日本の神様

[1:八百万(やおよろず)の神]

昔々東京の国民学校(小学校のこと)で「村 祭 り」の唱歌を習いましたが、その歌詞は、

村の鎮守の神様の/今日は目出度いお祭り日/どんどんひゃらら、どんひゃらら/どんどんひゃらら、どんひゃらら/朝から聞こえる笛、太鼓                           
鎮守様

子供の頃に疎開した栃木県の山奥の村には、村人が八幡様と呼ぶ鎮守の社(やしろ)がありましたが、山里のことゆえ神主は常駐せずに、近所に神主の真似事ができる人がいて、山仕事のかたわら必要な時には祝詞(のりと)をあげるなどの神事をしていました。

ボタ餅

秋の収穫が済むと八幡様の祭礼がおこなわれましたが、敗戦直後の食糧難の時代でしたので、疎開者である我が家ではもっぱら配給の食糧に頼らざるを得ず、 今ではごく当たり前のお米だけの白いご飯など食べられずに、麦メシやサツマ芋の代用食で空腹を凌ぐ毎日でした。しかしその日だけは親がどこからか餅米や砂糖、小豆を手に入れてきて、ぼた餅を作り食べさせてくれましたが、今では孫が当時の私と同じ年齢になったので、その当時のことを振り返ると親の苦労が偲ばれます。

ご神木

神道(しんとう)は日本に仏教が伝わる遙か以前から存在する民族宗教ですが、俗に八百万(やおよろず)の神といわれるほど、多くの神々がいるとされますし、 712年に完成した古事記に記されている神の名は、ものの本によると三百柱にのぼるともいわれています。神は人里離れた山の頂上や森の奥の木立の奥深く、あるいは神社の大木、大きな岩などに宿るとされますが、栃木県にある父親の生家では炊事場の片隅に「かまどの神さま」を祀っていましたし、水のある場所には水神(すいじん)さまもありました。座敷には仏壇の他にも神棚があり、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀っていました。

日本人の国民性のひとつには宗教的寛容性がありますが、後述する仏教伝来の際には多少の軋轢(あつれき)があったものの、やがては民族古来の宗教である神道( しんとう )と外来宗教である仏教が平和的に共存するようになり、外国のように異教徒同士の対立による殺し合いや戦争は起きませんでした。ちなみに六世紀に起きた仏教受容派の蘇我氏と排仏派の物部(もののべ)氏の抗争や、室町、戦国時代に起きて九十年以上も続いた一向一揆( いっこういっき、真宗本願寺派の一向宗の僧侶や信徒対、守護大名、戦国大名との抗争 )、1637年の島原の乱( 天草一揆 )などは、仏教導入の是非が絡んだ政治の主導権争いや、時の支配勢力対、信徒集団との抗争、あるいは禁制のキリスト教徒に対する宗教弾圧であって、異教徒同士の宗教抗争ではありませんでした

地鎮祭

神さまは日本人にとって昔から身近な存在でしたが、現在も新生児のお宮参り、七・五・三、初詣、神前結婚、厄除け、合格祈願、縁結び祈願、地鎮祭など人生の節目(ふしめ)節目には、神さまのお世話になる場合も多く、神さまの仮住まいである神社、お宮、社(やしろ)は全国の津々浦々に存在し、その数は八万柱(社)に達するともいわれ、多くの人々にお参りされています。

[2:多神教でも、神の可視性に違い]

前述の如く神道は、キリスト教、イスラム教などの一神教とは異なり、八百万(やおよろず)の神々を祀る多神教教ですが、同じ多神教でもギリシャの古代宗教や インドの ヒンドゥー( Hindu ) 教とは大きな違いがあります。最大の違いは神道の神々は目に見えない、いわゆる姿無き神であるのに対して、それ以外の多神教の神々は目に見える存在なのです

シヴァ神ビーナスの誕生

左側は ヒンドゥー 教の三主神( ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ )の一つであり、毒蛇のコブラを首に巻いた破壊と創造の神 シヴァ( Siva )です。

右は古代 ギリシャ宗教における性愛と美の神 ビーナス の誕生画ですが、それらの宗教では神は人と同じ肉体を持ち、目に見える存在であり、さらに何々を司どる神として、その性格、職能が明確に区分されています

