切腹について
[1:自分の内臓を見る]![]() 自分の胃や大腸を内視鏡で内側から見ても、内臓を外側から見た人は滅多にいないと思いますが、私は四十二才の時(昭和50年)に盲腸( 左図の赤色部分、虫垂ともいう )の切除手術を受けた際に、切り口から引き出された自分の大腸や小腸を見るという、貴重な経験をしました。その手術については、一部が ここに書いてあります。 ある時夜中に腹が痛くなって目が覚めました。最初は胃の辺りになんとなく鈍い痛みを感じたので、悪い物でも食べて食中毒でも起こしたのかと思いましたが、その内に痛む箇所が次第に移動して右下腹部に集中し、押すと痛みが出てきたので、盲腸炎(虫垂炎)に違いないと自分で判断しました。救急車を呼んで夜中に緊急入院するほどのひどい痛みではなかったので、朝までじっと我慢することにしました。朝六時半過ぎになったので自分で病院に電話をして多分急性盲腸炎(虫垂炎)である旨を告げ、入院の支度をして女房が運転する車で病院に向かいました。 その当時、私が入院した病院では手術の際に肉親を立ち会わせる習慣がありましたが、普段は気が強く亭主を尻の下に敷こうとするくせに、いざとなると怖じ気づく女房 がそれを辞退しました。すると医師が私に対して、鏡を取り付けてあげるから手術の様子を見ますかと言ったので、何事にも好奇心が旺盛な私はすぐにお願いしましたが、後で聞くと希望する患者は少ないとのことでした。手術台の上の照明灯の付近に、直径 15 センチほどの丸い鏡を取り付けて手術台に寝た状態の患者からも、手術の箇所が見えるようにしてくれました。切開する下腹部に「ヨードチンキ」を塗って消毒し、次に腹がメスで切り開かれるのが見えましたが、腰椎麻酔の為に手術の痛みは全くなく、大きな切り口から腸を引き出すのが鏡に映りました。
生まれて初めて自分の内臓を見た感想は、「きれいな色をしている」ということでした。薄いピンク色をしたのが長い小腸で、やや赤味があるのが大腸でした。盲腸(虫垂)というのは太い大腸の先端付近にあって、小指ほどの大きさの部分ですが、私の盲腸(虫垂)の先端は少し化膿して黄色くなっていました。手遅れになると化膿した箇所が破れて膿が腹腔内に流れ出し、腹膜炎になるのだそうです。腹の切り口から腸(大腸と小腸)を外に引き出す際には、これまで経験した事がない 内臓が引っ張られる、何ともいえない不快な感じがしました。 化膿しかかった盲腸(虫垂)を切り取る手術が終わると、今度は腸(はらわた)を腹腔の中に無造作に押し込みましたが、大腸も長い小腸も腹の中で勝手に動いて、納まるべき所に納まるのだそうです。上の写真では、ピンセットで摘んでいるのが切り取られた盲腸(虫垂)、右側に見えるのが盲腸(虫垂)を切り取った切り口です。 ところで「切腹について」の題目なのに、なぜ盲腸の手術についての説明をしたかといえば、腹の切り口から内臓を引き出すことが、関係してくるからでした。
[2:切腹の元祖とは、その三説]人類が他の動物と著しく異なる点のひとつは、意図的に自らの命を絶つ、つまり自殺することであるともいわれています。さらに自殺はある程度文化が進んだ社会に多く存在し、未開人の社会では極めて少ないともいわれて来ました。ここでは日本においいて最も伝統的な自殺の方法とされる、切腹について述べることにします。
(元祖その、一)
記録に残る最古の切腹(はらきり)は、「播磨風土記」にある切腹といわれています。風土記とは和銅六年(713年)に第四十三代、元明天皇(女帝、661〜721年)の詔(みことのり)によって諸国で編纂された官撰の地誌のことですが、郡名の由来、伝承、銀、銅、草木などのその地方の産物、土地の肥痩(ひそう、肥えているか痩せているか)の状態、などを各国府(国ごとに置かれた役所)がまとめたものです。 現存する風土記は出雲、常陸、播磨、豊後、肥前の五箇国のものですが、記録が全部揃った風土記は出雲国のみで他は欠落した部分があります。その中の播磨風土記には、女性が腹を切ったこと が記されていました。
