ペリーの黒船

[ 1:黒船とは ]

米国東インド艦隊司令官 ペリー准将 ( Commodore Perry )が率いて日本にやって来た軍艦のことを、黒船と呼んでいたので 鉄製の船と思っている人がほとんどですが、実は当時の黒船すべてが木造船でした。黒船と呼ばれた理由については、木造船の外板に日本では未だ知られていなかった、コール・タール ( Coal tar ) 系の腐食防止剤を塗っていたので、船体が黒く見えたからでした。

サスケハンナ

黒船について更に誤解がありましたが、それまで見たこともない煙突から黒い煙を吐き出す蒸気 エンジンを備えていた船は、ペリー艦隊の中でも僅か数隻に過ぎず、それ以外の船は全て帆船でした。蒸気船についても、なぜか帆走用の三本 マストに横帆、縦帆まで装備していましたが、それだけではなく水車のような形をした外輪を両舷に持つ、帆走兼用の外輪船でした。絵図はペリーが初めて来航した時の旗艦となった、 サスケハナ ( Susquehanna )です。

[ 2:船舶用蒸気エンジンの発明 ]

人類が初めて手に入れた人工の動力は 2 千 2 百年前の水車であり、それから 1 千年遅れて風車が発明され、その次は蒸気 エンジンでした。この エンジンを最初に実用化したのは イギリスの発明家 トーマス ・  ニューコメン  ( Newcomen、1663〜1729 年 )  で 1712 年のことでしたが、この ニューコメン ・ エンジンは鉱山の排水ポンプの動力として広く使用されました。その後1769 年に スコットランドの技術者であり発明家でした ジェイムス ・ ワット ( 1736〜1819 年 ) が、真空圧を利用した蒸気 エンジンを発明し、その後の蒸気 エンジンの発達に貢献しました。

蒸気エンジン画

ワットの重要な発明のひとつは、一度動力源として使用した蒸気を再び回収して、 復水器 ( コンデンサー、Condenser ) で冷却して水に戻すという、水の再利用が可能な蒸気 エンジンの付属装置の開発でした。これによって 水の補給が得られない  洋上を長期間航海する船にも、蒸気 エンジンの搭載が可能になりました 

給水塔

ちなみに昔 J R で使用されていた蒸気機関車には復水器が無く、 ピストンを動かして動輪を回転させた蒸気は回収せずに外気に放出したため、2 百 キロ前後の距離を走る毎に機関車後部の水 タンクへの給水が必要になり、所定の駅に停車中に給水塔から給水しました。

クラーモント

1807 年には米国の発明家 ロバート ・ フルトン が船に 20 馬力の蒸気 エンジンを搭載して、排水量約 80 トンの外輪式蒸気船 クラーモント 号を建造し、ニューヨークの ハドソン川で ニューヨーク〜 オルバニー間の商業運航を開始しましたが、これが 実用的な蒸気船のはじまり でした。軍艦としては 1815 年に同じく フルトンが建造した、 デモロゴス( 2,475 トン ) でした。写真は クラーモント号ですが、外輪船の特徴である パドル ・ ホイール ( Paddle Wheel、 水掻き車 ) の様子が分かります。


[ 3:外輪船 ]

外輪車

ペリーの蒸気艦を含めて初期の推進装置は、前述した如く船の中央両舷に写真の様な外輪 ( Paddle wheel ) を装備した外輪式でしたが、これは水車からの連想でごく自然に作られたものでした。外輪を装備した船も次第に大型化され、軍艦では 1845 年に建造された イギリス海軍の テリブル が 3,189 トン 、ペリーが来航した際の旗艦となった 1 回目の サスケハナ が 3,824 トン 、2 回目の ポウハタン が 3,865 トン で外輪式では最大級のものでした。外輪の直径が テリブルでは 10.36 メートル、サスケハナ、 ポウハタンでは 9.45 メートルという巨大なものでした。

