( 6 )、冬の寒さ、蚤、シラミ

現地で疎開児童を悩ませたものは三つありましたが、これまで述べた 空腹、それに安眠を妨げる蚤、シラミ、そして長野の山奥の 冬の寒さでした。

雪の積もった家 その当時の東京では小学生の服装は、冬でも半ズボンに黒の長い靴下をはき、長ズボンは中学生になってからはくものと決まっていました。ところが積雪地に疎開するというのに、物資不足のため、防寒衣服などの支度が十分に用意できないまま疎開しなければならなかったのです。

積雪地での生活に不可欠なゴム長靴でさえ、原材料である東南アジア産の天然ゴムの輸入が途絶えたため、買えない状態でした。

そのうえ現地での暖房といえば、75名の学童に対して、大きな掘り炬燵が三つというありさまで、積雪一メートル以上の土地での きびしい冬 を過ごしました。

蚤やシラミにもかなり悩まされました。75名の集団で寺に疎開したものの、寺には児童の為の入浴設備がありませんでした。そのため週に一回程度、近所の農家の風呂を借りて水汲み、薪運び、火の番を児童が担当しながら昼間から交代で入浴しました。

戦時中の資材不足の為に風呂場ができたのは二ヶ月後のことでしたが、そのような衛生環境からか、いつの間にか皆にシラミが涌くようになりました。私は疎開して初めてシラミを見ましたが、扁平で体長四ミリ程度の白い色をした昆虫で、吸血するとシラミの体内で血が透き通って黒く見えました。

人間に寄生するシラミにはヒト(人)ジラミとケ(毛)ジラミがありますが、更にヒトジラミには二種類あって、頭部の毛髪に寄生する黒い色をしたアタマジラミと、下着に付着して吸血する白い色のコロモジラミがあります。

男子は丸坊主なのでアタマジラミには関係ありませんでしたが、後に同級生の女子から疎開当時の話を聞くとアタマジラミにも悩まされたそうです。

シラミの吸血による、もぞもぞするカユミは我慢できましたが、下着の縫い目にびっしりと銀色がかった卵が産みつけられていたのを見ると、気持ち悪くなりました。

ときどき下着を脱いでは皆でシラミ取りをしましたが、大きく成長したシラミを見つけると大きさを比べ合ったり、火あぶりの処刑をしたりしました。堀り炬燵の炭火のうえにシラミを落とすと、プツンと音がしてスルメを焼くような臭いがしました。

殺虫剤が全く手に入らなかったのでシラミが児童の間にドンドンまん延繁殖したため、先生も困り果てて下着を大釜で煮沸してシラミを駆除することにしましたが、煮沸された下着をみると赤く茹であがったシラミが沢山付いていました。

しかし多数の児童の下着を一度に煮沸できずに、何日にも分けて煮沸するため、シラミの数はかなり減ったものの、根絶はできませんでした。後で考えると恐らく寮母さんが児童の下着をまとめて洗濯(手洗い)する際や、入浴時の脱衣所で下着を着脱する際に、シラミが移動するからだと思いました。

物資不足から何年間も畳替えをしたことのない寺の古だたみは、蚤の温床のようなものでした。蚤はシラミと違い喰われるとかなり痒く皮膚に跡が付きますが、跳んで逃げるのが速く捕まえるにも苦労します。毎朝布団を畳む際には昨夜私を悩ませた蚤が、シーツの上で五〜六匹もピョンピョン跳ね回っていました。

寒くなると蚤は自然に居なくなり安眠ができるようになりましたが、体温で暖められるせいか、シラミは寒さとは無関係に繁殖を続けました。

[ピサの斜塔]

ピサの斜塔 尾籠な話で恐縮ですが、屋外の高さ 1 メートルほどの石垣に張り出して作られた北向きの吹きさらしの便所には、冬になると竹の子が生えるように大便の塔ができました。75名の児童が落下させた大便が寒さですぐに固まり、その上に次ぎ次ぎに投下するので、丁度ピサ(Pisa)の斜塔の様に「塔」が形成されてゆき、しまいには便器に届くまで、1 メートルの高さまで成長しました。

これでは便所が使えなくなるので先生が村人に頼み、三つの個室毎に出来た ピサの斜塔 をクワで倒してもらい、その後は安心して使えるようになりました。

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( 7 )、病気

寒さと栄養不良から、多くの子供が しもやけ に悩まされました。手足の指と甲、それに耳です。赤く腫れるだけでなく、ひどくなると皮膚が くずれて きました。

しかしその当時の農村社会では村人は医療とは無縁の生活を送っていて、我々も余程の病気やケガ以外は町の医者には行かずに、風邪にはアスピリンを飲み、ケガには赤チン ( マーキュロ ) を塗り、下痢には征(正)露丸と絶食で病気を治しました。