花浪(はななみ)という男の妻である淡海(あわみ)が、情婦の元へ走った夫を恨んで後を追いかけて行き、沼の傍まで行ったが、怒りの余り小刀で 自分の腹を割(さ)き、沼に投身して死んだ。それ以来この沼を「腹割(はらさき)沼」と呼ぶ様になった。その沼に住む鮒(ふな)には「はらわた」が無い。とありました。つまり激情から女だてらに切腹(割腹)したうえで沼に投身自殺をしましたが、時期としては霊亀2年(716年)以前のことでした。 (元祖その、二) 奈良時代の政治家で天武天皇の孫に当たる長屋王(684〜729年)がいましたが、彼は第四十五代聖武天皇の即位に伴って左大臣に就任しました。ところが藤原鎌足(かまたり)の子で、後に藤原氏繁栄の基礎を築いた藤原不比等(ふひと)が、娘の光明子を皇后(後の光明皇后)にさせようとしたのに反対した為に恨を買い、藤原氏の陰謀により謀反( むほん )の罪を着せられて、屋敷を藤原氏の軍勢に取り囲まれた末に自害しました。一説によるとその際に切腹したと伝えられています。しかし822年頃成立した説話集の日本霊異記(りょういき)によれば、長屋王は妃と4人の皇子と共に服毒自殺したとも書かれていました。 (元祖その、三) 平安中期の朝廷に仕えた者で武芸に優れると共に歌人の藤原保昌(やすまさ)がいましたが、彼の再婚した妻は恋の奔放な歌を詠んだ和泉式部でした。保昌の弟の 藤原保輔(やすすけ) は、右兵衛尉正五位下という官位を持ちながら盗賊でもありました。南北朝時代の末に書かれた系図書の「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」によれば、彼のことを強盗の張本(首領)と書いてありましたが、永延2年(988年)に遂に逮捕されました。その際に割腹自殺を図りましたが 死にきれず、翌日になって獄中で死亡したとされ、彼についても切腹の元祖とする説もあります。
[3:切腹した者、しなかった者]切腹が武士の間で自殺する方法として普及するようになったのは、平安時代(794〜1192年)の末頃からで、源平合戦の頃に流行が始まり、鎌倉時代(1192〜1333年)になると、「武士の自殺といえば切腹」が当たり前になりました。しかし平家物語、源平盛衰記などを見ても、腹を切るのは源氏の将兵か、あるいは東国出身の武士に限られていて、平家の主立った武将や一族には一人もいませんでした。長門の壇ノ浦の海戦で平家が滅亡した際には、著名な武将だった平知盛(とももり)、教盛(のりもり)などは、平家物語によれば碇(いかり)を背負って船から海へ投身しました。しかし平清盛の子で清盛の死後、平家一門を統率して源氏に対抗した平宗盛(むねもり)とその長男の清宗(きよむね)などは、その際に自害もせずに船上に生き残っていた為に、平家方の侍から海に突き落とされましたが、泳ぎができたので溺れずにいたところを源氏に捕らえられて捕虜になりました。二人は鎌倉に送られて源頼朝(よりとも)に対面した後で、暗に自害するように刀を差し出されましたが、それを断ったため京に送還される途中で首を斬られました。これは東国と西国との文化の違いによるものなのか、あるいは武勇を尊ぶ東国のもののふ(武士)対、宮廷文化に慣らされ公家化した軟弱な平家人(びと)との、気質の違いによるものでしょうか?。これについては平家の武士達に多かった観音信仰が原因とする説もありましたが、その信仰が自害、特に切腹を禁じていたのかどうかは疑問です。
[4:佐藤忠信の切腹、はらわたを出す]室町時代(1336〜1573年)の初期に成立した軍記物に義経記( ぎけいき )がありますが、作者は不明で全八巻から成ります。それによれば源義経の家来に東北出身で佐藤忠信(1161〜1186年)という武士がいましたが、義経の四天皇の一人として平家との戦闘に参加し各地に転戦しました。義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させたものの、兄頼朝と不仲になった為に義経追討の宣旨(せんじ、天皇の命令を伝える文書)が出され、北条氏に追われる身となりましたが、逃避行の際に奈良の吉野山で僧兵に襲われた時には義経の身代わりとなって奮戦し、義経一行を無事に脱出させました。
しかし忠信が京都六条の堀河の館に戻ると、お尋ね者の身になった彼を昔馴染みの女性が裏切って、六波羅探題(ろくはらたんだい、探題とは政務、訴訟の裁断、軍事などを司る地方長官のことで、現在の京都市東山区松原通りの六波羅にあった )に密告したため、北條時政の大軍に寝込みを襲われました。佐藤忠信は最早これまでと運命を悟り、敵の大軍を前にして自害しましたが、その時の様子を義経記の第六巻から引用します。
