第52回(最終回)「新潟県と文学」
新潟市に住むこと丸8年、私は新潟県は本当に文化の豊かな土地だなあと思います。とりわけ文学は豊穣です。県内の図書館に収められている郷土出版社の新潟文学全集は、明治以降の小説、随筆、紀行文、日記、短歌、俳句、川柳から、新潟ゆかりの名作を集めていますが、なんと、14巻もあります。
明治の幸田露伴『佐渡ケ島』、大正の森鴎外『山椒大夫』、昭和の川端康成『雪國』と、名だたる文豪が当地を舞台に名作を残しました。最近では宮尾登美子の『蔵』。蔵元のお嬢様として生まれ、視力を失いながらも酒作りに生きがいを見出し生き抜く烈が、私は大好きです。怖いくらい芯の強い新潟の女性をみごとにとらえています。私が結婚相手を訪ねて初めて来て、寺泊に行く道中で野積みを通ったとき、ああここが烈の愛した杜氏の涼太さんのふるさとかと、感じ入りました。
新潟県で生まれ育った文学者も数多くいます。エンターテインメント時代小説の草分け、『丹下左膳』を書いた林不忘は佐渡生まれ。赤泊の郷土資料館には直筆の原稿が展示されています。上越市出身では童話作家小川未明。好きな作品の『赤いろうそくと人魚』の蝋燭が赤いこと、新潟に来て納得しました。純文学では坂口安吾に続き、新井満、藤沢周ふたりの作家が活躍しています。お二人とも明訓高校出身。地方都市で、芥川賞作家が二人も出た高校は珍しいと思います。芥川賞作家といえば、生まれは東京ですが、戦争中、県立高女に通った大庭みな子がいます。「村上の鮭」「塩引き」「三面川」などの随筆に、新潟らしい味わいがあります。歴史小説では火坂雅志も新潟の武将を描いています。
旅人の創作欲を刺激し、才能ある作家や詩人を育んだ新潟の風土。もっともっと自慢していいんじゃないでしょうか。
これで私の「ふるさと散歩」はおしまいです。一年間、ありがとうございました。
笑顔で、がんばっていきまっショイ!
(2007年3月26日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第51回「真砂女を魅了した雪」
羅や人悲します恋をして
この句で世に知られた俳人・鈴木真砂女の随筆集『銀座に生きる』に、「雪国の旅」という一文があります。1967年の冬、上越を旅したことなどが綴られています。
真砂女は61才。還暦を過ぎてなお、銀座の小料理屋の女将として、また俳人として忙しく日々を送っていたある日、雪に誘われました。真砂女はひとり旅に出て、湯檜曽に宿をとり、列車で越後湯沢へ雪を見に出かけます。駅前で道を聞いた女性と連れになった真砂女は、一緒にお汁粉で温まり、三条から来たその女性の商う柳場包丁を求めました。「これも何かのご縁でしょうから」と鋏をもらい、いったん別れますが、その三条の刃物商の女性は、わざわざ帰りの汽車の時間に駅に来て、真砂女を見送ってくれたそうです。
このときの雪の印象を詠んだ200句から34句は句集『夏帯』に納められました。その中から3句、私の好きな句を紹介します。
降る雪や旅は孤りを佳しとして
旅かなし夢の中にも雪降れり
酌めば茶のすぐにさめたる深雪かな
雪に魅せられた真砂女は翌年も一人で新潟を旅しました。月岡温泉へ3泊したあと、吹雪のなかをタクシーで移動し、瀬波温泉へ足をのばしました。随筆にはこう書かかれています。
「日本海に降る雪も素晴しく、鴎が舞い、海は荒れていた。昏れてなお日本海の波は吠えどおしであった。安房の海鳴りよりはげしいものであった。」
その翌年は秋田横手のかまくらを見て蔵王に登りますが、後の2回の旅で句の収穫はなかったそうです。
結婚、出産、離婚、再婚、人悲します恋。1906年に千葉鴨川の老舗旅館に生まれ、俳句を支えに96年の生を全うした鈴木真砂女。越後の雪は61才の真砂女の心にたまった人生の滓を清め、最晩年の春に向かって生き抜く力を与えたのではないでしょうか。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2007年3月19日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第50回「信濃川 静かに流れよ」
信濃川 静かに流れよ
我が歌のつくるまで
つきせぬ思い 若き日の
銀河にうつる高楼は
見よ 八海の 春高し
うぐいすは鳴く標の山
卯木の花を夢と摘む
あゝこの学園の人々よ
小千谷の自然を詠みこんだこの詩、新潟県立小千谷高校の校歌です。3月5日の卒業式でも、この美しい詩は、調べに乗せて唄われたことでしょう。一篇の詩としても完成されたこの校歌を作ったのは、小千谷高校の卒業生でもある詩人で英文学者の西脇順三郎です。
(覆された宝石)のような朝
何人(なんびと)か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日
私の大好きな西脇の作品「天気」です。わずか3行、まさに言葉の宝石のようなこの詩は、私に、山本山から下りてくる清らかな空気や、厚い冬の雲を突き破って射しこむ、いく筋ものまばゆい光を思い出させます。
西脇は十代の頃は画家をめざし、画壇からも才能を認められ、フランスに留学しようという直前、銀行家の父の死によって夢をあきらめ、慶應大学の理財科、現在の経済学部に進学しました。その後、イギリスのオックスフォード大学に留学し、帰国後は慶應大学で英文学の研究と教育にあたります。理性と豊かな情緒を合わせ持つ類まれな人でした。
西脇は晩年を小千谷で多く過ごしたそうで、小千谷高校のほか小千谷西高校、長岡大手高校などの校歌も作りました。日本的なふるさとを嫌ったともいいますが、愛と憎しみは同じ平面のベクトル違い。西脇にとって小千谷は切っても切れない愛着のあるふるさとであることに間違いありません。校歌の歌詞ひとつひとつは、ふるさとへの強い気持ちがなければ出てこないと私は感じるのです。
私は高校時代の国語の教科書で西脇順三郎の詩と出会いました。今はどうでしょうか。ともあれ、学校を巣立った皆さん、西脇順三郎の校歌を生涯誇りにしてくださいね。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2007年3月12日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第49回「佐渡へ佐渡へと」
「鍋の底から燃えあがつた焔のやうな夕燒の空が佐渡を包んで平穩な海一杯にきらめいて居る。佐渡は余がためには到底忘れられぬ愉快な境であつた。」
歌人・長塚節の「佐渡が島」の一節です。1906年、28才の節は佐渡に40日ほど滞在しました。その旅に取材し書いたのがこの作品で、夏目漱石に認められ「土」を執筆するきっかけになりました。紀行文というよりはわたくし小説であるこの「佐渡が島」で、節は明治39年当時の佐渡の風物や人々の人情をいきいきと描いています。
節は島へ渡る船中で博労--馬や牛の売り買いをする男と知り合います。相川から真野を歩き、小木を経て、大崎のその男を訪ね、男の案内で赤泊へ向かいます。その道中のこと。突然、博労の男が駆け出します。「ああ、能がある!」そう叫びながら。そう、途中の村で能が演じられていたのです。節が能を見たのは初めてでした。「三井寺」や「船弁慶」を演じる役者は、別に生業を持つ市井の人々。膝に抱かれた子どもまで大人しく鑑賞しているのに、節は驚き、こう記しました。
「其役者といふのが桶屋や石屋や宿屋の主人などでありながら相應に品位を保つて見えるのも向鉢卷をとつたことのない博勞の平内さんが能の智識のあるのを見ても此の島の人の心に優しい處のあるのが了解される。博勞が遭うた其日から懇切であるのも宿屋で出掛に必ず草鞋を一足くれるのも小木の宿屋の美人が洗濯をしておいてくれたのも皆此の優しい心の發動でなければならぬ。」
節が感心した佐渡の文化の深さ、人情の篤さは21世紀の現在まで引き継がれています。私も佐渡に渡るたび、もの寂びた風物が乾いた心をしっとりと落ち着かせてくれるように感じます。尾崎紅葉、太宰治、井上靖、多くの小説家が佐渡に旅ごころを誘われ、作品を残しています。--3月10日は佐渡の日。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2007年3月5日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第48回「雪の小説」
雪の匂いのしない冬。冷えると痛い私の腰は助かっていますが冬の季節感がなく味気ないと感じてしまう私です。雪が家を崩し人の命を奪う豪雪地帯の方には申し訳ないですが、雪の苦労を知らないお気楽な小説家にとっては、雪は妄想をかきたてる存在らしいのです。
「国境の長いトンネルを抜けると雪國であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」この川端康成の小説『雪国』の冒頭、私はいつも上越新幹線が群馬県境の三国トンネルを抜けると思い出します。一行目は小説を読んでない人も知っている名文ですが、私は二行目の「夜の底が白くなった」が好きです。新潟に住むようになって、夜、蒲原平野の雪原を見たとき、ああ、夜の底が白いとはこのことかと、はっとしました。
『雪國』は、昭和9年暮から12年まで四年に渡って発表されました。現在の形で連載したのではなく、さまざまな題の連作で、発表した雑誌もばらばらだったとか。何度も敲を重ね、冒頭の文章が生まれたそうです。
ストーリーだけ追うと妻子ある都会の画家が温泉芸者と浮気して別れるというみもふたもない俗悪な話です。それを美しい日本の文学に仕立てた点が川端康成の筆の力。恐ろしいくらいです。婚約者、妊娠疑惑に火事、かつての日活の「赤い」シリーズや韓国ドラマも真っ青のかなりベタな恋愛物語ですが、決して底の浅い話にはなっていません。
小説で駒子は「足指の裏の窪みまできれいであろうと思われ」、「美人というよりもなによりも、清潔」と描写されます。美の探究者である画家の島村が穢(けが)れた人間で、世俗にまみれて生きる芸者の駒子のほうが清らかで聖なる存在。駒子は雪とイメージが重なります。時には激しく荒れ狂う白く清らかな雪と。
ところで赤倉もそうですが湯沢が味も素っ気もないスキーリゾートで終わるのは惜しい、昔ながらの温泉街の情緒と人情を復活して欲しい。温泉と小説の好きな私は切に願います。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2007年2月26日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第47回「映画で世界を旅する」
冬の新潟市の名物といえば食の陣と映画祭。食の陣は身体を元気にするごちそう、映画は心を豊かにするごちそうでしょうか。食の陣に続いて17日からにいがた国際映画が始まりました。私も毎年、楽しみに見ています。
海外旅行もすっかり手軽になり、いつのまにか私も17か国、旅したり、長期滞在したりしました。しかし旅してその国々をカンペキに知ったわけではありません。現地を実際に歩くのは大事ですが、限られた時間で一国の文化を理解するのは無理です。逆にじぶんの狭い経験だけで判断するのは危険かも。
旅したり住んだりする以上に、世界の文化を私たちに教えてくれるのが映画です。物語を楽しみながら、舞台となった国の素顔を知ることができます。ふつうは入れない家の中に入り、暮らしぶりを覗くわけですね。どんなものをどんなふうに料理して食べるのか、洗濯物はどう干すのか。そんな日常生活のささいなことが後で記憶に残っていたりします。
それまで知らなかった問題に気づく作品もあります。置かれている政治状況、また、生活習慣や文化の違いはありますが、人間の喜怒哀楽は普遍的。相通じる点が多く共感します。異なる文化を持っていても、平和に、共に生きていける気がしてきます。
さて、このにいがた国際映画祭、1988年のアジア卓球選手権に合わせて行われたアジア映画祭を出発点に、90年の新潟市国際交流協会の設立とともにスタートしたそうです。全国でも、地方でここまで大規模な国際映画祭を開いている市は新潟だけではないでしょうか。今年も世界の映画が公開されますが、特にタイ、台湾、北朝鮮、ヒマラヤの特集が企画されています。
にいがた国際映画祭は今週の日曜日、25日まで。会場は新潟市民プラザ、クロスパルにいがた、シネウインドの三か所。上映作品、上映時間はチラシや公式ホームページで。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2007年2月19日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第46回「『蟻の兵隊』奥村和一さんのメッセージ」
