霧社事件
霧社事件とは七十三才の私が生まれる三年前に起きた事件なので、知っている人はごく少数だと思います。昭和5年(1930年)に台湾中部の山地にある霧社(むしゃ)で、当時高砂(たかさご)族と呼ばれていた山地の先住民(タイヤル族)三百人が一斉に蜂起して、運動会をしていた日本人小学校や警察の駐在所などを襲い、多数の日本人を殺害し重傷を負わせた事件のことでした。
[1:屋号]屋号というと都会の人は慶長16年(1611年)に名古屋で開業した呉服屋の松坂屋(現、松坂屋デパート)や、延宝元年(1673年)に江戸日本橋で開業した呉服屋の越後屋から屋号を変えた三越デパート、そして近所の小売りの店に至るまで、商売をする店だけが持つもの思いますが、田舎に行くと一般の家にも屋号がありました。
昭和20年(1945年)8月の敗戦により、当時長野県の山奥の寺に学童集団疎開をしていた小学校六年の私は、学童疎開が現地で解散した為、迎えに来た父親に連れられて栃木県の片田舎に行きました。そこは父親の出身地で両親が同年4月に東京で戦災に遭い、その後に疎開した所でしたが村には同姓の家が数多くありました。 奈良時代(710年〜794年)における律令制度の下では、我々の常識に反して姓を持つ庶民もいましたが、その後には消滅してしまい、庶民が正式に姓を持つようになったのは、明治5年(1872年)の壬申(じんしん)の年にできた壬申戸籍の制定からでした。その際、部落では、殆どの家が青木と大橋の姓を名乗ることになりましたが、村では遙か昔から庶民の知恵で姓の代わりに屋号を使用して、家や個人を識別してきました。屋号には三種類があり、
江戸時代に領主が「うるし」の木の栽培を農民に奨励したことがあって、ある家の先祖がそれに従い山を広く切り開き「うるし」の木を大量に植林しました。十年後には「うるし」の大量収穫が可能になり産業に役立てたので、領主からやまき、(山木)という屋号を拝領し、以後その家の屋号になったといわれています。
![]() このように田舎の屋号には村落共同体を構成する家の故事来歴がありましたが、父親の実家は「宗次郎」という屋号で、代々村役人をした先祖からの名乗り屋号でした。「宗次郎」に遊びに行くと、奥座敷の鴨居には明治以後の先祖の遺影 ( 写真ではなく肖像画 ) がズラット飾ってありましたが、その中に巡査の制服、制帽姿の遺影がありました。それは大橋直四郎 ( なおしろう ) という人で子供の頃に聞いた話によれば、台湾で巡査をしていましたが、霧社事件の際に高砂族の襲撃に遭い殉職した人とのことでした。 敗戦により台湾が日本の植民地ではなくなったこともあり、霧社事件のことなど四十年間すっかり忘れていましたが、昭和60年(1985年)に海外旅行で台湾に行った際に台湾人のガイドから霧社事件のことを聞き、そのときになって「宗次郎」にあった殉職警官の遺影と霧社事件のことをようやく思い出しました。
[2:瘴癘( しょうれい )、化外( けがい )の地]十六世紀に、南支那海を北上中のポルトガル船の乗組員が、行く手に巨大な緑の島を発見し、「おお!、フォルモサ 」つまり「美しい緑の島よ」と叫びましたが、それが台湾を示す名前の由来になったといわれています。しかし最近になるとなぜか英語の Formosa は使われなくなり、代わりに中国語読みに近いTaiwan が主に使われるようになりました。
ところで台湾が世界の歴史に登場したのは1624年(寛永元年)のことですが、オランダの東インド会社がアジアとの貿易の拠点を求めて、台湾の西側にある澎湖( ほうこ )諸島を占領したので、中国の明(みん)朝との間で武力衝突になりました。結局は停戦し両国は和解しましたが、その条件としてはオランダが澎湖諸島の支配を放棄する代わりに、台湾についてオランダの支配を認めるというものでした。右の衛星写真を見れば分かりますが小さな澎湖( ほうこ )諸島と、何十倍も大きな台湾とを、なぜ中国の明(みん)朝は交換したのでしょうか?。 オランダが台湾の支配者となる遙か以前から、中国の歴代王朝にとって台湾とは化外( けがい )の地、つまり
