江戸時代の陸運と海運
[1:江戸]江戸の名が日本の歴史に初めて登場したのは、鎌倉幕府 が編纂した公的記録(1180年から〜1266年迄)である「吾妻鏡、(あずまかがみ)」の記述でした。それによると、江戸桜田郷に居を構えた秩父重継の長男が江戸太郎重長(しげなが)と名乗り、武蔵国の長(おさ)として平氏に味方し源頼朝と戦ったとありました。鎌倉時代から南北朝を経て江戸氏は滅びましたが、江戸という地名は残りその地を武蔵国豊島郡(ごおり)江戸郷(ごう)と呼びました。
その後 江戸は草深い葦の茂る片田舎となりましたが、室町幕府の頃に関東管領(かんれい)を務めた上杉氏は家臣の武将である、太田道灌(1432〜1486年)を江戸に封じましたが、彼が1457年に江戸に城を築いたのが江戸城の始まりでした。それ以後江戸は城下町として、徐々に発展することになりました。右は太田道灌像。 16世紀末に天下の覇権を握った豊臣秀吉(1536〜1598年)が、徳川家康に対して関八州( 相模、武蔵、上野、下野、安房、上総、下総、常陸 )の領地を与えると共に、江戸に住むことを命じました。
そこで徳川家康(1542〜1616年)は、天正18年(1590年)に本拠地の三河(愛知県東部)の岡崎を出て江戸に移住しましたが、秀吉の死後1600年に起きた天下分け目の「関が原の戦い」に勝利して天下の覇権を握り、江戸に徳川幕府を開きました。家康が最初にしたことは道路、宿場、伝馬制の整備でしたが、家康の死後も幕府はそれらの整備を継続しました。しかしあくまでも陸上の交通、通信制度や物資の輸送を前提としていて、後述する隆盛を極めた海運事業に対して幕府がとった政策とは、保護育成の意図などは全く存在せず、ただ鎖国令を徹底させるための厳重な監視や取り締まりに終始しました。
[2:五街道の整備]徳川の天下になったものの伊達、前田、毛利、加藤(清正)など各地に住む旧豊臣家に恩顧のあった大名の動向を監視し、京都や大坂(現、大阪)との通信連絡を迅速、緊密に行うため、軍事的、政治的理由から街道の整備に当たりました。江戸を起点とする主要な五つの陸上交通路の整備を重点的におこないましたが、それらは東海道をはじめ、中山道(なかせんどう)、奥州街道、甲州街道、日光街道などでした。それと共に街道にある交通の要衝に関所を設けて人や物資の移動を監視しましたが、特に人質として江戸に居住する大名の奥方が国元へ脱出するのを防ぐため、入り鉄砲に出女(でおんな)を厳しく取り締まりました。東海道については軍用道路としての機能、役目を第一に考えた為に、途中にある大井川、安倍川、興津川(おきつがわ、静岡県清水市)、酒匂川(さかわがわ、神奈川県小田原市)などは、上方と江戸を結ぶ交通の大動脈にもかかわらず、西国諸大名からの侵攻に備えて、江戸防衛上の理由から川の架橋や渡し船の設置が禁止されました。
そのために川越人足の背中に頼って渡りましたが、降雨により水かさが増すと川留めとなり、長雨が続いた慶長4年(1868年)には二十八日間の川留めの最長記録がありました。それ以外の天竜川、富士川、六郷川(神奈川県と東京都の境界、多摩川の下流の名)だけが、渡し船で渡ることが許されました。絵図は東海道大井川の東側にある、島田の宿から金谷側に川を渡る様子。 ちなみに東海道の「海道」とは海岸に沿った道の意味であり、途中の二箇所に船で海を渡る場所がありましたが、浜名湖南岸の舞坂と新居(あらい)との間の海上一里(4キロ)と、熱田(あつた)神宮の宮を略称して付けられた宮(みや)と桑名の間の海上七里(28キロ)でした。