縄文、弥生時代の人々は後の神道に発展する土俗信仰を持っていましたが、神の姿をどの様にとらえていたのかは不明です。古事記日本書紀の記述によれば、神は一定の姿や形をしていないものであり、前述した如く見えないものとされました。見えない神を拝むにはどうすればよいのでしょうか?。神道では神が依(よ)り憑(つ)く、換言すれば宿るとされる物体、場所などを想定してそれを拝礼するのです。一般に神社のご神体とは神霊が依(よ)り憑(つ)いた、または宿ったとされる神聖な鏡、剣、玉、石などの物体ですが、通常の場合ご神体は社殿の奥に安置されていて、公開されることはありません。

[3:仏像と神像との違い]

日本書紀によれば欽明天皇の十三年(552年)に朝鮮の百済( くだら )の聖明王が、貢物として釈迦の金銅仏一体と経論などを献じたことが記されていますが、別の説によると宣化天皇の三年(538年)とする説もあります。当時の日本人には姿無き神を形に表現するという考えが未だ無かった為に、初めて仏像を見た人々は、外国( とつくに )の神( 仏像 )が人の形をしていることに大きな衝撃を受けたに違いありません。Seeing is Believing. 見ることは信じることである(百聞は一見にしかず)という諺がありますが、仏教が急速に広まったのも仏像の影響があったともいわれています。

仏教伝来が契機となり、その後は日本でも仏像作りが盛んにおこなわれるようになりましたが、日本古来の宗教である神道(しんとう)の神の似姿(にすがた、神像)を作ることは、それから二百年以上もの間おこなわれませんでした。なぜ神像を作らなかったのでしょうか?。その理由は仏像と神像の間には、根本的な考え方の違いがあったからでした。仏像はあくまでも仏( たとえばお釈迦様 )を偲ぶための手掛かりであって、仏( お釈迦様 )がそこに存在したり、あるいは仏( お釈迦様 )そのものではありません。

女神像 ところが神道における神像とは、そこに神が依(よ)り憑(つ)く( 宿っている、換言すれば存在するものなのです。見方によっては神そのものだともいえます。その意味から仏像よりも神像の方が遙かに神聖性が高く、畏れ多いので人々が神像を作らなかったのです。日本で最初に神像が作られたのは、天平7年(763年)であり、多度神宮寺伽藍縁起資財帳にその記録が残っていますが、現存する最古の神像は写真の、京都市西京区松尾(まつのお)大社にある女神像で平安初期(九世紀)のものです。仏像が一般に柔和な顔つきをしているのに対して、神像は女神であるのに冷たく威厳があり、見る者に畏怖の気持ちを抱かせます。仏像が公開を前提にして作られるのに対して、前述の如く神像はそうではありません。

[4:三種の神器、ご神体とは]

子供の頃、東京の豊島区に住んでいましたが、小学生の時に 家の近くにある氏神様の天祖(てんそ)神社の社殿に近所の悪童と共に侵入し、神社のご神体とは何かを探険したことがありました。社殿の一番奥に直径二十センチほどの丸い鏡が飾ってありましたが、それがご神体の正体でした。それ以外は何も無かったので子供心にがっかりして、なーんだ鏡しか無いのか?

その後小学校で皇位継承の「しるし」である三種の神器(じんぎ)(注参照)のことを習いましたが、その中には鏡もあったので、鏡とは神霊を宿すものであることを初めて知りました。

昇殿参拝ご神体

左側の写真は清和源氏(せいわげんじ)の基礎を築いた源満仲(みなもと・みつなか)を祀る兵庫県川西市にある多田神社の内部の様子ですが、規模の大きな神社のため拝殿とは別に奥に本殿がありました。一般人は拝殿までしか入ることができませんが、そこにはご神体の鏡を模した丸い鏡が鴨居(かもい)に飾られていました。

右側の写真は同じ地域にある小戸(おべ)神社のものですが、平安中期の 927年に完成した養老律令(りつりょう)の施行規則である、延喜式 ( えんぎしき ) 神名帳に名前が記されている式内社( しきないしゃ )です。そこでは拝殿と本殿の区別がないので、千年以上もの間、人々から拝まれ続けてきた ご神体の鏡 を拝殿の前から撮らせて頂きましたが、この神社が創建されたのは源氏物語を書いた紫式部(973頃〜1014年頃)の時代よりも、更に古い頃のことでした。

