広島原爆とサメ
[1:インデアナポリス]広島に投下した原子爆弾が実は海のギャングである「サメ」と関係があったといえば、皆さんは不思議に思われることでしょう。
太平洋戦争中に米国は原爆を製造開発する為の マンハッタン計画に基づき、科学技術の総力を挙げて原爆の製造に取組み遂に成功しました。その原爆を カリフルニア州の軍港から快速の大型巡洋艦 「 インデアナポリス 」 に積み込んで、 B-29爆撃機による日本爆撃の基地があった マリアナ諸島の テニアン島 ( サイパン島の南南西 8キロ )に輸送することになりました。 昭和20年 ( 1945年 ) 7月16日にアメリカの西海岸を出港した 巡洋艦は全速力で西に向かい 、途中 ハワイの軍港 パールハーバーに燃料などの補給の為に一時立ち寄り、 6時間後には テニアン島目指して再び航海を続けました。 アメリカの西海岸からテニアン島までの5,500マイル(10,200キロ)を平均速力 29 ノット( 時速 54キロ )の高速で走り続け、所要日数10日で7月26日にテニアン島に到着し、原爆と起爆装置などの輸送の任務を終えました。
[ 2:原爆実験 ]開発されたばかりの 「 秘密兵器 」 である ウラン235型原爆 ( リトルボーイ ) は、テニアン島到着から10日後の8月6日に人口密集地である広島上空で投下されました。マンハッタン計画を担当した ロス・アラモス研究所の 公式記録 によれば、 史上二度目の 原爆実験として分類され、被害の実態が詳しく記録されていました。20万人の非戦闘員を無差別に虐殺した原爆投下は、アメリカにとってはあくまでも実験にすぎず、長崎では プルトニウム型の原爆 ( 外形が大きいことから、 Fat Man 「 太っちょ 」 と呼ばれた )を使用し、二種類の原爆の性能つまり人体に及ぼす被害状況を比較しました。日本人は間違いなく原爆実験のモルモットにされたのですが、この事実をご存じでしたか?。戦争を早く終わらせるために原爆を投下したのではなく、それどころかソ連の参戦が間近になり早く原爆を投下しないと日本が降伏し戦争が終わってしまうので、投下時期を早めたのです。詳しく知りたい人は ここをクリック
左の写真は広島に投下した原爆を B-29爆撃機の エノラ・ゲイ号 ( Enola Gay、機長の母親の名前にちなんで名付けられた )に搭載した地点で、テニアン島の飛行場跡地には記念碑があります。そこには椰子が植えられていて、プレートをはめこんだ石碑と表示板があり、上段には ( Atomic Bomb Pit No.1 ) と書かれ下には原爆搭載地点No.1と記されています。インデアナポリスによって運ばれた原爆はここに張られたテントの中に置かれ、B−29に搭載されるまで周囲を厳重に警備されていました。 任務終了後、巡洋艦 インデアナポリスは グアム島を経由して次の任務である フィリピンの レイテ湾に向かう途中、昭和20年 ( 1945年 ) 7月29日から30日に日付が変わったばかりの深夜0時14分に、日本海軍の 「 伊−58号 」 潜水艦 ( 艦長橋本以行中佐 )に雷撃されて沈没しました。この巡洋艦には 1,196名 が乗組んでいましたが、12分後に沈没した艦からは 900名 が海上に脱出しました。ところで戦時中に洋上に不時着水した パイロットや、沈没した艦船から脱出した人達にとって、サメの襲撃から身を守ることは切実な問題でした。その為に米軍では パイロット用に一人乗りの ゴム・ボートが開発され、サメの忌避剤である 「 シャーク・チェイサー 」 も救命胴衣に装備されました。 これに対する日本海軍の唯一の サメ対策といえば、六尺フンドシ ( 2メートル を海中に流すことでした。サメは自分の身長よりも長いものは襲わない、とする漁師たちの 迷信 を信じていたからでした。では体長 3 メートル以上の サメが来たら、どうするのでしょうか?。