川船 外輪船には 2 種類の タイプがありますが、一つはこれまで述べた如く船体の両舷に外輪 ( Side Paddle wheel ) を装備したもので、外輪の回転は 1 分間に 12 回転前後というゆっくりした スピードで回りました。外輪の先端には フロートと呼ばれる水かき板が取り付けられていて、これで水を掻いて船を動かしました。他の タイプのものは船尾に外輪を持つ( Stern Paddle wheel )ものですが、波が穏やかな湖水や河川で使用し、今も アメリカ各地で観光用に使用されています。日本でも琵琶湖に浮かぶ遊覧船の ミシガンは、このタイプです。写真は ミシガン。

ところで帆装蒸気艦が エンジンを止めて風の力で帆走する際には、水かき板をそのままにしておくと水の抵抗で速度が落ちるので、これを取り外しますが、この作業は海が穏やかな時にしかできず、しかも数時間を要しました。ペリーの 「 日本遠征記 」 によると、当時 イギリスの軍艦には外輪の回転軸と蒸気 エンジンの駆動軸との接続を、簡単に脱着できる装置がついていて、わずか数分で外輪を空転 、空回りさせることが可能となり、水かき板を取り外さなくても済むような優れた構造になっていました。

標的

しかし外輪艦には軍艦にとって致命的な欠点がありました。ペリー来航の年に勃発した クリミア戦争 ( 1853 年から1856 年まで クりミヤ半島で ロシア対、トルコ ・ イギリス ・ フランス ・ サルジニア連合軍との戦争 ) では、戦闘中にむき出しの外輪が敵の砲撃の絶好の目標になったことで、その結果外輪を破壊されて航行不能となった軍艦が続出し、実戦における構造上の欠陥を露呈しました。それ以外にも荒天時に艦が ローリング ( 横揺れ ) すると一方の外輪が空中に出てしまったり、波に叩かれて破損する欠点もありました。

[ 4:3 本 マストの蒸気艦 ]

サスケハナ

ペリー艦隊の蒸気艦は蒸気 エンジンを装備していたにもかかわらず、なぜ帆走用の 3 本 マストを装備していたのでしょうか?。その当時は米国製の蒸気 エンジンの信頼性や性能に問題があったこと。外輪式の推進効率が悪く、そのうえ蒸気 エンジンだけで大西洋、太平洋横断をするのに必要な燃料や、水の搭載ができなかったことがその理由でした。米国海軍では 1852 年に建造された ポオウハタン ( Powhatan ) が航洋艦としては最後の外輪式で、 これ以後建造されたものは全て スクリュー推進式となりました 。写真は ポウハタンと同型の サスケハナ。

ちなみに蒸気 エンジンのみで初めて大西洋を横断した船は、英国で建造された 203 トン、320 馬力の外輪船 シリウス号でした。1838 年 4 月 アイルランドの コーク港を出港した シリウス号は、平均 スピート 6.7 ノットで、18 日と 10 時間を費やして、ニューヨークに着きました。前述の如く開発されたばかりの蒸気 エンジンは信頼性が十分でななかったため、シリウス号も フォアマスト ( 前方の帆柱 ) には横帆、メインマスト ( 主帆柱 ) には縦帆を備えていました。

[ 5:軍艦同士の綱引き ]

あるとき イギリス海軍では蒸気艦の新規建造をするに際して、推進装置として従来からの外輪式にするのか、新たに開発された スクリュー式にするのか議論が分かれました。1843 年に イギリス海軍初の スクリュー式軍艦の ラトラー( 1,112 トン、200 馬力、砲 5 門 ) が進水しましたが、ラトラーにはいろいろな種類の プロペラを取り付けて性能の比較 テストを実施しましたが、最終的には 2 枚羽根で直径 9 フィート ( 2.74 メートル )のものが採用されました。次に スクリュー方式と従来の外輪方式との推進性能の優劣を決めるために、ほぼ同じ大きさである外輪艦の アレクト と綱引きをさせて決めることにしました。

綱引き

1845 年 4 月 3 日に外輪艦 アレクト と スクリュー艦の ラトラー が、互いの艦尾を網で結んで引き合う勝負をしました。この 2 隻の艦の大きさはほぼ同じで、出力も同じ 200 馬力でした。勝負の結果は、ラトラーが平均 2.5 ノット ( 秒速1.3メートル ) で外輪式の アレクト を引っ張りながら前進して、スクリュー式の優秀性を実証しました。以後は スクリュー式蒸気艦を建造することに決めましたが、外輪艦が持つ砲撃に対する致命的な欠陥も当然考慮されました。写真の左側が勝利した スクリュー艦の ラトラー。