今年最初に見た映画は、ドキュメンタリー『蟻の兵隊』でした。第二次世界大戦が終わった後も中国に残留させられ、中国の内戦を戦わされた兵士のひとり、旧中条町出身の奥村和一さんを追った記録映画です。
奥村さんが学徒動員されたのは1944年11月15日、中国から復員したのは1954年9月。日本がポツダム宣言を受諾してから九年も後でした。シベリアに捕虜として何年も抑留された方の話は知っていましたが、中国に残らされ、しかも内戦を戦った兵士がいた事実を、私は初めて知りました。
奥村さんと同じように残留した兵士は2600人。そのうち550名の方が命を落としたそうです。日本の戦争は終わっていたのに。
映画で冒頭に出てきますが奥村さんの体には無数の爆弾の破片が埋まっています。中国の内戦で九死に一生を得たときのなごりです。
日本政府は奥村さんらを、現地除隊にした、自らの希望で中国に残って傭兵になったとし、日本軍の命令で残留したとは認めていません。映画『蟻の兵隊』は、まさに兵隊蟻のように、地を這うように資料を探し、現地を訪ね、裁判を闘う奥村さんの姿を追っていました。ご家族に戦争体験を話したことがない、話せないという奥村さんに、ある中国人女性がこう言います。「今のあなたは決して悪い人ではない。戦争で強いられたのです。戦争体験を家族に話してください。」その女性は日本軍に拉致され、40日間強姦された方でした。
奥村さんの体験は、岩波ジュニア新書『私は「蟻の兵隊」だった―中国に残された日本兵―』でさらに詳しく読めます。
昨年12月、新潟市内で行われた講演会で、81才の奥村さんは、立ち見も出るほどいっぱいの聴衆に、熱く語りかけました。「憲法九条は素晴らしい、誰が作ろうと関係ない、いいものはいい。二度と日本を戦争のできる国にしてはいけない」。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2007年2月12日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第45回「堀部安兵衛と伊予松山」
昨日、2月4日は赤穂義士の命日。元禄16年、西暦1703年のこの日、足軽の寺坂吉右衛門をのぞく46名は身柄を預けられていた大名屋敷で切腹しました。江戸時代は陰暦ですから今の暦だと、討ち入りの12月14日、厳密にいうと15日未明は1月31日、切腹は3月20日だそうです。
赤穂義士のなかでも特に人気のあるのが新発田出身の堀部安兵衛武庸でしょう。けんか安、のんべ安。大酒のみで、めっぽう剣の腕が立ち、一本気で義理に厚いとくれば、江戸時代の人でなくともかっこいいと憧れるはず。講談、歌舞伎、映画、小説と、安兵衛は、昔も今もヒーローとして活躍しています。新潟市出身の火坂雅志さんも小説『忠臣蔵心中』でとりあげています。私は、阪東妻三郎の映画「決闘高田の馬場」、池波正太郎の小説『堀部安兵衛』など、見たり読んだりしましたが、どの作品でも安兵衛は魅力的です。
何年前になるでしょうか、討入りの日に新発田で開かれる義士祭で、私は安兵衛の書を見ました。その筆跡はもちろん堂々としたものでしたが、どちらかというと端正で知的。決闘に駆けつけて10人も斬り殺したり、赤穂家家臣の中でも急進派だったりという過激な性格は感じられず、意外な印象を持ちました。
実は堀部安兵衛と私のふるさと愛媛県、伊予とはご縁があります。安兵衛の剣豪ぶりを世間に広めた高田の馬場の決闘で、安兵衛の助太刀した菅野六郎左衛門は伊予西条藩の家臣でした。安兵衛と菅野は江戸の剣術道場で意気投合、伯父と甥の契りを結んだとか。この決闘の評判から赤穂藩士・堀部弥平衛に見こまれて婿に入り、討入りに加わることなるわけです。また、安兵衛がお預かりになったのは伊予松山藩でした。同じ急進派の不破数右衛門や大高源五と共に、安兵衛が33才で最期を遂げた伊予松山藩・江戸屋敷は三田にあり現在はイタリア大使館になっています。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2007年2月5日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第44回「相互理解は摩擦を越えて」
国際交流にもいろいろありますが、最も濃く深いのは同じ家庭で共に暮らすことでしょう。1月14日、新潟県内に昨年4月から滞在している留学生のお別れ会がありました。財団法人エイ・エフ・エス日本協会のプログラムで、新潟の一般家庭で、我が子として無償のお世話を受けながら地元の高校に通った、南北アメリカ、ヨーロッパ、東南アジア、オセアニアなど世界各国の若者たちです。
「国際交流には摩擦がつきもの。家庭を開き、手間ひまかけ、つちかった関係だからこそ築ける絆があります」。留学生を支えるAFS新潟支部代表・長澤恵依子(ながさわ・けいこ)さんの言葉です。上達した日本語でスピーチした留学生はみな、それぞれの受け入れ家庭、高校の同級生や先生への感謝を繰り返しました。まさに長澤さんの言葉通りなのでしょう。
コスタリカのアレハンドロ君は村上市の平山家にホームステイしました。彼が飛びこんだ高校は中高一貫の県立村上中等学校。母国で二年日本語を勉強したとはいえ、レベルの高い授業を一時限から七時限まで受けるのは大きなストレスでした。彼はクラスメートの励まし、担任の先生やAFSのスタッフとの話し合いで乗り切りました。「村上はお城、お茶、工芸、祭、日本の伝統的な文化が残っています。僕はそれを誇りに思います」とアレハンドロ君は爽やかな笑顔で語りました。彼と対照的だったのがオーストラリアのローズィさん。新潟市の大島家に滞在し、新潟商業高校でのびのび女子高生ライフを満喫したようです。それもまた貴重な日本体験です。
私の印象に残ったのはAFS新潟代表・小池泰子(こいけ・やすこ)さんの「留学生は摩擦を経て我慢と寛容を学び、異文化を理解し受け入れ、多様な価値観の存在する社会での生き方を学んだようです」という言葉です。摩擦がこじれて相互理解どころか自殺や殺人に発展してしまう今の日本人にとっても、大事なことですね。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2007年1月29日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第43回「受験の神様をめぐる物語」
大学のセンター入試が終わり、受験シーズンまっただなか。受験生とご家族にとっては緊張の続く時期ですね。ご検討を祈ります。
受験の神様といえば天神様、菅原道真公。平安時代、何代も続いた学者の家に生まれ、5才で和歌、10才で漢詩を読んだ神童でした。30才そこそこで文章博士という学者で最高の地位に上り、宇多天皇にかわいがられ、55才で右大臣まで出世しますが、ライバル藤原時平の企みで失脚、大宰府に流され、生涯を終えました。
道真公を天神様としてまつるようになったのは、その死後に都で天変地異が続き、それを道真公の恨みによる祟りだと恐れ、鎮めるためだという俗説があるそうです。時平が39才で亡くなったせいもあるのでしょうか。ともあれ、京の梅が飛んで太宰府の庭に生え匂った飛梅といい、道真公に超人的な力があるという話がたくさん残っているようです。
鈴木牧之の『北越雪譜』にも、小千谷のある村になぜか時平と妻の塚があり、そのせいで道真公が祟り、この村に住むと文字の読み書きを忘れるという伝説が紹介されています。
道真公にまつわる物語としてよく知られているのが文楽『菅原伝授手習鑑』。有名な「寺入り」「寺子屋」の段の公演は、私が愛媛県の内子座で初めてみた文楽の演目のひとつでした。文楽を学ぶといっそう楽しいですが、初めてでも大泣きしました。道真公の息子の命を救うため、我が子の命をさしだす松王丸と妻の苦悩。その親の心をくみ大人しく死んでいく小太郎のけなげさ。親の勝手で子の命を犠牲にするなど、時代がどうあれ、現実にはとんでもない話ですが、よくできた脚本で泣かされてしまいます。
新潟市民芸術文化会館の文楽公演は3月21日、夜の部の出し物は近松門左衛門の名作「曽根崎心中」です。チケットの前売りは今週水曜日、1月24日から始まります。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2007年1月22日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第42回「ジャズで熱い新潟の冬」
冬の寒さを吹き飛ばす、新潟市のホットなイベントといえばジャズストリート。今年は1月20日、今週の土曜日です。21会場で54組200名を越えるミュージシャンが演奏します。1,000円のチケットで会場すべて昼も夜も出入り自由。ジャズ専門のライブハウスだけでなく、公共施設や画廊なども開場になっています。こんな町ぐるみの音楽イベント、全国でも珍しいですよね。
実行委員会のホームページによると、新潟ジャズストリートは4年前の1月から夏冬2回行われてきました。港町のせいか新潟は戦後からジャズの演奏が盛んだったそうで、地元ミュージシャンは実力派ぞろい。そこで、さらに音楽溢れる楽しい町にしようと、この洒落たイベントが始まったとか。
私も何度か公演を聞いたことがありますが、スイングしてすごく心地よい演奏でした。
新潟県内で活躍するミュージシャンのほかに、今回は渋谷毅さんがやってきます。
渋谷毅さんは1939年東京生まれ。活動歴は長く、浅川マキさんらヴーカリストから信頼され、共演してきたピアニスト。もともとはクラシック畑、東京芸大作曲科で学んだそうで、作曲家としても幅広く活躍しています。今井正監督の『あにいもうと』などの映画音楽、歌謡曲では由紀さおりさんの『生きがい』『初恋の丘』、子どもの歌『ボクのミツクスジュース』『くじらの時計』『チョンマゲマーチ』なども渋谷さんの曲です。私の甥っ子も小さい頃、車の中などでよく口ずさんでいました。ジャズでは2001年年秋に発表した森山威男とのデュオ作品『シーソー』でジャズ・ディスク大賞日本ジャズ賞と芸術祭優秀賞を受賞。今回はギター潮先郁男さん、ボーカルさがゆきさんとのトリオです。この公演だけ別途1,000円必要です。会場は新潟国際情報大学1階カフェテリア、演奏時間は午後3時から5時まで。開場は2時半です。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2007年1月15日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第41回「わたしの成人式」
新成人の皆さん、おめでとうございます。ご家族、とりわけご両親にとっては子育ての卒業式。ほっとなさっていることでしょう。
私は新成人の親の世代。成人式は一九八一年です。無気力、無関心、なにごとにも熱くならないシラケ世代と呼ばれました。
そのころ私は東京にいて、専門学校に通っていました。ふるさと松山でも、住んでいた中野区でも、成人式には出席しませんでした。
おしきせの式に反発するシラケた気持ちもありましたが、出なかった最大の理由は晴れ着がなかったから。私の親は仕送りだけで精一杯、娘に振袖を買う余裕などありませんでした。私にはバイトで稼いだお金もありましたが、専門学校のほかにもコピーライター養成所に通いたくて、その学費に当てました。
成人式の日、私は朝からブティックでアルバイト。冬物のバーゲンで、ビルの前のふきさらしの会場に立ち、ワゴンに山積みされたセーターを鼻水をすすりながら売った記憶があります。まったくトホホな一日でした。何のけじめもなく成人したせいではないでしょうけど今も大人になりきれてない私です。
調べてみると、成年とは、本人だけで法律行為が行える年齢だそうで、日本の民法では満二十歳と定められていますが、国によって違います。日本でも結婚すれば成年者とみなされますが、飲酒や喫煙、選挙は二十歳までダメ。また、天皇、皇太子、皇太孫は、十八歳で成年と皇室典範で決まっているそうです。
精神的な成人は個人の経験や自覚で違います。成人式会場で暴れる若者を見ると、幼稚だと思いますが、意思表示するだけ、シラケ世代の親より見どころがあるかも。私もそうでしたが、仕事や恋愛でつまずき、転び、傷ついて、頼れる人間は存在しない、じぶんで何とかするしかないと身にしみたとき、人は大人になるのでしょう。いずれにしても時間がかかります。長い目で見てあげたいです。
新成人、がんばっていきまっショイ!
