白瀬中尉と南極探検
[ 1:南極探検の歴史 ]白瀬中尉 ( 1861〜1946年 ) の名前を聞いて理解できる人は、最近の厚生労働省の定義でいうところの 後期高齢者と呼ばれる 七十五才以上の人 か、あるいは南極について興味のある人だと思います。
二十世紀のはじめに、残された地球最後の人類未踏の地であった南極点を目指して、 イギリスの スコット ( 1868〜1912年 ) 率いる探検隊と、 ノルウェーの アムンゼン ( 1872〜1928年 ) 隊が互いに一番乗りを競いました。南極点への到達に52頭の 「 犬ゾリ 」 を使った アムンゼン隊五名は、 ソリを引く犬のうち途中で弱った犬を次々に射殺し、犬と人の食糧 ( ? ) にしながら南極点に進み、18頭の ソリ犬と共に ロス海の基地から 1,500 キロ 離れた南極点に到達しました。写真は隊長のアムンゼンです。 これに対して馬で引く 「 馬ソリ 」 八台 ( 馬 8頭 )を主に使用した スコット隊は、馬の足が雪に潜るので 「 馬ソリ 」 があまり役に立たず、馬ソリ が クレバス ( 氷河の割れ目 )に落ちたりして、後には人力で一台の 「 ソリ 」 の曳行を続けましたが、アムンゼン隊に遅れること三十三日後にようやく南極点に到達しました。しかし帰途に食糧と燃料が尽きてしまい、五名全員が凍死しました。 アムンゼン自身も後年に、飛行船で北極点を目指した イタリアの ノビレ探検隊の救援に赴き、北極で消息を絶ちました。
同じ頃に日本でも探検隊を組織して、南極に向かった白瀬・矗 ( しらせ・のぶ ) 中尉がいましたが、私が子供の頃は白瀬中尉や、千島列島の開拓をおこなった郡司成忠 ( しげただ ) 大尉のことを、ほとんどの男の子は本で読み知っていました。白瀬中尉について知らない現代人でも、南極観測船 しらせ のことを聞いたことがあると思いますが、 その船名は日本人として初めて南極に足を踏み入れた白瀬中尉にちなんだものでした。しかし海上自衛隊の公式見解によれば、 自衛艦である南極観測船に個人名を付けることはしない とのことなので、白瀬の名を持つ自然物からとったことになります。 私も今回南極の地図を調べてみて初めて白瀬氷河の存在を知りましたが、彼の名前から付けられた 白瀬海岸 や 白瀬氷河 ( 昭和基地南方100 キロにある幅 9キロ、末端部の氷厚 400メートル ) のことなど、いったい国民の何 パーセントが知っていると海上自衛隊は思っているのでしょうか?。 船名の しらせ は、白瀬中尉の名前からとった となぜ言えないのでしょうか?。太平洋戦争に敗れてから 63年が経つというのに、未だに コケの生えた旧帝国海軍の因習にこだわる海上自衛隊の態度には 、 国民の常識や理解とは隔絶した 、 唯我独尊的体質 を感じましたが、それは私だけでしょうか?。ところで彼が到達し命名した南緯 80度付近にある 大和雪原 ( やまとゆきはら ) も南極の地図に記載されていますが、奇妙なことに彼は海軍ではなく陸軍の出身でした。
[ 2:少年時代からの夢は北極 ]白瀬・矗 ( しらせ・のぶ ) は文久元年 ( 1861年 )に秋田県由利( ゆり )郡、金浦 ( このうら ) で寺の長男に生まれ、幼名を知教 ( ちきょう ) といいました。九才で近所にあった塾に入りましたが、あるとき先生から コロンブス、マゼランや、二隻の イギリス探検船が北極の氷海に閉じ込められ、飢えと寒さで105名全員が死亡した フランクリン北極探検隊 の話を聞きました。この話に感動した白瀬は北極探検を試みようと決心しましたが、十二才の時でした。その後、極地 ( 北極 )探検家になるために必要な体力、精神力を養う方法について先生に尋ねたところ、次の五ヶ条の心得を教えてくれました。
[ 3:千島列島で経験を積む ]彼は陸軍に入り仙台の第二師団に配属になり下士官に進級し、結婚して合計十一年間仙台に居住しましたが、その当時少将の階級にあった児玉源太郎 ( 1852〜1906年、後の陸相、参謀総長 ) と偶然話す機会がありました。その際に北極へ行きたい旨を話すと、それならばまず千島列島 ( ちしま ) や樺太 ( からふと、現、サハリン ) に行き、極寒の地での生活経験を積むことの必要性を教えられました。彼は明治25年 ( 1892年 ) に予備役に編入 ( 軍人を解雇 ) されたのを機会に、来るべき北極探検に備えて千島列島へ探検に行くことにしましたが、当時は日清戦争 ( 1894〜1895年 )や、日露戦争(1904〜1905年)の起きる以前であり、千島列島は政府や国民にとっては忘れられた存在、地域でした。