剛勇な兵(つわもの)が腹を切る有様を御覧あれ。東国の方にも主君に忠誠心を持ち、敵に首を取られまいとして自害する者がいるであろうが、その人々のため、これこそ後々までの手本であるぞ。と言うと膝を着いて中腰になり刀で左の脇の下にズバッと突き刺し、右方の脇の下にするりとそれを引き回し、胸元へ突き立て、ヘソの下まで斬り下ろした。傷口をつかんで引き上げ拳(こぶし)を握り、それを腹の中へ突っ込み腸(はらわた)を縁の上にむやみにつかみ出し、刀の切先を口にくわえ、うつ伏せにガバと倒れた。鍔(つば)は口元に残り、切先は耳わきの髪の毛をかき分けて後方にするりと刺し貫いた。文治二年(1186年)正月六日辰の刻、忠信は遂に人の手にもかからず生年二十八才(?)で息絶えた。(引用終了)
[5:源義経の切腹も、はらわたを出す]![]() 頼朝側の追求を逃れて苦難の末に奥州の平泉にたどり着いた義経一行は、奥州の覇者である藤原秀衡(ひでひら)の手厚い庇護を受けましたが、秀衡が死ぬと源頼朝にそそのかされた、秀衡の息子の泰衡(やすひら)の軍勢五百騎に不意に襲われましたが 文治5年(1189年)のことでした。弁慶などの部下も衣川(ころもがわ)の戦いで戦死した為、最早これまでと思い、
「自害をする時期になったらしい。自害はどのようにするのがよいのか」と義経がいったので、「佐藤忠信が京で切腹したのを、人々は後々まで褒めておりました。」と兼房(増尾十郎兼房、ましおかねふさ)が答えると、「それなら訳はない、切った傷口が広いのが良いのだな」といって左の乳の下から刀を突き立てた。刀の先端が背中まで突き通れとばかりに突き立てると、刀をまわして傷口を三方へ掻き破り、はらわた(腸)をいやというほどえぐり出した−−−。(引用終了)
[6:村上義光の場合、はらわたを投げつける]鎌倉末期の武将に村上義光(よしてる、?〜1333年)がいましたが、後醍醐天皇が起こした元弘の変(1331年)に皇子の護良(もりなが)親王(大塔の宮、おおとうのみや、ともいう)の挙兵に参加して各地を転戦しましたが、一時は敵に奪われた錦の御旗を取り返すなど功績を挙げました。足利尊氏(たかうじ)が南朝側の吉野を攻撃した際に、陣地が陥落する以前に護良(もりなが)親王を脱出させ、その身代わりになって親王の鎧(よろい)、直垂(ひたたれ、公服)を身に着けて二天門にかけ上がり切腹しましたが、太平記によればその際に、我が自刃する(さま、様子)を見て、汝等死す時の作法とせよ!と叫び、腹を一文字にかき切って、はらわたを掴み出し、敵兵に向かって投げつけました。わざわざ「作法とせよ」と言い、佐藤忠信の場合は手本にせよと言っていることからも、当時は切腹の作法など無かったことになります。
[7:津村家の掟、はらわたの露出が条件]奥州(現、青森県)八戸藩の重臣の家柄に津村家がありましたが、その家には明治まで二百年続いた家訓とも言うべき、刑罰の掟( おきて )がありました。それによれば 津村家の一族、および奉公人の中間( ちゅうげん )、下女( げじょ )に到るまで、死罪に相当する犯罪を犯した場合には、
その場合腹部を一文字あるいは十文字に切り開き、自ら はらわた を膝のうえに引き出した上で介錯を受ける。 はらわた をつかみ出すまでは、当人がいかに苦悶しようとも、介錯は行われない。 切腹して内臓を露出することができ、首尾良く介錯された者に対しては、犯した罪そのものを取り消して常人と同じに扱い、死後は津村家の一族として処遇され津村家の墓地に埋葬され供養されました。そのうえ遺族には見舞金が贈与されました。
[8:三島由紀夫の場合]ところが第二次大戦後になると、切腹に関して、出血や内臓露出に到る過程で、サディズムもしくは エロティシズム を味わう快感や美意識の高揚が、切腹を実行させる根源となるという新しい説が発表されました。かつて切腹自殺した作家の三島由起夫と同性愛の関係にあった堂本正樹は、「回想 回転扉の三島由紀夫」(文春新書)の中で、三島との「切腹ごっこ」を以下のように告白しています。
![]() ところで三島が切腹した際には、首尾良くはらわたを床の上に溢れ出させることに成功しましたが、三島の私兵的存在でした、楯の会の会員であった森田必勝( 写真の左側 )が介錯を務めました。しかし森田の技量未熟から、二度刀を振り下ろしたものの首を切り落とすことができずに、別の男が介錯をおこない ようやく切断しました。三島の次には森田も、切腹して果てました。