(2007年1月8日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第40回「死んだつもりで生きる」
明けましておめでとうございます。みなさまどんな新年を迎えてらっしゃいますか。
東京の歌舞伎座では2日から寿初春大歌舞伎が行われています。幸四郎、吉右衛門、勘三郎、玉三郎、その他も豪華な顔ぶれのお正月らしい舞台です。その夜の部で「廓三番叟」の傾城千歳太夫を踊るのが、人間国宝で85歳の立女形・四世中村雀右衛門さん。12月の「勢獅子」芸者に続く出演です。
舞台で拝見する雀右衛門さんは小柄なのに大きく見え、どんな役の女性でも、愛らしさやいじらしさ、内に秘めた思いがしぐさやたたずまいににじみ、胸がじんとします。
昨年私は『私事』という雀右衛門さんの自伝と出会いました。大谷友右衛門の息子として生まれ、子役から順風満帆の役者人生かと思いきや、波乱万丈、苦労の連続だった半生が語られていました。当時珍しい自動車の運転免許を持っていたため、乙種合格だったのに徴兵されスマトラ島へ行かされます。生きるか死ぬかの6年のあと復員すると、父は鳥取公演の地震で建物の下敷きになって亡くなっていました。周囲の進めで女形になったのは27歳。一から修行のしなおしです。5年間映画界で活躍、戻る場所がなく関西歌舞伎へ。思うように芸ができない。追い詰められた雀右衛門さんは地方公演の宿泊先のホテルの窓から飛び降りようとしました。ところが昨日は開いた窓が開かずはっと我に返りました。死んだつもりでやってみよう。頑張るというものを超え、この先どこまで行けるのかわからないけど、やれるだけのことはやってみよう。雀右衛門さんは決心したそうです。
自分の拙さに我慢し、泣きながら、わめきながらも自分に辛抱してみる。雀右衛門さんの言葉はどの世界で生きる者にも説得力があります。人間国宝となった今も、自らの芸に満足せず、さらに高みをめざし修行を続ける雀右衛門さんの姿は本当に美しいと思います。
新年も、がんばっていきまっショイ!
(2007年1月1日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第39回「なんちゃってクリスマス」
今日はイエス・キリストの生まれた日。前回イスラエル旅行の思い出を少しだけ紹介しましたが、イエス生誕の地ベツレヘムはアラブ人のパレスチナ自治区で、生誕教会となっている生まれた場所は岩でできています。
いまやクリスマスは日本人の年中行事として定着しています。でも、皆さん、アメリカでも三角帽子を被ってクラッカーを鳴らし、フライドチキンか鳥の足の照り焼き、サンタの飾りの乗った丸いケーキを食べ、どんちゃん騒ぎすると思いますか?あるいは恋人とふたりきりのディナーとやらをするのでしょうか?私が知っている限りでは答えはノーです。
私はまったく日本的な「なんちゃってクリスマス」だと思います。この光景を欧米の人に見せたら、きっと大笑いすると思います。
多種多様な人種・宗教の人がいるアメリカは感謝祭が終わった頃からこの時期をホリデー・シーズンと呼んでいました。CMもメリー・クリスマスよりハッピー・ホリデーズでした。ユダヤ教徒はハヌカ、イスラム教徒は年末から新年に犠牲祭を祝うからです。
感謝祭といえばアメリカは七面鳥の丸焼き。クリスマスは決まってないようですが、少なくともフライドチキンやデコレーションケーキは定番ではなさそうです。恋人どうしというより、お正月のように遠くから家族が集まり過ごす人が多いようです。
NY滞在中、信仰心のない私も、ハーレムにある百年前から建設が続いているゴシック様式の巨大な教会、セント・ジョン・ディバイン大聖堂のミサに行きました。深夜にも関らず教会は人でいっぱい。でも私語はなく、ミサがおごそかにとり行われていました。
隣人を愛せよととくイエスの教えには私も共感します。しかしクリスチャンであっても戦争もすれば殺人もおかします。まったく矛盾だらけの世の中ですが、来年はよい年になりますように。どちらさまも、よいお年を。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年12月25日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第38回「自殺と自爆」
もう十年近く前、十二月にイスラエルからエジプトを旅したことがあります。ベツレヘムのイエス・キリストが生まれた馬小屋は実は木造の小屋ではなく岩の洞窟で、そこはパレスチナ自治区でした。町の入り口にはゲートがありマシンガンを抱えた兵士が立っていました。観光地ですので兵士の表情は穏やかでしたが、私は彼の瞳の奥に底知れぬ闇を感じました。その後、ますますイスラエルとパレスチナの関係は悪化し、自爆テロが増えていきました。人は未来に希望を失ったとき、命を捨ててもいいと判断するのでしょうか。
最近私はいじめが原因とされる自殺も自爆と共通する気持ちがあるのではないかと感じています。いじめは人権侵害であり犯罪。相手の人格を否定し、誇りをずたずたにします。その状況を耐えている人は抑うつ状態になり、じぶんがまるで価値のない人間に思えてきます。いじめている相手の親はもちろん、先生でさえ状況を変えてくれない。追い詰められ、世の中に絶望し、いじめを行う相手や社会へのメッセージとして命を捨てる。復讐を越えたあまりにもむごい決断です。
いじめは、いじめられる人に問題はなく、いじめる側と彼らをとりまく大人に問題があると私は思います。誰かに評価されたい、でもできない大人が、かなわぬ夢を子どもに託し、いい大学へ入れ、勉強しろといい、スポーツや芸能でスターになれと習い事をさせます。子どもの可能性を引き出すという建前の子育てという自己実現。大人の勝手な期待が子どもに大きなストレスを与え、そのはけ口として他人を陰湿な方法でいじめる。なぜいじめをするのか心の闇と徹底的に向き合い、親との関係、家族の問題から見直す。そのために手助けとなるのは書くことです。日記でも手紙でもいい、じぶんの気持ちを文字にして客観的に見つめる。そうやって本当に不満なことは何なのか見つけて欲しいと願います。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年12月18日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第37回「ノー・モア・ヒーローズ」
戦争はムダのかたまり。資源のムダ、時間のムダ、そしてなんといっても命のムダです。
ムダなのになぜ戦争するのかというと、おそらくそれは、戦争しても命は無事、むしろ商売がうまくいき金が儲かる人が存在するからではないでしょうか。戦費を税金で負担する市民、命がけで戦う兵士、爆撃される市民、どう転んでも犠牲になるのは私たち市民です市民に戦争は必要だと思い込ませるために、あの手この手のさまざまな宣伝がなされます。
クリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」で描かれた三人のヒーローは壮絶な戦地・硫黄島の擂鉢山で星条旗をあげた兵士の生き残り。衛生兵、伝令係、ネイティブ・アメリカンの歩兵の三人は、国債を国民に買わせて戦費をつくる政策に利用され、全米を回り、国民的英雄として演出されます。
私はこの映画が米軍のイラク攻撃に重なりました。あのとき私はNYにいて、せっぱ詰まった気持ちでした。日本の知人に、意味のないイラク攻撃に反対しようとメールしても反応は冷たく、報道も攻撃やむなしの論調でブッシュ政権は戦争へ突っ走りました。その結果、赤ん坊から老人までのイラク市民、従軍した多くの若者が殺されました。米軍に志願した兵の大半は貧しい移民です。市民権欲しさで入隊した日本人女性もいました。
12月8日はアメリカの領土、ハワイの真珠湾を日本軍が攻撃した日。310万人もの日本人を死なせた太平洋戦争という大いなるムダが始まった日です。亡くなった方の命をムダにしないために私たちができること、それは、安易なナショナリズムに酔うのではなく、国に戦争をさせないこと、私たち自身が戦争で金儲けしないことです。イーストウッド監督が硫黄島の戦いを日本側から描いた映画「硫黄島からの手紙」や、原作となった硫黄島のノンフィクションを読むことで、私たちは戦争の虚しさを追体験できるでしょう。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年12月11日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第36回「文楽を学ぶ、文楽に学ぶ」
人類が地球に登場してからいままで、古くは神話からテレビゲームまで、形を変えながらもさまざまな物語が考えられ、語られてきました。物語は生きる知恵の宝箱。計算で割り切れない問題をどうやりすごすか、乗り越えるか。物語を読み、味わうことは、生きる力を鍛えてくれます。
落語や講談もそうですが、能、狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃など、日本の伝統芸能は、日本の風土にねざした人間のいきざまの結晶です。昔は満足に学校にも通えない人も多かったでしょうが、芝居の物語を楽しむなかで、知らず知らず、生きる上で大事なことを学んでいたんじゃないでしょうか。
なかでも近松門左衛門の戯曲は、実際に起こった事件を題材にしているせいか、見栄っ張りで愚かな人間の本質が描かれています。まげに着物の江戸時代の社会もすでに近代化し、人の悩みは現代に通じるものがあります。
九年前、私はふるさと愛媛県にある大正時代の芝居小屋・内子座で、初めて本格的な文楽公演を観ました。古文の苦手な私も、偶然隣りあわせた中学生の女の子も、太夫の語る物語に引きこまれ、一緒に笑ったり泣いたりしたのを覚えています。
新潟市に住み、私はますます文楽が好きになりました。きっかけはりゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館の文楽地方公演とミニ講座でした。新潟市在住の演劇研究家・田巻明恒さんが文楽のいろはからわかりやすく教えてくれます。浄瑠璃の脚本にあたる床本を読み、物語の時代背景について知っておくと、公演が二倍三倍に楽しめます。
