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利根川と荒川、(洪水対策)
[1:江戸]江戸の語源は川が海に臨む江(え)の門(と、出入り口)、または入り江のある所の意味ですが、古くはこの地方を支配した江戸氏の根拠地であり、地名を武蔵国豊島郡(ごおり)江戸郷(ごう)と言いました。関東管領(かんれい、室町幕府の職名)を務めた上杉氏の家臣に軍法に優れ、和歌に秀でた武将の太田道灌(1432〜1486年)がいましたが、1457年に初めて江戸に城を築き、それ以後江戸は城下町として徐々に開けました。寛正5年(1464年)に太田道灌が江戸から上洛し、室町幕府八代将軍の足利義政(1435〜1490年)に拝謁した折り、後土御門天皇から江戸についてのご下問があった際に、江戸城の富士見櫓に立つ三層の館からの眺めを詠んだ和歌を奉じました。 わがいほ(庵)は松原つづき海近く、富士の高嶺をのきば(軒端)にぞ見る ![]() 右図は太田道灌の時代よりも四百年前、つまり紫式部(973頃〜1014年頃)や清少納言(名前・生年・没年・不詳)が生きた頃の、平安中期(今から千年前)における東京湾の地形図ですが、太田道灌の和歌でも知られるように、その当時は現在の日比谷、丸の内方面(南東側)は日比谷入り江と呼ばれた海であり、赤丸で示す江戸城の石垣の近くまで海岸になっていました。 その後16世紀に天下を取った豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康(1542〜1616年)が、三河の岡崎からしぶしぶ江戸に移り住んだのは天正18年(1590年)のことでした。その当時江戸の住民が常に悩まされたのは、低い土地がもたらす川の氾濫と高潮の被害でした。記録によれば
[2:東京湾と利根川]上記の表では利根川の堤防が決壊すると、江戸に洪水の被害が起きました。関東地方では利根川のことを古くは、坂東太郎とも言いましたが、坂東の語源は箱根の標高759メートルの足柄峠や、上州(群馬県)と信濃(長野県)の境にある標高1,180メートルの碓氷(うすい)峠の坂よりも東にあるため、昔から関東地方のことを坂東と呼びました。
関東地方を代表する川を坂東太郎と呼んだように、九州では筑後川を筑紫次郎、四国では吉野川を四国三郎と呼びました。関東地方の住人はご存じですが、利根川は群馬県と新潟県の境の山脈に水源を発し関東平野を図の赤線で示す東南東の方向に流れ下り、千葉県の銚子で図の「2」に示す太平洋に注ぎますが、江戸時代より以前の利根川は銚子に流れずに、実は図の青線で示す様に「1」の東京湾に流れ込んでいました。 ある時親戚が住む埼玉県内の地図を見ていると、古(ふる)利根川とか元(もと)荒川という名前の川を目にしましたが、それが今回利根川、荒川を随筆の題材にしたきっかけでした。前述の徳川家康が江戸に入府した頃は利根川中流の(現、埼玉県)栗橋付近から下流に掛けての地域は、利根川をはじめ荒川や渡良瀬川、権現堂川などが、入り乱れて流れていて川筋が一定せず、たびたび洪水に見舞われていました。それによる洪水の被害地域は江戸の下町やその周辺(現東京都台東区・墨田区・葛飾区・江東区・江戸川区)だけでなく、埼玉県南部などにも広がっていました。 川の洪水を防いで人々の暮らしを守り農業生産の安定を図る治水は、昔から為政者にとって最も重要な課題でしたが、そこで徳川家康は、
1:低地にある江戸の水害を防ぎ、という目的から利根川の本流を南の東京湾ではなく、東に向きを変えて流すことを計画しました。
