地上の楽園、北朝鮮への帰国
[1:朝鮮戦争]今から五十七年前のこと、昭和25年(1950年)6月25日に北朝鮮の地上部隊が、戦車を伴って突然北緯三十八度の国境線を越えて韓国に侵入し、朝鮮戦争が始まりました。直後の6月27日に緊急開催された国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と認定されました。韓国に駐留していた米軍を主体として国連軍が編成され、国連加盟諸国が朝鮮に軍隊を派遣しましたが、これに対してソ連(現ロシア)がバックアップする北朝鮮には、後に中国共産党の人民解放軍も加わり、東(共産主義陣営)対、西(自由主義陣営)の対立によるそれまでの東西冷戦( Cold War )から、朝鮮半島における熱い戦い( Hot War )へと発展しました。
戦況は初動態勢の遅れから侵略の三日目にはソウルが陥落し、韓国軍と米軍は一時釜山近くまで攻め込まれましたが、伸び切った北朝鮮の補給路を断つ為に、マッカーサーが敵の背後の仁川(インチョン)に上陸作戦をおこなったことから形勢が逆転し、国連軍が優勢になりました。写真は仁川に上陸した上陸用舟艇とアメリカ兵。
その後、敗走を続ける北朝鮮を救う為に中国共産党の人民解放軍が参戦しましたが、旧式の装備を持つ大部隊の歩兵が撃たれても撃たれても、次から次へと押し寄せる得意の人海戦術を採ったことから、戦況が一進一退しました。 しかしこの前近代的戦術は米軍の飛行機や砲兵にとって格好の攻撃目標となり多大の損害を与えましたが、その一方で人的損害の大きさに驚いた人民解放軍はそれ以後 人海戦術を放棄し、攻勢よりも陣地にこもって戦う戦術に変更しました。つまり敵を打ち破り戦争に勝つ為の方法ではなく、敗北しないために堅固な地下道を持つ籠城(陣地)戦術を選んだのでした。
開戦から三年一ヶ月経った昭和28年(1953年)7月27日に板門店で停戦協定が締結され、事実上朝鮮戦争は終結しました。南北朝鮮の境界線はそれまでの北緯三十八度線ではなく、事実上、敵と味方が互いに攻防した当時の最前線が軍事境界線(停戦ライン)になりました。写真は板門店における休戦協定調印の様子ですが、韓国政府は停戦を拒否して代表を調印に参加させませんでした。国連軍代表ハリソン中将(左から三人目)と中国朝鮮軍代表の南日中将(右から二人目)は、言葉も交わさずにその場を去りました。 人民解放軍が朝鮮戦争から教訓を学んだとすれば、
であり、それに基づき中国は以後装備の近代化と空軍と海軍の増強を図り、今では原子力潜水艦を持つ迄になりました。
これは拉致事件に対する主張と同じで、金正日が拉致そのものを認めるまでは、長年 拉致事件をでっち上げと主張してきたのはご存じのように、社会党(現、社民党)と左翼主義者たちでした。朝鮮戦争の原因について真相が解明された後でも、例によって左翼主義者たちはこれまで自分の犯した主張の過ちや歴史のねつ造を決して認めようとせず、謝罪もしませんでした。これについて更に知りたい人は、ここをクリック。
注:1)
1:戦死、33,665名
2:戦闘に依らない死亡(事故や病死)、3,275名
3:死者合計、36,940名
4:戦傷者、92,134名
5:戦闘中の行方不明者( M I A 、Missing In Action )、8,176名
注:2)
1:中国共産党人民解放軍、損害、推定100万名
2:北朝鮮軍、損害、少なく見積もっても200万名、最大で350万名
3:韓国軍、損害、135万名
4:民間人の犠牲者、推計200万名
5:南から北朝鮮に連行された民間人、15万名
6:離散家族、南北で一千万名
注:3)
[4:李承晩ライン]![]() 朝鮮戦争中の昭和26年(1951年)9月8日に日本と連合国(五十二箇国中、四十九箇国)との間で、日本国との平和条約(一般には対日講和条約といわれる)が結ばれましたが、その三年前の昭和23年(1948年)8月13日に国家を樹立したばかりの韓国は、対日戦争を戦ったわけではないのに戦勝国の一員であると主張して、講和会議への参加を要求しましたが米国に拒否されました。この条約の発効は調印から七ヶ月後の昭和27年(1952年)4月28日でしたが、それまでの間、日本は引き続き米軍の占領下に置かれました。