来年三月の文楽公演に合わせ、12月17日日曜日の午後1時半から文楽ミニ講座が開かれます。第一回目は文楽入門。受講料は無料です。往復はがきで12月7七日までに申し込めば受講できます。くわしいお問合せはりゅーとぴあ事業課・電話025-224-7000まで。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年12月4日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第35回「美しい冬のかたち」
新潟は冬に染まり、空も海も濃く深い陰影で彩られていきます。四国生まれの私ですが、この新潟の冬が、四季のなかでいちばん心の落ち着く季節になりました。いまの時期の新潟の自然は私に、ヨーロッパ、とりわけドイツを思いおこさせます。
三年前の夏、ひと月と少しかけて、ヨーロッパを回りました。いちばん長く滞在したのはドイツでした。デュースバーグからデュッセルドルフへ向かう電車の窓から、深い深い森が見えました。弥彦神社の万葉の道の森が何倍にも広がった感じでした。背の高い木々の幹は深みをおびた茶色で、黒い森とはこのことかと思いました。ハイデルベルグを流れるライン川、ミュンヘンからベルリンへ向かう途中の畑の土の色、それらはすべて神秘的な闇へ続く濃さを秘めていました。
ドイツ人のアーティスト、スサンネ・イブラさんの作品に出会った瞬間、ドイツの空と大地、川や木々、そのなかを渡る風の記憶がよみがえりました。
スサンネさんは1963年旧西ドイツ生まれの女性です。彫刻家ウルスラデルクから陶芸を学び、1990年から活動を始めました。二メートルもの陶芸作品を、イタリアの国際的陶芸美術館ファエンツァ市美術館やドイツ各地で発表してきました。
スサンネさんの手から生まれた作品は、単に形が似ているのではなく、器の景色に森があり、川があり、詩が聞こえます。また、どの作品も緊張感のある完璧なフォルムです。スサンネさんはこれしかないという美のラインをつかみ再現できる直観を持った作家です。
このスサンネ・イブラさんの陶オブジェの作品展が、新潟市内野山手の画廊ろば屋で、12月3日日曜日まで開かれています。慌しい年の瀬、スサンネさんの世界にひたると、心がすうっと静まり、見慣れた日常の風景も違って見えることでしょう。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年11月27日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第34回「誰もが生きやすい世の中のために」
あなたは今どんなことで悩んでいますか。仕事、恋愛、家族との関係、悩みは百人百様、全く同じ問題はないでしょうが、実はそのほとんどに、女はこうすべき、男はこうあるべきという思いこみがからんでないでしょうか。
現在、確かに表向きは女性の社会進出が進んでいます。しかし役職についている女性の率はどうでしょう。ここ新潟で、私はある企業の会議に初めて呼ばれたときのショックが忘れられません。対面して席に座っている相手がすべて男性だったからです。この女性の働き手は多いのに、意思決定の場は男性だけという現象、新潟の農村部では当たり前のようです。結婚して他県から新潟の農村に来た女性の話によると、地域の会合に他県は女性も出席していたのに、新潟は男性だけだとか。その一方で、新潟県は男性、特に農村部の中高年の自殺率が高くなっています。ということは、男性の背負っている経済的、精神的な負担も大きいのではないかと私は思います。
男女間の暴力、子どもの虐待、嫁姑のいさかい、介護。どの問題も、つきつめていくと、女だから男だからというこり固まった考えが、悩みをいっそう深くしています。怖いのは意識より無意識。言葉にならない思いのほうが強く、じぶんも周りの人も圧迫するんですね。
11月23日から12月2日は、にいがた男女共同参画ウィーク。新潟市の男女共同参画センター・アルザ主催のアルザフォーラムと、新潟県女性財団主催の「にいがた女と男フェスティバル2006」とが連携し、30をこえる催しが開かれます。男女間暴力の講演会、妊娠出産について話し合う座談会、派遣社員やパート社員問題の講演会、自治会の男女共同参画を考える会、親子料理教室や手作り教室、シネ・ウインドでは新潟女性映画祭も開かれます。入り口はどこでもいい、じぶんを縛っている見えない網から抜け出すきっかけが、たくさん用意されています。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年11月20日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第33回「男にとって本当にラクな生き方を探そう」
定年退職を楽しみにしている夫85%、夫の定年退職を憂鬱に思う妻39%。これは2004年8月の博報堂エルダービジネスによる意識調査の結果です。2005年の明治安田生活福祉研究所の調査では、家族との生活に望むことは何かという質問に、年齢が六十才に近くなるにつれ、男性は家族団らんや一緒に食事をしたいという答えが多くなり、女性はスポーツ・レジャーを楽しみ、お互いに干渉しないという答えが多くなっています。
長年連れ添った夫婦でも、こんなに意識に温度差がでてくるんですね。家族のために嫌なことも我慢して働いてきた夫が、定年後は家でのんびり過ごしたいと望む気持ち、わからないでもないですが、妻からすると、家事一切できないしやる気もない夫は迷惑なお客さん。それまで行いの悪い夫なら、熟年離婚し主婦業も定年という妻も出てくるでしょう。
小説やドラマでも、その人その人の生き方のツケは最後の最後に回ってくるんですよね。
今さらどうしろっていうんだ!と叫びたい男性の皆さん、まだ遅くはありません。まずは、中村彰さんの講演会「わが人生に悔いなし!?〜定年後 男の生き方〜」を聞いて目からウロコを落としましょう。11月23日15半から17半まで、新潟市の万代市民会館6階多目的ホールです。中村彰さんは1947年大阪府生まれ、九年前に京都新聞社を退社したジャーナリストです。仕事、家庭、地域、趣味、すべてに根をはり、大学の非常勤講師、公民館館長など、定年後も幅広く活動しています。中村さんは男である自分と向かいあい、男のメンツへのこだわりを捨て、生きやすさを求め、男性学や文化人類学などを幅広く学びました。多様な個性を認めあい、男のもろさを克服し、しなやかに生きるノウハウを探っている中村彰さん。そのお話から、すべての世代の男性が、じぶんを追いつめず、楽に、楽しく生きるヒントをもらえることでしょう。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年11月13日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第32回「斎藤美奈子直伝・必殺アイウエオ攻撃」
女のくせに生意気だ。男のくせに頼りない。
21世紀になっても相変わらず、女はこう、男はこうという決めつけが、あるときは大っぴらに、あるときは小声で語られます。
「女なんだからお酌くらいしたら?」「男のくせにふらふら遊んでないで働け!」こんなことを言われたら、あなたはどう処理しますか?シカトもひとつの手ではありますが…。
毎年この時期、新潟市男女共同参画センター・アルザで年に一度のお祭、フォーラムが開かれます。昨年の基調講演は新潟市出身の文芸評論家、斎藤美奈子さんでした。私たち聴衆は斎藤さんから必殺技を教わりました。
それは、アイウエオ攻撃。「ア」あきれる。「エエッ、マジらけ?」と大げさに呆れる。「イ」いかる。「なにそれ」と黙って怒りを表す。「ウ」うなる。「ふぅ〜ん、そう思ってるんだ」」というぐあい。「エ」えっ!「エッ今なんて言ったの、もう一回言って」と冷たく聞き返す。「オ」オウム返し。たとえば「女なんだから綺麗にしておけ」と言われたらすぐさま「女なんだから綺麗にしておく?」と返し、じ〜っと相手を見る。
この美奈子流アイウエオ攻撃のポイントはぐずぐず理屈をいわないこと。少なくとも相手は動揺し、何か間違ったことを言ったかと考える。相手の発言に反論すると反発される恐れがありますが、この方法なら発言者がその先を考えるきっかけになるというわけです。
ジェンダーフリーは危険な思想ではなく、男も女もゲイの人も、こうあるべきという縛りから解き放たれて楽になるための物の見方。女性はもちろん、重い責任を背負わされて生きづらい男性こそありがたい考え方なのに、なぜ毛嫌いするのか私は不思議でなりません。
今年の基調講演は11月23日遥洋子さん。どんな話が聞けるか楽しみですね。申込みは往復葉書に必要事項を記入し新潟市東万代町九の一アルザまで。11月9日必着です。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年11月6日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第31回「ノイズムのトリプル・ビジョン」
新潟市所属のダンス・カンパニー、ノイズムの公開リハーサルを見てきました。
11月10日、11日、12日と新潟市民芸術文化会館で行われる今回の公演、タイトルは「トリプル・ビジョン」。トリプルは三つ、ビジョンは心に描いた像。ノイズム芸術監督の金森穣さんのほか、外部から招いた二組の振付家、三つの作品で構成されます。参加するのはイスラエルから稲尾芳文さんとクリスティン・ヒョット稲尾さん、スウェーデンから大植真太郎さん。二人の男性は金森穣さんと同世代の日本人。日本でバレエに親しみ、ヨーロッパに留学し活動してきた三人は、どんなビジョンを見せてくれるのでしょう。
大植真太郎さんの希望で実現した公開リハーサルの日、スタジオBの前のホワイト・ボードは、振付けのメモでしょうか、文字でびっしり埋まっていました。扉が開き、許されて中に入ってみると、金森穣さんはじめノイズムのメンバーがいて動きを確認しあっていました。ノイズムを熱く静かに応援するサポーターズクラブも見守る中、ダンスが始まりました。布でできた大きな人形、つまりモノを、血の通った生き物・ダンサーがいじっていると、人形は生きているように見えてきます。重さのある物、重さのない言葉、それらの実体とは何かについて私は考えました。印象に残ったのはダンサーとしての金森穣さん。金森さんのダンスは名人の鍛えた日本刀に似ています。キレがあって美しく、ワザを越えた気品を感じさせます。他のダンサーも前回以上に動きが洗練され、しかも力強くなりました。来年、ニューヨークやシカゴなどアメリカやチリ、ブラジルでの海外公演も決まり、メンバー全員、熱くなっているようです。