皆さんは前述した海軍大尉 郡司成忠 ( しげただ、1860〜1924年 ) という人をご存じですか?。明治時代の小説、随筆家、幸田露伴 ( こうだろはん、1867〜1947年 ) の兄に当たる人ですが、日露戦争開始前の千島列島の防備、拓殖 ( たくしょく、つまり未開の土地を開拓しそこに人が移り住むこと ) を目的として 報效義会 ( ほうこうぎかい ) を組織しました。
千島へ赴く為に会員一行は明治26年 ( 1893年 ) に、東京湾を短艇 五隻 ( ピンネース2、カッター1、和船 2隻 )に乗り出航しましたが、ずさんな計画から海難事故などで会員多数の死者を出しました。白瀬も報效義会 ( ほうこうぎかい )に加入して、カムチャツカ半島南端の ロパトカ岬から11 キロ南に位置する千島列島最北端の 占守島 ( しゅむしゅとう ) に郡司大尉と共に赴き、千島探検のために明治26年(1893年)8月から足かけ三年間そこに暮らしました。
ところが彼等を襲ったのはその地方の風土病ともいわれた 水腫病 ( すいしゅびょう ) でしたが、千島列島に限らず蝦夷地 ( えぞち、北海道 ) に越冬する和人 ( アイヌに対する本州人の呼称 ) が、 水ぶくれになり、顔がむくみ、腹が太鼓のようになって苦しみ死ぬ という奇病は、水腫病といわれ、寒気が原因であるとか、野菜の欠乏からくるとかいって恐れられました。
症状からすると ビタミン B1 の欠乏からくる脚気 ( かっけ )でしたが、ビタミンB1は、米 ヌカ・小麦胚芽 ( はいが )・玄米といった植物性食品や、豚肉・牛肉・魚などの動物性食品に多く含まれていますが、さらに、ほとんどの野菜や果物も ビタミン B1が多く含まれています。写真は明治26年( 1893年 )に占守島 ( しゅむしゅとう )において、白瀬たちが最初の越冬をした時の小屋です。脚気については随筆集の ここにありますが 、白瀬の千島探検録によれば、
果実ハ三年全ク食セズ。桃、梨、柿、栗、杏 ( あんず )葡萄 ( ぶどう )。密柑、林檎 ( りんご )、瓜、西瓜 ( すいか )。喰イ度キ 一念火ノ如シとあったので、ビタミン C の欠乏がもたらす壊血病も患っていたのかも知れません。彼は日清戦争も知らずに占守島 ( しゅむしゅとう )に留まりましたが、越冬隊員六名のうち三名が水腫病 ( かっけ ) で死亡し、明治28年 ( 1895年 )10月に仙台に帰りました。 白瀬たちの越冬経験をもとに翌年から、61名が占守島 ( しゅむしゅとう )に入植し、その後 隣りにある幌筵島 ( パラムシル島 ) にも入植し、北洋の漁業と ラッコの毛皮を採取し、日本の領土であることを示しました。
[ 4:北極探検から南極探検に変更 ]明治42年 ( 1909年 ) 9月8日の東京朝日新聞によれば、タイムス社発の ニューヨークからの電報として、
アメリカ人 ペアリー中佐率いる探検隊が 八度目の挑戦で、同年四月六日に北極点に到達した。という ニュースを伝えました。これを聞いた白瀬は子供の頃から抱き続けてきた北極点到達の夢を失い、大きく落胆しましたが、以後は北極とは正反対の南極探検を目指すことを決心しました。ところが南極点到達を狙う外国の探検隊が編成されたという ニュースを聞き彼は焦りましたが、まずは探検隊用の資金集めが必要でした。そこで政治家の力を借りて国会に 「 南極探検ニ要スル経費下付相成度義 ( かふあいなりたきぎ ) ニ付請願 」 という「 請願書 」を提出し十万円の下付を願いましたが、貴族院で三万円に削減されたものの、無事に両院を通過しました。ところが結局政府からは一銭も下付されなかったために、 南極探検後援会 を設立し民間からの寄付に頼ることにし ました。