[9:内臓露出の意味]前述の如く切腹は平安時代に始まり、武士道が発達した鎌倉時代にかけて定着し、中世、近世を通じておこなわれましたが、なぜ日本人は腹を切るのでしょうか?。その理由について明治時代の思想家、教育者である新渡戸稲造(にとべいなぞう、1862〜1933年)によれば、古代から人の魂や真心がその腹部に宿るとする考えがあり、日本人は代々その考えを受け継いできたので、いざという時には腹を切ることが武士道を貫く上で、最も相応しい行為と考えられるようになったからでした。自らの名誉を守る為の切腹や、死んでお詫びをする、あるいは武士らしく自らの最後を飾る手段としての切腹は、単に腹の皮を切るだけでに留まらず、人間の最も重要な部分である はらわたを露出させること により、自身の勇気、真心、真情(いつわりの無い心)を示すと共に、身の潔白を証明したり、あるいは抗議を示す意味もありました。そういえば日本語には腹を割って話す、真情を吐露するなどの表現がありました。武士道に付随する道徳観や心情は仏教における生死観と共に、現在に至るまで日本人の自殺に潜在的な影響力を与えています。 ところで主君から切腹を命じられた家臣が、その際に切り口からはらわたを露出させるのを無念腹といいましたが、命令に従って一応切腹をするものの、本心ではそれに反抗、無念を示す意志表示とみなされました。
[10:切腹の変質]「勇気と気力を要する死に方」とされた切腹は、天下太平の世が長く続いた江戸時代になると次第に形式化されましたが、斬罪(斬首による死罪)に代わり武士に対する名誉ある死(罪) としての適用が目立つようになりました。
それと共に短刀で腹を切る代わりに一部では扇子を用い、切腹の座で前に置かれた三方に載せてある扇子を取ろうと体を伸ばす際に、あるいは短刀の代わりの扇子を腹に当てると同時に介錯人が首を打ち落とすという、扇腹(おうぎばら)が流行りました。前述の赤穂浪士の切腹の際にも扇腹の切腹をした者がいましたし、介錯人の技量未熟から首を切るべき刀を誤って肩や頭に食い込ませ、重傷を負った切腹人からうろたえ召さるな!などと、切腹現場で叱責された介錯人もいたと記録にありました。更に付け加えると、切腹に際して詠む辞世の和歌も専門の代作者がいて作る(詠む)ようになり、切腹に間に合うように手配したのだそうです。 赤穂浪士を生む原因となった、江戸城、松の廊下での刃傷事件を起こした播州赤穂の藩主、浅野内匠頭長矩(ながのり)の辞世の歌は、
風誘う花よりもなお我はまた、春の名残をいかにとやせん でしたが、その意味は
「風に誘われて散っていく桜の花びらは名残り惜しいものだが、自分はより強い名残りの悔しさを、心の中に残している。この気持ちをどうしたらよいのだろうか」 でした。この歌を詠んだのは刃傷事件当日の午後六時頃に切腹させられた本人ではなく、名前は忘れましたがどこかの寺の和歌に優れた偉い僧侶が、浅野家からの依頼を受けて急いで詠み、切腹に間に合うように浅野内匠頭(たくみのかみ)が預けられていた(現、港区新橋4丁目にあった)田村邸に届けたものでしたが、世の中はその当時から便利なものでした。 ところで非常に畏れ多いことですが、毎年新年に皇居の 歌会(うたかい)初め の席で発表される天皇を初めとする皇族方の「歌」についても、全部でなくても部分的に、ご指導などと称して、あるいは( ?) という感じがするのは私だけでしょうか?。
[11:切腹は痛い、腹はなかなか切れない]切腹の仕方には横一文字と十文字があるのをご存じだと思いますが、十文字に腹を切る場合に縦、横どちらを先に切るべきかが問題になります。まず横一文字に切ってから縦に切るのが普通ですが、そこには経験に基づく理由があるからで、それは痛みを感じる神経の分布が関係していました。つまり医学的にみると、
横一文字に腹を切る場合には、刃(やいば)が「へそ」に当たると邪魔になり切れにくい為、内臓を露出させる為には、「へそ」よりも下を切る方が切り易く、しかも苦痛が少ないのだそうです。それにより切腹した後も或る程度体を動かしたり、周囲の人と会話をすることも可能になりました。
