨 ]「 寄り鯨 」や 「 流れ鯨 」の処理ではない 実質的な捕鯨 については、いつ頃からおこなわれていたのでしょうか?。室町時代の元亀年間 ( 1570〜1573年 )に、尾張 ( 愛知県 )の三河から伊勢 ( 三重県 )湾にかけた地域では、船を漕ぎ出して最初は鉾 ( ほこ、突き刺す武器 ) を使用して クジラを突き取りましたが、やがて手投げ銛 ( もり、抜けないように先端部に返しが付き、綱に結ばれている ) へと技術革新がなされて捕鯨の効率が向上しました。前述した紀伊半島東岸にある太地( たいじ )でも慶長12年 ( 1607年 ) に和田忠兵衛が鯨組 ( くじらぐみ、後述 ) を組織して突取り捕鯨をした記録がありました。[ 2−1:突取り式捕鯨とは ] クジラを多数の舟で取り巻いて銛 ( もり )で突き刺し、そのうえで クジラが潜行して逃げないように、銛の尻についた綱で クジラを巻き付けて獲る方法です。ところが実際には、たとえ10本、20本の銛を突き刺しても、クジラが怪力を使用して潜行すれば、綱を引っ張るだけでは抵抗し切れずに、みすみす取り逃がすことも多かった効率の悪い捕鯨方法でした。 [ 2−2:網捕り式捕鯨とは ]
太地は三方を山々に囲まれ、一方だけが太平洋に開けた湾の中にありますが、古くから捕鯨で生活していた地域でした。江戸時代初期の 延宝 3年 ( 1675年 ) に初代の太地角右衛門頼治が、従来からの銛 ( もり ) による 突取り ( つきとり )式 捕鯨から、海上に大規模な網を張りそこへ クジラを追い込んで捕獲する 網捕取り ( あみとり ) 式 捕鯨法を考案し、大転換しました。 それにより、クジラの捕獲量が増大し、太地は クジラで繁栄するようになり、角右衛門は江戸にまで知られた大分限 ( ぶげん、大金持ち ) になりました。絵図は網捕り式の捕鯨で2頭の クジラを網に追い込んでいますが、その内の 1頭は潮を吹いています。 網捕り式捕鯨とは 海岸近くの丘の上に見張りを置き、クジラを発見すると旗や 「 ノロシ 」で合図を送り、クジラの行く手に長く網を張って待ち受け、 網に入ったクジラを網で からめ捕り、銛 ( もり )で突いて弱らせて取る捕鯨法 ですが、この方法では クジラは刺さった銛を振り切って海中深く潜行して逃げるのが難しく、従来の突き取り式に比べて、はるかに効率的な捕鯨法でした。彼はこの網取り法を、セミが クモの網にかかって捕らえたのを見て思いついたといわれています。
なお江戸時代の捕鯨の対象は、主に体長 17 メートルの セミクジラ でしたが、それは主に沿岸に回遊し、動きが遅く脂肪層が厚いので、死んでも クジラが浮くので確保が容易なためでした。 [ 2−3:クジラ組、捕鯨の単位組織 ]
いずれの方法でおこなうにせよ、捕鯨には多くの労働力が必要で、網捕り式捕鯨を例にとれば、クジラを追跡し網に追い込む勢子( せこ )船 ( 15人乗りで、八丁櫓の高速船 )が15隻、クジラの行く手に待ち伏せし、コースを遮る方向に複数の網を張る 網船( 別名 双海船、そうかいせん)が二隻で1組が、14隻 ( 7組 )が必要でした。
さらに捕った クジラを2隻の船の間に吊して運ぶ持双 ( もっそう )船 2隻と、合計 30隻ほどの船を動員する大がかりな操業でしたが、それには捕鯨船に乗り組む 300〜400名の漁師だけでなく、捕った クジラを浜に引き揚げて解体し、鯨肉の塩漬、鯨油の採取、骨粕の処理といった加工処理に多くの労働力が必要でした。 また漁船や漁具の修理や製造のための労働力も必要であり、合計 500人〜 800人の人手と大きな資金も必要でしたので、クジラ組と呼ばれる捕鯨の単位ができました。そして 「 クジラ一頭、七浦 ( うら、海辺の村落 )をうるおす 」 の諺どおりに、捕鯨により大きな収益をあげることができました。絵は浜での解体と浜辺の納屋 ( 作業場 )です。 捕獲頭数は地域により違いがありますが、少ない組では年間 3頭、多い組では太地家文書によれば、天和元年 ( 1681年 ) 冬から翌年春にかけて 96頭 もの クジラを捕った記録があります。その内訳は ザトウクジラ 91頭、セミクジラ 2頭、コククジラ 3頭でした。日本では昔から捕獲したクジラをさまざまに利用してきましたが、肉は食用に、鯨油は食用、灯火用、薬用などに、臓物や骨は肥料用に、ヒゲは歯ブラシに、というように捨てる部分がまったくないほど、ほぼ100パーセントクジラを利用してきました。
