祟りと怨霊の主


般若

祟 ( たた) り とは、神仏や死霊 ( しりょう ) ・ 時には生霊 ( いきりょう ) などが、その意に反する行為をした人を とがめ、呪 ( のろ ) い、怨んで、災厄、禍 ( わざわい ) などをもたらすこと ですが、 たたり の語源は神がその場所に存在していることを表わす、 立ち有り が転化したものといわれています。

悪疫の流行、飢饉、風水害、落雷、地震などの自然災害や天変地異そのものが、 神の 「 立ち有り 」 つまり 「 たたり 」 であり、それを畏 ( おそ ) れ神の怒りを鎮め、たたりを防ぐために祀ったものが神社の始まりともいわれています。

歴史上の実在した人物が神として祀られている場合でも、例外はあるものの、その人物が何らかの理由により非業の死を遂げ、それが 怨霊化して祟りをすることを畏れて 、各地の御霊 ( ごりょう ) 神社、和霊 ( われい ) 神社 ( 瀬戸内海沿岸地方 ) に神として祀りますが、一方仏教においても念仏やお経を上げて 怨霊を供養して怒りを鎮め 、あるいは祈とう師や僧侶が身に備わった修験の力や法力により、災厄を取り除くように努めます。

崇徳上皇

ところで日本には 三大怨霊 ( おんりょう ) といわれるものがありますが、その内の ひとつが 第 75 代 崇徳天皇 ( すとく 天皇、1119〜1164 年、後に上皇 ) で、皇位継承の抗争に敗れ、後白川 ( ごしらかわ ) 天皇や天皇家を 怨み 呪い ながら 流刑地の讃岐 ( 香川県 ) で憤死しました。

絵は生前から爪も髪も切らずに怨霊さながらの姿となり、ひたすら後白川天皇を 呪詛 (  じゅそ、特定の人に災いがかかるように神仏に祈る ) した崇徳上皇ですが、ちなみに 怨霊になった天皇は、他にも 3 人 いました。

三大怨霊の内の 残りのふたつは、後述する学問の神様として 受験生にとっては馴染み深い 菅原道真 と、 平将門 ( たいらの ・ まさかど ) の怨霊でした。

[ 1:桓武 ( かんむ )天皇の場合 ]

奈良時代から平安時代にかけては何事につけても祟りや怨霊に原因を求め、日や方角の吉 ・ 凶を占う風習がありました。そのために律令制の下では、陰陽 ( おんよう ) 寮という役所まで設けていて、中国の陰陽五行説に基づく占いをはじめ、陰陽師 ( おんようじ / おんみょうじ ) などによる、 病気を治し 禍を避け 怨霊を除く、加持祈祷 ( かじきとう ) が盛んにおこなわれた時代でもありました。

桓武帝

奈良時代の天皇に 第 50 代の桓武天皇 ( かんむ、737〜806 年 ) がいましたが、彼の生母である高野新笠 ( たかのの ・ にいがさ、?〜790 年 ) は先帝、光仁天皇 ( こうにん、在位 770〜781 年 ) の側室でしたが、彼女の先祖は百済 ( くだら ) 系の渡来人でしたので、万世一系 (?) と称された日本の皇統には 朝鮮人の DNA が受け継がれて、現天皇に至っています。

五重塔

それまでの天皇の系統 ( 皇統 ) には 天武 ( てんむ ) 天皇系 天智 ( てんじ ) 天皇系 の 二つがありましたが、 天武系 の元明天皇 ( げんめい、女帝 ) が 710 年に都と定めた奈良の平城京は、国家鎮護の奈良仏教を基本に天武系の政権を支えてきた、 南都六宗などの寺院勢力 が強い所でもありました。写真は奈良・興福寺の五重塔です。

長岡京跡

そこから政治的に脱却し人心を一新するために、 天智系 の桓武天皇は 784 年に長岡京 { 現 ・ 京都府の向日 ( むこう ) 市と長岡京市 付近 } に都を移しましたが、それだけに留まらずに、次には 794 年に平安京 ( 現 ・ 京都 ) に都を移転しました。

折角作った長岡京を僅か 10 年で放棄した理由は、784 年に 造長岡宮使 ( 長岡に都を造営する最高責任者 )に任命され遷都に着手した 藤原種継 ( たねつぐ 、737〜785 年 ) が、翌年に暗殺されたことが原因でした。