[ 5:探検船の確保 ]当初の出港予定日である明治43年 ( 1910年 )8月5日を過ぎても資金難から探検船が入手できませんでしたが、10月になるとその年の3月に進水したばかりの中古ではない新古の第二報效丸 ( ほうこうまる )を運良く購入できました。この船は海軍大将東郷平八郎により 開南丸 と改名されましたが、購入後は南極探検に備えてエンジンを取り付けました。
船は スクーナー型、三本 マストの帆船で、長さ百 フィート( 30メートル )、幅25 フィート( 7.6メートル )、深さ12 フィート( 3.6メートル )、総 トン数僅か 204 トン でした。この船に船長以下船員 18名と、学術部員や、カラフト犬飼育係のアイヌ 2名を含む合計 27名に、カラフト犬 29頭、ネコ1匹を乗せて明治43年 ( 1910年 )11月29日に東京の芝浦桟橋を出航しました。 七十日後の明治44年 2月8日に、補給港である ニュージーランドの ウエリントン港に無事に到着しましたが、ここへ来るまでに赤道越えの暑さと病気のために、カラフト犬は1頭を残して全て死亡し ネコも死にました。ウエリントンで南極探検用の食糧、水など物資の最終補給をおこない、三日後に出航しましたが、南極探検後援会の南極記によれば、その際に ヨットや汽船などが、
春の野の胡蝶 ( こちょう ) の群れが、花を目がけて集うが如く開南丸を取り囲み帆走を続けながら見送りました。24日後の3月6日に初めて雪と氷に覆われた南極大陸を遠望したので隊員は喜びましたが、船が現在の ロス海に向け航海をつづけたところ、地磁気の南極に近いために磁石が正しい方位を示さなくなり、船は南に向いているのに羅針盤 ( 船の コンパス ) は北東を指すという奇妙な現象を経験しました。
やがて海氷 ( Sea Ice ) 地帯に入り、最初は海に浮かぶ小さな氷の板が次第に大きな板になり海面を覆い、厚さも五、六寸 ( 15〜18 センチ ) になり、ついに海上一面が大氷盤で覆われ船体から、ゴリゴリ、メリメリという音が伝わって来る危険な状態になりました。 白瀬は緊急幹部会を開いた結果、海氷の状態が悪く砕氷能力が無い開南丸では、目的地の マクマード ( McMurdo ) 湾 ( 南緯78度付近 ) までは行けそうもないので、南緯75度付近を上陸予定地と一旦決めました。ところが日本出発の遅れがここにきて禍し、冬の到来のために海氷の状況が更に悪化し、船が結氷した海に閉じ込められる危険が生じたため、オーストラリアの シドニーに引き返し、そこで解氷期の訪れを待つことに決めました。 後で判明したことですがその同じ時に、イギリスの スコット隊は ロス海奥の マクマード湾の棚氷( Ice Shelf、別の表現では氷床 )上で、アムンゼン隊は後に極地法 ( Polar Method )といわれ、 エベレスト登山などで採用されるようになった補給方法により、緯度1度 ( 約60 マイル、110 キロ )毎の 南緯80度、81度、82度の地点に、食糧、燃料を予め運び込み、十月の解氷期を待っていたのでした。 ところで明治政府は外国からの技術、新知識の導入には非常に積極的でしたが、未知の大陸に挑む冒険 ( 探検 )には一銭も資金を出そうとはせず、その点 国を挙げて南極探検を支援した イギリス、ノルウェー政府とは大きな差がありました。資金が無い白瀬たちは シドニー港に到着後は船員だけが船に泊まり、それ以外の者は シドニー港外の高台に、日本から用意してきた探検用の小屋を組み立てて野営し、解氷期を待つことにしました。
[ 6:二度目の南極行き ]
明治44年(1911年)11月19日、白瀬隊長以下二十七名の隊員は十分な食糧を積み、前回1頭を残して全滅した カラフト犬を補給して30頭にして、開南丸は シドニー港を出発しました。それから約二ヶ月後の明治45年 ( 1912年 )1月16日に、開南丸は無事に南極の ロス海に入ることができましたが、そこには ( 南極点に到達した ) ノルウェーの アムンゼン隊を収容するためにやってきた、フラム号がいました。
