幌馬車( Covered Wagon )

はじめに

退職後、図書館通いをして本を読むうちに、この年齢(七十才)になるまで知らなかったこと、誤解していた事柄がいかに多かったかを身にしみて感じました。そのうちのひとつに西部劇でお馴染みの、西部開拓者達が使用した幌馬車があります。幌馬車のことを英語では Covered Wagon (カバー、幌を付けたワゴン)と言いますが、これまでは馬に牽引された四輪の馬車であると思っていました。ところがそれは間違いであることを知りました。

幌馬車の写真 研究社の新英和大辞典で Covered Wagon の項を見ると、

ズックの屋根付きの大牛車のことで、初期開拓者たちが西部地方へ移住する時に、これに家族や家財を積んで大草原( Prairie )を横断して行った。
とありました。念のため米国の権威あるウエブスター大辞典でも確認したところ同様の記述があり、馬車ではなく明らかに牛車のことでした。右の写真を見ても雪中のワゴンのそばの動物は明らかに牛です。つまり西部開拓には幌馬車ではなく、語呂が悪いのですが幌牛車に乗って西に向かったのでした。ではなぜ馬ではなく牛だったのでしょうか、その理由を以下で説明します。

注:)
西部への移住に使用したのは右図のプレイリー・スクーナー( Prairie Schooner )、即ち「大草原の帆船」と呼ばれたタイプの牛車でしたが、ワゴンにはこれとは別に、ステーション・ワゴン(駅馬車)もありました。これは四頭ないし六頭のに牽引させ、箱型の車体には緩衝装置(バネ)を付けた乗用の馬車で、最大名の乗客と二名の御者を乗せて走りましたが、乗り合い馬車であり西部への移住用ではありませんでした。

幌馬車隊列

幌牛車に乗って西部開拓に行く場合には、途中にいろいろな危険があったので二十台程度の集団を組んで移動しましたが、この隊列をワゴン・トレイン( Wagon Train )と呼び、隊の指揮者をワゴン・マスターといいました。左の写真の拡大では分かりませんが更に拡大倍率を高くすると、ワゴンを牽引しているのは牛であることが分かります。


馬ではなく、牛を使用した理由

1:水の問題から

労働する馬は一日当たり三十リットルの水を必要とし、水を十分飲ませないと糞詰まりを起こして死ぬのだそうです。その点、牛は反芻(はんすう)動物なので、馬よりも少ない水で間に合うといわれています。参考までに馬や牛などの動物を利用して長距離を移動する場合には、疲労、ひずめのケガ、牽引具による体のキズなどの事故に備えて、直接必要な数の二倍を用意するのが当時の常識でした。

かつて日露戦争開戦前の1892年(明治25年)に、駐ドイツ大使館付き武官でした福島安正中佐(1852〜1919)は日本への帰国に際して、当時建設中のシベリア鉄道などの軍事情報収集のため、単独で馬に乗ってシベリア大陸一万六千キロを横断しました。そのときには自分の乗馬と荷物運搬用の一頭を含めて、最大四頭の馬を引き連れて旅をしました。

西部移住者の幌牛車は通常四頭の雄牛で一台の車を牽引しましたが、前述の理由から八頭分の牛を用意するのが普通でした。そのため特に水の補給が困難な西部の荒野、砂漠地帯を通過する場合には、馬に比べて水の消費が少なくて済む雄牛を利用する利点は非常に大きいものでした。

むかし学生時代に航海科の授業でホース・ラチチュード(Horse Latitude 、馬の緯度)という言葉を習った記憶がありました。帆船による大航海時代に、南北の緯度二十度から三十度にかけて中緯度高圧帯の凪ぎ(ナギ、無風状態)の中で帆船がいっこうに進まず、しかも積み込んだ馬が毎日貴重な水を大量に消費するので、やむなく馬を海中に投棄したことから、その名が付けられたという説明でした。

2:エサ(飼料)の問題から

西部開拓に向かう移住者はアメリカ中西部の、ミズーリ州の町(インデペンデンス)から出発するのが普通でした。そこからは太平洋岸のオレゴン州に通じるオレゴン・トレイル(Trail)が始まり、カリフォルニア方面に行くスパニッシュ・トレイルに道が通じていたからでした。ミズーリ州から踏み跡程度の道を六ヶ月かけて三千二百キロの道のりを移動しましたが、出発の時期は毎年春にミズーリの草原の草の背丈が約十センチに伸びるのを待ってから移動を開始しました。十センチとは牛が草を食べることができる最低の背丈ですが、その背丈では馬は食欲を満たすほど食べられないといわれていました。

ロッキー山脈に向かい東から西に進む場合には、山に登るのではなく、西に進むに連れて標高がゆるやかに高くなる地形になっています。標高の低いミズーリ州から州の標高が一番高い、ロッキー山脈東側のコロラド州(二千七十三メートル)まで丁度日本の桜前線の移動のように、春の雑草前線が標高の低い所から高い西部に移動するのに合わせて牛車で移動しました。馬が十分食べられる背丈に草が生長するのを待ってミズーリを出発したのでは、ロッキー山脈の山越えが初冬になり、吹雪に遭い遭難する危険がありました。