[3:関東郡代による工事監督]![]() 埼玉県北葛飾郡栗橋町の南東7キロに千葉県東葛飾郡の関宿(せきやど)町がありますが、そこから利根川の流れを東に変えて太平洋に流すことを計画し、台地を掘削して赤堀川としたほか、利根川上流の流れを鬼怒川に合流させ、常陸川と多くの湖沼を接続して利根川を銚子に流す工事をおこないました。右の衛星写真で黒く太いのは現在の利根川の本流ですが、黄色丸印で示す関宿(せきやど)から左に分岐している細い川が、江戸期以前には東京湾に流れ込んでいた旧利根川であり、現在は名前を変えて江戸川と呼ばれています。 徳川家康はこの計画の実施に際しては、関東の幕府領を支配する職名である関東郡代に伊奈備前守忠次を任命して工事に当たらせましたが、工事の重要性から関東郡代の職を1590年から1792年まで二百年間伊奈氏の世襲とし、文禄3年(1594年)から六十年の歳月をかけて工事に当たらせました。 利根川改修工事は親の伊奈忠次から子の二代目忠次へ、子から孫の三代目忠次へと受け継がれ、承応3年(1654年)に一応完了しました。その結果利根川の長さは信濃川に次いで日本第二位の全長 322 キロメートルとなり、その流域面積は日本一の 16,840 平方キロ・メートルになりました。 しかしこれで利根川の工事が終了したわけではなく、それ以後も改修工事を重ね明治以降の大規模な改修を経て利根川は現在の姿になりましたが、これを利根川の東遷(とうせん)といいます。ちなみに昭和55年(1980年)改訂の利根川計画流量配分図によれば、関宿(せきやど)における利根川本流の流量が毎秒11,000 立方メートル であるのに対して、関宿から東京湾に向けて流れる江戸川(旧利根川)の水量は、毎秒 6,000 立方メートルの割合です。つまり旧利根川に比べ約二倍の水量を利根川本流に流すことにより、江戸そして東京の下町を水害から守ってきました。
[4:河川による舟運の発達]利根川の東遷工事の完成により、新たな水路を利用した舟運による物資輸送が可能になりました。それによって東北地方から江戸に来る外洋船は、房総沖の黒潮と親潮がぶつかるところで海難が多く発生するため、江戸湾に入港するよりも、利根川河口の銚子に入港するようになりました。銚子港はそれまでの単なる漁港から、大型の外洋船から利根川を遡行する川舟への荷物の積み替え港として発展しましたが、それと共に利根川・江戸川を経由して江戸に入る水路 が、江戸と東北地方、関東一円の農村とを結ぶ、流通河川としての役割を担うようになりました。
利根川下流では米俵1,200俵(約72トン)も積める巨大な船も航行していましたが、米以外にも舟荷として知られていたのは干鰯(ほしか)でした。「ほしか」とは鰯(いわし)漁が盛んだった房総半島の東岸にある、九十九里浜で水揚げした鰯を干したものですが、これは肥料として大量に使われたので、舟運の発達は関東の農家に利便をもたらしました。鉄道が未だ無かった時代なので浅瀬が多い川に適した、吃水の浅い高瀬舟(注1:参照)が使われましたが、ここで質問します。高瀬舟が川を遡行する場合は、どのような方法をとったのでしょうか?。 ところで昭和30年(1955年)頃に千葉県の野田市を訪れたことがありましたが、東武野田線にある野田駅を降りると町中に醤油の匂いが漂っていました。野田には全国的に有名な、野田醤油のキッコーマン(亀甲萬)の工場がいくつもあったからでした。野田の産業は醤油が中心で寛文年代(1661〜72年)から始まりましたが、その後は十八世紀になると生産量が飛曜的に増大し、それまで上方から菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽回船(たるかいせん)(注:2)によって江戸に大量に運び込まれていた関西からの醤油にとって代わり、野田の醤油が江戸市中の需要を賄うほどになりました。