注:)
三種の神器 三種の神器とは皇位継承の「しるし」として古くから天皇家に伝えられている三つの宝物のことで、八咫( やた)の鏡( 大きな鏡の意味 )、天叢雲の剣( あめのむらくものつるぎ )別名を草薙の剣( くさなぎのつるぎ )、八尺瓊( やさかに )の勾玉(曲玉)( まがたま )のことです。また三種の神器のことを古語の読み方では、「みくさ(三種)のかん(神)だから(宝)」ともいいます。ちなみに昭和天皇の死後に今の天皇が皇位を継承した際は、「 剣爾等承継の儀 」が平成元年(1989年)1月7日に宮殿、松の間でおこなわれ神器が継承されました。写真はもちろん偽物です。

1185年におこなわれた長門壇ノ浦の戦いで平家一門が敗れ滅亡しましたが、その際に平清盛の妻の二位の尼が、当時八才の第八十一代、安徳天皇と宝剣を抱いて 入水( じゅすい )したために、宝剣が永遠に失われたとされますが、別の説によれば天叢雲( あめのむらくもの )剣は本来名古屋近郊にある熱田( あつた )神宮のご神体であり、熱田神宮から外部に持ち出された記録はなく、同様に伊勢神宮(内宮)のご神体である八咫鏡( やたのかがみ )も、神宮から持ち出された記録はありません。当時の御所(宮中)にあったのは勾玉( まがたま、注参照 )のみであり、天皇の即位に際し渡される神器は昔も今も模造品( レプリカ )だとする説もあります。

勾玉(曲玉)を除く二つの神器は神の依り代( よりしろ )(神霊が現れた時に宿ると考えられているもの)であるため、一定期間毎に新殿を造営し、神体を移す式年遷宮、(伊勢神宮では二十年おき)の度ごとに、神器も作り替えられていた、とする説もあります。

勾玉 注:)
お守りの起源は、古代人の装飾品であった勾玉( 曲玉、まがたま)だといわれています。瑪瑙(めのう)、翡翠(ひすい)、水晶、滑石製が多く、 の字形や の字形の一端に孔を開けて ヒモ を通し、垂れ飾りとしました。特に日本では古墳時代( 四世紀〜七世紀 )に好んで用いられましたが、もとは動物の牙(きば)に孔を開けて身に着けました。勾玉(まがたま)は古代の人が考えた霊魂の形を表現したものといわれ丸い霊魂が飛び回る姿を表しています。古代人はこれを身に着けることにより魂を落ち着かせ、神の助けを得られると考えました。

[5:宗教における進化論]

三世紀末(280年〜290年間)に中国、西晋の陳寿によりに記された魏志倭人伝によれば、

卑弥呼(ひみこ)は鬼道を祭祀(さいし)して人心を惑わし、年老いても夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。
と記されていますが、この記述から卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)のような人物であり、邪馬台国は原始的な呪術国家とする見方があります。

シャーマン

ところで西洋の宗教論に従えば、アニミズム( Animism 、精霊、霊魂崇拝)や シャーマニズム( 注参照)は最も原始的な宗教であり、これが発展すると多神教になり、さらに進歩すると一神教になるとされます。

ほんとかいな?。キリスト教よりも古くから存在する日本の神道が、将来一神教に変化するなどとは到底考えられませんし、彼等の信じるキリスト教を最上のものと位置付ける為の、「こじつけの学説」だと私には思えてなりませんが。

[6:神道の成立段階]

山頂

ところで神道のなりたちを精霊崇拝、祖霊信仰、首長霊信仰の段階をたどる、とする考え方もあります。地球上の多くの未開種族と同様に、狩猟、採取を生活の手段とした縄文人は、原始宗教の一つである精霊(霊魂)崇拝(アニミズム、Animism )をしていたとされますが、動物、樹木、巨岩や死者などの「万物」が精霊(霊魂)を持ち、人々の身近には常に精霊(霊魂)が存在し、人の運命の吉、凶を司ると考えられていました。この発想に基づいて、縄文人はあらゆる自然物を神として祀りましたが、豊かな自然がある山を精霊たちの集まる場所と考えて、これが後の山岳信仰につながりました。