江戸は徳川幕府の所在地として行政の中心地となり、寛永12年(1635年)に改定された武家諸法度(ぶけしょはっと)による参勤交代の制度化によって、全国の大名たちが一年おきに国元と江戸を往復するようになり、それ以外にも商人、庶民、飛脚など多くの旅人が往来したので、江戸の陸路の物流を支えた街道も賑わうようになりました。 江戸で暮らす町民に加えて大名の出府(しゅっぷ)に随行して江戸にやって来た大勢の家来たちも暮らすようになったため、江戸の人口は寛永年間で六十万〜七十万の大消費地となりました。しかし関東地方の生産物だけでは江戸の消費を到底賄えきれないため、全国各地の産物や米が江戸に運ばれましたが、特に上方(かみがた)から運ばれた装飾品、工芸品、呉服、酒、などの品物は下(くだ)りものと呼ばれてもてはやされ、そうでない品物(下らないもの)とは値段の面で差がありました。
[3:宿場、伝馬制度]伝馬(てんま)とは輸送用の馬のことですが、七世紀半ば〜十世紀の律令時代には各郡に馬を置いて官吏の公用に供されました。しかし平安時代以後この制度がすたれましたが、戦国大名などによって一部復活されていました。徳川家康は輸送通信手段の整備の皮切りとして慶長六年(1601年)に伝馬定書(てんまさだめがき)を制定し、東海道に五十三次の宿駅伝馬制度を敷きました。これにより、各宿場では、伝馬朱印状(公用証明書)を持つ者の公用の書状や荷物を、次の宿場まで無料で輸送するために必要な人馬の用意を義務付けられました。伝馬は宿場毎に当初三十六頭と定められていましたが、その後公用者の往来や荷物の輸送量が増えるに連れて百頭に増えました。こうした人馬を負担するのは宿場の役目でしたが、その代わりに、宿場の人々は屋敷地に課税される年貢が免除されたり、旅人の宿泊や荷物を運んで収入を得ることができるという特典を与えられました。
しかし注意すべき点は伝馬をはじめこの時代の荷物の輸送は次の宿場までであり、その宿場に到着する度ごとに人(馬子、まご)や馬を交替させ荷物を積み替えるという、言わば リレー方式による非能率的な輸送方法でした。そこには宿場や馬子達の既得権益や、自分達の縄張り(シマ)を通過する荷物は、俺たちに運ばせろという縄張り主義の弊害があったからでした。絵図では問屋場(といやば)と呼ばれる宿場での荷物の積み替え場所で、宿(しゅく)役人が伝馬朱印状の点検をしている間に、人足が次の宿場に向けて馬の荷物を積み替えています。
[4:駄賃馬の利用解禁]![]() 最初は無料の伝馬(てんま)を利用できるのは公用の者に限られていましたが、後になると駄賃を払えば誰でも馬(駄賃馬)を利用できるようになりました。伝馬と駄賃馬とを比較すると、一駄当たりに積む荷物の制限重量は、無賃(公用)の伝馬は三十二貫(重量、120キロ)、駄賃馬の場合は四十貫(重量、150キロ)までとなっていました。
江戸幕府は五街道整備の一環として一里の距離を三十六町( 約4 キロ )と定め、一里ごとに道の両側に土を盛り、そこに榎(エノキ)を植えて旅人が距離の目印にし易いように、一里塚を築きました。一里あたりの馬の駄賃は慶長十一年(1606年)当時の値段によれば、ほぼ米一升の値段に近い値でした。
我が家の老妻の話によれば家で購入するこの地方産の コシヒカリ は、五 キログラム当たり 2,300円だそうですが、白米一升は約1.4 キログラムなので、換算すると米一升の値段は 644円になります。つまり米を基準に馬の駄賃を現代の貨幣価値に換算すれば、一里(4 キロメートル )当たりの駄賃は、約 650円程度で、タクシーの初乗り運賃 ( 地域により異なりますが、2 キロメートルで 660円 )と比べれば、約半分程度の値段になります。