製品の醤油は勿論のこと、その原料となる大豆や小麦も吃水の浅い河川での航行に適した高瀬舟で野田に運ばれました。質問の答である高瀬舟が川を遡行する方法とは、櫂(かい)や棹(さお)を使い遡行できる場合はそれに頼り、追い風の時は帆を張り、そうでない時はロシア民謡のボルガの船歌にある、 「エイコーラ、エイコーラ、もひとつエイコーラ」と同様に、川岸から人力による曳航をしました。写真は大正10年(1921年)に他の川で撮影された高瀬舟の写真ですが、左端にロープを曳く人が見えていて、ロープの数から少なくとも三人、それ以外の一1〜二名の合計四〜五名で舟を曳いています。 その当時はそれ以外の方法がなかったので人力曳航は当然のこととされ、専門の曳航人夫がいました。 注:1)高瀬舟
高瀬とは川底の浅い所つまり浅瀬の意味ですが、高瀬舟とは河川で貨客を輸送するのに使用した底(吃水)の浅い舟のことです。前述のように櫂(かい)か棹(さお)を使って動かす小舟でしたが、江戸時代に利根川水系に就航したものだけは非常に大型化しました。 なお京都生まれの豪商で、朱印船貿易(現在の海外貿易)もおこなっていた角倉了以(すみのくら・りょうい、1554〜1614年)がいましたが、彼は河川の開発を積極的におこない京都の鴨川の東西に運河(鴨川の分水路)を開きました。貨物輸送の高瀬舟が上下したところから舟の名前をとってそれぞれ東高瀬川、西高瀬川と名付けられました。ところで私が最も軽蔑する人間である 森 鴎外には、高瀬舟という題名の小説があります。 注:2) 菱垣廻船・樽廻船
菱垣(ひがき)廻船とは江戸時代に大阪・江戸の幹線航路に就航して大量の消費物資を江戸へ輸送した輸送船のことで、菱垣廻船の問屋仲間に所属する船の目印として、舷側下部に菱組(ひしくみ)の装飾を付けたことから名付けられました。 樽(たる)廻船とは1730年に菱垣廻船から独立して関西の酒荷・樽荷を専門に江戸へ輸送した廻船仲間の船のことで、船も千五百石から二千石の大型船を使用し、江戸後期では年間に百万樽の酒を江戸に運びました。
[5:利根運河]![]() 前述の野田醤油を江戸を初めとする各地へ輸送するには町のすぐ西側を流れる江戸川や、東側五キロの所を流れる利根川の舟運が使われたのは当然でした。しかし江戸に物資を運ぶ場合、利根川と江戸川が分かれる遙か上流にある前述した関宿(せきやど)経由では距離が遠くなるため、明治時代になると利根川と江戸川を結ぶ長さ8キロ、幅18メートルの運河が計画され、野田の南にある利根川橋のすぐ西の地点から、千葉県流山に至る利根運河を開削して明治23年(1890年)にショート・カットの水路が完成しました。 利根運河が造られた当初は江戸川から利根川に向けて水が流れるよう、僅かな勾配をつけた設計になっていましたが、明治29年(1896年)の洪水で利根川の川床が上がり、逆に江戸川に向けて水が流れるようになりました。その後も利根川の川床は少しずつ浅くなり続け、運河時代の末期には人力曳航で運河を利根川方向に向かう場合には、当初の数倍の人夫を雇わないと、船を曳くことができないほど運河の流速が早くなってしまいました。
写真は人力曳航に代わる動力船が導入された利根運河を航行する外輪船ですが、東京の深川から江戸川、利根運河、利根川を経由して、千葉県の銚子まで18時間で人や物資を運べるようになりました。しかし間もなく始まった鉄道輸送との競争で、舟運は太刀打ちできずにやがて衰退しました。