この暗殺事件で桓武天皇は容疑者を厳しく処罰し、主犯の大伴継人 ( つぐひと ) は死刑、万葉集で歌数が最多である歌人の大伴家持 ( やかもち、718?〜785 年 ) は事件直前には死亡していましたが、死後除名 ( じょみょう、官僚としての名誉剥奪 ) 、藤原種継と不仲だった自分の弟で皇太子の 早良 ( さわら ) 親王 を、暗殺事件に連座したとして、淡路島に流刑 ( るけい ) にすることを決めました。

親王は無実を訴えて自ら食を断ち、流刑地へ送られる船旅の途中で絶命したとされましたが、実際は

7 日7 夜 水漿 ( すいしょう ) を通ぜず ( 水分を与えず ) にしたために、脱水により衰弱死したものの、遺体はそのまま流刑地に送られ埋葬されました。

ところがその後 宮中では、桓武天皇の長男の 安殿 ( あで ) 親王 の発病や、 天皇妃の藤原乙牟漏 ( おとむろ ) の病死などの不吉な事件が相次いだので、桓武天皇が陰陽師に占いをさせたところ、早良 ( さわら ) 親王の 祟り ( たたり ) であるという結果がでました。そこで 残酷な死に方をさせた、 早良 ( さわら ) 親王の 怨霊 ( おんりょう )を極度に恐れるようになりました。

平安末期に成立した歴史書である日本紀略によれば、延暦19 年 ( 800 ) 7 月 己未 ( つちのと ・ ひつじ )、( 23 日 ) の条に

詔曰、云々、宜故皇太子早良親王追称 崇道天皇 、故廃皇后 井上親王 追復称皇后、其墓並称山陵、令近衛少将大伴是成、率陰陽師・衆僧、鎮謝在淡路国崇道天皇山陵

とありましたが、その意味とは皇太子の故 早良 ( さわら ) 親王に 祟道 ( すどう ) 天皇の尊号 を追贈し、光仁天皇の皇后を廃された故 井上親王 皇后の名称を復活 させると共に、二人の墓を山陵 ( 天皇・皇后の墓、みささぎ ) と称することにしました。近衛少将大伴是成に命じて、陰陽師や僧侶たちを率いて淡路島にある崇道天皇山陵に派遣し、その霊を鎮め おわびしました。

祟道山陵

その後 淡路島の埋葬地から遺骨を大和国・添上郡八島 ( 現、奈良県・奈良市・八島町 ) に移して厚く葬りましたが、現在その陵墓 ( 左の写真 ) は天皇に即位した事実が無いにもかかわらず、 崇道 ( すどう ) 天皇八嶋陵 として、怨霊の墓を宮内庁・書陵部が管理しています。

上御霊神社

ちなみに京都市 ・ 上京区にある上御霊 ( かみごりょう ) 神社 は、前述の 早良 ( さわら ) 親王 を初め、62 才の老齢になって即位した前述の第 49 代 光仁天皇 の后でした 井上皇后 、光仁天皇の皇子 他戸親王 ( おさべ・しんのう )、 菅原道真 など、 政争に巻き込まれ非業の死を遂げた人々や、怨みを抱いて憤死した人々の霊を鎮めるために 863 年に作らたものです。

2:天神信仰 ]

天神様といえば今では菅原道真のことを指しますが、本来の天神は菅原道真 ( 845〜903 年 ) の時代よりも遙か以前から すでに日本に存在していた神のことでした。記紀に記されている天地創造神話でいうところの、高天原 ( たかまがはら )系統の あまつかみ ( 天津神、つまり天にいる神 ) のことで、天皇や古代の有力豪族の祖先とされる神のことでした。

梵天神

これに対して仏教では、天界に住む 夜叉 ( やしゃ )、梵天 ( ぼんてん )、帝釈天 ( たいしゃくてん ) などがいましたが、神仏習合 ( しんぶつしゅうごう、注参照 ) により、それらを天神というようになりました。 土俗の神や仏教でいう 天神の多くは いわゆる 怨霊神 ( おんりょうしん ) であり、国中に存在して自然災害や 人に災厄をもたらす恐ろしい神とみなされました。そのために災難を逃れようとする人々により、信仰の対象にもなりました。写真は梵天像。