[2:サメに喰われる]![]() 脱出の際に ボートや筏に乗れなかった多くの人達は浮具を着けて集団になり漂流しましたが、やがて恐ろしい サメの攻撃に見舞われました。グアム島と フィリピンの中間地点には熱帯性の大型の サメが多く生息し、最初は集団の外側にいた人間から 一人また 一人と サメに襲われていき、朝から晩まで夜中も次々に サメに襲われては、断末魔の悲鳴を上げながら喰われて死亡しました。海面一帯には沈没した艦からの燃料油が層を作り多量に浮かんでいましたが、それにも血が混じるようになりました。
生存者の話によれば現場周辺には 百匹以上の サメが集まり、漂流している彼等の足の下を常に泳ぎ回り、不運な漂流者を目掛けて絶え間なく襲ってきましたが、その度に悲鳴を上げながら足や胴体を喰いちぎられて死んで行きました。三日目には サメに喰われる恐怖、飢と渇き、絶望から多くの者が幻覚を生じ、水の代わりに多量の油が混じる海水を飲んでは嘔吐し、力尽きて沈みました。4日後に漂流中の一団が捜索機により発見され、沈没から 5日目になって マックベイ艦長以下 315名 が、ようやく救助されました。
海上に脱出した者の 65パーセント、585名 が飢えと渇き、それに大部分が サメに襲われて死亡したものと推定されました。救助に来た駆逐艦の乗組員によれば現場海域には多数の サメが集まり、救命胴衣 ( ライフベスト ) を着けたまま、下半身を サメに喰われた遺体が数多く浮いていたとのことでした。 マックベイ艦長は艦を危険にさらした罪で軍事裁判にかけられることになりましたが、第二次大戦中に太平洋、大西洋で 350隻以上 の米国艦船が沈められたましたが、艦長が 「 沈没 」 に関連して軍事裁判に掛けられたのは、マックベイ艦長が最初でした。 [3:軍事裁判]軍事裁判は戦争終了後の昭和20年 ( 1945年 )12月3日に ワシントンの海軍基地内でおこなわれましたが、訴追理由は
ということであり、魚雷攻撃により相手を沈めた潜水艦の橋本艦長は証人として出廷し当時のことを証言しました。争点は マックベイ艦長が航行中に敵の攻撃を避ける為に、ジグザク航行をしていたかどうかでした。橋本艦長は
最初から裁判の 「 有罪 」 を 「 もくろんでいた 」、ような感じを私は受けた。
[ 4:裁判の 裏 ワザ ]軍事裁判が終了すると、こんどは前代未聞の出来事が起こりました。判事の席にいた 一人の士官が裁判所に対し、マックベイ艦長に対する判決結果を保留するように 「 嘆願書 」 を提出したのです。これに対して翌年の2月20日に フォレスタル海軍長官はマクベイ艦長に対する処罰を全て免除する。マクベイ大佐の身柄の拘束を解き、任務に復帰させる。という指示を出しました。彼は軍務に復帰し ニューオルリンズ海軍管区の司令官になり、そこで准将に昇進し 五十才で退役しました。 [5:悲劇的結末]
太平洋戦争終了の 僅か 25日前に 880人もの大量の戦死者が出たことに、遺族は納得できませんでした。しかも敵の弾に当たって死んだのではなく、大多数が サメに喰われて死んだ からでした。マックベイの所には在職中もそして退役後も、沈没したインデアナポリスの遺族からの 恨み、憎しみ、抗議の電話や手紙 が絶え間なく届きました。更に毎年 クリスマスになると、悪意に満ちた クリスマス・カード が彼の家に送られてきました。 彼の妻は数年後に ガンで死亡しましたが、コネチカット州での孤独な生活と精神的 ストレスから、昭和43年 ( 1968年 ) の秋に 七十才になった彼は海軍が支給した ピストルを使い、自宅の玄関前で自殺しましたが、インデアナポリスの最後の犠牲者になりました。 広島に投下された原爆にはそれを テニアン島まで運び、その後撃沈され死亡した多くの犠牲者を悼んで、 インデアナポリスの乗組員に捧げる の文字が書かれていました。
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