[ 3:鯨の分類 ]ご存じのように生物学の分類項目によれば 門、綱、目、科、属、種 とありますが、鯨は魚類ではなく人と同じ 「 哺( ほ )乳綱 」に分類されます。一般的な哺乳類の特徴としては、1 : 乳腺からの分泌物によって子を哺育すること 。 2 : 体毛がある ことですが、クジラ類の成体には体毛がなくても、胎児期には毛が生えているのだそうです。クジラと人間は 脊索 ( せきさく )動物門 ・ 脊椎 ( せきつい ) 動物亜門 ・ 哺乳綱 に属し、ここまでは同じですが、ここから クジラは クジラ目 、ハ( 歯 )クジラ亜目、マッコウクジラ科、マッコウクジラ属−−−−( マッコウクジラの場合 )、となります。ちなみに人は 霊長目 、ヒト科 、ヒト属 、ヒト ( モンゴロイド 、コーカサイド 、ネグロイド ) 種 、に分類されます。
[ 4:捕鯨船 ]![]() 私が捕鯨船を初めて見たのは昭和28年 ( 1953年 ) のことで、海上保安大学の二年の時に、練習船が広島県尾道市にある尾道造船所に 1ヶ月間 ドック 入り ( Dock 、車でいうならば車検の為の整備工場入り )をしましたが、その ドック実習の際に、付近に停泊していた捕鯨船を見たのが最初でした。 帆船時代から南極への航海には水夫達の間で Roaring forties ( 吠える 40度 ) 、 Furious fifties ( 荒れ狂う 50度 ) と呼ばれた南半球の南緯40度〜50度にある偏西風の暴風圏を横切るため、荒天時の波切りを良くするように高い船首楼 ( フオゥクスル、Forecastle )があり、その甲板には捕鯨砲が備えられていました。マストの頂上付近には鯨を発見するための 見張台 ( Crow's nest ) があるのが特徴で、船体が小型の割には大出力の エンジンを装備して高速を出せるので、鯨を追跡したり、捕ったクジラを舷側に抱いて曳航するのに便利に作られていました。 その頃に習った英語の教材は アメリカ人作家 ハーマン ・ メルビル ( 1819〜1891年 ) の海洋小説 白鯨 ( モービー・ディック、原作の題名は Moby Dick、or The great white whale ) でしたが、彼自身も水夫として捕鯨船に乗り組んだ経験があったために、海事英語 ( 船乗りの専門用語 ) が頻繁に出てきたので我々学生を悩ませました。一例を挙げると ジャコブス ・ ラダー ( Jacob's Ladder )とは ジャコブ の はしご、つまり 「 縄ばしご 」 のことであり、旧約聖書 ・ 創世記 ・ 28章 ・ 12節の中で 聖 ヤコブが夢に見た、天まで届く はしごに由来しました。前述した Crow's nest も カラスの巣ではなく、 マスト頂部にある クジラ発見用の 見張り台 のことでした。
[ 5:マッコウクジラの攻撃性 ]ところで前述した クジラの分類表の中で、ヒゲクジラ亞目に属する クジラには、口中の 上あご に歯が退化してできた ヒゲがあり、 教科書で習ったところによれば ( 注参照 )、海水と共に吸い込んだ動物性 プランクトンの おきあみ、小魚を ヒゲで濾過して食べますが性質は穏和です。これに対して ハ( 歯 )クジラ亞目に属する マッコウクジラ は気性が荒く攻撃的なのだそうです。 注:) 日本がおこなった科学的調査によれば、クジラは サンマ、イカ、イワシ、スケトウダラなどを大量に捕食していることが判明しましたが、クジラがこのまま増え続ければ、水産資源が減少し、食糧安保の上からも漁獲量が危険な レベルに低下することが予想されるのだそうです。 下記の動画は CNN ニュースの映像ですが、日本のある地方の入り江に迷い込んだ長さ 30フィート( 9メートル ) の子供の マッコウクジラを、住民が外海へ追い出そうとしたどころ、ボートに対して逆襲し、転覆させたために一人が溺死した動画です。成長した マッコウクジラの体長は 60フィート( 18メートル )、体重 45トン、歯は 下あご だけに 50本もあり、深い海にいる 大王 イカ や魚 などを毎日 2 トンも食べるのだそうです。