王朝の権力が及ばず、従って王の徳による感化を受けない、統治の対象外の野蛮人が住む所とされてきました。だからこそ澎湖( ほうこ )諸島と、領土としての価値が乏しい台湾を容易に交換したのでした。オランダの台湾支配は三十八年続きましたが、その後 支配者が鄭成功( ていせいこう、注参照 )、清( しん )、日本、国民政府( 蒋介石 )と次々に交代しました。 日清戦争の結果明治28年(1895年)に締結された下関条約により、台湾は清朝から日本の領土になりましたが、中国側全権代表を務めた李鴻章( りこうしょう、1823〜1901年)によれば、当時の台湾は「四害」のはびこる島でした。 四害とは「瘴癘( しょうれい )、アヘン、土匪( 賊 )、生蛮( 野蛮人 )」のことで、瘴癘( しょうれい )とは「 湿熱の気候風土によって起こる熱病や皮膚病」の意味で、現実にはマラリア、チフス、コレラ、ペストなどの風土病や伝染病がはびこることでした。中国の諺によれば、
島外から台湾に十人行けば、七人が死んで一人が逃げ帰る。残るのは僅か二人だけ。といわれるほどの悪疫と盗賊、首狩り族、のはびこる最悪の島で、中国の王朝は移民を禁止していました。日本の領土となった以後の統計によれば、大正四年(1915年)の台湾の人口は三百三十一万人でしたが、同年のマラリアによる死者は一万三千三百五十人にのぼりました。日本政府は「マラリア治療実験所」を設立するなど日本人医師の努力により台湾の衛生環境を改善し、マラリアを初め天然痘、コレラ、を初めペストなどを媒介するネズミを百万匹も駆除した結果、伝染病を撲滅し現在のような清潔な島になりました。
毛沢東の共産党軍に敗れた国民党の蒋介石一派と共に、昭和24年(1949年)に中国本土から台湾に逃げ渡ってきた外省人(中国人)と、土着の本省人(台湾人)とを、その当時簡単に見分ける方法がありましたが、それは、 「 顔のあばた 」 の有無でした。日本統治下の台湾では早くから種痘を普及させ天然痘の感染を防いだため、台湾に住む人には天然痘の瘢痕 ( はんこん ) である顔の皮膚の 「 でこぼこ ( あばた ) 」 が無かったのに対して、衛生状態が劣悪な中国本土からやって来た外省人には、「 あばた顔 」 が大勢いました。
人類学者の分類によれば、台湾の先住民には大別すると山岳地帯に住む高山族と平地に住む平埔(へいほ)族の二種類があり、更に二十あまりの部族に細分されて、それぞれ言語が違うのだそうです。しかも彼らは漢民族ではなく、古代に南方から台湾に渡来した人達で、言語学的にはフィリピンやインドネシア語とも近い、マレー・ポリネシア系の言語です。霧社事件を起こしたタイヤル族とは高山族のうちの一部族で、事件当時の人口は約三万四千人、現在は八万五千ですが、タイヤル族固有の文化と生活様式を持っていましたが、彼らの特徴は祖霊信仰、出草と首狩り、成人の「しるし」となる刺青でした。
注:)
[3:出草について]出草とは何かご存じですか?。私は今回霧社事件のことを調べるまで全く知りませんでしたし、辞書の「大辞林」を探しても「出草」は見つかりませんでした。 出草とは「でぐさ」ではなく、しゅっそうと読むのだそうで、その意味は台湾の先住民が部落から出陣(?)して首狩りをすること、もしくは首狩りの行為そのものでした。彼らには太古からの信仰や風習に基づき、殺した相手の首を狩り取る行為をおこなってきましたが、これを台湾に移住した漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼びました。タイヤル族の男にとって首を狩り取った実績を持つ者だけが体に刺青を入れることができ、結婚する資格があるとみなされました。出草をして首を狩ることには、下記の複雑な意味がありました。