しかし宿場毎に荷物を積み替えるという駄賃馬による荷駄輸送の非能率さでは、大量の荷物の長距離輸送など到底できるものではなく、前述のように馬一頭の積載量はおよそ米二俵に相当するので、仮に米100石を輸送するには160頭の馬が必要になる計算でした。全国に点在した天領と称する幕府直轄地からの産米輸送や、生産や流通の発達に対応した大量輸送の方法としては、馬に頼るよりも必然的に海や川を利用した海運、舟運に頼ることになりました。
[5:弁財船(べざいせん、千石船)]![]() 江戸時代の物資の輸送には、後述する菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽廻船(たるかいせん)、北前船(きたまえぶね)などで活躍した弁財船(べざいせん)がその主役でしたが、俗に千石船とも呼ばれました。一本マストに横帆一枚でしたが帆走性能、経済性に優れていて全国的に活躍し、江戸時代の海運の隆盛に大きく貢献しました。 船体構造としては現代の船のような竜骨(キール)を中心にした縦通し材や肋骨はなく、船体の割には舵は大型でしかも固定式ではなく、水深に合わせて引き上げることができるように吊り下げ式でした。貨物は船体中央部にある胴の間に積載しましたが、和船の構造はこの千石船に限らず、百石積み以上の船であればばほぼ同じでした。この船は江戸時代だけでなく明治の中頃まで貨物の運搬船として使用されましたが、写真は明治33年(1900年)に撮影されたものです。 しかしこの船の欠点とは、
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結論をいえば、弁財船(千石船)は内航用に発達した為に耐波性( Sea Worthiness )に乏しく、外洋航海には適していませんでした。それは1633年から始まった徳川幕府の鎖国政策に適したものであり、鎖国以前に徳川家康などがおこなった東南アジア諸国との貿易に使用され、年平均十一隻が海外に向け運航した御朱印船(ごしゅいんせん)とは構造が大きく異なるものでした。絵図は御朱印船ですが、マストの数に注目。
[6:菱垣廻船(ひがきかいせん)]廻船という名前は貞応2年(1223年)に書かれた廻船式目(しきもく、箇条書きにした船法度、海事法規)に見られますが、商船の意味に用いられました。 江戸時代の物流は前述の如く海運に大きく依存していましたが、国内沿岸の物資輸送に従事した荷船を廻船(かいせん)と呼びました。
その中でも大坂(大阪)と江戸を結ぶ幹線航路を運航した荷船のことを菱垣廻船(ひがきかいせん)と呼びましたが、その始まりは元和5年(1619年)に堺の商人が、紀州の富田浦の廻船を雇って江戸へ日用品を運んだのが最初でした。船の大きさは初期には六百石〜七百石のものが多数でしたが、後には千石積みのものも出現しました。享保8年(1723年)には菱垣廻船の数は、160隻に達しました。写真は平成11年に復元された、菱垣廻船の浪華丸が帆走中のもの。
菱垣(ひがき)の名前の由来については廻船問屋に所属する海運業者の持ち船であることを示す目印として、船の舷側垣立(かきだつ、注参照)の下部に菱組(ひしぐみ)の装飾を付けたことから菱垣廻船と呼ばれました。写真は「なにわの海の時空館」に展示してある、復元された菱垣廻船ですが、大き目の舵と名前の由来となった舷側の菱組(ひしぐみ)装飾が見えます。