[ 6:黒船の一番手は ビッドル ]

黒船といえばすぐに ペリーを連想しますが、実は彼よりも 7 年も早い時期に江戸湾入り口の浦賀沖に現れた 2 隻の黒船がありました。弘化 3 年 ( 1846 年 ) 7月 20 日に突然 2 隻の黒船が現れましたが、これは アメリカ東 インド艦隊司令官の ビッドル准将 ( Commodore Biddle ) が、 旗艦 コロンブス ( 2,480 トン、帆船、大砲 [ 32 ポンド砲 ( 砲弾重量 15 Kg ) 68 門、42 ポンド砲 ( 砲弾重量 19 Kg ) 24 門装備 ] に乗り、ヴィンセンス( 703 トン、帆船 )を伴い、清国 ( しん ) と修好通商条約の批准書交換を終えて帰国の途中に、政府の命令に基づき日本との通商の可能性を打診するために浦賀に立ち寄ったのでした。

ビッドル艦隊

2 隻が投錨すると日本の多数の小舟や軍船に周囲を包囲されました。乗組員の上陸は拒否され幕府と通商交渉をするという目的は達成できずに、9 日後に退去せざるを得なくなりました。浦賀奉行によれば日本側の海岸防備は極端に劣り、湾口に配備していた大砲の数は、2 艦が持つ大砲数の 9 分の 1 に過ぎないという事実が判明しました。絵の中央の船が旗艦の コロンブスです。

[ 7:オランダ風説書 ( ふうせつがき )]

ペリーの黒船は ビッドル来航時のように 突然日本に現れて幕府を驚かせたのではなく、実は長崎に入港した オランダ船がもたらした オランダ風説書 ( ふうせつがき、注参照 )や、中国の貿易船による唐船風説書からの情報により、アメリカ政府が日本に遠征艦隊を送る計画であることを、幕府首脳は一年も前から知っていました。そのために時の江戸幕府の老中、阿部正広は江戸湾の防禦強化を計ろうとしましたが、幕府の財政逼迫 ( ひっぱく )を理由に反対を受けて計画が進まないうちに ペリー艦隊の来航を迎えました。

注:)
オランダ風説書 ( ふうせつがき ) とは江戸時代に、オランダ船がもたらした海外情報をオランダ商館長がまとめ、通詞 ( つうじ、通訳 ) が和訳して幕府に提出したもので、世界情勢を知る上で数少ない手掛かりとなりました。1852 年 6 月に長崎出島のオランダ商館長が交代した際に、新商館長が提出した別段風説書によれば

北 アメリカ共和政治の政府が日本に使節を遣わして、日本皇帝に書簡を送り、日本人漂流民を送還すること、日本港の内 2〜3 箇所を、北 アメリカ人交易の為に開きたく。且つ日本港の都合宜敷( つごうよろしき ) 所に石炭を貯え置ことを、カリフォルニアと唐国と蒸気船の通路に用いたく願い立てるであろうこと。
という内容でした。

黒船

風説書が予告した通り嘉永 6 年 ( 1853 年 )年の 7 月 8 日 ( 旧暦では六月三日 )、アメリカの ペリーが黒船 4 隻を率いて江戸湾の入り口の浦賀沖に現れました。その後 ペリーは徳川幕府の制止を無視して黒船を江戸湾深く侵入させて測量をおこない、大砲の空砲を撃ち、武装兵士をところどころで上陸させるなど 江戸幕府を威嚇しましたが、そのため江戸市中も混乱し、

半鐘を打ち火事羽織の徒を集め、町人足( まちにんそく )を駈け催し−−−。
の状態となりましたが、海上では会津藩・忍 ( おし )藩の藩兵が警備し、陸上では彦根藩・川越藩の藩兵が警備に当たりましたが、ペリー艦隊は番船 ( 警備船 )を寄せ付けず、幕府役人の制止、指示をことごとく無視し、好き勝手に行動しました