19世紀の世界の海にはこのような マッコウクジラが ウヨウヨいましたが、それらのうち特に巨大で凶暴な クジラには欧米の捕鯨帆船の乗組員たちによって名前が付けられたものがあり、乗組員たちの間では神秘的な存在になっていました。
それらの一例を挙げますと、 ニュージーランド ・ トム 、ティモール ・ ジャック 、チリ ・ ドン ・ ミゲル 、モルガン 、モカ ・ ディック 、日本の王 ( King of Japan ) などですが、そのうちの モカ ・ ディック ( Mocha Dick )こそは 29年間にわたり南米、ペルー沖の太平洋で 捕鯨ボートの連中と何度も死闘を演じた不死身の 「 巨大 クジラ 」 でした。 モカ ・ ディックはその度に多数の 捕鯨ボート を尾びれで破壊し、転覆させ、、噛み砕き、ボートの連中を あの世に送りましたが、ハーマン ・ メルビル に 海洋小説 白鯨 を書く ヒントを与えた クジラでした。メルビルは白鯨を書くに当たり、マッコウクジラによって捕鯨船 エセックス号を沈められた、ボラード船長と チェイス航海士に会って体験談を聞きましたが、それによれば
1820年1月12日のこと、太平洋の ガラパゴス諸島の西方で捕鯨船 エセックス号は、体長 85フィート ( 25 メートル ) もあろうかと思われる巨大 マッコウクジラを追跡中に反撃に遭いぶつけられ、船首に大穴をあけられました。 これ以外にも1851年に、ニューベッドフォード船籍の アン ・ アレクサンダー 号が マッコウクジラ に穴をあけられ、乗組員が ボートで脱出する出来事がありました。
当時の捕鯨帆船には船上に捕鯨 ボートを 4隻搭載していて、捕鯨をする際には 各 ボートには リーダーである航海士と、手で銛 ( もり ) を打ち込む銛手 1名、漕ぎ手 4名の 6名編成で、クジラを発見するとその傍まで帆走し、そこで捕鯨 ボートを下ろして クジラに数 メートルの距離まで接近し、手銛 ( てもり ) を打ち込む方法で捕獲しました。 もちろん 10本や 20本の手銛を打ち込まれても マッコウクジラは泳ぎ続け、時には海中に潜りましたが、捕鯨船の乗組員は危険な目に遭う職業でした。下記の動画を見れば当時の帆船捕鯨の様子を理解できます。 日本近海の捕鯨で片足を失い義足をつけた エイハブ船長が、 白い巨大な鯨 ( モービー・ディック ) の捕獲に執念を燃やす物語です。
[ 6:アメリカ式捕鯨から近代式捕鯨へ ]![]() ハーマン・メルビルが記した白鯨の時代の捕鯨船は、400 トン程度の木造帆船に捕鯨ボート 4隻を積んで、単独で遠く太平洋、大西洋などに乗り出して捕鯨をしましたが、手投げ銛 ( もり ) による突き取り式捕鯨でした。後に爆薬を頭部に仕込んだ銛を肩に掛けた銃で発射する ロッケト式の ボム ・ ランス ( Bomb Lance 、爆弾銛 )なども使用されるようになりましたが、この形式を アメリカ式捕鯨といいました。 最盛期の1846年には アメリカは 736隻の捕鯨船 を持ち、捕鯨産業に従事した人口は 7万人 を数え、他国の捕鯨船 230隻 も操業した結果、年間に 1万頭以上 のマッコウクジラが捕獲されました。 大西洋や東部太平洋の クジラを捕り尽くすと、次には捕鯨基地を北米大陸の東海岸や西海岸から ハワイの オアフ島の ホノルルや、マウイ島の ラハイナに移して、当時 ジャパン ・ グラウンド といわれた遠洋捕鯨にとって手つかずの クジラの宝庫 であった日本近海で操業しましたが、嘉永6年 ( 1953年 ) にペリーの黒船が浦賀に来たのも、捕鯨船に対する薪炭、水の補給基地獲得の目的もありました。