![]() などの場合がありましたが、弓矢や刀によって相手を殺した後に首を切断するそうで、出草をして首尾良く首を狩り取って部落に帰ると、出迎えた女性達は喜んで踊りをおどり祝いますが、村の守護神とするため首を一所に集めて飾るのが普通でした。写真では中央で踊る三人の女性の内の一人が左手で生首を持っています。 出草による被害統計によりますと、明治29年(1896年)から明治45年(1912年)までの16年間に、延べ6,954人が首狩りの被害に遭い、ピーク時の明治45年には1,297人も犠牲者を出しました。この被害者は殆ど他部族や漢民族でしたが、日本の軍隊が被害に遭ったことがありました。明治29年に台湾東部のタロコ(太魯閣)で一個小隊(三十名)が全滅させられ、その遺骨収容に半年もかかり、その間に五百名余りの軍関係者が風土病に倒れました。 別の資料(台湾総督府の史料)によると明治29年(1896年)から昭和5年(1930年)までの間に、出草の犠牲者はおよそ七千人に上るとされていますが、出草という風習が完全に消滅するのは戦後の国民政府時代となってからでした。
[4:日本人も首狩り族?]![]() 首狩りの風習は台湾だけにあったのではなく、米国の大富豪ロックフェラー家の息子のマイケルが昭和36年(1961年)にニューギニアへ人類学調査に訪れましたが、セピック川の上流で行方不明になりました。おそらく原住民に首を狩られ、食人の習慣から食べられてしまったことでしょう。首狩りの風習は太平洋の島々にもありましたが、それだけでなく実は日本の武士も戦いの際に敵の首を狩っていました。敵兵を殺しその首を取り、合戦の最中には麻で編んだ首袋に入れて腰に下げて戦い、首袋が無ければ首をヒモで縛って腰に付けました。
それにより武勇を示すと共に、主君から論功行賞に預かっていました。首袋の使用は安土桃山時代からですが、敵の首を獲って片手に下げて戦えば戦闘に不便なので、考え出されたのが首袋でした。布袋では血が染み出てむごたらしいので網袋が用いられました。「甲冑(かっちゅう)着用指南」(甲はよろい、冑、ちゅうは兜の意味)によれば、
然れどもおこがましく頸袋(くびぶくろ)を携(たずさ)えて、もし首級(くび)を獲る事無からんは、他(ひと)の見る目も恥ずかしく心得て、余り目に立たぬように持つべきなり。とあるように戦場で首袋を腰にぶら下げていても、首一つ取れぬ態(てい)はかえって見っともないから、目立たぬように持つべきであると教えていました。安土桃山時代の武将、加藤清正(1562〜1611年)について記した「清正記」にも、 いなばの国鳥取の城攻めの刻、虎之助(清正の通称)馬より下り、跡絶って退く敵一人討ち止めて首を取り袋に入れ、彦右衛門も敵一人討ち取り、両人とも馬に乗り秀吉公の御前さして参られける。 ![]()
とあるように、当時の合戦では高い地位の武将を討ち取ると、その度に首を持って主君の陣所に見せに行ったのでした。更に戦国時代末期になると、首袋の他に「XXが討ち取った」という自分の名前を記した首札まで用意して戦に臨みましたが、このように用意していながら敵の首が取れなかったり、逆に自分の首を敵に取られたら惨めです。敵の首のうち最も価値があったのは兜首(かぶとくび、大将首)でしたが、論功行賞の対象とはならない平首(ひらくび、上級武士以外の首)は主君の首実検に供される事もなく折角獲っても捨てられ、後に戦場掃除に駆り立てられた付近の住民によって大穴を掘って埋められました。 しかし情けある武将だと、討ち取った敵の多くの首を埋めて塚を築き、付近の僧侶を呼んで首供養をしました。こうした塚を首塚といいましたが、戦国時代に記されて江戸初期に広く出版された軍学書に、「甲陽軍鑑」がありますが、武田信玄、勝頼二代の事蹟、軍法、刑法を記したものです。