日本が独立するまでのこの間隙を利用して、韓国大統領の李承晩(リ・ショウバン、1875〜1965年)は国際法に違反して、昭和27年1月18日に公海上にいわゆる李承晩( リ・ショウバン)ライン を設定し、日本が占領下であることを良いことに日本の領土だった竹島を強奪すると共に、この海域内の鉱物、水産資源について海洋主権宣言をおこないました。
その結果日本漁船の操業が閉め出される事態となり、それ以後李承晩ライン内では、十三年間に三百二十八隻の漁船が韓国の警備艇によって拿捕され、銃撃を受けて四十四名の漁船員が殺害されあるいは負傷し、約四千人の日本漁民が抑留されました。写真は釜山港に抑留されている日本漁船で、韓国は拿捕した日本漁船が漁獲した魚を没収し、その魚を日本に輸出するというあくどい商売をしました。 李承晩( リショウバン)ライン は昭和40年(1965年)の日韓漁業協定の成立により廃止されましたが、その際に韓国に抑留されていた日本人漁船員の返還と引き換えに、犯罪常習者あるいは重大犯罪者として日本の刑務所に収監されていた、在日韓国人や朝鮮人四百七十二人を刑務所から釈放したばかりでなく、彼等に在留特別許可というおまけまで与えました。つまり今後も犯罪者達に日本国内での居住を許し、強盗、スリ、窃盗などを再犯するチャンスを、死ぬまで与えたのでした。
[5:北朝鮮への帰国事業、周到に練られた計画]![]() 「北朝鮮への帰国事業」という言葉を聞いたことがありますか?。朝鮮戦争の停戦から六年後の昭和34年(1959年)に、在日朝鮮人のうちの帰国希望者を、北朝鮮に帰国させることになりましたが、この事業は在日朝鮮人が日本における差別と貧困に耐えかねて帰国を求めたからとされました。写真は大阪駅における、帰国者を乗せた特別列車。
在日朝鮮人の帰国運動に対しては、韓国政府と大韓民国居留民団が北へ返すのは「人道に反する」として反対して、こちらも大規模な抗議運動を行いましたが、写真は民団によるデモ行進の様子です。日本政府は帰国事業に対して終始中立的立場を採り続け、日本赤十字社が帰国希望者に対して、「自由意思」によるものかどうかを一人一人別室に呼んで意志の確認をするという入念な方法を採りました。 なぜ朝鮮総連は朝鮮戦争後の北の貧しい生活を、肉の入ったスープを飲み、絹の服を着る 地上の楽園(天国)などと、真っ赤なウソをついてまで、同じ民族の仲間をあざむき、自由と人権を奪う社会主義独裁国家の牢獄(北朝鮮)に送り込む為の、激しい帰国勧誘運動を全国規模で展開したのでしょうか?。そこには以下の理由がありました。
植民地時代に東洋一の化学工場だった日本窒素肥料興南工場も、興南肥料連合企業所として北朝鮮の肥料のほとんどをここで生産していましたが、爆撃により壊滅状態になりました。それ以外にも各地の鉄橋、橋梁も破壊され、その為に国土を復興させるための技術者や、その他の高学歴の人材を必要としていました。
そこで金日成( 金正日の父親 )は日本から在日朝鮮人の人材を求めることに決め、在日の帰国を奨励するとの声明を発表し、帰国事業が始まりました。前述した如く朝鮮戦争において北朝鮮の軍隊は、少なく見積もっても二百万名の損害を出したといわれますが、この数字は当時の北の人口の一割以上にも及びました。 国内における労働力不足を補うために、戦争中には南から韓国人十五万名を北に連行し、戦争終了後も北朝鮮国内に抑留して労働に従事させましたが、 在日朝鮮人が帰国受け入れを金日成にお願いしたからというよりも、北朝鮮の復興に必要な技術者、労働力不足から北朝鮮がそれを望んでいた為に、在日を受け入れたのでした。 つまり帰国事業とは、北朝鮮当局と朝鮮総連によって、用意周到に練リあげられた計画の下におこなわれました。 しかし北への純粋な帰国希望者だけでは到底必要数を満たすことが不可能と判断されために、北の指令を受けた朝鮮総連が総力を挙げて帰国勧誘運動をおこないました。昭和33年(1958年)8月13日の「朝鮮解放十三周年記念 在日朝鮮人中央慶祝大会」では、今後の運動方針として在日朝鮮人の集団的帰国を全面的に打出しました。 