1 年も前から情報を得ていたにもかかわらず、危機管理能力に欠けた幕府はうろたえただけで、無為無策の状態でした。 ペリーは幕府の弱腰を見抜き威嚇の手段を多用して 艦隊を長崎へ回航する要求や幕府の制止をことごとく退けて、修好通商を求める フィルモア大統領の親書を久里浜において浦賀奉行に受け取らせ、来年の来航を約束したうえで 7 月 12 日に退去して ホンコンに向かいました。

太平の眠りを覚ます上喜撰 ( じょうきせん )、たった四杯で夜も眠れず

アメリカが、来ても日本はつつがなし

という狂歌が有名ですが、ちなみに上喜撰 ( じょうきせん )とは上質な煎茶 ( せんちゃ )の銘柄のことで蒸気船の意味であり、四杯とは黒船 4 隻に掛けていました。つつが ( 恙 ) ないは平穏無事の意味ですが、 江戸湾入り口の浦賀付近を除き、江戸湾内部には沿岸防備用の大砲の筒が無い意味を掛けていました。

黒船艦隊

ところでこの狂歌を調べてみると、伝えられている如く ペリー 来航の際に詠まれたものではなく、実は 後年になって作られたもの でした。この狂歌の出典は ペリーが来航して二十五年後の、明 11 年( 1878 年 ) に完成した 武江年表 ( ぶこうねんぴょう )ですが、狂歌の作者の斉藤月岑 ( げっしん 1804〜1878 年 ) は江戸神田雉子町の町名主を勤め、著述家として 「 武江年表 」 や 「 増補浮世絵類考 」など他にも多くの著作があり、江戸時代を代表する時代考証家として有名でした。

4 隻の黒船は合計で 32 ポンド 砲 ( 砲弾重量15 Kg )以上を 64 門装備していましたが、江戸湾の浦賀周辺には大砲が 99 門配備されていたものの、その内 32 ポンド砲以上は僅か 19 門で、しかも大砲の射程距離は黒船の半分以下でした。ペリーは前任者の ビッドルに欠けていた断固とした決意や、相手を怖がらせる蒸気 エンジンの軍艦を持っていました。江戸幕府の首脳や武士達は 2 百 50 年の間 太平の夢をむさぼり、実際の戦争をした経験がなく、時代遅れの大砲では黒船の最新の大砲には到底歯が立たず、ペリーの要求に応じる以外方法がないことを悟りました。

[ 8:ペリー艦隊の内訳 ]

[ 第 1 次来航 ]、嘉永 6 年 ( 1853 年 ) 7月 ( 旧暦 6 月 6 日 )
  • 旗艦:サスケハナ( 帆装蒸気艦 、排水量 3,824トン、乗組員 300 名、8 インチ砲 6 門、10 インチ砲 3 門 )

  • ミシシッピィ( 帆装蒸気艦 、排水量3,220トン、乗組員 260 名、8 インチ砲 8 門、10 インチ砲 2 門 )

  • サラトガ{ 帆船、排水量 882 トン、乗組員 210 名、8 インチ砲 4 門、32 ポンド砲 ( 砲弾重量15 Kg )、18 門 }

  • プリマス{ 帆船、排水量 989 トン、8 インチ砲 4 門、32 ポンド砲 ( 砲弾重量 15 Kg )18 門 }。



[ 第 2 次来航 ]、嘉永 7 年 ( 1854 年 ) 2 月〜3 月

  • 旗艦:ポウハタン( 帆装蒸気艦 、排水量 3,865 トン、乗組員 300 名、8 インチ砲6門、10 インチ砲 3 門 )

  • 随伴艦:サスケハナ( 帆装蒸気艦 、排水量 3,824 トン、乗組員 300 名、8 インチ砲 6 門、10 インチ砲 3 門 )

  • ミシシッピー( 帆装蒸気艦 、排水量 3,220 トン、乗組員 260 名、8 インチ砲、8 門、10 インチ砲 2 門 )