注:)
神仏習合とは日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のことで、奈良時代からすでに寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられました。

北野天満宮

後述する御所、清涼殿への落雷事件から、道真の怨霊は雷神と結びつけられて雷神 イコール 天神といわれるようになりましたが、元々京都の北野の地には 火雷天神 という地主神 ( じぬしのかみ、土地の神 ) が祀られていて、947 年に道真の託宣を受けて菅原道真の霊を近くの祠 ( ほこら ) に祀ったのが北野社の始まりでした。朝廷はここに北野天満宮を建立して、後述する 道真の祟り を鎮めることにしましたが、一条天皇の命令で 北野天満宮天神 の称号を授けました。

現在天満宮、天神宮は全国に 1 万 2 千 社 あるそうですが、そのうち神主がいる神社は 1 千 2 百 社といわれています。 そのうちで天神宮は 48 パーセント、天満宮は 52 パーセントの割合ですが、東日本には天神宮が多く、西日本には天満宮が多いといわれております。天満宮の双璧に挙げられるのが、前述した京都の北野にある北野天満宮と、九州太宰府市の太宰府天満宮です。

ところで私は九州の太宰府天満宮には 一度お参りしたものの、関西に 40 年近く住み北野天満宮の前を車や バスで何度も通りましたが、お参りしたことは一度もありませんでした。 いつか天神様の、ばちが当たるかも知れません!

[ 3:菅原道真失脚の原因 ]

菅原道真

学者の家に生まれた菅原道真は第 59 代 宇多天皇 ( 在位 887 〜 897 年 ) に引き立てられて、学者としては前例のない 右大臣 の地位まで昇進しましたが、多分優秀な人物だったに違いありません。しかし宇多天皇 が次の醍醐天皇 ( だいご、在位 897〜930 年 ) に譲位し上皇になり政治的権力を失うと、 左大臣の藤原時平 の讒訴 ( ざんそ、人を陥れるための悪い告げ口 ) により 901 年には、九州の大宰権師 ( だざいのごんのそち ) に左遷されました。

その原因を一言でいえば 分を越えた 出世の し過ぎ が原因で、周囲の者からの ねたみ と権勢を持つ藤原氏の 危機感 を造成したことでした。

かつて弓削 ( ゆげ ) の僧、道鏡が孝徳女帝に取り入り愛人関係になると、超 スピードの出世をして前例の無い、 太政大臣禅師の地位 を 彼の為にわざわざ作り昇進させた ものの、後ろ楯の女帝が死ぬと直ちに失脚して都から追放され、下野 ( しもつけ、栃木県 ) 薬師寺の別当に左遷されて 2 年後にそこで死亡しましたが、それと同じような結末でした。

ところで道真は謹厳な学者、清廉で有能な正義の人の イメージには そぐわない、 なかなかの しっかり者 世渡り上手 、3 人の娘のうち長女を宇多上皇の女御 ( 側室 ) に差し出し、次女が女官、もう1人の娘が宇多上皇の次男で醍醐天皇の弟に当たる、 斉世 ( ときよ ) 親王 の妃 にさせました。つまり 天皇家の 爺さん ( 上皇 ) と息子 ( 親王 ) とも、外戚 ( がいせき、母系の親戚 ) 関係を結んだことになります。

私はこの随筆を書くに際して道真のことを調べるまでは、 彼の 天皇家との外戚関係 については全く知りませんでしたが、皆さんはご存じでしたか?。天神様に昇格し特に受験生から崇拝される道真の人物像に対しては、肯定的な情報は数多く出てきても、マイナスの情報は出にくいものです。今回私の得た教訓は、ある人物に対する評価について、

褒め言葉や長所を示す事柄よりも、短所を表す言葉の中にこそ、貴重な情報 ( 事実 ) が含まれる。

というものでした。

[ 4:藤原氏の危機感 ]

氏 ( うじ ) の長者である藤原時平 ( 871〜909 年 ) にとって 心配の タネ が起きましたが、それは妹を第 60 代、 醍醐天皇 ( だいご、在位 897〜930 年 ) の后 ( きさき ) に入れることに成功したものの、世継ぎの男児がなかなか生まれませんでした。ところが前述した菅原道真の娘には斉世 ( ときよ ) 親王の 男児が誕生 したことから、このままではやがてその男児が皇太子になり、天皇に即位する可能性も予想されました。