それによれば長篠の合戦(1575年、織田、徳川連合軍対武田勝頼の戦い)で武田方の死者一万人、連合軍側は死者六千人がでましたが、大勝した織田信長が武田信玄(実際は武田勝頼)に勝ったしるしに、討ち取った武田方の大量の首を集めて「首塚」を二箇所(大塚、小塚)に築き「信玄塚」と称したことが記されていました。以上述べた事から実は日本人にも、首狩り族の風習が残っていたのではないかと思います。写真は首を埋めた信玄塚のうちの、大塚です。
[5:霧社(むしゃ)とは]![]() 日本人に対する虐殺事件が起きた霧社(むしゃ)は台湾の中央に位置し、中央山脈の中心部にありますが、海抜千メートルから二千メートル付近の高山地帯のために霧がよく発生し、清(しん)朝の時代には「致霧社(ちむしゃ)」と呼ばれていましたが、漢人と日本人はこの名称を受け継いで、「霧社」と呼ぶようになりました。霧社にはタイヤル族系のいろいろな部族が別々に住んでいましたが、先住民グループの間にも複雑な関係があり、長年対立が続き、時には互いに出草をするなど他部族との抗争を続けてきました。 日本政府は台湾統治に際して各地に警察署を置き、そこから「先住民が住む土地」への調査隊を編成し、また全島に十一箇所の先住民に対する行政機関を設けて「撫墾署、ぶこんしょ」と命名し、これによって「先住民が住む土地」の農地開墾、授産、日本語による教育順化をおこないました。 [6:武装蜂起の原因]
[7:小学校は首なし死体の山]![]() 殴打事件から二十日後の10月27日に霧社では恒例の運動会が日本人小学校、先住民の子供が行く公学校、蛮童教育所の共同で催されました。地域の日本人にとっては楽しい娯楽の一つでしたので、大勢の日本人家族が学校に詰めかけました。そこに八時頃約三百人の暴徒が手に手に槍、刀、銃を持って突然襲い掛かり、逃げまどう子供や女性を含む日本人に対する虐殺が始まりました。その結果百三十四名が殺害されて首を狩られ、二十六人が重傷を負いました。写真は虐殺事件が起きた直後の小学校。 この事件の首謀者は息子が吉村巡査に殴られ、妹が警察官に捨てられた、マヘボ社の頭目であるモーナ・ルーダオでした。暴徒は警察の武器庫を襲い鉄砲や弾丸を持ち出し小学校だけでなく、警察の分室なども襲い警察官を殺害しました。暴徒が百個以上の首を携えて部落に戻ると、女性達は収穫の多さに狂喜乱舞して出迎えたといわれていました。 台湾総督府は直ちに軍隊を派遣して圧倒的兵力と飛行機、大砲を使用して暴徒と戦いこれを殲滅しました。霧社事件をひきおこした六部落の人口は合計千二百三十六人でしたが、このうち戦死や自殺したものは六百四十四人で、投降し「保護蛮収容所」に収容された者は五百六十四人でした。追いつめられたモーナ・ルーダオは家族を殺して、人知れず自殺しました。
しかし翌年4月25日の深夜にモーナ・ルーダオの部族に敵対する「味方蛮族」により、保護蛮収容所が襲撃されるという「第二霧社事件」が起きて、収容されていた霧社事件の投降者のうち二百十四人が殺害され首を狩り取られました。これには日本人警察官が黙認したとする説もありました。写真は「第二霧社事件」の際に、味方蛮族により狩り取られた多くの首を集めたもので、軍人を挟んで背後は殺害を実行した味方蛮族です。 三百人の先住民が加わった武装蜂起をなぜ事前に察知できなかったのか?。その理由は霧社で十年近く勤務していて、先住民にも信頼されていた二人の警察官が事件の数年前に転勤し、後任の警察官というのが日本人や台湾人にも評判の悪い男で、先住民の間にも大変な不評であったとのことでした。霧社の武装蜂起事件の兆候をまったく日本側が気づかなかったのも、現地の警察官と先住民との間に信頼関係が全くなく、先住民側の動向や情報が警察には全く伝わらなかった為でした。いずれにしても霧社事件が日本の台湾統治の大きな失政であった事は間違いありません。