[6:荒川について]荒川は甲州(山梨県)、武州(埼玉県)、信州(長野県)の三県にまたがる甲武信岳(こぶしだけ、2475メートル)に源を発し、埼玉県内、東京都内を東京湾に向けて流れ下る全長 173 キロメートルの川ですが、以前長野県側の川上村梓山(あずさやま)から甲武信岳に登ったことがありました。子供の頃の昭和21年から三年間、埼玉県秩父町(当時)に住んでいたので、夏になると箱メガネとヤスを持って近くの荒川に遊びに行き、魚やカジカをヤスで突いたり急流で泳いだりして遊びました。当時の荒川は水が非常に澄んでいて敗戦直後のため釣りをする人も少なく、魚も沢山いましたが川の中で静かにしていると魚が足をつつきに来ました。荒川の語源は言うまでもなく荒ぶる川から名付けられたものですが、過去に幾度となく洪水による氾濫を繰り返してきました。古くは宇多天皇の勅命により作られ、天安2年(858年)から仁和3年(887年)までの30年間の編年体記録書である三大実録には、天安2年(858年)秋、武蔵国水勞(すいろう)という記述があり、鎌倉幕府の86年間の編年体公式記録である吾妻鏡には、建仁元年(1201年)8月の暴風雨で、下総葛飾郡の海溢れて4,000人余が溺死したことが記されています。 また、鴨長明(1155頃〜1216年)が編纂し1215年頃までに成立したとされる説話集の発心集には、「武州(武蔵国)入間河原の事」として、堤の中に畑や家屋があったこと、洪水により堤が切れ、天井まで水が溢れ、やがてゆるゆると家が押し流されていく様子が書かれています。ほかにも、慶長元年(1596年)には百年に一度といわれる大洪水があったこと、慶長19年(1614年)に諸国出水、元和三年(1617年)入間川洪水、元禄元年(1688年)荒川洪水など、文字に残された水害は数多くありました。
前記の水害被害表にある江戸時代最大の水害である、寛保2年の洪水の水位を示す具体的証拠が秩父の荒川岸の岸壁にあります。武州秩父郡樋口村(現、埼玉県秩父郡長瀞町上下郷)には寛保2年洪水位、磨崖標(県指定史跡)があって、この時の水位を示す為に当時の人が岩壁に水の字を刻み、後世の人の参考に留めています。その下方には「寛保2年壬戌8月10日、亥刻大川水印迄、田方田弥兵衛、滝上市右衛門」と刻まれています。 その時の水位は現在の荒川の川床から、実に24メートルの高さ( 荒川上流河川事務所資料 )もありました。この洪水では荒川、利根川が氾濫し、関東一円が浸水しました。
[7:荒川放水路]![]() 子供の頃、東京都豊島区巣鴨に住んでいた私は釣り好きの父親に連れられて、王子電車(現在唯一路線が残る都電の荒川線)に乗り王子駅で市電(当時)に乗り換えて、東京と埼玉県の境界を流れる荒川によく行きました。その当時は写真の岩淵(いわぶち)の水門(現在の赤水門)から下流を流れる荒川のことを荒川放水路と呼んでいましたが、戦後はなぜか放水路を付けずに単に荒川と呼ぶようになりました。「荒ぶる川」の荒川は古来よりたびたび氾濫して人々を苦しめましたが、明治43年(1910年)に壊滅的な大洪水が東京を襲い下町のほとんどが浸水し、死者369名を出しました。この水害によって、政府は荒川を本格的に改修することを決めました。 それまでの荒川は、下流では隅田川と名前を変えて東京の下町を流れて東京湾に注いでいましたが、川幅が狭くしかも両岸の堤防が低かったので洪水を防ぐことができませんでした。
そこで荒川にバイパスの役目をする放水路を作り、荒川本流の水を途中から放水路経由で東京湾に流すことにしました。そのバイパス工事開始地点が前述した水門(赤水門、図の赤字のA)です。明治44年(1911年)から工事が始められ、岩淵(いわぶち)から東京湾に流入する中川の河口まで、全長22キロメートル、幅500メートルにもおよぶ大規模な放水路が開削されましたが、工事開始に先立ち住民の移転から始まりました。なお青色 B の水門(青水門)は戦後にできたものです。