これまで 藤原氏にとって権力を獲得し、私財蓄積のための 常套手段 でした、娘を天皇家に嫁がせて 外戚の地位を確保し 、その立場を利用して、 天皇家を リモコン操縦 することが不可能になるだけでなく、やり手の菅原道真に取って替わられ 彼が権力を握る危険 が生じてきました。そこで危機感を抱いていた左大臣の藤原時平が娘婿の醍醐天皇を動かし、道真の左遷を迫ったものと言われています。

ちなみに醍醐天皇に世継ぎの 保明 ( やすあきら )親王 が生まれたのは 903 年 、奇しくも道真が太宰府で死んだ年と同じでしたが、 道真の怨霊 が皇太子を 無事に見過ごすことはありませんでした

道真失脚の公式理由とされたものは、醍醐天皇を廃して 娘婿 で天皇の弟である 斉世 ( ときよ ) 親王に、天皇の位を継がせようと図った とするものでしたが、道真を 正義の人、無実で悲劇の主人公 とみなす人は、道真が詠んだ詩歌、

東風 ( こち ) 吹かば匂いおこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ。

恩賜の御衣

去年の今夜清涼に侍す/秋思詩篇独り断腸す/恩賜の御衣今此こに在り/捧持して毎日余香を拝す。

注;)
右の絵は 「 道長配所にて恩賜の御衣に懐旧の涙を流す 」 の図で、国宝 北野天神縁起絵巻

という 文学的虚構の世界を信じ、それに ひたるのも結構ですが 、道真が娘たちを天皇家に差し出し、藤原氏 に匹敵する 外戚関係を構築し政治的立場を強固にしたという 事実 についても、十分に考慮する必要があります。

政治の世界は 一寸先は闇とよくいわれますが、901 年 正月 7 日の除目 ( じもく、官を任命する儀式 ) で道真は藤原時平と共に従 二位に昇進しましたが、同月の 25 日には突然に九州の太宰府に左遷されました。しかも彼だけにとどまらず、4 人の息子たちもそれぞれ、土佐、駿河、飛騨、播磨へと散りじりに左遷追放されたのでした。 政治要略に記された醍醐天皇の 宣命 ( せんみょう、天皇の命令文書 ) によれば、

菅原朝臣 ( あそん、注参照 )、寒門 ( 貧しい家柄 )より俄 ( にわか ) に大臣にとり立てられた。それなのに、止足の分 ( これで十分足りること ) を知らず専権の心があり、佞諂 ( ねいてん、へつらう ) の情を以て上皇 ( 宇多上皇 )を欺き惑わし、 天皇 ( 醍醐 ) の廃立 を行って父子の慈 ( いつくしみ ) を離間し、兄弟の愛を破ろうとする。

うわべの詞はおだやかだが、心は逆である。この事は天下みな知るところである。大臣の位に置くべき人ではなく法律のままに罪すべきであるが、とくに思うところがあるから大臣をやめさせ、大宰権師 ( だざいごんのそち )に貶 ( へん ) する。

とありました。

注:)
朝臣 ( あそん ) とは 三位 ( さんみ ) 以上の人 ( 道真は当時 従二位 ) には 姓の下に ( 菅原朝臣 )のように付け、四位の人には 名前の下に付けて ( 道真朝臣のように ) 敬意を表す言葉。

[ 5: 怨霊神 の復讐 ( ふくしゅう ) ]