その当時捕鯨産業で進歩していたのは ノルウェーでしたが、木造帆船から蒸気 エンジンで走る鉄製の捕鯨船に移行し、船首には 1863年に考案された捕鯨砲を備えましたが、それにより オスの平均体長約 25 メートル、体重 100〜200 トンに達する、より大きな ナガスクジラ や シロナガスクジラ も捕獲できるようになりました。
[ 7:国際捕鯨委員会 ( I W C )、の設置 ]第2次大戦後、クジラ類の 資源保存と有効利用 を国際的に行おうとする気運が高まり、主要捕鯨 15ヶ 国で国際捕鯨取締条約 ( ICRW ) が結ばれ、国際捕鯨委員会 ( I W C 、International Whaling Comimmission ) が設置されましたが、捕鯨枠を設けるなどにより クジラ資源の国際的管理をすることになりました。ところで クジラを食用にする国については日本ではほとんど知られていませんが、ノルウェー、アイスランド、デンマークの捕鯨国を初め、韓国でも定置網に掛かった ミンククジラや イルカを食べています。フィリピン、インドネシアでも ニタリクジラや マッコウクジラを食べていまし、反捕鯨国である ニュージーランドの マオリ族も自ら捕鯨はしないものの、前述した「 寄りクジラ 」 である マッコウクジラを食べています。カナダ、アメリカ・アラスカ州の イヌイット ( エスキモー )は ホッキョク・クジラを、ワシントン州の先住民 マカ族は コクジラを、ロシア・シベリアの チュクト人は ホッキョククジラと コククジラを食べています。 1960年代になると欧米諸国が捕鯨操業から撤退しましたが、彼等はクジラから鯨油だけを取るのが目的で、肉や内蔵は海に捨てていました。彼等が捕鯨を止めた理由は食用に使う植物性油の生産が急増したので、それまで使用していた鯨油の価格が暴落し、採算がとれなくなるという 経済的理由 からでした。 1970年代になると、アメリカ主導による反捕鯨運動が世界的に高まり、のちに商業捕鯨の一時停止 ( モラトリアム、Moratorium ) の決議採択につながりましたが、これには次項で述べる 「 裏の事情 」 がありました。 I W C は モラトリアムについて科学的根拠に欠けるとして一旦は受け入れを拒否しましたが、後に I W C 総会で可決され、捕鯨派と反捕鯨派による際限のない抗争が始まりました。 [ 7−1:アメリカの反捕鯨、枯葉剤 隠しの陰謀 ]
アメリカ政府が反捕鯨に積極的になった発端は ベトナム戦争 ( 1960〜1975年 ) の際に使用した枯葉剤の影響隠しでした。 南ベトナム解放戦線( ベトコン、Vietcong )の拠点であった、熱帯雨林と食糧供給源である田畑を砂漠化するために、 9万 キロリットルの枯葉剤 を飛行機から散布しましたが、その中には発 ガン性や人体の生殖機能に悪影響を及ぼす ダイオキシン が含まれていました。
その結果 ベトナムでは 100万人の人々が薬剤を浴び、多数の奇形児が生まれるなど人体に悪影響を与えましたが、これは ベトナムの住民だけに限らず、その地域での作戦行動に従事した米兵の健康をも冒して ガン患者が増加し、帰国後に結婚すると兵士の子供に奇形児が生まれました。 1972年6月に、スウェーデンの ストックホルムで国連人間環境会議が開かれましたが、その際の議題に、悪名高い枯葉剤散布の件が取り上げられるのが濃厚とみるや、アメリカの ニクソン政権はこれを回避するために、クジラの専門家不在の会議の場に、環境問題の シンボルとして、突然 クジラ保護の問題 を持ち出しました。
アメリカの過去は、前述したように最盛期には 736 隻もの捕鯨船を持ち 、大西洋、太平洋の クジラをほとんど捕り尽くし、日本以上に 多数の クジラを殺してきましたが、その後 彼等が捕鯨を止めたのは経済的理由からでした。 1859年に エドウィン ・ レ ・ ドレークが ペンシルバニア 州 オイル ・ クリークで 石油の機械掘りに成功 して以来、灯油に使う安い石油が大量に流通するようになり、鯨油の価値が急激に低下して、もはや 遠洋捕鯨の採算 がとれなくなったからでした。
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