放水路開削工事には戸数1,300戸の移転が必要になりましたが、1,098町歩の土地を買収すると共に、流域住民に仕事を与える為に延べ310万人を土工として雇用し、20年もの歳月を掛けて昭和5年(1930年)に荒川放水路が完成しましたが、私が産まれる三年前のことでした。信じられないでしょうが当時の荒川や隅田川には、上流の埼玉県秩父から木材を筏に組んで筏師が乗り、筏流しで木材を東京に運んでいたのを子供の頃に何度も見ました。そしてその当時の水門は、現在のように赤色に塗られていませんでした。 水門は隅田川に流れる流量を調整するとともに、通常の舟運には支障がないように設計されていますが、増水時には水門を閉めることによって、下流にある隅田川の氾濫を防ぎ東京下町を水害から守っています。
大正13年(1924年)に完成した赤水門は完成以来58年が経過し、その間に関東大震災などの影響もあり、最大2メートル以上も地盤沈下や左右岸の不等沈下が生じたため、昭和57年(1982年)に赤水門の直ぐ下流に前述した新しい水門(青水門、図の青字の B )を作り役目を交代させ、200年に一回の大洪水にも耐え得るように計画されています。
[8:パナマ運河での技術経験]![]() この大規模開削工事の最高責任者(主任技師)を務めたのは青山 士(あきら、1878〜1963年)でしたが、彼は明治36年(1903年)に東京帝国大学工学部を卒業後単身で渡米し、唯一の日本人技師としてパナマ運河開削工事に従事しました。測量の下働きからスタートし測量技師になり、後に技術力が認められ、後年ガツン・ダム及び閘門(ロック)の設計技師に抜擢されました。しかしその頃からアメリカで盛んになった中国人、日本人などの有色人種に対する蔑視、排斥運動により、パナマ運河の完成を見ずに帰国しました。 帰国後明治45年(1912年)に内務省に入り、内務技官として改修工事を担当しましたが、彼は現場主義をとり常に現場に出向き作業員と一緒に働き苦労を共にしました。荒川放水路開削工事には、彼のパナマ運河における工事経験が十分に生かされました。
それは機械力の大幅使用であり掘削地点にレールを敷き、蒸気機関車が牽引するトロッコで掘り出した土砂を運ぶと共に、放水路に注水後は川床の更なる掘り下げには蒸気エンジンを使用した浚渫(しゅんせつ)船を使用するなど、従来の人力一辺倒の工事とは画期的に異なる工法を採用しました。
工事完成後には工事主任技師の青山 士(あつし)及び工事関係者一同が、工事の犠牲者を弔うために資金を出し合って荒川放水路完成記念碑を岩淵の水門の傍に建てましたが、そこには以下の言葉が記されています。
此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル、我等ノ仲間ヲ記憶センカ爲ニこの碑には工事の最高責任者であり功労者でもあった、青山 士(あつし)の名前は刻まれていませんでした。大規模な土木事業は関係者全員による努力の結果完成したものであり、特定の個人の名前を記念碑に記すべきではない、とする彼の思想が明確に示されていました。その点で「お偉方」の名を後世に残し顕彰することを目的とした、他の多くの工事記念碑とは大きな違いがありました。
[9:放水路の洪水防止効果]荒川における洪水防除計画によれば、200年に1度あるか無しかの洪水の際に流れる水量を基本高水流量と言いますが、それが起きた場合には河川の急激な増水を防ぐ為に貯水ダムや洪水調整池で一時的に貯水させます。その際に特定の地点(例えば岩淵)を流れる荒川の水流についてはピーク流量一覧表によれば、毎秒7,700立方メートルが荒川放水路を流れ、隅田川に流れる水は毎秒2,100立方メートルになります。つまり隅田川よりも 3.7倍多い水量を荒川放水路にバイパス(迂回)させることにより、東京下町の洪水を防ぐことができるようになりました。
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