[8:事件の評価]敗戦後から日本のマスコミ界に長年はびこっていた、「マルクス・レーニン主義」に基づく歴史観によれば、社会主義革命を目指す支配者を除き、支配者は常に悪であり、被支配者は善である。ということになりますが、独裁者であったスターリン、毛沢東、カストロ、北朝鮮の金・親子のことを、戦後のマスコミや左翼主義者達は革命の先駆者とみなして最近まで褒め称え、反革命分子に対する粛清の大量処刑、文化大革命がもたらした大量死、大躍進政策、農業政策の失敗による大量餓死の事実に目を塞ぎ、決して非難しませんでした。霧社事件について戦後に日本で書かれた本の多くもマルクス史観に沿ったもので、日本の過酷な(?)植民地政策に反抗して霧社の高地部族が蜂起したとする筋書きでした。果たしてそうでしょうか?。 ではなぜ先住民が住む人口過疎の山岳地帯で反乱が起きて、台湾住民が多く住む平野部で起きなかったのでしょうか?。もし日本の過酷な(?)植民政策に反抗するのであれば、平野部で起きる可能性の方が高いと思いませんか?。なぜ先住民の頭目が日本人巡査と自分の娘の結婚を許したり、事件の直接の原因となった前述の殴打事件発生の際には、通りかかった日本人巡査を、先住民が婚礼の席に招き入れようとしたのでしょうか?。 つまり霧社事件は日本の支配に対する反日、抗日の計画的な反抗ではなく、頭目のモーナ・ルーダオを初めとするごく少数の者が、個人的な恨みを晴らす為に他の部族に働きかけて、先住民達の「おきて」に従い、暴動を起こし復讐したからです。
[9:国民党政府による蛮行と、白色テロの圧政]毛沢東率いる共産党軍との内戦に敗れた末に中国大陸から追い払われ、昭和24年(1949年)末に台湾に渡った国民党の蒋介石政権により台湾が支配されるようになると、霧社事件に対する評価が百八十度変わりました。小学校の運動会を襲い無抵抗の子供や女性を含む多数の日本人を殺害して首狩りをした暴徒を、反日の英雄に仕立てて日本の植民地支配に霧社の抗日烈士が抵抗した、という筋書きに歴史をねつ造しましたが、個人的恨による犯行を(植民地支配に対する)公憤にすり替えたものでした。国民党政府はそれだけで納まらずに日本統治時代に建てられた「霧社事件殉職、殉難者之墓」を破壊して廃墟にし、代わりに「霧社山胞抗日記念碑」を建てました。国民党政府は日本人による台湾統治の痕跡を一掃するために、日本人墓地の打ち壊しに励み遺骨を道端に投げ捨て、日本人が建てた台湾にある記念碑、墓碑、銅像も全て破壊し尽くしました。それだけでなく霧社に日本人が植えた桜の木を全て伐採し、代わりに梅の木を植樹しました。 中国では王朝が代わる度に屠城(とじょう)と称して旧王朝に属した人々の大量虐殺や関係する都市の破壊が、当然のように繰り返された歴史がありましたが、漢民族の国民性に基づく宗教観、歴史観からは旧支配者(日本人)の墓を「あばき」破壊することは当然の行為であり、彼らが嫌悪感や罪悪感を感じることは全くありませんでした。靖国問題を初め日中間の諸問題についても、こうした漢民族の本質を、十分認識する必要があります。
ひるがえって日本の実例を挙げれば太平洋戦争の最中に、「鬼畜米英」や「米英撃滅」を叫び、一晩に十万人の焼死者を出した東京大空襲を初め、全国の六十都市が米軍機による無差別攻撃を受けましたが、にもかかわららず三浦半島の浦賀にある黒船来航のペリー提督の巨大な上陸記念碑は破壊もされず、誰でも入れた横浜の観光名所である外人墓地も、無傷のままで敗戦を迎えました。