2 年後の 903 年に 菅原道真が九州の配所で死ぬと、道真の降格人事 ・ 左遷に関係した人々や その親族が、なぜか相次いで死亡する事態になりました。

  1. 906 年に、中納言の藤原定国が死亡。

  2. 908 年に、藤原菅根が死亡。

  3. 909 年に、 首謀者 の藤原時平 が 39 才の若さで死亡。

  4. 923 年に、時平の妹の子で 皇太子 の保明 ( やすあきら )親王 が 21 才の若さで死亡。

  5. 925 年に、次に皇太子に立てた保明の 第 1 皇子 の慶頼王 ( よしよりおう ) が、2 年後に僅か 5 才で死亡。

    雷神天神

  6. 930 年に、御所の清涼殿が落雷により炎上し、その際に大納言 藤原清貫と平・希世が感電死。

    注:)
    絵は北野天満宮所蔵で国宝の北野天神縁起絵巻。左端の刀を構え雷神と対峙している人物は、藤原時平です。

  7. 930 年に、 醍醐 ( だいご ) 天皇死亡

すると 前述した歴史書の 「 日本紀略 」 によれば、

世を挙げて言う、菅師 ( かんそち、菅原道真 ) の 霊魂の宿忿 ( しゅくふん、溜まった怒り ) の所為 ( しょい、しわざ ) なりと

つまり世間では 道真の怨霊 によるものと噂しました。そこで生前の醍醐天皇は道真の怨霊を鎮めるために、前述した 宣命 ( せんみょう ) を取り消し道真を元の官位に復官さただけでなく、従 二 位から 正 二 位に昇進させましたが、それでも 怨霊の怒り は収まらずに、醍醐天皇自身も落雷の数ヶ月後に死亡しました。

道真の怨霊がもたらした 死の復讐 ( ふくしゅう ) に当時の貴族たちは畏れおののき、前述のように京都北野の地 ( 北野天満宮 ) に怨霊鎮魂のために道真を祀るようになりましたが、天皇を含めて 8 名を殺し、御所の清涼殿を炎上させた 反逆の徒、連続殺人犯、放火犯人である 菅原道真の 怨霊 に対し、復讐の恐ろしさから 犯した悪行 を全て不問にしました。

それだけでなく生前の彼が学者で頭脳明晰だったという理由から、 邪悪な道真の怨霊 をあろうことか 学問の神様に変身 させてしまいましたが、世の中とは実に身勝手で 便利なものです



[ 6:歴史の転換期になると ]

歴史が大きく転換期を迎えると、それまでの 歴史上の評価も大きく変化します 。 昭和 20 年 ( 1945 年 ) の敗戦当時小学校 6 年生でした私は、学校教育の現場で起きた 180 度の大変化 を まざまざと見せつけられて、子供心にも教育に対する不信感と、裏切られた気持ちにさせられました。

というのは 今まで学校で習ってきたこと、教科書で教えられたことは、 全て間違いや、 ウソ だったというのですから−−−−。

学校教育であれほど強調されてきた、国を愛することは間違いとなり、国の為に生命を捧げた 戦死者は 護国の英霊 ( えいれい ) ではなく、誤った戦争で 侵略に荷担し 犬死 をした者 となり、大忠臣だったはずの楠木正成や、和気清麻呂などは、教科書の記述を 墨で消されてしまいした

教育現場だけでなく マスコミの態度急変もひどいもので、それまで唱えていた 鬼畜米英 ・ 米英撃滅、の論調から、敗戦後は一変し、 占領軍が日本に進駐 しないうちから 、占領軍総司令官になった  マッカーサーを 称える記事 を掲載するという 変わり身の早さ でした。

つまり戦時中は軍部に、戦後は進駐軍に 媚 ( こ ) び へつらい、その後は ソ連、中国、北朝鮮に すり寄った のが、彼等の軌跡であり 本質 でした。  朝日新聞 さん、あなたのことですよ。



[ 7:平将門 ( たいらの ・ まさかど ) の場合 ]

将門 ( まさかど ) といっても知らない人もいると思いますが、平家物語にある 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり の名文で始まる冒頭に次いで、遠く異朝 ( いちょう ) を問う ( とぶ ) らうに、に対比させて、

近く本朝を うかがうに 承平 ( 年号、以下同じ ) の将門 ( まさかど ) 、天慶の純友 ( すみとも )、康和の義親 ( ぎしん )、平冶の信頼 ( しんらい )、これらは皆 おごれる事も、猛き心も、皆とりどりにありしかども−−−−。

に出てくる 平 ・ 将門 ( たいらの ・ まさかど、生年 ? 〜940 年 ) のことでした。彼に対する評価についても昭和 20 年 ( 1945 年 ) までの皇国史観では、朝廷に弓を引いた 大悪人の反逆者 とされましたが、戦後は朝廷の支配に敢然と立ち向かい、新たな時代を切り開くために果敢な闘争を試みた者として、 英雄視 されるようになりました 。