東京、岩手、滋賀も回る「トリプル・ビジョン」、いち早く見られるのは、新潟市民の特権ですね。ノイズムの公演チケットはプレイガイド、りゅーとぴあなどで発売中です。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年10月30日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第30回「あの日から二年」
2004年10月23日午後5時56分。穏やかな秋の夕暮れ、なにげない、けれどかけがえのない多くの暮らしが狂わされました。
中越地震から丸2年。この地震の関連で命を失った方は67人に達しました。12万棟を越える住宅が壊れ、10万人以上の方が避難生活を強いられ、この9月末も1672世帯、5315人の方が仮設住宅で暮らしています。不気味な余震はおさまったものの、被災した皆さんの人生の余震は続いています。
今あらためて新潟日報社発行の本『復興へ「中越地震」』を読むと、被災した方の数だけ被災状況があり、必要な支援も異なることが伝わってきます。このシリーズを引き継ぎ、復興がどこまで進んだか進んでいないのか検証した「復興公論」からは、復興にも個人や地域の経済格差が出ているように感じました。
この特集で、6月30日、小千谷市塩谷の中学三年生、星野英恵さんの言葉が掲載されました。英恵さんは、当時11才だった弟の有希くんを、中越地震で失いました。
新潟日報に掲載された英恵さんの言葉です。「私にとっての復興は新しい家が建っても、高校に合格しても、就職しても成し遂げられないかもしれない。有希が帰ってくることはないし。でも、これからは限られた時間の中で後悔しないように生きていくという大切なことを知った。人間はいつ死ぬかわからない。だから私は何にでも精一杯生きていきたい。」
苛酷な経験を通して英恵さんが到達した、どんなに辛くても懸命に生きぬくという心境。私はそこに、倒れた木から芽吹く若い芽のような、しなやかな命の力を感じます。
英恵さんはこうも言っています。「国や県や市の偉い人には、もっと現地の人の声を聞きに被災地にはいってきてほしい。そして、その場所場所に合った支援をしてほしい。」
英恵さんの声が届きますように。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年10月23日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第29回「安吾ふたたび」
10月20日は坂口安吾の誕生日。生年は1906年ですから生きていれば今年百歳です。
坂口安吾の文章を読んでみると、今さらながらその新しさに驚きます。私の感じる安吾の新しさは、ボーダレス。私も文学に純も不純もあるかと常々思っていますが、安吾の小説は、純文学、推理小説、時代小説などといった表面的な区分けはできないと思います。安吾は形式や題材が大衆的であることを恐れませんでした。作品はおもしろさだけを追い求めたものはなく、読む側に人生の真実を悟らせる深みがあります。ポール・オースターなど現代の作家がやっている試みを、安吾は一通りやってしまったんじゃないでしょうか。
現代の作家を先どりするといえば、安吾は小説以外の随筆や評論も多く、世相や戦後のイデオロギー、宗教などを厳しく批判しています。安吾がいかにうさんくさいものを見抜く眼力を持っていたかわかります。物書きには浅はかな人が多く、政治にしろ犯罪にしろ、いいかげんなことを書き散らかすので、眉にツバをつけてよほど慎重に読まないといけないと私は思うのですが、安吾は近現代の社会の本質をとらえています。だから今読んでも「そうだよな」と思わせる普遍性があります。
また、安吾の文体も革新的です。現在、日本語で物を書く人で安吾の影響を受けてない人はいないでしょう。安吾作品を読んでない作者でも雑誌などの書き手が安吾を読んでますから間接的に安吾の文体に感染しています。
新潟人の安吾への視線は冷静で、亡くなった後も慕う人が多い田中角栄元首相に比べると、私にはおもしろい現象に受けとれます。そんなこんなで地味に盛りあがっている坂口安吾生誕百年祭ですが、私は安吾作品を味わって読み、安吾をじぶんの血肉にして共に生きるきっかけにしたいと思います。賞に名前を冠され権威づけに使われて、安吾はどう思うだろうと考えるのも楽しいですね。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年10月16日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第28回「部活動の贈りもの」
高校時代のほぼ三年間、私は漕艇部、ボート部に入っていました。というと、体力もりもりのスポーツ少女と思われるかもしれませんが、まったく逆。小、中学生の私は、肥満ぎみな上に身体が固く、マット運動や跳び箱、鉄棒の授業は最後までできない組。いつも半泣きでした。そんなこんなで、昼休みですら運動場に出ず、図書館で本を読んでいるような子どもだったのですが…。
高校生になって突然そんなじぶんが嫌になり、運動部に入ろうと思い立ちました。遊びのイメージでこれならできるとバドミントン部に入ってみたら、これがなんとも苛酷な競技。入部一か月、基礎体力を鍛える陸上トレーニングだけで脱落しました。ますます自信を失っていた私に声をかけたのが女子ボート部のたったひとりの新人でした。かつて国体での優勝経験もある女子ボート部は何年も廃部状態が続いていました。それを一代上の先輩が復活させたものの、私の学年はその子ひとり。またもや廃部の危機が迫っていたのです。当時はナックル・フォアが主流で五人揃わないと試合に出られません。新人戦まででいいから!と拝まれて入部し、終了後も断りきれず続けただけの私。コックス兼補欠だったのに、貧血になるわ、ぎっくり腰になるわ。運動選手としても私は劣等性でした。そんな私が当時の思い出を元に小説を書いて賞をもらうなんて、誰が想像したでしょう。
ボートが私に与えてくれたものはたくさんあります。なんといっても一生の思い出が山ほど。嫌なことを最後までする大切さにも気付きました。今はあえて逃げることもありますが。腰の故障という持病ももらいましたが、基礎体力は多少あるようです。
振り返ると奇跡のような偶然の結果ですが、私のような並以下の運動神経の持ち主にも部活の経験が与えられたことに感謝しています。今の子どもさんもそうであればと願います。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年10月9日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第27回「稲刈りは文化だ!」
新潟市からよーいドンで電車に乗ると、東京と十日町市松之山、どちらに先に到着するでしょう。朝9時代の新幹線なら東京に先に着いてしまいます。私の故郷、愛媛県松山市にもいえることですが、今の世の中、県内移動のほうが時間がかかるようにできています。
人の心も中央集権。日本全体では東京、新潟県内では新潟市、大きな都市を中心に、政治も経済も文化も構築されています。地方にこそ素晴らしい生活文化が残っているのに東京的な文化しか興味を持たないのはもったいない。広く多様な新潟だからこそ、十代、二十代の若い人に、この県の地方文化に目を向けてもらいたいと私は思います。
新潟県内の平野部では稲刈りを終えた地域も多いですが、十日町市松之山、新田集落の幸治郎さんの棚田では、10月7日、8日、越後棚田フットワーク、棚田ネットワークなどのグループが協力して稲刈りを行います。
私は数年前から時間と腰痛の許す範囲で、農作業のお手伝いをさせてもらってきました。傾斜のきつい谷に40枚以上の棚田のあるこの田は、機械が入らないため、手刈りが中心です。鎌の持ち方、稲の刈り方、刈った稲穂の結び方、はざ木の組み方、その地域の気候に合わせた独特の知恵があります。特に稲の結び方は、干したあと、水分が抜けて細くなっても、きゅっと締めることができ、脱穀する前は一瞬で解けるよう工夫されています。
農作業はその土地の文化の結晶なんですね。
県内あちこちで稲刈り体験イベントが行われていますが、新潟生まれの方こそ、ぜひ体験なさってください。農作業経験のある方なら即戦力として活躍できますし、平らな田んぼを知っていれば、棚田の耕作がいかに大変か、深く理解できると思います。新潟県内の地域間格差も見えてきます。新田の稲刈りボランティアは、農業体験民宿グリーンハウス里美、電話025(596)3492まで。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年10月2日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第26回「ポーランド写真の100年展」
新潟市立美術館で開催中の「ポーランド写真の百年」展、皆さんはご覧になりましたか?私は9月2日に行ってきました。見ごたえのある素晴らしい内容でした。この展覧会、日本で初めての試みとして、ポーランド国立ウッチ美術館収蔵の、なんと200点にも及ぶ写真とビデオ作品が展示されています。
たっぷり100年分、写真の歴史をたどってみると、カメラが発明されて間もない黎明期から現代まで、ポーランドで、ありとあらゆる試みがなされていたことがわかります。あるときは絵画よりも絵画的、またあるときにはドキュメンタリー的に力強く被写体をとらえています。また、現代のファッション写真も及ばないような、斬新な画像もたくさんあり、今見ても、ものすごく新鮮に感じました。
ポーランドといえば、ショパン、アウシュビッツ、アンジェイ・ワイダ、ワレサ議長。ポーランドの写真の歴史はヨーロッパの激動の百年史でもあるのですね。周辺大国による分割統治、ドイツ軍による侵攻、二度の世界大戦で国は荒れはて、戦後は旧ソ連の影響下で社会主義国となり、一九八九年に民主化。写真からリアルな時代の空気が伝わります。
展覧会は10月22日まで。毎週日曜日午後2時から学芸員の方が解説する作品鑑賞会があります。10月1日にはウッチ美術館写真部門前主任学芸員クシシュトフ・ユレツキさんを迎え「ポーランド写真史の新しい展望」と題したギャラリー・トーク、10月7日土曜日午後1時半からアンジェイ・ワイダ監督の映画『悪童』と『約束の土地』の上映会と、おもしろそうなイベントが予定されています。