3:インデアンからも盗まれない

馬の原産地は中央アジアであり、昔から南北アメリカ大陸には馬はいませんでした。北米大陸のテキサス州からメキシコにかけた平原にムスタング( Mustang )と呼ばれる野生馬がいますが、これは宮崎県都井岬の「みさきうま」と同様に、かつて家畜だった馬が逃げ出して野生化したものの子孫であってその地方の原産ではありません。

エル・ドラド(黄金郷)を求めて1532年に、アンデス地方のインカ帝国に侵入したスペインのフランシスコ・ピサロ(1470頃〜1541)は、僅か百八十名の兵士と二十七頭の馬、十三丁の火縄銃で何千人ものインカ軍と戦いました。馬に乗る人間を初めて見たインカの軍勢は非常に驚き、これも初めて聞いた銃の発射音でたちまち敗走しましたが、彼は後にインカ帝国の皇帝アタワルパを処刑し、インカを征服しました。アメリカのインデアンも馬に乗る白人を見て、最初はインカ軍兵士のように驚いたに違いありません。

北米大陸の馬は、銃と共に十七世紀末に白人が持ち込んだものですが、馬は当時のインデアンにとって白人との交易で求めるか、盗む以外に入手の方法がありませんでした。そのため馬はインデアン達から、特に狙われていました。それに比べて牛はインデアンにとって興味の対象外でした。なぜならば牛は乗用には適さず、食用にはバッファロウ(野牛)が北米大陸には当時、推定で四千万頭〜六千万頭も生息していたからでした。

4:食糧にもなる

予備に連れて行く四頭の牛のうちに乳牛を一頭加えれば、新鮮な牛乳を毎日飲むことができました。更に移動中の食糧不足、ひいては飢餓という最悪の事態を迎えた時には、日本人のように馬肉やバサシ(馬肉の刺身)を食べる習慣のない彼等にとって、馬よりも牛は食べ慣れた食糧にもなるという、牛にとっては不幸なメッリットもありました。

これを書きながら1911年(明治四十四年)に南極点に一番乗りを目指した、ノルウェーのアムンゼン隊とイギリスのスコット隊のことを思い出しました。アムンゼン隊は十台の「犬そり」に五十二頭の犬を使い、スコット隊よりも一ヶ月早く南極点に到達しました。往復三千キロを九十八日間で走破し、探検船フラム号に余裕をもって戻ってきましたが、犬は僅か十一頭に減ってしまいました。その理由は旅の途中で弱った犬から順に射殺して、食糧にしたためでした。

一方のスコット隊の五名はポニーの「馬そり」を使用しましたが、「犬そり」ほど順調に走行できず、しかも馬がクレバスに落ちてしまい、以後は人力で引く事態になりました。南極点にはノルウェー隊よりも遅れて到達したものの、帰途には携行した食糧が尽きてしまい、飢えと寒さで不運にも全滅しました。

以上で牛を使用した理由の説明を終わりますが、西部移住者の中には牛車ではなく馬車で向かった者も多少はいました。それには前述の馬の欠点を補うために、大量の馬用の飼料と水入りのタルを運ぶ、専用の馬車を更に何台も追加する必要がありました。

誤解の続き

1:西部への旅は徒歩

西部開拓への旅は幌付きの牛車に乗って移動したのではなく、子供以外は大部分のコースを一日当たり二十八キロ程度、徒歩で移動しました。なぜ歩いたのかその理由とは、

  1. :牛車に掛かる重量を減らし牛の疲労を軽減すためでした。六ヶ月間の旅の食糧に加えて更に現地で開拓し、最初に収穫を得るまでの食糧と開拓に必要な農機具、家具、家を建てるのに必要な道具などで、その荷物の重さは削れるだけ削っても一トン程度にはなりました。道の無い荒野を進むために車輪が土や砂に埋まることもしばしばで、橋がない川の渡河も大変な作業でした。

  2. :牛車酔いからでした。荷車のため車軸の受ける衝撃を緩衝するバネなど無く、従って道なき道を進む際の荷車の揺れと衝撃はひどく、幌と荷物との密閉空間に乗り風通しが無く、暑さと振動から来る車酔いに耐えるよりも、人々は歩く方をむしろ好みました。

2:旅における死亡率

統計によれば西部開拓への過酷な旅の途中では、大人は十七人のうち一人、率にすると約六パーセントが、子供は五人に一人、率にすると二十パーセントが、病気、渡河中の事故、転落事故などで死亡しましたが、映画にあるようなインデアンの襲撃による死亡は非常に少ないものでした。

最後に

本題から外れますが西部開拓の情熱の源は、土地の獲得やゴールド・ラッシュに代表される経済的欲求でした。1830年に制定された優先土地買収権法により、西部の未開拓の土地に居住し、一年間耕作すると、その土地を一エイカー(千二百坪)当たり一ドル二十五セントという安値で、しかも百六十エイカー(十九万二千坪、約六十四町歩)まで購入できるからでした。その後1862年には五年間開拓に従事する者には、百六十エイカーの土地を無償で与えるというホームステッド法が成立し、西部開拓に向かう者がさらに増加しました。(終わり)


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