その為にはありもしない北朝鮮での豊かな生活や、「完全就職」、「生活保障」などの甘言による地上の楽園の虚構を作り上げて、帰国希望者を説得し、かき集める必要があったのでした。 ところが帰国した者の中には、北朝鮮が求めていたような技術者や高学歴者などは、ほとんどいませんでした。帰国を希望した者の大部分は朝鮮半島の北部ではなく南部の出身者で、植民地時代により良い暮らしを求めて日本に移住した下層階級の者たちであり、朝鮮にいた当時から朝鮮語さえも多くが文盲の、貧しい肉体労働者とその家族たちでした。彼等は日本においてもいわば負け組の人達であり、朝鮮人に対する人種差別と学歴不足から日本では満足な職業に就けず、彼等の四人に一人は生活保護所帯でしたが、子供達の学歴も大部分が義務教育のみで、良くて高卒でした。 朝鮮戦争停戦後の、祖国の再建という崇高な目的の為に帰国した高学歴の者も中には少数いましたが、北朝鮮ではその学歴ゆえに今度は思想面で警戒され、監視されることになりました。
[6:北への帰国をあおった、左翼主義者や偏向マスコミ]なぜ在日朝鮮人は、二度と帰れない凍土の北朝鮮へ続々と帰国していったのでしょうか。その理由は朝鮮総連だけでなく左翼主義者や朝日を中心とする大新聞が、盛んに「北朝鮮よいところ」という虚報を流し、帰国熱を「あおった」からでした。
注:)
こんなことを、日本で最も「信頼」されている天下の大朝日新聞が書いたのである。しかも、これは特殊な例ではなく、この論調の記事は何度も書かれている。こういう記事を読み、自らの迷いに「フンギリ」をつけ「祖国」に渡って行き、過酷な弾圧と労働で死んでいった人々も大勢いるはずである。朝日は、一体こういう人々に、どう責任を取るつもりなのか。これは誤報ではない。明らかな虚報である。というのは朝日は戦後一貫して、共産圏の国々の真の姿を決して伝えようとはしなかったからである。そして、最も肝心なことは、こういう虚報が現在に至るまで一度も公式に訂正されたことはなく、しかも責任を取ってやめさせられた記者も一人もいないことだ。「虚報の構造オオカミ少年の系譜」、 井沢元彦 1995年 小学館
[7:地上の楽園への道と、その後]考えてみて下さい。北朝鮮全土が戦場となった朝鮮戦争により、北では数百万の死傷者を出し焦土と化しましたが、その朝鮮戦争の休戦協定が結ばれたのが、昭和28年 ( 1953年 )7月27日でした。それから僅か 六年しか経っていないのに、資源が乏しく輸出で稼ぐ産業も無かった北朝鮮について、冷静に考えれば 地上の楽園 などは、産業的に、経済的に作れるはずが無いと判断するのが当然でした。ところがその当時、左翼主義者に非ざれば人に非ずの状態でした マスコミ界では、社内における自己保身から、 地上の楽園 ( 天国 )の宣伝に誰も疑問の声を挙げる者もなく、朝鮮総連の宣伝文句をそのまま垂れ流し、北への帰国勧誘運動にこぞって協力しました。 戦後の復興に関して実例を挙げますと、日本でさえも敗戦から六年後の昭和26年 (1951年 ) 当時の上野駅の地下道には、戦災孤児や浮浪者が寝泊まりしていたのを私はこの眼ではっきり見ていましたし、経済企画庁の経済白書に、もはや戦後ではないという有名な言葉が書かれたのは、敗戦から十一年も経った昭和31年 ( 1956年 )のことでした。
帰国事業による北朝鮮への集団帰国は昭和34年(1959年)12月14日から、昭和59年(1984年)7月25日まで行われましたが、これにより総計93,340名が北朝鮮に帰国しました。帰国事業開始直後の二年間で約75,000名が帰国しましたが、その中には在日朝鮮人の夫と共に帰国した日本人妻が約1,800名と子供や日本人の夫を含めると6,300名の日本人が含まれていました。写真は新潟港から出港する、第一次帰国船の様子ですが、赤十字の旗に注目。北朝鮮がチャーターした二隻のソ連船を使用し、後方に見える船も帰国船です。 脱北者の中に第一次帰国船に乗船した人がいて手記を書いていましたが、清津(チョンジン)港に着いてみると、地上の楽園のはずが現地の人々の薄汚れた貧しい服装と生気の無い顔を見た途端、帰国者全員が一斉に感じたことはこんなずではなかった、朝鮮総連にだまされたということでした。 ここではっきり言いますが社会主義、共産主義の下で、人々が地上の楽園どころか、豊かになり幸せになった国など、その当時から現在に至るまで、世界中にひとつも無かったことを思い出してください。