実はこの展覧会、先に東京の渋谷区松濤美術館で公開されたのですが、新潟市美術館で企画したものだそうです。新潟市立美術館の学芸員、木村一貫(ひとやす)さんは、海外青年協力隊としてウッチ美術館で働いていたそうで、その縁あってのことではないでしょうか。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年9月25日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第25回「95才のアリスが教えてくれたこと」
3年前になりますが、ニューヨークに1年いた間、さまざまな出会いがありました。そんな忘れえぬ人のひとりが、アリスさん。イタリア系の女性で、当時、95才でした。
私はアリスさんと「ビジッティング・ネイバーズ」というボランティアを通して知り合いました。直訳すると「ご近所さん訪問」。おもに高齢者の話し相手や身の回りの世話を手伝うボランティアです。
私に回ってきた仕事は、アリスさんの外出の補助でした。アリスさんの楽しみは、毎週1回、シニア・ラウンジという老人クラブのような場所で、コントラクト・ブリッジをすること。その帰り、タクシーを拾って一緒に乗車し、チェルシーのマンションにアリスさんを送り届けるのが私の役目でした。
アリスさんはチャーミングという言葉がぴったりの女性でした。黒のパンツにグレーのタートルネックのセーターを合わせ、真っ赤なジャケットを羽織ったり、とてもお洒落に気を配っていました。タクシーの車中、アリスさんと私は、政治問題から映画まで、いろいろなことを話しました。気丈なアリスさんは、運転手がわざと遠回りでもしようものなら猛然と抗議し、途中で車を降りたこともありました。感謝祭の連休前、大渋滞でタクシーがつかまらなかったら、バスで帰ると言って私より先に歩き出したこともありました。
アリスさんは、子どもに恵まれず、夫と死に別れてからずっとひとり暮らしを続けてきたようでした。高齢になり、癌を患ってからは、若い友人が支えていました。そしてそれは、私が帰国して半年後、アリスさんが96才で亡くなるまで続きました。
NYにしろ新潟にしろ、うんと長生きして、アリスさんのように、ひとりの人として尊重され、気がねや遠慮なく、毅然として、暮らしを楽しめるのが理想ですね。アリスさんは今も私に多くのことを教えてくれます。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年9月18日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第24回 「細川文未昌さんのコノハナノサクヨル」
明日12日から20日まで、細川文未昌さんの個展、「コノハナノサクヨル」が、新潟市並木町の新潟絵屋で開かれます。
細川文未昌さんは新潟市出身。現在は東京を拠点に、写真家、アーティストとして活躍しています。新潟市では初めての個展です。
今回の個展「コノハナノサクヨル」は、日本全国津々浦々にある神社仏閣やお地蔵さん、道祖神など、人々の素朴な信仰の対象の視線上にある風景を写真としてとらえたもの。つまり神社やお寺のご本尊の目線にカメラを置いて撮影した風景写真です。
考えてみると、神像や仏像を被写体にした写真は見たことがありますが、逆は、細川さんの作品が初めてです。お彼岸や新年、折にふれ、私たちはその前でこうべをたれて祈りますが、拝まれている神様や仏さまはどんな風景を見ているのでしょう。また、それらの風景に囲まれたとき、私たちはどんな気分になるのでしょう。ぜひ新潟絵屋で、みなさん、その気分を味わってみてください。
細川文未昌さんは1963年新潟市生まれ。立正大学文学部哲学科を卒業後アメリカに留学、オハイオ大学芸術学部写真学科で修士号を取得されました。九六年から多くの個展を開いておられます。代表作は2002年フィリップモリスアートアワード大賞を受賞した「アノニマスケイプ行旅死亡人の風景」。いわゆる行き倒れの人々の遺体発見現場の写真と死亡公告を百年分提示したもの。
私はNYのピー・エス・ワン・コンテンポラリー・アート・センターで、細川文未昌さんのこの作品と出会い、バイロンの言葉通り、まさに小説よりも奇なる人間の生き死の事実をかいま見たような気がしました。なお、この作品は、2005年に「アノニマスケイプ こんにちは二十世紀」として平成写真文庫から出版されました。今回の個展会場でご覧いただけます。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年9月11日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第23回「カズコさんとくぬぎむらのレストラン」
NYから航空便で福音館書店「こどものとも」9月号が届きました。差出人は童話作家のカズコ・G・ストーンさん。本はカズコさんの最新作「くぬぎむらのレストラン」です。
私は、2002年7月から1年間、ニューヨークに滞在していたとき、英語の本の読書会で、カズコさんと知り合いました。
カズコさんは1973年に渡米。アメリカでは一茶の俳句を紹介した大人向けのピクチャー・ブックを、日本では『やなぎむらのおはなし』という、たくさんの虫たちが登場する童話シリーズを出版しています。
『くぬぎむらのレストラン』の舞台、「くぬぎむら」は、野原の向こうの雑木林にあるくぬぎの木。カズコさんは、なんと、二ページをタテ位置で使い、高い高いくぬぎの木を描きました。くぬぎむらにはカブトムシやクワガタムシの夫婦、蝉や蝶が住み、くぬぎのシロップを配達したり、レストラン「あーまい あまい」を営業したりしています。
ときおり、カズコさんから、新潟市の私に、国際電話がかかってきます。そういうとき、カズコさんは、たいてい絵の仕上げの真っ最中。NYの様子、スタテン島の郷土資料館の昆虫標本を一緒に見に行ったときのこと、カズコさんが新潟に来て良寛さんの足跡をたどったときのこと、映画や本、とりとめもなくお喋りは続きます。はるか日本の新潟で信濃川を眺めている私を相手に、カズコさんは手を休めず、せっせと草や葉に色をつけているのでした。大都会マンハッタンのビルの最上階で、大自然にある昆虫たちの村のお話が生まれるのは本当に不思議です。
私は、もしカズコさんが次に新潟に来たら、志賀夘助さんの故郷、松之山の森の学校「キョロロ」に一緒に行こうと考えています。新潟の深い森には、きっと、やなぎむら、みずべむら、くぬぎむらに続くカズコさんの新しい童話の世界が広がっていることでしょう。
カズコさん、がんばっていきまっショイ!
(2006年9月4日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第22回「映画「ラフ」エキストラ体験記」
8月26日から公開の映画「ラフ」。原作はあだち充の漫画で、水泳にうちこむ高校生を描いた青春物語です。実は、この映画、4月に新潟市内でもロケが行われました。
いま、全国各地にフィルムコミッションが広まっています。この団体の目的は、映画やテレビドラマ、CM、写真のグラビア撮影などの、誘致、支援を通して、地域の経済、観光、文化芸術を振興すること。当地ではNGOにいがたロケネットが活動しています。
私は通っているプールでロケを知り、ロケネットのメンバーの知人に問い合わせ、4月20日の古町ロケにエキストラとして参加しました。映画ちょい役出演は「がんばっていきまっしょい」の保健の先生に続いて二度目。ほんとに私はお調子者です。
あれは小雨の降る肌寒い日でした。朝8時、集まったエキストラは老若男女20人ほど。映画の設定に合わせた春の服装だったので寒さに震えながら神社の社殿で待機しましたが、弁当を食べた後も雨は降り続けました。あわや撮影延期という2時過ぎ、奇跡的にあがりました。急いでロケ場所に近い民家に移動、さらに待つことしばし、いよいよ私の出番。古町商店街を歩いてくる速水もこみち、長澤まさみのお二人とすれ違う通行人役です。助監督の指示で、私は上品な年配の女性と組み、休日に仲良く買い物する母と娘になって歩きました。自然に歩くだけなのに、これがなかなか難しい。4、5回目にOKが出ましたが、夢中だったので、役者さんの顔は見られませんでしたけど、楽しいボランティアでした。このシーン、果たして使われたでしょうか。
映画「ラフ」の脚本家・金子ありさはドラマ「がんばっていきまっしょい」も担当。速水もこみちは大学のボート部を舞台にしたドラマでも主演。不思議な縁を感じています。私も早く小説の続編、書かなきゃなあ…。
にいがたロケネットのみなさん、これからもがんばっていきまっショイ!
(2006年8月28日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第21回「大地の芸術祭で越後の深さを知る」
物好きの私が首をつっこんでいることのひとつに棚田の農作業ボランティアがあります。この棚田の美しさに気がついたのは2000年の「大地の芸術祭」がきっかけでした。
今年初めて新潟市内でも大地の芸術祭サポーターズ会議主催のイベントがありました。総合プロデューサー北川フラムさんは、作品はもちろん、この地域の魅力を発見して欲しいと仰っていました。その意図は今まででも私や多くの人に確実に伝わったと思います。
ところで、十日町も津南も私は大好きで何度も足を運んでいますが、今年の「大地の芸術祭」で初めて知った集落も数多くあります。たとえば「脱皮する家」のある松代の峠集落。また十日町願入(がんにゅう)も「うぶすなの家」などを見るために初めて訪ねました。この作品、八人の陶芸家のコラボレーションで、かやぶきの歴史ある民家が芸術として再生しました。その一角には焼きもののテーブルが置かれ、その前に座って、集落の女性たちの知恵と技の結晶、おいしい手料理という芸術も味わえます。アーティストとボランティア、そして地域の人たちが共に働き、まさに共働(きょうどう)しています。これが「大地の芸術祭」のもうひとつのキーワード。今後は一般の人の陶芸体験の企画も進んでいるようです。こうして見学者との共働も生まれ、地域がいきいきと変化していくわけですね。この新しい地域の創造こそ、最高の芸術ではないでしょうか。
控えめで恥ずかしがりやで、そのくせ誇り高い越後の人たちに溶けこみ、心を開いてもらうのは時間と情熱が必要です。この第三回で大きく実を結んだ、九年以上に及ぶ、作家、そして、プロデューサーやボランティアの活動にも、私は心を揺さぶられます。
それにしても越後妻有の山は深く、どこまでも集落があります。そこには長い歴史に培われた独自の生活文化があります。その豊かさが「大地の芸術祭」で引き出されています。
みなさん、がんばっていきまっショイ!
