マウイ島の墓標
[1:マウイ島ラハイナ]
かつてのハワイ王朝の都は、現在カメハメハ大王の銅像やイオラニ宮殿などがあるオアフ島のホノルルではなく、オアフ島の南にあるマウイ島の西海岸、ラハイナにありました。マウイ島の支配者でしたカメハメハがマウイ島から進出して各島の大酋長や部族を支配下に置き、1810年に現在観光スポットになっている裏オアフとの境界にあるヌアヌ・パリの古戦場で「関ヶ原の戦い」に匹敵する戦闘に勝ち、ハワイを統一しました。マウイ島のラハイナは1810年から1840年のホノルル遷都までの30年間、ハワイ王朝が首都にしたところでした。
大学2年の英語で学んだ小説「白鯨」の作者のハーマン・メルビルも、19世紀半ばに捕鯨船でラハイナを訪れていて、その経験を基に獰猛で狡知にたけたモウビー・デック( Moby Dick、巨大な白い抹香鯨)と捕鯨船のエイハブ船長の戦いを主題にした「白鯨、Moby Dick or the White Whale 」を書きました。
[2:ハワイが移民を必要とした理由]アメリカにおける南北戦争の結果、奴隷制の禁止により大打撃を受けたアメリカの砂糖産業は、ハワイに活路を求めて移転しました。 しかしハワイでは白人が持ち込んだ梅毒、結核、天然痘などの伝染病の為にポリネシア人(ハワイの原住民)が次々に死亡し、1778年には30万人いた純粋のポリネシア人が、100年後には僅か4万5千人に激減しました。極めつけは王様のカメハメハ2世と王妃のカママ王妃で、1824年に英国国王の招待を受けてロンドンを訪れたところ、現地で「はしか」に感染し遂に二人とも死亡しました。
日本人が最初にハワイに移民したのは1865年(慶応元年)のことでしたが、国の政策として移民がおこなわれるようになったのは1868年(明治元年)のことでした。明治元年に移民した人達のことを元年者と呼びましたが、彼等は農業移民として砂糖キビのプランテーション(栽培会社)に月給僅か4ドルで雇われて厳しい労働に従事させられました。砂糖キビ栽培には広大な土地と砂糖1ポンド(0.454Kg)生産するのに1トンの水を必要とし、しかも安い労働力が不可欠でした。
[3:砂に埋もれた墓標]
30年近く前に初めてマウイ島のラハイナを訪れましたが、まずカフルイ空港でレンタカーを借りて南にある標高3,055メートルのハレアカラ山の頂上まで車で登り、月面を思わせる噴火で荒涼とした山頂の風景や、下界の景色を眺めてから前述のラハイナを訪れました。
ラハイナ浄土院から北にある戦後に開発されたリゾート地のカアナパリ( Kaanapali )に行く途中に、道路脇の砂地にお墓らしいものがあったので車を止めました。やはりそこは日系人の墓地でしたが墓地に付き物の石碑は数基しかなく、残りは木製の墓標でその多くは砂地に倒れ朽ち果て、あるいは砂に埋まっていました。建っていた墓標には戒名はなく、死者の姓名と没年、行年、裏面には出身地である広島県や山口県の島などの住所が書いてありました。日本の故郷へ錦を着て帰国することを夢見ながら、異国の地に骨を埋めた悲しさや、石碑も建てられなかった移民生活の厳しさをしみじみと感じながら、カアナパリにあるリゾートホテルに向けて車を走らせました。
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