弥生時代になると狩猟採取の生活から進歩して水稲の栽培、耕作を始めましたが、農地を開墾し水田の灌漑設備を築いてくれた自分達の祖先の労力に感謝することが自然におこなわれ、先祖の霊を他の精霊よりも上位に置くようになり、やがて祖霊信仰が始まりました。さらに時代が下がり人口が増えると、多くの人口を抱える部族集団が各地に形成され、そこの宗教的指導者(首長)が、部族集団の守り神として神を祀るようになりましたが、その神は当然のことながら首長の祖先霊(神)とされました。それが首長霊信仰の始まりでした。

伊勢神宮

集団が次第に大きくなり遂に大和朝廷が形成されると、首長の先祖神は他の集団の神々を支配下に置くことになりましたが、古事記、日本書紀に記された神武天皇の東征神話や、出雲風土記の国引き神話などに、その片鱗を覗うことができます。写真は伊勢神宮の内宮。

注:)
シャーマニズム( Shamanism )とは原始宗教の一形態であり、神霊、精霊、死霊などの超自然的存在と直接に交流する能力を持つとされるシャーマン(巫女、みこ)が、占い、予言、病気治療などをおこなう宗教現象のことです。

[7:神道は宗教に該当しない?]

外国の宗教学者によれば、神道は以下の理由から、宗教としての形態を備えていないので、宗教とは言えない?という人もいます。

  1. 教祖がいない。
    仏教がお釈迦様によって、キリスト教がイエス・キリストによって、イスラム教がムハンマド(モハメット)によって始められたのとは大きく異なり、自然発生的に成立した民族宗教である神道には、教祖がいないのです。

  2. 教典がない
    教祖がいないだけではなく、宗教の基本思想を記した仏典、聖書(新訳、旧訳)、コーランに相当する、教義を記した教典、教本が神道にはありません。

    神道では教理よりも祭祀、儀礼が重視されます。教典については古事記日本書紀を挙げて反論する人もいますが、それらは神様の物語や日本の建国、あるいは天皇の事跡などであり、神道の教義教典に属するものは書かれていません。

  3. 布教活動をしない
    それで宗教といえるのか(?)。上は伊勢神宮から下は村の鎮守や氏神さまに至るまで、神社の祭礼などの費用負担や社殿修理費の負担を請われることがあっても、他の宗教がする如くに信者獲得の為に、神道への宗教的勧誘や布教活動を一切しません

  4. 他宗に対する寛容性
    前述した如く神道では他の宗教に対する寛容性があり、他宗の存在や信仰を否定しませんが、それを宗教といえるのか(?)。

    この対極にあるのが現代の創価学会の本家である日蓮宗ですが、そこには不受不施派があり、法華経の信者以外から布施、供養を受けない、そして施さないとしています。江戸末期の文化、文政の頃に日本中を六年間回国修行した僧侶が書いた、「 大江戸、泉光院旅日記 」によれば、

    「 恐ろしきもの、山にては山犬(狼)、里にては日蓮宗、草原にてはマムシ 」
    と書かれているほどで、日蓮宗の信者が暮らす村では布施をもらうどころか、道を通るだけでも石を投げつけら追い払われました。

初詣の人

ところで毎年正月の三日間に、東京の明治神宮に初詣に訪れる人は三百万人にのぼるそうですが、そう言われてみると多くの日本人にとって、神道が宗教として強く意識されることはなく、ほかの宗教との使い分けの中でなされる、伝統的な生活習慣にもとづく宗教的実践であるともいえます。 空襲で焼けた東京の私の家には、仏壇の他に神棚もありました。

[8:氏子になれるのは日本人だけ]

氏神(うじがみ)とは同じ土地に住む人々が、共同で祀る神道の神さまのことですが、その周辺に住み同じ神を信仰する者のことを氏子(うじこ)といいます。現在では、その土地や住民を守護する鎮守(ちんじゅ)神も、それぞれの人たちが生まれた土地を司る産土神(うぶすながみ)も、ほぼ同じ意味で用いられています。

