臨終観察
[ 1:宗教に対する意識調査 ]昭和 28年( 1953年 )から 統計数理研究所 が 5 年おきに日本人の国民性調査を実施していますが、それによれば 信仰や、信心を持つ人 の割合は、昭和 33年 ( 1958年 )以降平成15年( 2003年 )に至るまで常に25〜30 % の割合でした。
平成10年 ( 1994年 )7月3日に朝日新聞がおこなった宗教に関する意識調査によれば、
神や仏の存在について ![]()
次に死後の霊魂について右の写真はお盆の期間中に先祖の霊を家に迎えて供養するお盆飾りですが、死後に行く来世や霊魂の存在を信じようと信じまいと、人は必ず死ぬものです。江戸時代後期の狂歌師、蜀山人 ( 本名大田南畝、ナンポ、1749〜1823年 )が辞世の狂歌で、 死ぬるとは他人 ( ひと )のことかと思いしに、俺が死ぬとはこいつはたまらんと詠んだように、死は他人ごとでは済まされません。 あの世から急にお迎えが来てもまごつかない様に、人は死に際に何を見て何を感じるのか、予め知識を得ておくことが必要です。しかし日本の社会では死に関することなど縁起が悪い、知りたくもないし聞きたくないという風潮から、死を迎える予備知識が無いまま、または与えられないままで死ぬ人が殆どなのです。死んでしまった人から死に至る体験を聞くことは不可能ですが、まさにこの世を去ろうとする人が何を感じたのか、臨終に立ち会った人が観察した記録があります。皆さんにも必ず訪れるその時の為に、参考にしてください。
[ 2:源信の往生要集 ]臨終の様子を日本で最初に組織的に記録に留めたのは、今から 千年以上前の平安時代中期の天台宗の僧、 源信 ( 941〜1017年 )でした。この人は比叡山の延暦寺で修行した後に、寛和元年 ( 985年 )、44才の時に有名な 往生要集 (おうじょうようしゅう)を書きましたが、これは仏教の経典や論書などから多くの重要な文章を集め編集したものです。それによると死後に極楽往生をするには、一心に仏を想い念仏の行をする以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創りましたが、その本の中で 臨終の作法 についても述べています。
死が間近となった病人を北枕にして寝かせ西向き ( 西方浄土 )に顔を向けた後に、枕元に阿弥陀如来の像または掛け軸を飾り、そこから五色 ( 赤、青、白、黄、黒 )の糸を垂らして病人に持たせ、ひたすら念仏を唱えながら阿弥陀様のお迎えを待つというものです。それにより死後に極楽浄土へ往生することができるとしました。左図は阿弥陀如来の来迎( らいごう、お迎え )の様子を描いたものですが、阿弥陀如来が多くの仏を従えて白雲に乗り、右下の屋敷に横たわる死者の霊を極楽浄土に導く為に迎えに来る際の様子です。
[ 3:念仏団体( 二十五、三昧衆 )の実験 ]三昧( ざんまい )とは、心を一つのものに集中して精神的安定を得ること、またはその境地のことです。源信は念仏を唱えることにより阿弥陀如来の力、つまり( 他力本願 )で、人々が本当に極楽浄土に行けるかどうか確かめようとしました。
当時の社会のエリートである貴族や僧侶 25 人が源信を中心にして 二十五、三昧( ざんまい ) 衆というグループを作り、往生院 ( 無常院 )という寺を建てて死期の迫った病人を寺の一室に収容して、部屋を散花 ( さんげ )や焼香により清めて仏像を飾りました。病人はそこで阿弥陀如来の来迎 ( らいごう )を一心に願いながら、念仏を続けるのです。 右上の絵図の中央の建物が無常院ですが、金沢にある重要文化財に指定された「称名寺絵図」に描かれたものです。その建物は寺の東端 ( 絵では上 )に周囲を板塀に囲まれて建てられていますが、日常性からの離脱という無常院の本質的性格を示すものです。ここでは前述の二十五、三昧 ( ざんまい )衆が24時間交替で病人の看護に当たり、病人の屎尿(しにょう、排泄物)や吐唾(とだ、嘔吐物、唾液)があれば取り除くなどの、介護に当たりました。 そして病人との対話の中で阿弥陀仏を信じれば死に対する不安、恐れはなくなると告げ、いよいよ臨終が近づくと、耳元に口を付けて何が見えるか、なにが聞こえるかを質問して答えを記録させたのです。「 真っ暗で何も見えない 」とか、「 ロウソクのような明かりが見える 」、「 明るい光が見える 」、「 光の中に阿弥陀如来が見える 」、「 体が火で焼かれそうだ 」、「 音が聞こえる 」、それらを 二十五、三昧( ざんまい )根本結縁衆過去帳 に記録しました。
