四国遍路のはじまり

巡礼(遍路)の発生

世界中のどの宗教でも、聖地あるいは本尊に対する信仰が生まれると、必ずそこに「巡礼」が行われています。民族、風土、宗教の内容によってその巡礼の形式や方法は異なりますが、まず宗教の儀式や集会の際に、「聖なるもの」の周りを回ることから巡礼は始まったといわれています。

すなわち信仰の対象となる本尊や聖地の周囲を、ぐるぐる回る巡礼方式ですが、日本においても神社仏閣に「願いごと」をする際に昔から「お百度」を踏んだ風習も、それに由来するといわれています。初めはごく狭い地域を巡る局地的巡礼方式から、やがて各地に散在する聖地、本尊を巡る旅の巡礼方式に発展していきました。

世界の巡礼について

ヨーロッパのキリスト教徒の間では、千年以上前からエルサレム(イスラエル)、ローマ(サン・ピエトロ、イタリア)、サンチャゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)は、キリスト教の三大聖地として有名でした。

サンチャゴ大聖堂 スペインの北西部にある都市のサンチャゴ・デ・コンポステーラは、中世ヨーロッパにおける最大の巡礼地として栄え、写真の大聖堂は九世紀に偶然発見されたサンチャゴの墓の上に建てられました。サンチャゴ( Santiago )とはキリストの十二人の使徒の一人である、聖ヤコブ( Saint Jacob )のスペイン語の名前ですが、フランス語ではサン・ジャックと言います。

今もフランスのピレネー山脈近くの出発地点から歩き始め、約八百キロの巡礼道をたどり、巡礼をする人々が絶えませんが、この大聖堂はその最終目的地です。

イスラム教のカーバ神殿 世界の五十五ヶ国で六億人の信者を持つ「イスラム教」の巡礼では、サウジアラビアのメッカにあるカーバ神殿が最終目的地です。テレビのドキュメンタリー番組で見たその風景とは、偶像崇拝を禁止するイスラム教らしく、飾りが無い正方形の巨大な箱の形をしたカーバ神殿の周囲を、何万人もの巡礼者が左回りに人の渦を描きながら回っていました。七回まわるのだそうです。

メッカへの巡礼を済ませた者はイスラム教徒に課せられた五つの義務のうち、最も経済的にも困難な巡礼義務を果たした者として、ハッジという称号を使うことができて、郷里では終生尊敬されます。

注:)残りの四つの実践義務とは次の通りです。

  1. 信仰告白「唯一の神、アッラーの他に神なく、ムハンマド(モハメッド)は神の使徒なり」を唱える。
  2. カーバ神殿のあるメッカの方向に向かい、一日に五回の礼拝
  3. イスラム教徒、相互扶助の連帯感からの喜捨
  4. 太陰暦における第九の月(ラマダン)の断食。日の出から日没まで絶飲食。

但し断食については妊婦、幼児は健康上の理由により戒律から除外され、日没後あるいは日出前にたらふく食べるのが困難な、家から離れて旅行中の者も除外、旅人を運ぶ飛行機のパイロットや、長距離バスの運転手なども旅人と同様に、仕事の間は戒律を守らなくても良いのだそうです。

カイラス山 一方「チベット仏教徒」の巡礼では、徒歩で一年近くもかかってたどり着いたチベット仏教最大の聖地、カイラス山(6,714メートル、別名 カンリンポチェ・フェン )の麓の周囲、一周五十二キロを、ある者は歩いて、ある者は五体投地(最高の敬意を表す礼法で、両膝、腹部、両肘、両手、頭を地面につける拝礼)をしながら右回りで回っていました。

その道端には聖地で生命の終りを迎えることができた数多くの、幸せな人達の白骨、衣類などが散乱していました。

巡礼に出る理由

ではなぜ人々は巡礼に出るのでしょうか?。増基法師が十世紀に書いた、現存する最古の紀行文である「いほぬし(庵の主人の意味)」によれば、もの詣での旅に出る理由を、
聖地を巡りてその地の万霊に回向し、かつ自らの罪障も消除すること。未見の地と思いのままに時を過ごすことへの憧れである。
と述べていますが、これは何時の時代にも共通する巡礼の原点です。

巡礼の種類

巡礼には例えば観音菩薩など寺院の仏様やご本尊を巡拝する本尊巡礼と、宗教、宗派の開祖や宗派上の名僧のゆかりの寺々、またはゆかりが「有るとされる」寺々を巡拝するいわば、聖地巡礼の二つがあります。

日本についていえば、「本尊巡礼」の代表が西国三十三ヶ所観音霊場巡礼であり、「聖地巡礼」に当たるのが、弘法大師ゆかりの寺々を巡る四国霊場八十八ヶ所の巡礼(遍路)です。

四国遍路を始めた人

1:真済(しんぜい)説

高野山にある宝光院の僧侶、寂本(じゃくほん)が元禄三年(1690年)に書いた「四国偏礼(へんろ)功徳記」によれば、

遍礼(へんろ)所八十八ヶ所と定めぬる事、いづれの時、たれの人といふ事さだかならず、一説に大師の御弟子、高雄山(たかおさん)にましませる柿本(かきのもと)の紀僧正(きのそうじょう)真済(しんぜい)といひし人、大師の御入定(ごにゅうじょう)の後、大師をしたひ、御遺跡(ごゆいせき)を遍礼(へんろ)せしよりはじまり、世の人、相遂(あいおいて)遍礼(へんろ)する事となれりといへり