注:)
[8:帰国者と日本人妻の、その後]北朝鮮の社会は階層社会といわれていますが、その構成は出身成分により決められます。北朝鮮政府が全人民を先祖からの革命に対する貢献度に応じて、革命核心階層、監視の対象とされる動揺階層、特別監視対象とされる敵対階層の三階層に大別して、それを更に細分して合計64種類に分類したものです。それは余程の事情がない限り上位の分類には移動できない、革命的身分階級制度です。
日本に残った在日朝鮮人たちの中には、北朝鮮に渡った親族たちの消息を知ろうと北朝鮮に行ったものの、向こうの担当者から「あなたの親族の消息は、こちらでも分からない」などと言われた人もいました。断片的に得られた情報をつなぎ合わせてみると、消息不明になった人々は日本への里帰りを願いでた為に強制収容所に入れられたり、貧しい生活を送る中で日本での習慣からつい政府を批判した言動を密告されて、処刑された可能性が強いといわれています。 ところで「日本人妻」に関しては、平成9年(1997年)、平成10年(1998年)、平成12年(2000年)にそれぞれ十数名ずつ日本への里帰りが実現しましたが、いずれも平壌附近に住む恵まれた階層に属する人達でした。しかも日本に行く一ヶ月前と帰国後一ヶ月間は思想教育をされ、日本のことを決して褒めてはいけない、北朝鮮について聞かれたら良いことしか言うな、帰国後も北朝鮮を褒めろと指導されたのだそうです。しかし日本人妻の総数からすれば、里帰りはほんの一部にすぎませんでした。
[9:地上の楽園に向かう帰国船を見る]![]() 帰国事業に賛成、反対する朝鮮総連と韓国民団との間で帰国者の綱引きを演じ、世相が騒然としていた昭和34年 (1959年 )12月のこと、当時私は青森県八戸市にある海上自衛隊八戸基地で、対潜水艦哨戒機( P2V−7 )の第三操縦士 ( 航法士 )をしていましたが、忠臣蔵の討ち入りと同じ12月14日に、日本海への哨戒飛行の任務を命じられました。在日朝鮮人の帰国希望者を北朝鮮に帰国させる第一次帰国船が、昭和34年 ( 1959年 )12月14日に新潟港を出航し、北朝鮮の中国との国境に近い日本海側にある港町、清津 ( チョンジン )に向かうものと予想されました。 前述した無法者の李承晩 ( リ・ショウバン )が、在日朝鮮人を北朝鮮へ帰国させることに強く反対した為に、帰国船の運航を妨害し、拿捕するかも知れないという危険が予想されました。
そこで政府が海上自衛隊の飛行機に帰国船の前路哨戒を命じた為に、出航の三日前から帰国船の予定コースに沿って主に韓国側(西側)を重点に、北側は南北朝鮮を分ける北緯38度線を越えた、咸興(ハムフン)を通る北緯40度線まで哨戒飛行をおこない、韓国の軍艦を捜索しました。その当時の韓国は貧しく海軍の軍艦といえば米軍から払い下げられた古い小型艦艇を数隻持つだけでした。
冬の日本海はシベリアからの季節風が強く吹き、海も荒れて一面に白波が立ち、時化( シケ )のため沖で操業する漁船もなく、高度 千フィート( 三百メートル )の低高度で飛びながら、捜索 レーダーに映る中型、大型の船舶を一隻づつ目視で確認しながらパトロール飛行を続けました。 韓国海軍の軍艦は予定 コース付近には遂に現れず、北朝鮮が チャーターしたソ連の帰国船を哨戒機から見ると、時化 ( シケ )の海をかなり ピッチング ( Pitching 、縦揺れ)しながら、清津( チョンジン )に向けて航行していました。帰国者たちを待ち受けていた 地上の楽園 ( 凍土 )における苛酷な運命については、当時は神のみぞ知ることでしたが、今から48年前に私も少しだけ、それに関係を持ちました。
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