注:)世渡り僧 後の世を渡す橋とぞ思いしに、世渡る僧となるぞかなしき源信は世俗の権威 ( 天皇 )に媚びて喜んだ自分の行為を母親に指摘されて反省し、以後僧侶としての道に精進しました。
[ 4:念仏の変遷 ]現在では念仏と言うと 南無阿弥陀 を唱えることですが、南無 ( ナム )とは帰依することで、阿弥陀仏( 如来 )に帰依する意味です。念仏が日本に入ってきた平安時代初期には、 仏を念ずる つまり極楽浄土にいる阿弥陀如来を イメージする 観想念仏 、( かんそうねんぶつ )のことでした。その後阿弥陀如来を イメージすることなど不要で、南無阿弥陀仏を唱えるだけでよいとする 口唱念仏 、( くしょうねんぶつ )の考えが出てきました。これにも回数を多く唱えれば唱えるほど極楽浄土に往生し易いという考えから、百万遍唱えることを目指した人が集まる寺も現れ、その名残から京都市左京区には 百万遍という交差点 もあります。源信は生涯で20 億回の念仏を唱えたと言われています
鎌倉時代になると、時宗の開祖となった一遍 ( 1239〜1289年 ) が現れました。阿弥陀経の記述によれば阿弥陀如来が衆生救済の誓いを立てられた以上は、人々の極楽往生は既に決まっていることなので、念仏は 一度だけ唱えれば良い と主張しました。人を救うのに寺や難しい佛教理論、普通の人が聞いても意味が不明の教典は不要であるとして、生涯寺を持たず人々からは捨聖 ( すてひじり )、一遍上人と称されました。諸国を念仏を唱えながら布教し
唱 ( とな )うれば、我も仏もなかりけり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の歌を詠みました。その意味は 「 南無阿弥陀仏 」と唱えた時点で阿弥陀さまの広大な慈悲の中に入り、救われることが決まっている。だから自分が仏になったも同然である、という意味です。 一方源信のしたことを現代風に解釈すれば、二つの意味がありました。
注:)ホスピス 以下は源信から 千年後の二十世紀に、肉親が臨終を迎えた人の記録です。 [ 5:臨終観察 ][ 臨終観察、その1 ]神奈川県の岸本さん ( 女性、47才 )の話。私が中学生の時、自宅で祖母が亡くなりました。多分老衰だと思います。亡くなるとき、娘や息子 ( 私からすると叔父、叔母 )がまわりを取り囲んでいました。祖母の意識が弱まると、「 お婆ちゃん、しっかりするのよ 」と声を掛けていました。何度かこういうことを繰り返していると祖母が目を開けて
もう呼ばないでおくれ、白い チョウチョが沢山飛んでいたし、花も沢山咲いている。そこへ行こうとするとお前達が呼ぶから、また戻って来てしまった。もう呼ばないでおくれ。と息も絶え絶えに言いました。叔母達は 「 お母さんはきっと天国へ行くんだね 」、と言って呼びかけを止めました。そして間もなく臨終を迎えました。 [ 臨終観察、その2 ]
大阪府吹田市の人の話。私の姉は 6 才で病死しましたが、最後の言葉は お母ちゃん捕( とら )まえていて−、穴に落ちるよ、落ちるよ、とらまえていてー。と言って死んだのだそうです。母は何度も私にそのことを言いましたが、人は死ぬ時には穴に吸い込まれるようになるらしいと申しておりました。
[ 臨終観察、その3 ]臨終の際に「 穴に吸い込まれた子供 」の例とは逆に、空中に昇った( 文字通り昇天した )人の臨終観察もありました。 愛媛県松山市の人の話。58年前に亡くなった兄は当時同志社大学の神学部の学生でした。肺結核になり入院していましたが、兄危篤の電報を貰い神戸から急いで帰りました。臨終の際の兄の言葉は、今でもはっきり覚えています。神様!もしも私がもう一度元気になれましたなら、立派な牧師になり、人々の為に尽くしたいと思います。ああだんだん上に昇って行く、河原が見える、いや野球場だ。皆元気に野球をしている。ああ今度はお花畑が見える。きれいだ。本当にきれいだ。声がしなくなったと思ったら、亡くなっていました。この人の場合は気球かヘリコプターのように空の上の方に上昇して行きましたが、やはり花園やお花畑が見えました。