つまり歴史においては、 ある人物に対する 不変の評価など本来存在せず 、歴史家 、評論家、マスコミ が下す評価などは、時代が変わると 途端に ころころ変わる はかないものであることを、子供の頃に体験しました。

[ 8:独立政権の樹立構想 ]

平 ・ 将門 ( まさかど ) は、桓武天皇の曾孫 ( ひまご )である高望王 ( たかもちおう )を祖父とする土地の豪族の子供に生まれました。都から遠く離れた地では、豪族同士の領地をめぐる取った取られたの争いの解決には武力が用いられましたが、彼もまた豪族間の紛争 ( 私闘 ) に巻き込まれてしばしば兵を動かし、戦闘に自信を付けました。

その当時朝廷から下級貴族が地方の国司に任命されると、 遙任 ( ようにん ) と称して任地には赴かずに京都に住み、代わりの 目代 ( もくだい、私的な役人 ) を派遣して、 苛酷な徴税により 私財を貯え 民衆を苦しめました 。将門の勢力基盤であった 常陸 ( ひたち ) などは、律 ( 刑法 ) に定めた三種類の流刑 ( るけい ) 、すなわち 近流 ( こんる )、中流 ( ちゅうる )、遠流 ( おんる ) のうち、安房 ( あわ、千葉県 ) ・ 伊豆などと共に 都から最も遠い遠流 ( おんる )の地 に定められていたほどの辺境の地でしたので、国司による搾取も当然おこなわれていました。

将門奮戦

939 年に平・将門は兵を集めて常陸 ( ひたち、茨城県 )、上野 ( こうずけ、群馬県 )、下野 ( しもつけ、栃木県 ) の国府 ( 律令制下で、諸国に置かれた政府の役所 ) を攻撃占領し、国司を追放しましたが、さらに下総国・猿島 ( さしま ) 郡・石井 ( いわい )( 現 茨城県 ・ 坂東市 ) に居城を構えて多くの役人を置き、関東の国司を自ら任命しました。

さらに 将門記 ( しょうもんき、平将門討伐後間もなく書かれた作者不明の軍記物 ) によれば、 彼自身を 新皇 ( しんのう ) 、つまり新しい天皇と称しました。

坂東 ( 関東 ) に大乱発生の報告が京に届くと、朝廷は慌てて藤原忠文 ( ただぶみ ) を征夷大将軍に任命し、将門追討軍を編成派遣すると共に賊を平定せよと勅命を下しましたが、天慶 3 年 ( 940 年 ) 1 月 11 日の太政官符によるその内容とは、

もし魁師 ( かいすい ) を殺さば朱紫の品 ( しゅしのほん )、田地の恩賞を賜り、とこしえに子孫に及び、これを不朽に伝う。また次なる将を斬れる者は、その勲功のままに官爵 ( かんしゃく )を賜う。

貴族衣装

もし首領 ( 将門 ) を殺せば、五位以上の人が着る 朱色と紫色の衣服 を与える = 五位以上の官位を与え{ つまり殿上人 ( でんじょうびと ) の栄典を与え }、田畑の恩賞を与えるが、この権利は末代まで続き、副将 { 興世 ( おきよ ) 王 } を斬った者は、それに見合った官位・爵位を与える。

と布告しました。しかし追討軍が坂東に到着する以前の 940 年 2 月 14 日に、将門は長年の抗争相手でした 平 ・ 貞盛、藤原秀郷 ( ひでさと ) らによってあえなく討たれましたが、彼が新皇として関東を支配したのは僅か数ヶ月の短期間であり、38 才の短い生涯でした。

それまでの日本の歴史の中でも、その後も 自らを天皇と称し、 独立王国を作ろうとする構想を持った人物 は、他にはいませんでした。

前述の 将門記 ( しょうもんき ) によれば、文芸 ・ 学問を省みない 武芸 一点張りの粗暴さ が、悲劇の要因だったと記していましたが、 新王国建設 (?) を夢見た彼の死を惜しんで、以下のように評しています。

その悲しみは、開かんとする めでたき ( 愛すべき、魅力的な ) 花が、その直前に萎 ( しお ) るるが如く、今にも光り輝かんとする月が思いがけず雲間に隠るるが如し。