右上と左の写真はフラム号の隊員が撮影した開南丸と日本人隊員の姿ですが、白瀬は野村船長とシドニーで採用した三宅三等運転士 ( 航海士 )を通訳として フラム号に派遣し、儀礼訪問をさせましたが、後刻フラム号の船長も答礼に開南丸を訪れました。ニールセン船長いわく、 こんな小さい船でよくここまで来たものだ。自分達では南極はおろか、途中までさえ覚束ない。と開南丸船員の勇気に驚き、航海技術を称揚していました。開南丸はそこから西方へ三十 マイル ( 45 キロ ) 離れた地点を上陸地点と定めましたが、そこを 「 白瀬海岸 」 ( 南緯78度17分、西経162度50分 ) と名付けました。
陸上に第一根拠地を設けそこに犬ゾリ、カラフト犬30頭、食糧、テントなどを運び込み、陸上隊員のうちから突撃隊五名と天候気象観測隊二名を選び、犬ゾリは二隊に分けて1月20日に、行けるところまで行く予定で南極点へと進みました。しかしブリザード ( 暴風雪 ) に遭遇し、24日になると糧食係からそろそろ携行した糧食が欠乏を告げている旨の報告があったので、白瀬はあと二日だけ行ける所まで前進しすることにしました。二日間走りそこでに天測した結果は、 南緯80度05分、西経156度37分 でしたが、明治45年 ( 大正元年、1912年 ) 1月26日のことでした。
そこにテントを張り深さ三尺の穴を掘り、南極探検後援会に寄付金を寄せた者の芳名簿を銅製の箱に入れて埋め、その上に日の丸の旗を立て下部には目印に赤ペンキを塗った三角形 ブリキ製の回転旗を立てましたが、写真では白瀬隊長は右端です。彼は付近一帯を前述した如く大和雪原( やまとゆきはら )と命名しましたが、後世の科学技術の発達による測定の結果、この付近の雪の下は南極大陸の大地ではなく、海であり厚さが数百 メートルにも及ぶ棚氷 ( Ice Shelf 、氷床ともいう ) の上であることが判明しました。 ノルウェーの アムンゼン隊が世界で初めて南極点に到達したのは明治44年 ( 1911年 )12月14日であり、イギリスの スコット隊が到達したのは明治45年( 1912年 ) 1月17日でした。このことから明らかなように、白瀬隊は世界の探検隊に伍してほぼ同時期に南極点近くまで到達し、南極探検の歴史に名を残しました。
[ 7:置き去りにされた カラフト犬 ]![]() 写真は白瀬隊長と カラフト犬ですが、探検を終え基地に戻った白瀬隊が氷の海から開南丸に乗り移り ニュージーランドへ向かう際には、天候急変のため船に収容できた カラフト犬 は僅か6頭で、 残りの21頭 は見殺しにせざるをえませんでした。カラフト犬飼育担当の二人の アイヌは、当座の エサ として数俵の干し鱒を氷上に残してきましたが、船が離れるにつれて犬たちは尾を振って鳴きながら氷の上を船の後を追い、二人の アイヌも泣き出しました。
それから46年後の昭和33年 ( 1958年 ) 年2月のこと、前年に続き二回目の越冬を行う予定だった第二次南極越冬隊は、海氷の状況が悪く観測船 「 宗谷 」 が昭和基地に接岸できず、物資の陸揚げが不可能な為に越冬を中止し、前年越冬した隊員だけを ヘリで収容したものの、カラフト犬 15頭を置き去りにして帰国しました。基地は 一年間無人になりましたが、翌年の昭和34年 ( 1959年 )1月14日に第 三次越冬隊員が南極の昭和基地に上陸すると、前年に置き去りにした15頭のうちの 2頭、 タローと ジロー だけが生存していて、元気に隊員のもとに駆け寄って来たので劇的な対面をしました。写真は死後剥製になったタローとジローですが、どちらがタローか分かりません。 ところで南極会議で南極条約議定書が制定されましたが、日本では昭和36年(1961年)に批准しました。その後平成10年に条約の付属書の中に環境保護に関する規定ができた為に、生きた動物や植物等の南極への持ち込みが禁止されたため、今では カラフト犬など 犬ぞり用の犬は1頭もいません。