注:) 船の積荷は酒、油、醤油、砂糖、鰹節、紙、薬種、木綿、などの生活物資を輸送しましたが、大坂(大阪)には菱垣問屋が七〜九軒があり、積荷や船の運航を差配しました。なおその当時の江戸には、三軒の菱垣廻船荷受け問屋がありましたが、後に述べる樽廻船(たるかいせん)の荷受け問屋も含めて、五〜六軒になりました。
[7:樽廻船(たるかいせん)、酒の輸送が契機]大坂(大阪)から江戸の大消費地への海上輸送が始まった頃から、酒は他の貨物と混載されて当時の花形輸送船であった菱垣廻船によって、江戸へ運ばれていました。 酒は腐敗しやすい商品のために、出荷から江戸到着までなるべく短時間で運ぶ必要がありましたが、菱垣廻船では酒以外にも他の日用雑貨も搭載したため、貨物の搭載に時間を要し、船が出航するまでは二週間近くかかるのが普通でした。
酒の腐敗防止が最重要課題の酒造業者にとっては荷役時間の短縮と、海難処理の問題(注参照)をめぐり菱垣廻船の荷主間に利害対立が生じた為に、享保15年(1730年)に菱垣廻船問屋から脱退し、以後は伊丹の酒造業者と大坂近郊の伝法村の船問屋が共同し、酒樽専用の廻船を仕立てて酒の輸送に当たりました。これを樽廻船(たるかいせん)と呼びましたが、船も千五百石から二千石の大型船を使用し、江戸後期では年間に百万樽の酒を江戸に運びました。樽廻船は菱垣廻船よりも運賃が安く、しかも港で雑貨を積み込む為の荷物待ちの日数も少なく、その為に江戸までの所要日数も少なかったので、菱垣廻船を圧倒するようになりました。酒樽だけの搭載では荷が重すぎて船の吃水が深くなるので、酒樽の数を減らして、上に積む上荷として七種類の商品である、醤油・酢・塗物・紙・木綿・金物・畳表等を積み込みました。
注:)
[8:廻船のスピード競争]![]() 19世紀に中国からイギリスまで紅茶の輸送に従事した帆船を ティー・クリッパー( Clipper とは快速帆船の意味 )と呼び、その所要時間を競いましたが、その レースを目指して建造された帆船の カテイー・サーク( Cutty Sark ) 号が有名です。私は軽い味の スコッチ・ウイスキーの銘柄、カティー・サークの ラベルからこの帆船のことを知りましたが、後にイギリスのロンドン東部にある グリニッジで、 テムズ河畔に保存されている実物にお目に掛かりました。サンマのように細長い船体で、最高時速 17 ノット(時速 31 キロメートル)まで出した記録があるそうです。しかし A P 通信社からの ニュース配信によれば、この船は平成19年5月21日に火災が発生し、船体がほとんど焼ける大きな被害がでました。 日本でも毎年菱垣廻船による新綿番船(しんめん・ばんせん)」と樽廻船による新酒番船(しんしゅ・ばんせん)のレースがありましたが、新綿番船とは、大坂(大阪)周辺で秋に収穫した「わた」で編んだ木綿を積み込んだ菱垣廻船によるスピード・レースのことで、新酒番船とはその年にできた新酒を上方(かみがた)から江戸まで運び、江戸到着の順位を争う帆船のスピード競争でした。新綿番船は元禄年間(1688〜1703年)から、新酒番船は享保15年(1730年)頃に始まりました。 その年に江戸に向けて積み出される新酒を積んだ樽廻船が「酒どころ灘五郷」(西郷、御影郷、魚崎郷、西宮郷、今津郷)に近い西宮湊(みなと)や大坂(大阪)の安治川(旧淀川)川口の湊から出航する際には、鉦(かね)や太鼓に送られて一斉にスタートし、江戸湾入り口にある浦賀船番所前に到着の順位を競いました。初期(17世紀後半)の頃は大坂〜江戸間(片道)を、後述する地乗(じの)り航法(陸岸に沿って航海する方法)で約1ヶ月もかけて航海していましたが、寛政2年(1790年)には新酒番船が西宮から江戸まで通常十日から二十日掛かるところをわずか五十八時間で航海し、平均速力6.5ノットという記録を樹立しました。さらに安政6年(1895年)には、新綿番船が大坂から浦賀まで五十時間、平均速力7ノットの新記録を残しています。毎年の記録によれば新酒番船の一番になった船の所要時間は、平均で六日でした。