中央政府が派遣した 私利・私欲にふける国司 ( あるいは目代 ) ( 地方長官 )を、彼が一時的にせよ実力で追放した行動は特に関東の民衆に大きな影響を与え、将門を英雄とする気運が年と共に高まり、非業の死を遂げた将門の怨霊に関する伝説を生むようになりました。

[ 9:将門 ( まさかど ) の首 ]

討ち取られた将門の首は証拠として早速京都に送られましたが、歴史上初めての晒 ( さら ) し首にされました。1371年頃に成立した 太平記の巻 16 :日本朝敵事 によれば、

将門晒し首

その首 獄門 ( 注:1 参照 ) に懸けて曝 ( さら ) すに、三月 ( 注:2 参照 ) まで色変ぜず、眼 ( まなこ ) をも塞 ( ふさ ) がず ( 目も見開いたままで )、常に牙 ( 歯 ) を噛みて、斬られしわが 五体、いづれの処にか有るらん( どこに有るのだろうか )。

此 ( ここ )に来たれ。首ついで ( 首と胴をつないで ) 今 一軍 ( ひといくさ ) せんと、夜な夜な呼ばわりける間、( 毎晩呼び続けたので )、聞く人これを恐れずといふ事なし( 皆が恐れた )。

後には、怪しい光を放ちながら首は東国へ飛んでいったということでした。

注:1 )
獄門 ( ごくもん ) とは平安時代に、平安京の左右にあった獄舎の門前に、斬首された罪人の首を台に乗せて晒 ( さら ) したことから、それを 「 獄門 」 というようになりました。

注:2 )
2 月14 日に討ち取られた首が京に運ばれ、 暦の 3 月 までも変色しなかったとする解釈と、運ばれて 三ヶ月 経っても変色しなかったとする解釈もあります。

獄門台

右の絵は 慶応元年 ( 1865 年 ) に イギリス人の写真家 ベアトが横浜で撮影した写真を基に、外人絵師が描いた晒し首です。首は台から突き出ている 二本の逆さ クギに刺して固定しますが、首の左右にあるのは、据わりをよくするために置かれた粘土の塊です。

[ 10:祟る首 ]

将門塚

晒されていた将門の首は、その後に空を飛んで東国へ帰り、一説によれば武蔵国豊島郡芝崎 ( 現、東京都千代田区 ・ 大手町 ・ 1 丁目 2−1 )に落ちたとされますが、その際に大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったので、村人は恐怖して塚を築いて埋葬しました。これが 将門の首塚 と語り継がれている将門塚 ( しょうもんづか ) のことで、 現在も大手町にある ビルの谷間にあります。

将門の首

しかし実際は将門に縁のあった者が、晒された首を京都から持ち去って、前述の住所である武蔵国豊島郡柴崎村に埋めて、塚を築いたことのようでした。

ところが将門の首を葬った塚のあたりで毎夜光を発するなどの天変地異や疫病が流行ったりしたために、ある僧が塚から半里 ( はんり、2 キロメートル ) ばかり離れた神田 ( 東京都千代田区 ・ 外神田 ・ 2 丁目 ) の地に将門の慰霊 ・ 鎮魂のために祠 ( ほこら ) を建て、神田明神 として祀ったところ、怒りも鎮まりその後は何事も起きなくなりました。江戸時代になると勅使として江戸を訪れた大納言烏丸光広が、

将門は朝敵であっても、武勇に優れた者である。京都の八所御霊 ( 前述した菅原道真などを祀る御霊神社 ) のように神霊を祀るなら、国家の鎮守となるであろう

神田明神

として、後水尾天皇 ( ごみずのお ・ てんのう、在位 1611〜1629 年 ) の裁可を得て寛永 3 年 ( 1626 年 ) に勅勘 ( ちょくかん、天皇から受けた とがめ ) が解かれ、神田明神の祭神である将門から逆賊の汚名を除く祭が盛大に行われ、これによって、 将門は正式に逆賊ではなくなりました

しかし明治維新以後には皇国主義が国の基本となり、明治 5 年 ( 1872 年 ) には政府の宗教行政担当の教部省が、賊臣平将門を祀る神田明神は けしからん として、祭神の廃止を要求しました。神社側は一旦は拒否したものの、明治 7 年 ( 1874 年 ) には神社の敷地内に新たに 末社である将門神社を建立して、 将門の霊を 主祭神の座 からそこに移す案 を無理矢理呑まされました。