(2006年8月21日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第20回「61年前、新潟で」
昭和20年7月25日、アメリカ軍は命令を出しました。「8月3日以降、目視による爆撃が可能な天候になり次第、速やかに、次の目標、広島・小倉・新潟・長崎のひとつに最初の特殊爆弾を投下せよ。」そして実際、六日に広島市、九日は長崎市に新型爆弾、原爆が投下されました。被害の惨状は新潟にも伝わってきました。次は新潟市に原爆が落とされる!8月11日、知事布告が出され、新潟市民は疎開を始めました。しかしすぐには避難できない人々がいました。新潟刑務所の受刑者500人と職員200人です。その状況は当時の看守長、戸谷喜一著『原爆新潟?私の終戦』に詳しく書かれています。早く疎開させてくれ、見殺しにするのかとパニックを起す受刑者。なんとか全員無事に移動させたいが行き先は?移動は?病人はどうする?戸谷看守長はじめ職員は苦労の末、受け入れ先と5台のバスを確保します。そんなとき26才の受刑者が戸谷さんに面会に来ます。疎開したくない、原爆で死なせて欲しい。少年時代から盗みを繰り返し、三度も服役している男は、もう生きていたくないと泣きます。戸谷看守長は「すまないが原爆騒ぎが終わるまで死ぬことを一時延期してくれないか」と頼みこみ、男を納得させます。こうして全員、15日の朝、疎開することになったのでした。
ところが14日、医療課長が駆け込んできました。新聞社の情報によると日本は明日お手上げすると言うのです。戸谷看守長は半信半疑で疎開を一日延期しました。そして翌日。早朝、前橋刑務所の留守隊長が空襲で死亡したと知らされた日の正午、戦争は終わりました。「原爆号外下息ひそめ生きていしことの夢のごとしも」。終戦の日の戸谷さんの短歌です。原爆情報が入ってからの時間は長く「まるで一年、いや十年とも思われるほどであった」。戸谷さんの手記の言葉です。
命の尊さ、平和のありがたさをかみしめながら、今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年8月14日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第19回「芸術への脱皮」
いよいよ大地の芸術祭が始まりました。ややフライングして、7月21日から二泊三日、四国松山の友人を案内がてら回ってきました。私が大地の芸術祭にキャッチフレーズをつけるなら「ひろい、でかい、おもしろい」。過去の作品も地域の人が保存し手を入れ、作品総数は三百を超えています。こんなに広いエリアにこれだけの数の巨大な作品を集めた野外美術展は世界でもここだけでしょう。さて、大地の芸術祭、今回の柱は空き家プロジェクト。住む人を失い長い眠りについていた民家が、作家やボランティア、住民の手で芸術作品として目覚め地域に新しい活力を吹きこむ拠点として生まれ変わっています。
私は棚田ボランティアの農作業の行き帰りに必ず松代を通りますが、峠集落は「脱皮する家」を見るために入ったのが初めてでした。
この作品、彫刻家の鞍掛純一さんをはじめ、日大芸術学部彫刻コースの学生、卒業生、講師の先生が中心となって制作しました。古いかやぶきの民家を二年がかりで再生し、天井から床板まで彫刻刀でコツコツ彫った、まさに力作です。開会前日の午後、見せてもらったとき、まだ仕上げの真最中。十人ほどの皆さんが、ひたすら彫り続ける音が響いていました。夜中までかかってやっと完成したとか。
作品の内部に入り歩いていると、木版画の中へ迷いこんだような感じがします。「とにかく彫刻コースの仲間で何か作品を作りたかった」という鞍掛さん。シンプルだけど強い制作者の思いが彫刻刀のひと彫りひと彫りにこめられ、家を覆うエネルギーとなっていて、圧倒されます。私はこんな芸術を見たのは生まれて初めてでした。巨匠と呼ばれる作家ではなく、若いアーティストによって、この世のどこにもない、凄みのある作品が誕生する。それがまさに現代美術の醍醐味なのだと、私はこの作品を見て感じました。日芸彫刻コースの皆さん、素晴らしい作品をありがとう。これからもがんばっていきまっショイ!
(2006年8月7日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第18回「川島猛さんの光との出会い」
新潟の海は夏でも深い藍色です。最初この海を見たとき、私は小川未明の「赤いろうそくと人魚」を思い出しました。ほんとうに人魚の母と娘が住んでいそうな海の色です。
私が高校時代、ボート部の練習で通った瀬戸内海はエメラルドグリーン。日本海を見て初めて瀬戸内海の明るさを知りました。
昨年の六月、ニューヨーク在住の画家、川島猛さんが新潟に来られました。川島さんの作品は高く評価され、ニューヨーク近代美術館MoMAや京都・東京の国立近代美術館に作品がコレクションされています。ご案内した新潟市立美術館の常設展示を、川島さんは一点一点ていねいにご覧になりました。そして「巨匠の名作を集めた素晴らしい収蔵。それにしても色が渋いね。これは新潟の光と関係あるんじゃない?」とつぶやきました。
川島さんは香川県高松市生まれ。何かのグループに所属する日本の画壇に反発して渡米、ニューヨークで制作を始めて四十三年。その作品は鮮やかな色であふれ、清らかなエネルギーでみちています。作品に都市の雑踏を見る人もいれば、豊饒な大地に息づく多様な生命を見出す人もいるでしょう。あるときはジャズ、あるいはクラシックが聞こえてくるでしょう。そんな自由さが川島猛ワールド。見るものの心を弾ませる力があります。
八月二日から十日まで、新潟絵屋で「プチ・カワシマ」展が開かれます。大作中心の川島作品から比較的小さめの作品を選んでご紹介する展覧会です。キャンバスが大きいだけでなく描かれた世界が無限大の広がりを持つ川島さんの魅力が、小品にも溢れています。絵屋の展覧会に合わせ、川島夫妻が来港されるので、新潟のいいところをたくさんご案内しようと私は考えています。八月二日から二十七日まで砂丘館も川島作品で飾られます。
新潟のみなさんにとって川島猛との初めての出会いが、新鮮で刺激的でありますように。
川島さん、がんばっていきまっショイ!
(2006年7月31日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第17回「われら棚ディアン」
梅雨に入っても雨が降らないと思ったら、降るときは豪雨。松之山の田んぼは大丈夫かな?ボランティアで棚田の農作業を手伝うようになってから、お天気が気になります。
実作業の柱のひとり、田んぼマスターOさんの7月2日のブログによると、6月は水争いになりかけた集落があったほど少雨でしたが、七月は激しい雨続き。田尻が切れ、田んぼの見回りや修復に追われているとか。
農業は、自然という、人の知恵ではコントロールできない相手と、いかに折り合いをつけるかが勝負の、大変な仕事だと実感します。
松之山新田の谷あいに、40数枚の田んぼがあります。アマチュアカメラマンの撮影スポットにもなる美しい棚田です。この大半を久保田幸治郎さんがひとりで耕作していたのですが、80歳を過ぎ、急斜面にあるこの田での農作業はきつくなりました。そこで越後棚田フットワーク、NPO法人棚田ネットワークなどの有志が協力して米作りをお手伝いし、棚田を守ることになりました。耕作放棄すると地すべりの原因にもなるからです。幸次郎さんはお元気ですが一昨年に完全に引退。その年から、ボランティアだけで苗作り、代かきから稲刈りまで、全作業を行っています。
私はある取材をきっかけに参加、松之山のやさしい自然と田んぼで流す汗の気持ちよさが癖になりました。田んぼで遊ばせてもらっているようなもので、足手まといかも。
思えばこの地域を初めて訪ねたのは第1回大地の芸術祭。現代美術もさることながら、私が心を奪われたのは里山の美しさでした。英語で芸術を意味するアートには、技巧、技術という意味もあります。農業は人類が古代から育んできた知恵と技の結晶。まさにアートですね。また、農作業は作業しながら身体も鍛えられる究極のエクササイズ。みなさんもいかがですか?田んぼで出会ったおもしろすぎる人々の秘話はまたいずれご紹介します。
棚ディアン、がんばっていきまっショイ!
(2006年7月24日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第16回「妻有観世能」
いよいよ、7月23日から大地の芸術祭。3年に1度の現代美術のお祭りが妻有地区で始まります。今年で3回目ですが、みなさんは行かれましたか?新潟は広すぎるのか同じ県内なのに開催地以外のノリが悪いようです。世界中から第一線で活躍する芸術家がやってくるのに、もったいない!行かなきゃ損です。
現代美術なんて訳がわからないという先入観に縛られず、ただ作品を見ると、案外、古典よりもすんなり作家の訴えたいことが理解できます。それに、わからないというのも立派な感想です。私は、構えず気楽に、それこそ村のお祭りを見物にいく感覚で、ドライブがてら出かけてみようと思っています。
今週の土曜日22日は前夜祭。十日町下条地区の神明水辺公園バタフライ・パビリオンで妻有観世能が催されます。出しものは狂言「佐渡狐」と能「羽衣」。
「佐渡狐」は年貢を納めにいく道中、佐渡の農民が、「島国は不便で狐もいないだろう」と越後の農民にからかわれ、狐はいないのにいると見栄を張る顛末がコミカルに演じられます。なんだか漫才みたいですね。
狂言はともかく能というと、ますます肩が凝りそうですが、「羽衣」は絵本や教科書で読んだことのある有名なお話。三保の松原で、地元の猟師が天女の衣を見つけ、お土産に持ち帰ろうとします。困った天女は「天に戻れないので返してください」と頼み、猟師は素直に返します。その御礼に天女が美しく舞って見せるというもの。簡単ですね。観世清和の天女の舞はどんなにか華麗でしょうね。
会場になる下条の能舞台は、地域の人が集うあずまやとして、フランスの建築家、ドミニク・ペローが設計したもの。森と泉に囲まれた現代建築と日本の伝統芸能がとけあうとどうなるでしょう。ワクワクしてきますね。
震災の傷はまだ癒えませんが、大地の芸術祭が復興への新たな一歩になりますように。妻有の皆さん、がんばっていきまっショイ!
(2006年7月17日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第15回「納豆が食べられるようになった日」
今日7 月10 日は納豆の日です。好き嫌いのない私ですが、本音を言えば、ネバネバした食べ物はあまり口にしたくありません。でも納豆はなるたけ食べるように心がけています。
7年前、私は新潟市保健所主催の健康栄養セミナーに参加し、納豆は骨を丈夫にする骨粗鬆症の予防に欠かせない食品だと学びました。納豆に含まれる大豆イソフラボンが骨からカルシウムが溶け出すのを押さえ、納豆菌はビタミンKを作りカルシウムを骨に定着させるとか。六十才以上の女性の骨折率調査では、納豆をあまり食べない関西の高齢者に骨を折る人が多く、よく食べる東北地方では少ないそうです。これは食べねば、ですよね?