一方の江戸でも船の到着を待ち受けていて、船の到着順位は「かわら版」などの刷り物にされ、賭博の対象にもされましたが、一番で到着した船頭には祝酒や金一封授与という華やかな行事がありました。絵図は文久3年(1863年)に御影の住宝丸が、新酒番船一位になった際のお祭り騒ぎの様子で、所要時間は4.8日でした。樽廻船の一番船で運ばれた新酒を品川沖で吃水の浅い小舟に積み替えて、酒の倉庫が建ち並ぶ川岸に到着したところです。 毎年おこなわれるこの競走のために、船主や船頭、水主(かこ、水夫)は帆走技術や航海技術に様々な工夫を凝らして改良を重ねました。こうした技術面での成果は、普段の廻船の運行にも生かされたため、菱垣廻船や樽廻船の運行も全般にスピードアップし、元禄期(1688〜1704年)には大坂(大阪)〜江戸間を1隻が年間四往復していたのに対し、天保年間(1830〜1843年)には八往復と稼働率は倍増し、北は北海道から西は九州まで全国をくまなく網羅したその輸送力は、江戸時代の経済や文化を支える上で大きな役割を果たしました。
[9:北前船]これまで述べてきたのは物資の集散地である上方と最大の消費地である江戸を結ぶ航路を運行する、菱垣廻船と樽廻船のことですが、これ以外にも東北・北陸の日本海沿岸の港を出て津軽海峡から太平洋を南下して房総半島に向かい、江戸に産米、三陸の俵物(ブリ、マグロ、くし貝、干しタラ、塩サケ、棒タラ、のし鮑)の七品をはじめ、鰹節、スルメやコンブなどを運ぶ東廻り航路や、日本海を西に向かい下関海峡を通り瀬戸内海に入り、大坂(大阪)に向かう西廻り航路がありました。これらはいずれも江戸の豪商の河村瑞軒(ずいけん)が開発した航路でしたが、これによって日本の物流は画期的なものとなりました。井原西鶴の浮世草子、日本永代蔵(1688年)によれば、 今ほど舟路の慥(たしか)なる事にぞ。世に舟あればこそ一日に百里を越し、十日に千里の沖を走り、萬物の自由を叶へり。 ![]() と書かれていました。もちろん日本海沿岸や東北の港から北海道の松前、小樽に向かう航路もありましたが、そこでは夏の霧や冬の吹雪などの気象、親潮の海流の影響からずっと危険が増しました。北前船と呼ばれる日本海航路を廻る船は、船乗りたちの憧れの的であり、男なら一度は北前船に乗ってみたいというのが船乗りの希望でもありました。 北前船の北前の語源については諸説ありますが、
[商売の特徴、買い積み]北前船が他の廻船と大きく異なる点としては、目的地に向けて一路航海を続けるのではなく、途中の港々に寄港しながら品物を売り買いする商売の方法にありました。普通の船で採用されていた貨物の運賃で利益を挙げる、運賃積みが収入の主体ではなく、出発地や途中の港で商品を仕入れ、品物を寄港地ごとに売り買いしながら利ざやを稼ぐという買い積み商法がその特徴でした。下りは大坂(大阪)から瀬戸内海を経て日本海へと航行しながら、木綿・塩・砂糖・鉄・米・酒などを仕入れ、積荷の売買をして蝦夷(えぞ)地に到着します。そこでは鰊(にしん)や肥料としての鰊の絞粕(しぼりかす)、数の子、昆布などを仕入れて帰り、上りは瀬戸内海や大坂でそれらを売却しました。その差益での儲けは、ひと航海で千両とも言われ、下り荷で三百両、上り荷で七百両の儲けといわれていました。河村瑞軒が最初開いた航路では石見(いわみ)の湯泉津(ゆのつ)、但馬(たじま)の柴山(しばやま)、能登の福浦(ふくら)、佐渡の小木(おぎ)、出羽の酒田などの港を結んだものでしたが、最初は出羽国(山形県)、酒田に集まってくる庄内米を、大坂(大阪)に運ぶための航路でした。日本海を航行するといっても、船の大きさはまちまちでして、従って乗組員の数も異なっていました。当時の記録によれば