しかし腹をこわした者は、ただでさえ少ない食事から、更に 一食ないし 二食を絶食させられては堪らないので、仲間に知られるのを非常に恐れました。そのため便所には行かずに、わざわざ山で排便するなどして病気を隠す者もいました。

( 8 )、空襲警報

昭和 20 年 ( 1945 年 ) になると、こんな山奥の村にも警戒警報や空襲警報が発令されるようになりました。しかしその警報の伝達方法とは、13 キロ離れた上田市の警報 サイレンが鳴ると、それを聞いた付近の村で火の見櫓の半鐘を打ち鳴らし、その音を聞いた次の部落でも火の見櫓に登り半鐘を打つというようにして、次々に部落の半鐘を鳴らして山奥の部落まで半鐘の音で警報が伝達される仕組みでした。

ある時、写真撮影か気象観測でもするのでしょうか、一機の B−29 が高空を飛行機雲を引きながら飛んでいるのが見えましたが、それが飛び去った後しばらくしてから、空襲警報の発令を知らせる半鐘が聞こえてきました。

またある日近くの山に遊びに行ったところ、米国製の銀紙の幅 3 センチ長さ 3 メートル程度の ヒモ状のものが落ちているのを見つけましたが、米軍の飛行機が何の目的で落としたのか誰にも分かりませんでした。しかし成長してからそれは、飛行機から大量に撒くことにより敵の レーダーの電波を乱反射させ、攪乱する目的で使うものであることを知りました。

しかしその当時 ドイツや米英などに比べて、比較にならぬほど科学技術面で劣っていた日本の防空監視体勢を米軍が知っていたならば、使う必要がなかったと思います。

敗戦の僅か 2 日前の 8 月 13 日には当時茨城県沖の鹿島灘にいた、航空母艦 ハンコック 及び ベニントン から発進した合計 62機 の艦載機が長野県北部に飛来し、長野市、松代、篠ノ井、丸子、上田市などが空襲の被害に遭いました。当時上田市の郊外にあった陸軍、熊谷飛行学校上田分校の飛行場などにも機銃掃射を行い、爆弾を投下するなどして、多数の犠牲者が出ました。

赤トンボ 上田飛行場は長野県に集団疎開した昭和19年秋の遠足で訪れた場所ですが、そこでは 赤 トンボ と呼ばれた 2 枚翼の布張りの練習機に生まれて初めて触れ、翼に登り操縦席を覗くことができました。それは当時 11 才の少年に大空への夢を与え、希望で胸を膨らませることになりました。

操縦室 飛行機見学から 13 年後の昭和 32 年 ( 1957 年 ) の春に 23 才で渡米して、アメリカ海軍飛行学校で 2 年間飛行機の操縦を習いました。それ以後 パイロットとして 36 年間、国内海外の空を 1 万 8 千時間飛ぶことができて、子供時代の夢をかなえることができました。



原子爆弾

昭和 20 年 ( 1945 年 ) 8 月 6 日に広島に、9日には長崎に原爆が投下されました。

広島に投下された後、30時間以上経った翌日 ( 7日 )の午後 3 時 30 分になって、大本営はようやく ラジオを通じてその事実を国民に発表しました。

  • 一、昨 8 月 6 日広島市は、敵 B−29 少数機の攻撃により相当の被害を生じたり。

  • 一、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも、詳細目下調査中なり。

注:)
なお原爆に関しては表紙の大項目「太平洋戦争について」にある中項目、原爆投下、(一)原爆投下、(二)において、詳しく述べています。

山奥に疎開していた私達は、先生から新型爆弾が落とされたという話しを聞きましたが、被害の程度などはわからず、先生自身も当然の事ながら新型爆弾とは如何なる物かは知りませんでした。

しかし今後は空襲になったら白い服装をして、白い布を頭から被るようにと教えられました。それまで白い服装は敵戦闘機の パイロットの目を引き攻撃され易いというので、なるべく白い服装をしないように言われていました。原子爆弾という名前やその強烈な破壊力を私が知ったのは、敗戦後のことでした。

敗戦後からしばらくの間、広島周辺の人達は原爆のことを 「 ピカドン 」 と呼んでいましたが、その語源は最初に 「 ピカッ 」 と閃光がして、その後に 「ドーン」 という爆発音がしたからでした。しかし 「 ピカドン 」 の体験者がおおかた老齢により死亡した現在では、この言葉は既に死語となっています。


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