それ以後 神田明神の祭神は、一の宮が大己貴命 ( おおなむちのみこと/ だいこく様 ) 、二の宮が少彦名命 ( すくなひこな/ えびす様 )となり、主祭神のはずでした平将門は、表面上は三の宮( つまり三番目 )に祀られるようになりました。

警視庁

江戸時代には大手町の将門塚は大名の 酒井家上屋敷内に残されましたが、のちに大正12 年 ( 1923 年 ) の関東大震災により霞ヶ関界隈の官庁の建物が全焼する被害を受けました。写真は関東大震災により炎上する、千代田区・霞が関2丁目にある警視庁の建物です。

将門塚

大蔵省も全焼したために近くにあった 将門塚をとりこわして その後に大蔵省の仮庁舎を建てましたが、図は明治 40 年頃の将門塚の配置図で、織田完之が明治 40 年に刊行した 平将門故蹟考 によれば、この平面図とともに当時の塚の状況が記されています。それによると

敷地内には大きな池がありそのほとりに ( 将門 ) 塚があった。樅 ( もみ ) の木、しい の木などの巨木が生い茂り昼なお暗く鬼気迫るものがあったという。塚の前に礎石が置かれその上に石灯籠が立っていた。板碑は紛失して行方知れず。また池の傍らには古い井戸があり将門公首洗いの井戸と伝えられていた。

と書いてありました。

将門塚をこわしたことにより、その後大蔵官僚たちに次々に災難が襲いかかりましたが、 将門の 怨霊 が千年の時を経た後にも再び蘇って、 たたり をしたのでした

  1. 第 27 代の早速 ( はやみ ) 大蔵大臣が、大正15 年 ( 1926 年 ) に就任して 3 ヶ月後に病気で急死。

  2. 矢橋管財課長を含む職員の死者が、短期間に 14 人にのぼりました。

  3. 武内政務次官ほか多数が仮庁舎内で転倒して ケガ人が続出。

  4. さすがの大蔵官僚たちも 将門のたたり のすごさに恐れをなし、昭和 3 年 ( 1928 年 )に将門塚付近に建てた仮庁舎を撤去して塚を元の姿に戻し、神田明神宮司が祭主となり現場で慰霊祭をおこないました。

    第 30 代の三土 ( みつち ) 大蔵大臣以下幹部 ・ 関係者多数が列席して謹んで拝礼しましたが、 首塚をこわされた将門の たたり はそれでも収まりませんでした

  5. 昭和 15 年 ( 1940 年 ) には大手町の逓信省航空局に落雷し、大蔵省、企画院、中央気象台、厚生省、東京営林局、神田橋税務署、など全焼 21 棟、半焼 4 棟の計 25 棟、焼損面積 2 万 472 坪に及びました。

  6. 敗戦後の昭和 20 年 ( 1945 年 )には、進駐してきた米軍が将門塚をこわして駐車場にしようとしたところ、工事用 ブルドーザーが横転して日本人 1 名即死 1 名重傷の事故が発生したために、米軍関係者に たたり の件を告げた結果工事が中止され、将門塚はそのまま残されて現在に至りました。

将門の怨霊 はそれ以後も長い間 塚の中に眠っていて、塚に害を及ぼす者があれば たちどころに眠りから覚めて、 祟り をもたらすに違いありません。

ところで スペース ・ シャトルや人工衛星が宇宙を飛ぶ時代に、 祟り 怨霊 などあるはずがない と思う人が多いと思いますが、私はその存在を信じたいのです。その理由は 75 年の人生で、たった 1 度だけ子供の頃に 不思議な体験 をしたからであり、36 年間 空を飛び科学万能の航空界で働いた後でも、世の中には科学では説明できない 虫の知らせ、夢枕に立つなどの  霊魂の存在 ・ 不思議な現象 があることを知ったからです。

亡霊の出現について 信憑性のある話 を 、訓練所の責任者から直接聞いたので紹介しておきます。

アメリカの航空会社の機内に 何度も亡霊が現れた件については、 ここを クリック

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