ドゥーリットルの空襲(1)、日本初の空襲を目撃支那事変(日中戦争、昭和十二年、1937年開始)当時から日本は支那(中国)大陸の軍事目標に渡洋爆撃(海を越えて爆撃に行く) をしても、相手側から空襲を受ける危険性はまったくありませんでした。
実はその当時、東京の国民学校(小学校のこと)三年生だった私は、日本初の空襲の様子を目撃しました。 それは昼過ぎのことでしたが自宅の前で見ていたので、調べるとその日は土曜日で午後から学校は休みでした。 爆音がしたので空を見上げると濃い藍色というか黒っぽい感じの大きな飛行機が、低高度で 北東方向からJ R 山手線、大塚駅の上空を 通り、南西の方向へ飛んで行くのが見えました。 その時には地上からの対空砲の射撃も無く、迎撃の戦闘機も飛んで来ず、敵の飛行機だとはまったく知らずに、大きな飛行機が異常に低 い高度を飛んで行くのを見ていました。空襲警報のサイレンが鳴り響いたのは、すこし経ってからでした。
この空襲による被害は少なかったものの、これまで日本の防空体制は万全であると国民に豪語していた陸海軍の面目は丸つぶれになると共に、敵機の侵入を易々と許した防空監視体勢の不備と、一機も捕捉、撃墜できずに全機を中国大陸やソ連領に逃走させた迎撃体勢の欠陥を、国民の前にさらしました。
軍事作戦としては見るべき成果がなく、指揮した全機を失ったドゥーリットル中佐は、パールハーバーで打ちひしがれたアメリカ国民の士気を高めたので、二階級特進して准将に任命され、議会の名によって大統領が授与する最高の勲章である名誉勲章、「 The Medal of Honor 」を与えられました。
(2)、灯火管制大東亜戦争(太平洋戦争のことを当時はこのように呼びました)開始後から防空演習が頻繁に行われるようになりましたが、その手始め は夜間の灯火管制でした。訓練の警戒警報が発令されると各家庭では窓に黒いカーテンを下ろしたり、照明を小さくして室内の明かりが 外部に漏れないようにしました。その際に少しでも明かりが外に漏れると、町内を警戒中の警防団員から注意をされました。街灯も消えた真っ暗な町内を通行する人や 、無灯火で自転車に乗る人などは衝突防止のために蛍光塗料を塗った丸いバッジを胸に付けていました。
その頃から児童達は防空頭巾と称する厚い綿の入った頭巾を家庭で作ってもらい、それを肩から下げて登校するようになりましたが、 空襲の際にそれを被ることで爆撃を受けた際の頭部や顔面の負傷を防止する為でした。 また爆撃を受けた場合に取る姿勢として、地面に低く伏せて両手で目と耳の孔を押さえるように先生から教わりましたが、爆風から目 や鼓膜を守る方法でした。
(3)、阻塞気球![]() 阻塞気球(そさいききゅう)という兵器があったのを知る人は今では殆どいないと思いますが、当時の陸軍が使用していた金魚の形をした気球のことです。防空上の目的から重要な地域や施設の上空にこれを上げて係留し、敵機が地上攻撃をする際に飛行の障碍となる役目をさせるものでした。 防空演習の度に私の家の二階からは数個の気球が空に上がっているのが見えましたが、その高さは日本ではせいぜい数百メートル程度でした。写真は91式繋留気球ですが、これを上げたり降ろしたりするには沢山の人手が必要でした。 この防護装置が B-29 の空襲の際に役立つたという話は、これまで見聞きしたことがないので、多分役に立たなかったのでしょう。 しかしハワイの真珠湾を攻撃する日本軍にとって、真珠湾が阻塞気球で防衛されているかどうかは重要な情報でした。そのため日本からホノルル総領事宛の極秘電報では真珠湾上空に気球があるかどうか、またはそれを上げようとする兆候があるかどうかを出来うる限り、毎日報告せよとありました。 開戦の前日にホノルル総領事の喜多長雄から日本に送られた電報には、阻塞気球が上がってないことと、今が奇襲攻撃の絶好の機会だと述べられていました。この阻塞気球を使用したのは日本だけでなく、ドイツやイギリスも使用していました。
(4)、聴音機昭和十八年(1943年)のこと、当時十才でした私は家から五キロの所にある後楽園球場(東京ドームの前身)まで、友人と自転車に乗り遊びに行きましたが、その当時の後楽園球場の周囲は雑草の生えた広い空き地となっていて、そこには陸軍の高射砲部隊が配備されていました。
周囲には聴音機や照空灯などもあり、その周辺にあった数少ないビルの屋上には、高射機関銃(対空機関砲)が銃身を空に向けて備え付けられていましたが、日本の防空能力、対空砲火とはこの写真と同じ程度のものでした。
ビクター、レコードの広告に、主人の声(His master's voice )が拡声器(ラッパ)から出てくるのを不思議そうに聴いている犬の姿がありますが、当時の陸軍ではこれに似た聴音機を対空測的兵器として使用していました。
左側のは巨大なラッパ状集音器や大型、中型の集音器など四個を組み合わせた機械を、三百六十度旋回可能な台に乗せたものでした。音感に優れた聴音兵がそれを使用して飛行する敵機の方向や機数などを測定し、高射砲部隊に連絡するという原始的な仕組みでした。
しかし米国や英国では、太平洋戦争開戦前の昭和十五年(1940年)頃から既にレーダーを開発して敵機の方位、距離を探知していましたが、聴音機は第一次大戦(1914年〜1918年)において使用された、二十年以上も時代遅れの役立たずの兵器でした。
(5)、防火訓練、火はたき戦時中の都市部の一般家庭では内務省防空総本部の指示に従い、空襲に対する防火体勢確保の為に、各戸毎に四斗樽やドラム缶を利用し た防火用水槽を家の周囲に設置していました。しかし夏になるとその水槽にボウフラが涌くために、蚊が異常に多くなったので皆が困りましたが、その対策として水槽で金魚を飼うこ とになりました。金魚にボウフラを食べさせたのです。 防火訓練の際には各町内に消防ポンプも消防用のホースも無かったので、警防団員の指揮のもとに隣組の主婦がバケツ・リレーで前述の 防火水槽から水を運び消火をしたり、焼夷弾に見立てた花火や発炎筒を「ムシロ」や砂袋を使い消す方法を訓練していました。 訓練日は予め知らされていたので、バケツ・リレーの際に水槽から金魚を汲み出されない様に、どこの家庭でも防火用水槽の金魚を予め 別の容器に避難させておきました。
防火訓練はバケツ、梯子、ムシロ、「火はたき」の四つの道具を使っておこなわれましたが、火はたき について知る人は今では殆どいないと思います。 それは物干し竿のような長い竿の先に縄を沢山付けた「はたき」で、火災が家の軒先など高い所に飛び火した場合に、火を叩いて消する ために使う道具でしたが、誰が考えても焼夷弾攻撃による火災には全く効果の無いことは明らかでした。 レーダーや飛行機に見られる米国との技術力の格差は歴然たるもので、生産力では十倍以上の開きがありました。竹槍でB−29(に対抗する)という日米の国力の違いを自虐的に表現した言葉が敗戦後に流行り ました。 当時の都市住民は江戸時代さながらの火消し道具である「火はたき」やバケツ・リレーによる水運びなどで、最新技術の粋を尽くした B−29による大規模、無差別の焼夷弾攻撃に立ち向かうことを余儀なくされました。
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