三社祭り

日本民族は同一祖神につながる同胞(はらから)であるとの意識から、日本人だけが氏子になることができ、それ以外の人は神道の信者、つまり氏子にはなれないのです。そこには日本人の「血筋」に対するこだわりがあるからです。たとえ日本国籍を持つ欧米人でも、いつまでも 「ガイジン」として扱い、同胞とはみなさない日本社会の風習がありますが、日本人は異人種、異民族に対しては排他的であり、そのような日本人の感情に基づいて神道が成立したので、原則として日本人以外の人は信者になれないのです。

逆にいえば日本人であれば、それだけで神道の信者にされてしまいます。最初に述べた村の鎮守さま(八幡神社)に対する信仰表明をしなくても、たいていの神社ではその地域(土地)の住民を「氏子」、つまり神道の信者とみなしています。

[9:神道の信者数]

宗教の信者の数を正確に示すことは困難なことですが、文化庁の宗教年鑑によれば

宗教名人数
神道系一億六百万人
仏教系九千六百万人
キリスト教系二百万人
その他一千百万人
合計二億一千五百万人


これをみると、信者の合計は日本の総人口の二倍弱の値になりますが、一人で複数の宗教の信者になっている/あるいは信者とみなされているからです。

参考までに二十年前に日本人に対しておこなわれた別のアンケート調査に基づく数字を示しますと

貴方は宗教を信じますか?。という質問に対して信じると答えた人は三十パーセント前後でした。信じると答えた人達に何の宗教かを尋ねたところ、神道と答えた人は僅か 二パーセントでした。つまり神道を信じると答えた人の割合は、千人中六人という数字でしたが、これと前掲の表にある神道系の信者数や明治神宮だけでも初詣に訪れる人が三百万人という数字をどのように理解すべきなのでしょうか?。日本人に対して

神社へ行ってお参りし、神様にお願いをしたことがありますか?
と尋ねれば、創価学会やキリスト教などの特別な宗教を信じる人以外は 「 イエス 」と答えるのが普通です。つまり神社への参拝祈願を、神道に対する宗教的行為として自覚していないだけの話なのです。日本人の精神風土にはその基盤に神道が無意識のうちに深く染み込んでいるからともいえます。

再度明治神宮の例を挙げますが、日本全国に神主の有資格は約二万人いるものの、人々は神主に勧誘され、説得されて初詣に行くわけでは決してありません。あるキリスト教の牧師によれば、

神社の神主が何も布教活動をしないにもかかわらず初詣には何百万人も訪れるが、我々が布教活動に努力しても年に四〜五人の新しい信者を獲得できれば良いほうだ

と述べました。警視庁のまとめによれば、全国で初詣に行く人の数は平成19年の正月三が日で、9,795万人 でしたが、その違いは神道が何千年もの歴史を持つ日本の民族宗教であり、日本人の精神風土の中で自然発生し現代に至るまでゆるやかに育まれて来たからです。今さら神道について「信じるとか、信じない」などと、議論や質問すること自体があまり意味がないことだと思います。

だからといって日本人は信仰心が篤(あつ)いわけではありません。キリスト教などでは洗礼を受けた時点その宗教の信者になるのに対し、日本ではその地域で生まれ育てば自動的に氏子になり、宗教の神を拝めば信者とみなすので、神や仏を同等に信じることに日本人は何の疑問も抵抗もありません。つまり信仰に対しては、融通無碍( ゆうずうむげ、どのようにもなり、何の障碍もない )の考え方なのです

[10:神道理解の ヒント]

  1. 神とは
    人間を越えた存在であり霊威を持ち人間に対して禍福や賞罰を与え、信仰、崇拝、儀礼、神話の対象となるものです。日本の神話では初代天皇(?)である神武天皇より、以前に登場する神様のことをいいます。

  2. 神道の祝詞( のりと )とは、
    神道の祭典、儀式などの際に、神に奏上する言葉を祝詞( のりと )といいます。その語義については、宣り説き言( のりときごと )が最有力です。内容としては善言美詞を連ねて神々の徳をほめ称え。神の恵みである家内安全、五穀豊穣、病気治癒、罪の祓いを祈願し、神々に感謝を祈願する言葉です。

    一例として御祓( おはらい )の時に唱える祝詞を紹介しますが、禊祓( みそぎはらえ )の起源は古事記や日本書紀が伝える、伊邪那岐命( イザナギノミコト )、伊邪那美命( イザナノミコト )の神話に求められます。