  • マセドニアン{ 帆船、排水量 1341 トン、乗組員 380 名、8 インチ砲、6 門、32 ポンド砲 ( 砲弾重量 15 Kg )16 門 }

  • ヴァンダリア{ 帆船、排水量、770 トン、乗組員 190 名、8 インチ砲 4 門、32 ポンド砲 ( 砲弾重量 15 Kg )18 門 }

  • 補給艦:レキシントン( 帆船、排水量 691 トン )、乗組員 45 名

  • サウサンプトン( 帆船、排水量 567 トン )、乗組員 45 名

  • サプライ( 帆船、排水量 547 トン )、乗組員 37 名

  • 合計 1557 名

[ 9:ペリーはなぜ日本に来たのか ]

アメリカは建国以来、西にある野蛮な未開の地に 文明の恩恵を与える ことが 、明白な神の意志 ( Manifest Destiny、天から付与された明白な使命 )であるという、誤った独善的な理念のもとに西部開拓と称する領土の拡大、侵略をおこない、先住民のインディアンから彼等の土地を奪い、反抗する彼等を虐殺し、1789 年以降には 辺鄙 ( へんぴ ) な場所に インディアン特別居留地 ( Indian Reservation ) を設け、太古の昔から住んでいた インディアンを、隔離収容することに良心の痛みを少しも感じませんでした。

ちなみに [ Manifest ] とは ラテン語の 「 手でなぐられる 」の意味から 「 心に明白な 」 の意味であり、一方 選挙の度に取り上げられる政党の選挙公約である、 マニフェスト [ Manifesto ] は、これとは綴りの最後部が異なり、語源は イタリア語の宣言 ( 書 )、声明( 書 )です。

涙の道

絵は 第 7 代 ジャクソン大統領 ( 1767〜1854 年 ) が、全ての野蛮人 ( インディアン )を ミシシッピィ 川の西側へ追い払えという 強制移住法 を 1838 年に公布した為に、チェロキー族 1 万 5 千人が移動させられた際の様子ですが、旅の途中で飢えと病気、監視兵による発砲で 4 千人 ( 25 パーセント )が死亡しました。彼等が通った道は 涙の道 ( Trail of Tears ) と呼ばれましたが、ちなみに インディアンに米国市民権が与えられたのは、土地の収奪が終了して 80 年近く経った大正 13 年 ( 1924 年 ) のことでした。

アメリカは隣接する メキシコから領土を奪う為に戦争を仕掛け 、1848 年に メキシコ戦争に勝利した結果、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ州など、当時 メキシコが所有していた領土の 30 パーセントを手に入れましたが、特に カリフォルニア州の獲得は太平洋岸に港を得ることになりました。そこで 明白な神の意志 の矛先は次には太平洋を越えて ハワイ、 フィリピン、アジア に向けられ、帝国主義的な 領土拡大を正当化する為の言葉 になりました。

当時の アメリカは 奴隷貿易により アフリカから労働力として輸入された ( ? ) 多くの黒人奴隷を使い、南部の綿花畑で摘み取った綿花を原料にした綿織物産業が盛んでした。アジアの大国とみなされていた清国 ( しんこく ) は、その有望な輸出市場となることが予想されたので、北米の西海岸から清国に通じる太平洋航路の開設意欲を促進しました。また イギリスが清国を侵略して アヘン戦争 ( 1840〜1842 年 ) を起こし、それに勝利した結果、ホンコンを大英帝国の植民地にしたことも、アメリカ政府の アジア進出への意欲を掻き立てました。

その当時は灯火用の油を得るための捕鯨業が太平洋では盛んであり、 ハワイ王朝が支配した オアフ島 ・ ホノルルや マウイ島 ・ ラハイナなどの捕鯨基地に入港した捕鯨船は、1850 年〜1860 年当時、 年平均 400 隻にのぼりました。アメリカによる日本に対する開国要求も、 明白な神の意志 の行動原理に従って、

未開な野蛮国 日本に対して 、その状態から脱却させ 近代文明の恩恵に浴させるのは、 アメリカの崇高な使命 である。
と共に、当時盛んだった自国の捕鯨船に対する新たな水、薪炭、食糧などの補給基地の確保を図ると共に、 アジア貿易への拠点を得るため でもありました。

