学童集団疎開

太平洋戦争の末期に戦況の悪化に伴い、米軍機による本土空襲が必至の情勢となったため、政府は子供の安全を守るため、 東京をはじめ 横浜、名古屋、大阪、神戸、小倉、門司 など全国 13の大都市、工業都市 に住む学童を、昭和 19年 ( 1944年 )8月から半強制的に地方へ疎開させましたが、空襲が激しくなった翌年には更に 京都、呉などの4都市 を疎開対象に加えました。その結果大きな都市では子供の遊ぶ姿が町から消えました。

学童集団疎開の詳細については表紙の大項目、学童集団疎開の記録をクリックしてご覧下さい。

学童疎開の種類

学童疎開には次の三つのタイプがあります。

1: 縁故疎開、( 田舎に親戚などの縁故のある学童が、単身又は家族と共に田舎に疎開する。)

2: 集団疎開、( 縁故のない学童は、学校や学年ごとに 田舎の旅館や寺に集団で疎開する。

3: 残留疎開、( 病弱等により家庭を離れがたい学童は、残留疎開としてそのまま親元に留まる。)

注:1)
対象となる学年は当初 3年から 6年生まででしたが、空襲の激化に伴い昭和 20年3月からは 1年、2年生も疎開の対象となり、全国では合計百万人の学童が対象となりました

注:2)
学童集団疎開の一行が出発するたびに、各地の省線 ( 鉄道省、現在の J R )の駅周辺は子供との別れを惜しむ親達の見送りで大混雑しましたが、その後始まった空襲により、その時の別れが親と子の永遠の別れになった者もいました。

注:3)
受け入れ先の一つである 長野県では温泉旅館 250軒、寺院 156 ヶ寺を含む 509ヶ所に、総計 30,505名の学童が東京から集団疎開をしましたが、このうち私達が疎開した小県 ( ちいさがた ) 郡だけでも、その数は 4,197名にのぼりました。( 1944年長野県史、1944年信濃教育一覧表 )

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