[北前船の航海]地乗り(じのり)とは航海術の一種で陸岸の地形を参考にしながら航海する沿岸航法のことですが、絶えず陸地の近くを航行するために効率が悪い航法です。これに対して沖乗り(おきのり)とは、陸岸から離れた沖合を直線的に進む方法であり、船の位置は初期の推測航法や天文航法(?)で求める方法です。
帆船の帆の種類を大別すると、帆柱に直交する帆桁(ほげた)に帆を張り、船の横方向に帆を張り広げる横帆(おうはん)と、ヨットやスクーナー( Schooner、二本マストの縦帆船 )のように帆柱の片側にのみ帆を展張する縦帆(じゅうはん)があります。北前船の航行の原理は簡単で、船に張った一枚の横帆に追い風をはらませて走りますが、横帆の欠点は風に向かって走る際に、斜め前から風を受けるように帆の面を左右交互に切り替えて受け、ジグザグのコースで風上側に帆走する「切り上がり( Tacking 上手回し)あるいは間切(まぎ)り走り」が困難な点です。写真は縦帆のスクーナーです。 間切りはジグザグコースを走る為に非常に効率が悪い走り方で、五十キロ走っても風上側には10キロしか進まない場合もありました。その為に無駄な走りをして数少ない水夫のエネルギーを無駄に使うよりも、船の航行に都合がよい風(追い風)が吹くまで、近くの港に入って「風待ち」をしたり、特に瀬戸内海の来島(くるしま)海峡や関門海峡などの狭水道の通過では、潮の干満による潮流がゼロになる時( Slack water )を待つ「潮待ち」が用いられました。これらの港を「風待ち港」、「潮待ち港」といいましたが、北前船が盛んになると、各地の大名は自分の領地で取れた産米や特産品を積み出す為にも港湾整備に熱心になりました。
北前船の航海は基本的には大坂を基地にして北陸、東北の日本海側、蝦夷(エゾ)へ向けて一年に一度航海をしました。2月頃に春祭りを済ませると北国の船乗りたちは船主から旅費を貰い、大坂に向けて徒歩で出発しました。大坂に着くと船の整備にかかり4月初めに出帆し、瀬戸内海、日本海の寄港地で積荷の売り買いの商いをしながら蝦夷地に到着し、6月頃に上り便の買付けを終えて7月〜8月頃に出帆し、大坂へは冬の初めまでに戻りました。北前船の積荷は蝦夷に行く下りが 米、酒、塩、砂糖、紙、木綿などで、大坂に行く上りは昆布、鰊(ニシン)などの海産物や酒粕などでした。北前船(千石船)の積荷の利益は「一航海で千両」といわれ、 [海運の発達]物資の大量輸送で船にかなうものはありませんが、江戸時代の経済的発展も船の輸送力なくしては実現不可能でした。特に弁財船(千石船)の経済性の向上が商品流通を増大させた効果は大きいものでした。前掲した大手の廻船問屋による入港船取り扱い表から約五十年後の延享4年(1747年)に、江戸湾入り口にある浦賀の船番所に入港手続きをした、三河(みかわ、愛知県)以西の遠国廻船は 3,948隻(乗組員の合計、約4万人)であり、その積載量は258万石に達しました。安政4年(1857年)に北海道から 鮭、こんぶ、ニシンの絞り粕、胴ニシン、身欠きニシン、などの産品を積み出した先をみると、
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