[ 8:白瀬隊長に対する、毀誉褒貶( きよほうへん )]1775年に イギリスの探検航海家 クック船長により南極大陸が世界の人々の関心を呼ぶようになってから、明治45年 ( 1912年 ) までの 137年間に、南極探検は 二十二回行われましたが、その中で 南緯80度よりも南の地点 に到達できたのは、南極点に到達したノルウェーのアムンゼン、イギリスのスコット、同じく南極点近くの南緯88度23分まで行った シャックルトンの三隊だけであり、白瀬隊は四番目でした。これは国際的基準からみても、立派な業績でした。参考までに 20世紀初頭に、イギリスの探検家で Sir ( サー )の称号を持つ アーネスト・シャックルトン( 1874〜1922年 )が、南極探検隊員を募集したときの新聞広告を紹介しますと、 求む男子。至難の旅。わずかな報酬。極寒。暗黒の長い日々。絶えざる危険。生還の保証なし。成功の暁には名誉と称賛を得る。でしたが、白瀬隊の場合はどうだったのでしょうか?。実は寄せ集めの人員からなる探検隊内部にはいろりろな不平不満や、軋轢 ( あつれき ) があり、必ずしも人の和が保たれたわけではなく、白瀬隊長の統率力不足や人間性にもやや疑問視される部分もありました。その一例を挙げますと、南緯80度まで到達し探検の任務を終了して ニュージーランドに引き揚げた白瀬隊は、そこから開南丸で全員一緒に日本に帰国するのが当然でしたが、白瀬隊長は生死を共に誓いあった部下を残して、一足先に船会社の汽船に一等船客として乗り、日本へ帰国したことでした。 帰国後の白瀬は当初は大歓迎を受けたものの、開南丸に乗り一ヶ月遅れて帰国した部下が やがて南極探検私録などを出して彼のことを厳しく批判したこともあり、人気は凋落し秋田県の田舎で以後ひっそりと人生を送りました。 ちなみに現在の越冬観測隊員の輸送については、成田から 西 オーストラリア州の州都 パースまで飛行機に乗り、市の南西19 キロにある フリーマントル ( Fremantle ) 港に着くと、日本から先発し待機していた南極観測船 しらせ に乗船します。南極の昭和基地に近づくと、 しらせ に搭載の大型 ヘリ2機、小型ヘリ1機で人員、物資を空輸する方法を採っています。
[ 9:南極の領有権問題 ]敗戦後の日本が連合国と締結し昭和27年(1952年)4月28日に発効した、 日本国との平和条約 ( サンフランシスコ条約 ) の第二章、領域、第二条の( e ) によれば、
日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。と規定されていましたが、白瀬隊による南極探検の実績が、国際的には南極地域の領有権を主張する際の要素である、先占 ( Occupation、所有者が存在しない土地を所有の意思をもって占有することをいう ) に重要な関係があったことを、日本人は改めて知らされました。しかし昭和34年 ( 1959年 ) に当時南極における調査研究に協力体制を築いていた日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦 ( 現ロシア )等12ヶ国が南極条約を採択した結果、南極に対する軍事的利用の禁止とともに、領土主権、請求権は 凍結されました。
ところが領土主権は凍結されただけで 否定や放棄されたわけではなく、たとえば オーストラリアは、自国の南極領土 (AAT、Australian Antarctic Territory ) であるとして、右図の二つの扇形部分を主張しています。 それは南極点から放射線状に広がる東経 44度38分から東経 136度までと、東経 142度02分から東経 160度までの二つの扇形の部分からなり、それを地図上に明記して学校教育の現場でも教えていますが、その面積は南極全体の 実に 42 パーセント ( 580万 平方キロメートル )を占めています。 カンガルー や ディンゴ ( Dingo 、オーストラリア産の野生の犬 ) を目の仇にして大量殺戮しながら、鯨だけは 「 かわいそう 」 などと捕鯨に反対し、生態系保護や環境保護などの キレイゴトだけを主張する表の顔だけでなく、南極大陸に途方もなく広大な領土権を主張してはばからない オーストラリアの 強欲で恥知らずな 裏の顔 も きっちり見定める必要があります。 それ以外の国々、たとえば ニュージーランド、フランス、ノールウェー、イギリス、ブラジル、アルゼンチン なども、南極点から勝手に自国の領土であると経度線を引き、扇形に囲まれた部分を地図上に明記して、領土権を主張しています。 