しかしながら十文字の切腹が困難なのは、上記に加え絵図にある如く腹筋の構成が上下方向に走っていて、その緊張は縦方向に行われる為、横一文字に切るとこの筋肉が切断されて腹部の外壁がゆるみ、傷口が次第に広がり、そこから柔らかく滑らかな腹膜や腸が押し出されてしまいます。それ故その後に縦に切る際には、内臓が出かかり腹腔が空洞に近くなり、腹壁が緩んでしまい、あたかも空気が抜けかかったゴムまりを切るように刃物が滑り、切り難いのだそうです。結論としては十字腹を切るのは痛みがひどく腹を切るのが難しいので、勇敢な人にしかできない方法です。
[12:切腹だけでは、なかなか死ねない]その理由は太い血管が腹部の前面、つまりヘソがある側には無く、腹のむしろ後方(背中側)にある為に、切腹によって細い血管から血は出るものの、失血により死ぬまでには時間が掛かかります。これは腸(はらわた)が出るほど深く切っても同じことで、腸を露出させると いかにも凄惨な感じがしますが、なかなか死ねないことは過去の切腹例からも分かります。
写真は割腹自殺を図った女性のものですが、女性特有の腹部の厚い皮下脂肪を貫き、はらわたを露出するほど大きく深く切ったにもかかわらず、女性は命を取り留めました。腹を切っただけでは、なかなか死ねないことがこれでも分かります。
南部藩の横川良助編の書物によれば −*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*(引用開始)
老梅院(寺院)前にて同心(与力の下の下級役人)二名が刃傷に及び、一方が切り伏せられたが、他方は腹を切って自殺した。その際堰(せき)にて切口より腸(はらわた)を引き出し洗い、暮れ頃に死す。 (引用終了) とありました。斬り合いに勝った者も喧嘩両成敗の掟から所詮死を免れないので切腹し、自分に道理があったことの証明に腹を開いて腸(はらわた)を露出させましたが、血などで汚たので「はらわた」を水で洗ったということでした。切腹をした上で「はらわた」を示すことが、本心や理非を明らかにする手段として、周囲からも認められていたからでした。 切腹には通常介錯が付きものですが、それが得られない場合には切腹後に自ら頸動脈を切り、あるいは心臓を突くなどして大量出血により死期を早める場合もあります。 敗戦時に海軍特攻の総元締めだった大西海軍中将は、昭和20年(1945年)8月16日に切腹しましたが、その際自分に介錯することを許さず「自分が送り出した部下たちへの責任を取る」と言って、約二十時間苦しみ続けて世を去ったことが知られています。
[13:ハラキリ が、助長した偏見]ところで大英百科事典のハラキリの記述によれば、切腹とは最も能率が悪く苦痛の多い自殺方法なのだそうですが、敢えてそれをおこなう日本人とは、彼らの有色人種に対する人種偏見に基づく解釈によれば、残忍、残酷な民族なのだそうです。四百年前に宣教師によって切腹の報告がヨーロッパに送られると、彼らの日本人観に悪影響を及ぼしましたが、それは日本人は残酷な民族であるとするもので、フランス人のある作家は切腹する日本人ほど、残忍な民族はいないと嫌悪感をあらわにしました。全ての人間は創造神が作りたもうたとする教義のうえに立ち、自殺を罪悪視するキリスト教の教えから導き出され、自殺を強制する刑罰(切腹)などもっての他とする彼らの偏見からでした。
[14:敗戦の年の主な切腹]日本の敗戦が決まった時から数ヶ月以内に自決した軍人は580名いましたが、そのうち佐官級以上の上級軍人を除くと、切腹した下級将校や兵士は24名でした。以下は敗戦間際(昭和20年)に戦地で切腹した者を含む、敗戦前後の主な切腹者です。昭和20年(1945年)6月13日 海軍少将、沖縄特別根拠地隊司令官 、大田実が海軍壕内で切腹 昭和20年 6月23日 陸軍中将、沖縄防衛軍司令官、牛島満が摩文仁(まぶに)丘の洞窟内で切腹 昭和20年 8月15日 陸軍大臣、阿南惟幾が陸相官邸にて切腹 昭和20年 8月15日 終戦の日、約30人が皇居前で自殺 、方法は不明 昭和20年 8月16日 海軍中将、神風特攻隊の創設者、大西瀧治郎が切腹 昭和20年 8月22日 愛宕山集団割腹自殺事件。尊攘同志会、会員12名が切腹 昭和20年 8月23日 皇居前広場自決事件。明朗会、会員13名が切腹 昭和20年 8月24日 代々木練兵場集団自決事件。大東塾の塾生14名が切腹 昭和20年 11月20日 、枢密顧問官 陸軍大将 本庄繁が、戦犯の指名を受けて切腹
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