と書かれていて、一説によればの条件付きながら、弘法大師(774〜835年)の漢文の詩文集である性霊集(しょうりょうしゅう)十巻を編纂した大師の高弟である、真済(しんぜい)が、恩師を弔うために四国遍路を始めたとしています。

2:真如(しんにょ)法親王説

真如とは平城天皇の第三皇子であった高岳(たかおか)親王(799頃〜865年頃)のことですが、弘仁元年(810年)に起こった平城天皇と嵯峨天皇の抗争事件である薬子(くすこ)の乱に連座したとして(?)、十数才で皇子を廃されました。その後出家して空海の弟子になり、真如法親王(しんにょほうしんのう)と名前を変えて仏教に専念して、後に各地に寺を建立しました。

空海の死から二十七年後の862年に唐に渡り、更に二年後に仏典を求めて唐からインドに赴く途中、現在のマレーシアにおいて虎に襲われて死亡しました。日本人としてマレー半島に初めて足跡を残した人で、現地に供養塔があります。

高貴な生まれにもかかわらず深く仏教に帰依し、当時の人としては抜群の行動力の持ち主だったこの人こそ、辺地(へち)修行者の跡をたどる四国遍路を始めた人だとする説があります。

3:観賢(かんけん)僧正説

比叡山延暦寺で天台宗を開いた最澄(さいちょう=767〜822年)は死後三年目にして日本で最初の大師号である、伝教(でんぎょう)大師の「諱=いみな」を朝廷から贈られました。

遣唐使の同じ船団(四隻のうち中国に到着したのは二隻、二隻は行方不明)で唐に行き、同時代に布教活動をおこない真言宗の開祖となった空海(774〜835年)は、橘逸勢(たちばなの、はやなり=生年不明〜842年没)、嵯峨天皇(786〜842年)と共に、当時の三筆の一人といわれた著名な書家でもありました。

ところが空海は時の嵯峨天皇に接近をはかるなど、僧職者としてふさわしくない政治的行動性や、旺盛な権勢欲が原因で彼を知る人達から嫌われた為に、死後も長い間、大師の称号が与えられることなく放置されたままでした。

つまり宗教上の業績とその人間性に対する評価とは、必ずしも一致するものではありませんでした。真言宗の僧侶であった観賢(853〜925年)はこれを悲しみ、空海に対する大師の称号を賜るよう朝廷に熱心に働きかけました。

その結果空海を知る人がすべて死に絶え悪評も薄れた、死後じつに八十六年後の921年になって、ようやく弘法大師の「諱=いみな」が贈られました。

観賢は高野山にある空海の墓所に行き、即身成仏した空海と「対面して」大師号授与を報告しましが、その際に見た空海の姿は、あたかも生きているが如き様子であり、ヒゲが伸びていたので髭剃りをしたと記録にあります。空海の死は彼が生まれるよりも二十年も前のことですから、観賢が遍路を始めたとなると、遍路の始まったとされる時期が遅くなります。

4:弘法大師空海説

後述の高野聖(ひじり)の澄禅(ちょうぜん)の「四国遍路日記」によれば、

大師は阿波の北分十里十ヶ所、霊山寺(りょうぜんじ、一番札所)を最初にして阿波、土佐、伊予、讃岐と順に御修行也(ごしゅぎょうなり)

と書かれていて、弘法大師が遍路を始めた人となっています。また「高知県史要」によると
空海は先に行基(ぎょうき)の開基(かいき)したる寺院を再興し、また自ら開基して、四国に八十八ヶ所の霊場を建設せり
となっていて、空海が始めたとしています。
ちなみに行基(668〜749年)とは奈良時代の僧侶で諸国を巡り、架橋、築堤など社会事業を行い仏教を広め、当時の民衆から行基菩薩と慕われました。

弘法大師空海が797年に、当時二十四才の時に書いた仏教に関する著作である、三教指帰(さんごうしいき)の中で

仏陀の教えを信じて、阿波の大滝嶽(だいりゅうがたけ)によじ登り、土佐の室戸崎に行って一心に修行した。谷はこだまを返し(修行の結果が現れて)虚空蔵菩薩の化身である明星がその姿を現した。

とあります。記録に残る空海が修行した場所は太龍寺(二十一番札所)、最御崎寺(二十四番札所)、石鎚山、などですが、それ以外には誕生の地とされる善通寺(七十五番札所)、ゆかりの地として出釈迦寺(七十二番札所)、岩屋寺(四十五番札所)などがあり、八十八ヶ所の基盤になって行きました。

結論

四国遍路を最初に始めた人については、いろいろな説があるものの決め手となる史料に欠けるために、寂本が前述したように不明です。しかし大師信仰上からも弘法大師が始めたとする方が都合が良かったので、人々によって室町時代からその様に信じられてきました。



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