アメリカ大統領の フィルモアは、メキシコ戦争で名を上げた ペリー准将 ( Commodore Perry ) を特命全権公使として日本に派遣し、開国を迫ることにしましたが、 明白な神の意志 の思想は 最初に 十字軍を派遣した ローマ教皇 ウルバヌス二世 ( 1042頃〜1099 年 ) が述べた、 異教徒を聖地 エルサレムから 根絶やしにする ことは、神の意志に適うものである とする考え−−−つまり自分にとって神を都合の良い道具に利用した点で、同じでした。十字軍について更に知りたい場合は 、 ここを クリック

[ 10:ペリーの日本遠征記を読んでからにしろ ]

ペリー記念碑

ペリー准将 ( Commodore Perry )が上陸した 三浦半島の久里浜 ( 浦賀 ) には ペリー公園があり、そこには上陸記念碑があります。これは ペリー艦隊来航の際に少尉候補生として同乗していた ビアズリー退役海軍少将が、後年に再来日したときの希望により、金子堅太郎 ( 明治憲法の起草者の 1 人、1853〜1942 年 ) などの、 米友協会 会員が中心となって建設し、明治 34 年 ( 1901 年 ) に完成したものです。この記念碑には伊藤博文の筆で 北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑 と刻まれています。伯理とはもちろん ペリーの当て字です。

ブロンズ像

それだけではなく、 ペリーの ブロンズ像が東京都内にもありました。私も最近になってこのことを知りましたが、東京都港区芝に 6 人の将軍たちが眠る徳川家の菩提寺である増上寺 ( ぞうじょうじ )がありますが、そこの芝公園内にありました。増上寺には小学校 2 年の時の遠足で戦時中に訪れましたが、その当時は ペリーの像は無く、日本開国 百年に当たる昭和 29 年 ( 1954 年 ) に、ペリーの出身地で、日本遠征 の際の出発地でもあった ロードアイランド州、ニューポート市から親善のために東京都に送られたのだそうです。

日本遠征が 神から授けられた明白な使命 ( Manifest Destiny ) であろうとなかろうと、アメリカにとっての必要性から日本を開国させた功労者として、ペリーを称えるのは アメリカの勝手ですが、ペリーの日本遠征記に書かれた以下の事実を知っていますか?。

翌年 ( 嘉永 7 年、1854 年 ) に再度来航した際には、8 隻の軍艦を神奈川沖 ( 現在の横浜市沖 ) に沿岸から 1 海里 ( 1852 メートル ) 以内に横一列に停泊させ、5 海里に亘る海岸を大砲の射程距離内に入れるように命令したが、圧倒的な軍事力を背景として いつでも戦闘できる態勢を整えた上で 、日本に開国を迫ることにした。

2 度の来航では合計 100 発以上の大砲の空砲を、 祝砲、礼砲、号砲などの名目で撃ったが、日本を威嚇する為には 極めて効果的な方法であり、幕府役人のかたくなな態度を容易に変えさせることができた。

ペリー上陸

絵は安政元年 ( 1854 年 ) 3 月 3 日に横浜でおこなわれた日米和親条約の調印式典の精密画ですが、ペリーに同行した ウイリアム ・ ハイネが画いたものです、沖に停泊する 8 隻の軍艦に注目。

砲弾

当時の日本の大砲は砲口 ( 筒先 )から火薬を入れ、その次に鉄の丸い球 ( キャノン・ボール、Cannon Ball )を入れて火薬に点火して撃ち出す方法で、命中しても 鉄球 には爆発する能力 ( 火薬の内蔵 ) がありませんでした。しかし ペリー艦隊の大砲は ペーザン将軍が開発した ペーザン砲で、弾はいわゆる砲弾型をしていて 中に炸薬を詰めていて、当たると弾体が爆発し大きな被害を与えました。

1 千 6 百人の兵士と 8 隻の軍艦を派遣した アメリカの意図は、要求 ( 開国 ) に応じなければ 武力行使も辞さない という砲艦外交 ( Gunboat Diplomacy ) そのものでしたが、いわば ドス ( 短刀 ) をちらつかせて 「 ゆすり 」 をした相手に、貴方は感謝 したいのですか?