    掛巻( かけまく )も畏( かしこ )き伊邪那岐大神( いざなぎのおおかみ)、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘( たちばな)の小戸( おど)の阿波岐原( あわぎはら)に禊祓(みそぎはら)へ給ひし時に生(な)り座(ま)せる祓戸(はらえど)の大神(おおかみ)等(たち)、−−−お願いをする神様のご指名。

    諸々の禍事(まがごと)、罪穢れ有(あ)らむをば、祓(はら)へ給ひ清め給へと白(もう)す事を聞食(きこしめ)せと、恐(かしこ)み、恐(かしこ)み白(もう)す。−−−神様にお願いする内容。

    掛巻( かけまく )も畏( かしこ )きとは、口に出して言うのもおそれ多いことだが、の意味です。祝詞に関連する古事記、日本書紀にある二神の神話については、下記には、「みそぎ」の際に左目を洗うとアマテラスオオミカミ(天照大御神)が、鼻を洗うと乱暴者のスサノオノミコトが生まれたことが書いてあります。

    ここと、次の頁を参考にしてください。

  3. 柏手をなぜ打つのか
    音を立てる件については仏教寺院で鐘を撞くのと同じ理由から、信仰対象(この場合は神様)の注意を引くためとする説があります。拍手(かしわで)については、手を打つ形が柏(かしわ)の葉に似ているから、柏手とする説がありますが、拍手(はくしゅ)を柏手(かしわで)と読み間違えて、それが誤って伝えられたとするのが正しいようです。拍手(はくしゅ)が初めて記録に現れたのは日本書紀で、第四十一代持統天皇(645〜702年、女帝 )が即位した際に、「群臣が手を拍(うつ)」とした記述があります。これは現代の拍手(はくしゅ)ですが、古代においては神を拝むときだけでなく、人に対する礼として拍手が使われていたのでした

    ナマステー

    同じことが仏教における合掌にもいえますが、もとは インド における古代からの礼法であり仏陀を拝むのに用いられました。しかし現在の インドでは合掌に仏陀を崇拝する意味は無くなりましたが、日常の挨拶として使用され、合掌しながら ナマス・テー といいます。私はあなたを尊敬します/こんにちはという意味です。ある時 インド航空に乗ると、スチュワーデスが飛行機の入り口で合掌して ナマス・テーを言っていました。

  4. 神社の起源
    田植え祭り ご神体を祀る神社の起源は、弥生時代に稲を蓄えた稲倉でした。農耕の民である弥生人は彼等が食料とした米を重視し、稲に宿って稲穂を実らせる穀霊(稲魂)を崇拝し感謝しましたが、多くの神社に伝わる祭祀、儀礼も そのほとんどが稲作に関係のある行事である事もその表れです。写真は「お田植え神事」の様子ですが、よく見ると田の畦(あぜ)の右側に神主の姿も見えます。

    最初は稲を貯蔵する建物を作りそこで穀霊を拝みましたが、やがて神(穀霊)を迎える祭祀の度に簡単な建築物を設け、祀りが終わると撤去しました。後に人間同様に神々にも住居が必要と考えられて、神の社(やしろ、屋代)が建てられるようになりましたが、仏教伝来後には仏教建築の影響を受けて、社殿(神社)へと発展しました。

  5. カミ( 神 )の語源
    種々の説がありますが、江戸末期の国学者である平田篤胤(あつたね)の説によれば、「 カミ 」の「 カ 」は「彼(か)の」の意味であり、「 ミ 」は「霊妙なるもの」と意味を解しました。そこで「 カミ 」とは「あの霊妙なるもの」と解釈されます。

    ところが歴史学者、津田左右吉(そうきち、1873〜1961年)の説によれば、「 カミ 」の語源で重要なのは 「 ミ 」であり、「 カ 」は単なる接頭語に過ぎないというのです。蛇の巳(ミ)、山の精霊である山津見(やまつみ)の 「 ミ 」、海の精霊である綿津見(わたつみ)の 「 ミ 」の如く、この 「 ミ 」 こそが神の意味であるとしています。あなたはどちらの説を支持しますか?。


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