[ 臨終観察、その4 ]埼玉県の小野さん( 女性 )の話。34 年まえに父が亡くなる際に今とてもきれな花畑が見える。川があって舟が待っているんだよ。そして「 よし子 」が迎えに来ているんだ
と言いました。「 よし子 」というのは既に死んだ父の妹のことです。病室には母と私と 3 才の妹がいましたが、妹が突然泣きだしました。「知らないおばちゃんが来て座っているよ、怖いよ!」。しかし母と私には何も見えませんでした。父は「今迎えが来ているんだよ」と言いました。それ以来私は死後の世界は、お花が一杯咲いていて、きれいな場所だと信じています。 [ 臨終観察、その5 ]
群馬県の小森さん( 女性48才 )の話。私の母は ガンで亡くなりましたが、4ヵ月の入院生活の間中ガンの痛みに苦しみ抜き、私の手をとって「 殺して! 」と頼んだこともありました。 死ぬ一週間前から幻覚を見るようになりました。「 まぼろし 」の世界と現実の世界の区別がつかなくなりました。 白い服を着た人が私のことを迎えに来ている、きれいな花が一杯だね、こんなの初めて見るよ、まぶしいくらいだ。と言って目を細めました。
死ぬ間際には最後の言葉で、
と言って、私の手を突き放し意識がなくなりました。 自分の娘である私のことを「娘さん」と呼ぶなんて変なことを言うと思いましたが、後で考えると母親の魂はその時すでに 旅立っていた のかも知れません。肉体はベッドの上で眠り続けていましたが、私はそこに母親の存在を感じませんでした。むしろ母親が別の場所から私を見ている様に感じました。意識を失った後は実に安らかな顔で、仏様のお顔のようでした。
[ 臨終観察、その6 ]臨終の際の表情を観察した記録がありますが、社会保障研究所の井上氏が 1,175 名の老人の臨終を観察したものです。それによると
1:安らか 71 %でした。上記の死因については 老衰が20 % であり、苦痛の多い ガン患者の場合も、その 69 % は臨終に際して安らかな表情であったとのことでした。この結果から想像することは死に至る過程はともかくとして、いよいよ死が間近になると予め体内に組み込まれ、その時になると肉体的苦痛を軽減するように脳内麻薬物質( エンドルフィン )の分泌を促す プログラムが、自動的に作動するのではないかと思います。
[ お芝居 ]病気の末期患者は、殆どの場合ある時点で自分の死期を悟るそうですが、84才で ガンにより死亡した私の母親の場合もそうでした。死ぬ 3 ヶ月前になると 私はこの夏は越せない と家族に何度も言うようになりましたが、皆はそれを否定して元気付けていました。しかし母親はその言葉通りに、8 月のお盆が過ぎると亡くなりました。このように病人が自分の死期を悟り口に出すようになると、医者、看護婦や家族など周囲の人達は 演技をする ようになります。死期が近いにもかかわらず「 何を言っているの、きっと治るから元気を出しなさい 」と逆に ウソ をついて病人を 励ましたりするのです 。それが果たして病人の為になるのでしょうか?。私はそうではなかったと思いました。 母さん、苦しいだろうね。だけど死ぬのは怖いことではないよ。若い時に死んだ父さんもあの世で母さんが来るのを待っているし、私も兄貴もその内に行くから、極楽浄土でまた 皆で一緒に暮らそうよ。と言って病人を慰め、死への不安を取り除くべきだったと後悔しています。
[ 霊魂の重さ ]物質であれば必ず質量( 重さ )が存在するはずですが、臨終の際に体内から抜け出るとされる 霊魂 には、はたして重さがあるのでしょうか?。 マサチューセッツの ダンカン ・ マクドゥーガル博士が、ある大きな病院での実験結果を発表しました。それによれば博士は結核の末期患者を ベッドのまま、巨大な秤(はかり)の上に乗せました。患者が息を引き取るまでの 3時間 40分、じっと観察していましたが、昇天の瞬間、秤の示度は 1.25オンス( 35.4グラム ) 軽くなりました。さらに 2 年半で 5 人以上の患者も同様な方法で調べてみたところ、「 たましい 」 の重さは平均して 1 オンス( 28.4 グラム )であることが、実験の結果から判明したのだそうです。ところで体格の違う日本人の場合は、どうなるのでしょうか?。
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