ペリーによって日本が開国させられたのは紛れもない事実ですが、だからといって相手の意図や行動を考えた場合に、感謝すべきことでは 決してない と私は考えます。

ペリーを、 開国の 恩人 などと 日本側が褒め称えることは 間違い であり、黒船祭り ( 伊豆下田市 ) 、浦賀みなと祭り( 浦賀市 )、や 開国祭り ( 横須賀市 )などを催し浮かれ騒ぐ 軽薄な連中に言いたいのです 。 ペリーが書いた日本遠征記を、 読んでからにしろと

[ 11:ハワイ と フィリピンで ]

イオラニ宮殿

この事件から 39 年後の 1893 年に アメリカは ハワイに利権を持つ アメリカ人達をそそのかして ハワイで クーデターを起こし、 カメハメハ王朝第 8 代の女王で 別れの曲として有名な アロハオエ ( Aloha`Oe ) を作曲をした、 リリウオカラニ ( Lili`uokarani ) を イオラニ ( Iolani ) 宮殿に幽閉しました。その際には ホノルル港に派遣した軍艦 ボストンの威嚇のもとに、海兵隊を上陸させて クーデターを支援し成功させました。

1895 年には女王を脅迫してむりやり退位させた上で、 カメハメハ王朝を廃止し 形だけの共和国としましたが、1898 年 ( 明治 31 年 ) には予定通り ハワイを 米国領土にしました 。写真は今も ホノルル市内に残る、旧 ハワイ王朝の イオラニ宮殿です。

同じ年に起きたアメリカ ・ スペイン戦争では、独立を エサ にして フィリピン人をアメリカに協力させて、グアムや フィリピンから スペインの勢力を駆逐しました。しかしスペイン軍が降伏するに際しては、

有色人種の野蛮人に、白人である我々が 降伏する屈辱 、だけは我慢できない。
と スペイン総督が米軍司令官に訴えたので、米軍はその訴えを認めて フィリピン軍代表を降伏式典から排除することを決め、フィリピン軍は マニラ入城を拒否されました。更に パリにおける講和会議にも参加を拒否されました。その後は フィリピンを独立させるという約束を反故 ( ほご ) にして植民地化を図りました。その為に1899 年から1913 年まで米比戦争となり 、 独立を求めた フィリピン人達を逮捕虐殺しました。

米国上院への報告によれば、サマール島で 38 人の米兵が殺された報復に、この島とレイテ島の住民 2万余人を虐殺するなど、 合計 20 万人、別の説によれば 60 万人 のフィリピン人が殺されました。

フィリピンは米国の植民地支配を受けましたが、戦後の1946 年にようやく独立しました。しかしアメリカ文化 ( 日本流にいえば 文明開化 )をもたらしたことで、アメリカを 恩人などと称して 記念碑や胸像を建てることはしませんでした。

[ 12:キリスト教的歴史観と人種蔑視 ]

欧米においては、自分達の歴史こそ世界史であり、自分たちの生き方こそ文明の名にもっとも相応しく、地球上のあらゆる民族は欧米文明により後進性から救われたと信じられてきましたが、

幕末の安政 6 年 ( 1859 年 )に外交官として来日し、初代駐日 イギリス公使を務めた オールコック ( Alcock 、1809〜1897 年 ) が書いた 「 大君 ( たいくん ) の都、原書名 Tycoon of Japan 」 によれば、

日本人は偶像崇拝の異教徒であり、野獣のように神を信じることなく死ぬところの、呪われ永劫 ( えいごう ) の罰を受ける者たちである。野獣は信仰を持たず、死後のより良い暮らし ( 天国 ) への希望もなく、くたばっていくのだ。

詩人と、思想家と、政治家と才能に恵まれた芸術家からなる民族 ( キリスト教徒の欧米白人種 ) の一員である我々と比べて、( 有色人種の ) 日本人は劣等民族である

と述べていますが、これが欧米人の持つ キリスト教文明の優位性、絶対性に基づく日本人観であり、ペリーも多分同じ考えをもっていたはずです。

建国以来の 明白な神の意志 ( 神意 )などという 独善的な理念 に基づく 侵略主義、膨張主義 の アメリカを初め西欧の白人種が、19〜20 世紀の太平洋地域や アジアで 劣等民族 ( ? ) とみなした 有色人種に 何をしたのかを日本人は学ぶべきです。歴史に対する 無知や、それに基づく 軽薄な態度は 外国人から軽蔑されるだけです


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