ロンドンにあるナイチンゲールの銅像のレプリカ(複製)が、世界でたった一つ兵庫県川西市花屋敷一丁目にあり、私も訪れたことがあります。クリミア戦争に従軍した貴族出身の看護婦フローレンス・ナイチンゲールは、献身的な看護により灯火(ともしび)をかかげた婦人として、兵士達から敬愛されました。その当時の英国社会では病人やケガ人の看護は専門知識を持たない無知で卑しい女性の仕事とされていたのを、看護学校を創設し看護婦に専門教育を施すと共に、軍隊医療制度の改革をおこない後の赤十字に発展する人道主義、博愛主義に刺激を与えました。
彼女の功績を称える日本人篤志家の手によって、丁度七十年前の昭和11年(1936年)に現在の地に銅像が建てられましたが、太平洋戦争中にもその銅像が破壊もされず、金属回収で供出されることなく無傷のまま残り、今も看護学校の学生達が時折献花に訪れています。(右手に持ったロウソクは、夜間に電気で点灯する仕組みです。) ところで得意になって日の丸を焼く中国や韓国の無知、無教養丸出しの醜いデモ隊員がいても、日本では五星紅旗(中国旗)や大極旗(韓国旗)を焼く者は誰もいません。この違いは何によると思いますか?。人として守るべき礼節、民度(生活程度から来る文化、教育水準)の違いなのでしょうか?。あるいは死者の静謐(せいひつ、静かで安らかなこと)を願い、神聖なもの、清らかなものを冒涜(ぼうとく、意図的に汚す)することを嫌う、日本民族の宗教観、国民性に依るのでしょうか?。 中国や漢民族が世界の中心にあると信じ、周辺諸国や漢民族以外の人を夷狄(いてき、野蛮人)や、劣等国、属国とみなす、尊大な中華思想や華夷(か・い)序列を信じ、骨の髄まで反日教育がしみ込んだ彼らには、本音で日中友好を願う者など一人もいません。片思いの日中友好念仏を唱え続け、中国に媚態を示し土下座外交をする人々に私は言いたいのです。墓あばきを常習とする漢民族と、日本人が価値観を共有することなど、到底不可能なことだと。 霧社の暴徒を抗日の烈士として褒め称えておきながら台湾を支配した国民党政府は、今度は自分たちが台湾人に対し圧政をもって臨みました。1947年(昭和22年)二月二十八日にタバコの密売取り締まりの際の暴力が原因となり、二・二八事件と呼ぶ暴動事件が起きて台湾全土に広がりましたが、その事件を契機に後に全島的な粛清、いわゆる白色テロが始まりました。大学教授、弁護士、医師、作家、教師などの知識階級を中心とする約三万人の台湾人(土着の本省人)が、つぎつぎに自宅から連行されて行方不明になりましたが、漢民族(外省人)による国民党政権を安泰にするために、後年のカンボジャ・ポルポト政権と同様に、知識階級を大量虐殺したのでした。更に蒋介石と息子の蒋経国の国民党政権は1949年(昭和24年)から1987年(昭和62年)まで、世界でも例のない三十八年間もの長期にわたり戒厳令を敷き、言論の自由を含む台湾人の基本的人権を抑圧し続けました。
[10:終わりに]今回この随筆を書くに当たって霧社事件の資料を調べましたが、山地の先住民に対して厳しい態度で臨み悪評があった日本人巡査の名前はあったものの、親戚である大橋直四郎の名前は遂に見つかりませんでした。直四郎氏について親戚の者に電話で問い合わせましたが、七十六年という歳月の流れから、かつて彼を知っていた私の両親を初め親戚の人は殆どが世を去り、詳しいことは何も分かりませんでした。ただ一人「直四郎さんを子供の頃に見たことがある」という八十九才になる人がいましたが、二〜三才の子供が一人と恐らく二十才代の奥さんがいたこと、殉職後に遺族は栃木県に一旦は引き揚げてきたものの、その後は婚家から籍を抜いて自活の道を選んだらしいので、その後のことは知らないとのことでした。栃木県の田舎から出た名も無き一人の巡査が、大正末期か昭和の初めに台湾に渡り、首狩り族のはびこる霧社の地で命を落としましたが、時の流れの中で遺族の足跡さえも消え去ったことを知り、人生のはかなさや、人生の持つ意味を改めて強く感じさせられました。
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