その狙いは雪と氷に覆われた南極大陸に隣接する海洋の 経済水域設定および、地下資源の確保にある といわれていますが、世界戦略が欠落し、国益音痴 ( ? ) でお人好しの ( 換言すれば国益に無知、間抜けな ) 日本は、多額の税金、たとえば 平成 17年度予算では南極観測に 64億8千万円 を使い 、50年以上も毎年南極に出かけて行き、オゾン・ホールの変化や、オーロラなどの観測をしているだけで、将来の国益を守るための布石などとは全く無縁です。赤字財政の折、カネのムダ遣いを防ぐ為には、南極行きは一年おきでも良いのではありませんか?。 地下資源、エネルギー資源を含む領土、国益を守る為には、何時の時代でも 強引さと、政治的狡猾さ ( ズルさ ) が必要 です。これまで官民合わせて 6兆円にも及ぶ対中国経済支援をしておきながら、 中国との東支那海油田開発、尖閣列島問題や 、人道支援と称して何億ものカネを出したにもかかわらず、ロシア側にカネを巻き上げられただけで何の進展もなかった北方四島問題など、外交交渉における 失敗から 、日本は何も教訓を学びませんでした。
[ 10:報復で始まった昭和の南極探検 ]現在の南極は観光客でも訪れることができる場所ですが、1950年代の南極は白瀬中尉による南極探検以降45年間、日本人が足を踏み入れたことがなく情報の無い危険な場所であり、観測ではなく 南極探検 という言葉が使われていました。昭和32年(1957年)7月から翌年の12月まで18ヶ月間にかけて、国際地球観測年 ( IGY: International Geophysical Year ) が実施されましたが、これに先立ち昭和30年7月に国際地球観測年特別委員会の下に設けられた第1回南極会議において、日本に対して南極地域での観測について参加勧告がなされました。
ところが日本に割り当てられた地域は、気候が厳しく過去に アメリカ隊が七度上陸を試みて失敗し接岸不能とまでいわれ、 南極の中でも 最悪の地域 といわれた エンダービー・ランド ( Enderby Land )の西側で、そこは新南岩 ( しんなんいわ )がある 東経44度38分から ウイリアム・スコビー湾がある東経56度25分までの間の、北方に突出した陸地でした。ここは1831年に イギリスの捕鯨船の船長 ビスコー ( Biscoe ) が発見し、船主である ロンドンの捕鯨・海豹 ( あざらし ) 猟会社の エンダービー 兄弟商会にちなんで命名した土地でした。そこは南極点からは三千キロも遠く離れた場所で、オーストラリアが領有権を主張していた場所でもありました。 なぜそのような 悪い場所 が日本に割り当てられたのでしょうか?。それには、いわく因縁がありました。太平洋戦争の緒戦、敗れるはずがないと思われていた白人種の イギリス軍が、有色人種の日本軍の攻撃によって不沈と称された東洋艦隊が開戦直後に撃滅され、陸上戦闘でも短期間で敗北し、一時的にせよ アジアから イギリスの植民地勢力が一掃されました。 それにより アジア人に独立に対する自信と民族主義が芽生え、戦後には インド、ビルマ、バングラデシュ、パキスタン、マレーシア、シンガポールなど、ホンコン以外の全ての植民地が イギリスの支配から独立しました。そのために イギリスは植民地からの富と アジアでの覇権を失い、国の経済も北海原油を掘り当てるまでは疲弊し続け、 イギリス帝国の国威も失墜させられましたが、それ以来 イギリス人は、日本憎しの感情を抱き続け報復の機会を狙っていたのでした。 一説によれば イギリスが南極会議の メンバーであり英連邦に属する オーストラリア、ニュージーランドと図り、戦後初の日本の南極観測を失敗させると共に、末永く日本の国際的評価を失墜させる為に、故意に仕組んだ報復であったともいわれましたが、アングロサクソンの復讐 ( ふくしゅう )心の強さを見せつけられました。
[ 11:南極観測船 ]![]() 昭和31年(1956年)11月8日に、戦後初の第一次南極観測隊を乗せた観測船 「宗谷 ( そうや )」 が乗組員 77名、隊員 53名と共に東京・晴海ふ頭を出航しましたが、幸運にも宗谷は オングル島の接岸に成功し 11名の隊員の越冬に必要な物資の陸揚げをおこない、昭和32年1月29日に昭和基地を開設することができました。しかし帰路に砕氷能力が乏しい宗谷は氷海に閉じ込められてしまい、ソ連の砕氷船 オビ 号に救出されました。
日本の南極観測事業が始まった昭和31年 ( 1956年 ) 以来 五十年以上が過ぎましたが、南極観測船は 「 砕氷能力 40 センチ、 2,600 トン の、宗谷 」、「 砕氷能力 80 センチ、 5,250 トン の、ふじ 」、「 砕氷能力 1.5メートル、 11,600 トン の、しらせ 」と代替わりしてきました。「 しらせ 」 は悪場の昭和基地に到達するために不可欠な、世界でも トップクラスの高い砕氷能力と ヘリ輸送能力を備え、毎年数百 トンの物資を運びましたが、氷に閉じ込められた オーストラリアの南極観測船を二度にわたり救出しました。写真は氷海上の 「 しらせ 」。
昭和60年(1985年)10月末、オーストラリアの観測船 「 ネラ ・ ダン 」 が 海氷に閉じ込められましたが、その際に オーストラリアの南極用貨物船、「 アイス ・ バード 」 が救援に向かったものの、厚さ 4 メートル以上の厚い氷に阻まれて、「 ネラ ・ ダン 」 に近づけませんでした。そこで オーストラリア政府からの要請に基づいて、パース郊外の フリーマントルに寄港中の 「 しらせ 」 が救援に向かうことになりました。「 しらせ 」 は 「 ネラ ・ ダン 」 が 閉じ込めらている現場に到着し、さっそく砕氷による救援を開始し、氷海から無事に離脱させることに成功しました。写真で、氷の海で動けない船に、氷を割りながら接近する手前の船が 「 しらせ 」です。 その時の 「 しらせ 」 艦長の倉田篤さんは海上保安大学時代に私の 一年後輩で、しかも同じ栃木県出身、同じ頃に海上自衛隊の航空基地に勤務しましたが、後に船に乗った旧知の間柄でした。
彼は南極観測船 「 ふじ 」 の副長 ( 昭和55年 )、退役する 「 ふじ 」 の最後の艦長 ( 昭和57年 )、「 しらせ 」 の艦長で二回 ( 昭和60年〜62年 )、と、南極には合計四回行くという指揮官 クラスでは珍しい経験の持ち主でしたが、「 ネラ ・ ダン 」 救出の際には厚さ 4 メートル以上の氷を割って救助するために、 176回の チャージング ( 注参照 ) をしたそうです。 写真の左端は南極観測隊に7回参加し、うち3回は越冬隊長を務め、昭和42年 ( 1967年 )に世界で 9番目に南極点への往復旅行に成功した 村山雅美氏、倉田艦長、右は北極旅行をしたことのある女優の和泉雅子さん。 「 しらせ 」 も老朽化したために今年で退役しますが、平成20年秋の南極観測には代船として民間の砕氷船 オーロラ ・ オーストラリスを チャーターして観測隊の輸送に当てることになりました。この船は1998年に南極海で氷に閉じ込められ、動けなくなったところを 「 しらせ 」 に救助されたことがある船でした。
日本では現在 「 しらせ 」 の代わりの船を 380億円の予算で舞鶴の造船所で建造中ですが、平成21年5月に完成予定で 次の船名も しらせ の予定です。写真は ロシアの砕氷船ですが、船首の喫水線 マーク 最高 11 メートルの下方には、氷との苦闘を物語る船体の傷や ペンキの剥げた跡が見られます。
注:)チャージング
東京の JR 田町駅から海側に約 15分歩くと、首都高速 一号羽田線のそばに 港区立の 「 埠頭 ( ふとう ) 公園 」 がありますが、ここは明治43年 ( 1910年 ) に南極探検隊が近くの芝浦桟橋 ( さんばし、現、芝浦埠頭 ) から出発したのを記念して作られた公園で、園内には隊員を乗せた開南丸の レリーフや ペンギン像のある記念碑が建っていました。砕氷能力皆無の僅か 204 トン の エンジン付き帆船 開南丸で、白瀬中尉が南極探検に赴いてから今年で九十八年になりますが、資金や物資不足の中で、白瀬中尉をはじめ当時の探検隊員が南極探検にかけた情熱、冒険心には脱帽しました。
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