納豆といえば、子どものころの私には最も縁の薄い食べ物でした。なぜかというと、わがふるさと愛媛では納豆を売ってなかったのです。千葉の親戚の家で初めて納豆を見たとき、私は正直言って人間の食べるものじゃないと思いました。昭和五十年代、大手スーパーの進出で、愛媛でも流通するようになりましたが、私はずっと食べられませんでした。
高校卒業と同時に上京してまもなく、同じアパートに同級生の峰ちゃんが引っ越してきました。彼女はあるとき、納豆ピラフを作り、良子ちゃんも食べなよ、と勧めてくれました。恐る恐る口にすると…香ばしくておいしい!その瞬間、私の納豆嫌いは直ったのでした。
峰ちゃんが、もうひとつ、私を変えてくれたこと、それは翻訳文の読まず嫌いです。訳文のぎすぎすした感じが苦手で、日本人の書いた小説を中心に読んでいたのですが、峰ちゃんの影響でサリンジャーやブローティガンなどアメリカの文学も大好きになりました。
誰にも言えない事もうちあけた唯一の親友、峰ちゃん。残念ながら三十一歳で天国に行ってしまいました。今は、私の一部になって一緒に生きていると、私はそう思っています。納豆を食べるたび、峰ちゃんを思い出します。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年7月10日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第14回「ダンス・ダンス・ダンス」
それは高校時代以来のキラキラした体験でした。六月十七日、ノイズム06のダンサー青木尚哉さんによるダンス講座に参加しました。
ノイズムは金森穣さん率いる新潟市民芸術会館所属のダンス・カンパニー。国内外で高い評価を受けるこのノイズムの、プロのダンサーが指導してくれるワークショップです。
高校まで体育の成績は2か3だった私。踊りはディスコとエアロビ程度で、正式に習ったことはありません。そんな私でもOKなのが「大人のためのダンス体験学習会」でした。応募資格は二十七歳以上のこれまでダンスを身近に感じずに生きてきた大人。年齢は四十才くらいまで、というわけで…。
当日、ワークショップで青木さんの出した最初の課題は、その朝、自分がしたことを口の動きで表現すること。続いてそれを身体でやってみます。あらあら不思議、ふだん何気なくやっている動きがダンスになりました。さらに足でステップをふみつつ、上半身で同じ動作を行いました。こうなると大変です。
ふと見ればいつも舞台で見ているノイズムの四人のダンサーが一緒に踊っています。私の心拍数は一気にあがって、もうドッキドキ。
後半は二組に分かれ、ひとりひとりステップを覚えました。四歩進んで四歩さがり、次に三歩、二歩、という繰り返しです。覚えたらペアを組み、最初に出す足を違えて、動きを連動させます。ユニットで、さらにその後3つのユニットが集まって発表しました。
ソロからペアへ、そして集団へ。動きを合わせると、集団がひとつの生き物のようにうねり始めます。そうか、これがダンスの魅力なのだと私は思いました。こんなに大勢でひとつの動きを作ったのは、高校の体育の授業以来でした。ふだんの公演では見る楽しさ、ワークショップでは踊る楽しさ。私たちにダンスの魅力を伝えてくれたノイズム。ますます応援したくなりました。
ノイズム06、がんばっていきまっショイ!
(2006年7月3日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第13回[「越後の早曲がり」
「県民性」という言葉があります。文化人類学者・祖父江孝男の『県民性の人間学』によると「それぞれの県や地方に、長い間受け継がれてきた特有の気質があっ」て、個人の性格に反映されているというのですが。たとえば新潟人は「地味で粘り強」く「ひたむき」で「名より実をとる」「働き者」。昭和四十年代、東京の風呂屋の四割、豆腐屋の六割が新潟県出身者だったとか。私の出身地、四国の愛媛県人は「おっとり」「穏やか」な「努力型」で「アイデア豊富」な「一匹狼」。思いあたる節もありますが、えーっ、そんなことないよ、ひとつのイメージで人を決めつけないでよ、と言いたくなりますよね。
しかし、いろいろな町に住み、また旅してみると、確かに物事によっては地域で特長があるような気もします。ことに車の運転。いちばん強烈だったのはエジプトのカイロです。馬に乗っているような荒っぽい運転でした。
新潟に来て私が気がついたのはよほどでないとクラクションを鳴らさないということ。運転も辛抱強いと思うのですが、どうでしょう。愛媛人はちょっとしたことでパーパー鳴らします。せっかちなんでしょうね。これが名物の悪いマナー「伊予の早曲がり」につながっています。交差点で信号が青に変わったとたん、直進車より先に右折車がさっと曲がってくるのです。何度ヒヤッとしたことか。教習所の先生も「信号が変わってもすぐに発進するな」と注意するほどです。
こわーい「伊予の早曲がり」、愛媛県だけかと思いきや、ここ数年、新潟でもたびたび目撃するようになりました。やった人みんな愛媛出身か転勤族とは思えませんよね。えっ、私ですか?ハンドルを持つときは新潟人、対向車がきれるまでじっと待ちます。新潟に住んで八年、この風土に鍛えられて、私の性格も少しはがまん強くなったのでしょうか。
暑い夏こそ苛々しないで辛抱第一。今週も、安全運転で、がんばっていきまっショイ!
(2006年6月26日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第12回「十三代目長兵衛」
私は土蔵です。年かね?はあ、自分でもようわからんですども200才くらいじゃないでしょかね。江戸時代の終わりに柏崎の学校町に建てられたんだわ。そう、市立図書館ソフィアセンターの近く、曽田内科医院の隣に。
いろーんな時代が私のまわりを通り過ぎていったわね。戦争もありました。災害もありました。幸い燃えもせず、崩れもなく、土蔵の私は、代々お医者さまを務める曽田家の蔵として、大事な品物を守ってきましたて。
いつのまにやら21世紀になってたんだねえ。私は埃をかぶった古道具を抱えて、曽田家の人のお荷物になっておりました。それも仕方ありませんて。昔ながらの蔵なんぞ、このご時世じゃ必要ないですて。私が世の中からおさらばする日も近うございました。
いよいよ取り壊されようかというそのとき、13代目のご当主・曽田恒さんと一緒になった文子さんが、私を、なんと画廊とやらにしてくれたんですて。その名も十三代目長兵衛。うれしかったて。道路を広げんばならんから、私は少しひっこみ、じわりじわりずって玄関を道に向けたんだわね。壁も白い漆喰と腰板で化粧直しして、生まれ変わった私・土蔵は、昨年、登録有形文化財になったんだて。
文子さんは、ついこないだ…たった40年前、四国松山からここ柏崎まで来なしたお人。当時、町ん衆は「おはなはんが来た」といったもんでした。文子さんは絵本作家なんだて。「サーカスへ行ったネコ」、「ミエハリザウルスのリュータ」など、ほのぼのした話に、はっきりした色の絵がついてて、大人も子どもも楽しく読める本になってるんだわね。
明日、20日火曜日から30日金曜日まで、私、十三代目長兵衛は、「ねこ屋敷」に変身します。オーナーの文子さんはじめ個性さまざまな10人の作家が、猫をテーマにした絵や彫刻の作品で、私を飾ってくれるんだて。それはそれは賑やかな10日間になるわね。そんじゃ、今週もがんばっていきまっショイ!
(2006年6月19日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
ねこ屋敷展@十三代目長兵衛
第11回「ホテル・ルワンダ」
シミルは冬の海のような目をしていました。悲しみと絶望が暗く深く宿っていました。私がシミルと出会ったのはアメリカ、ワシントンDCの知人宅。シミルはすでに四十才近く。ふるさとアフリカから遠く離れ、難民として、ひとり生きる道を探していました。私にとって、忘れえぬ人です。
シミルの母国はルワンダ共和国。アフリカ大陸の南東部、ウガンダ、タンザニア、コンゴ、ブルンジに囲まれた内陸の小さな国です。一九九四年四月六日、この国で、民族の虐殺が起こりました。シミルは父親ときょうだいの半数を失いました。赤十字は百日間で百万人の人々が殺されたと報告しています。
なぜルワンダでこんな虐殺が起こったのか。そしてなぜ国連や国際社会は黙って見過ごしたのか。それは歴史を学ばないと理解できません。ともに暮らしていた多様な民族を、ルワンダの支配層と彼らが後ろ盾に選んだドイツが統治に利用。第一次世界大戦後はいわば戦利品としてルワンダはベルギーに与えられました。この政策は引き継がれ、ベルギーはルワンダ国民全員に民族名を書いたIDを発行。対立と憎悪はさらに深まりました。
映画「ホテル・ルワンダ」は、一九九四年の虐殺のまっただなかで、四つ星ホテル、ミル・コリンの副支配人ポール・ルセサバギナが、いかにして虐殺された民族である妻や同僚、隣人の命を守ったかを描いた作品です。
公開のめどが立ってなかった日本で、インターネットで三か月に四千通の署名が集まり上映が決定しました。新潟市万代のシネウインドで二十三日金曜日まで上映されています。
シミルは私たちに多くを語りませんでした。心の傷が彼の口を重くしていたのだと思います。シミルたちの見た苛酷な現実に映画が及ぶはずもありません。ただ、私は、この映画が、少なくともシミルの悲しみに近づく手がかりになったという気がしています。
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年6月12日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第10回「「墨のチカラ、筆のスピード」]
日本人の筆記用具としてなじみぶかい墨と筆は610年に高麗の僧・曇徴が、紙や絵の具と同時に日本に伝えたと言われています。その伝統的な技法を使い、新しい感覚のアートを制作するイラストレーターがいます。東京を拠点に活躍する茂本ヒデキチさんです。
茂本さんは1957年生まれ。愛媛県松山市出身です。新潟のみなさんには舞子後楽園のCMやポスターのイラストを描いた人といえば思い出していただけるでしょうか。
茂本作品の一部をご紹介すると、現在も週刊新潮に連載中の海道龍一朗著「天下人」の挿絵、今年三月にリリースされた米倉利紀のニューアルバム『sang my thang』のジャケットのボディ・ペインティング、雑誌「TARZAN」や「ミュージック・マガジン」の表紙、映画「永遠のマリア・カラス」ポスター、マイケル・ジョーダンや貴乃花などスポーツ選手の肖像も数多く手がけています。
私が茂本さんのドローイングと出会ったのは、14年前。松山市のコンプレックス・ギャラリーでした。墨の力強さ、筆の勢いを活かした絵は、白と黒のモノクロの世界なのに、カラーの絵よりも強烈な印象でした。
アスリートの筋肉はダイナミックに描かれ、選手の動きが鮮やかな筆のタッチで表現されています。画面から選手の周りに吹いた秒速の風が見えるようです。ミュージシャンの肖像からは、彼らの演奏する軽やかなビートが聞こえてきます。これらの作品は、まるで即興で描いたように、線がいきいきとしていますが、しっかりとしたデッサン力があるからこそ可能な離れ技です。
この茂本ヒデキチさんの作品展が、今、新潟市並木町の新潟絵屋で催されています。テーマは「ネオ・ブラック・ストローク」、新しい墨の形。描き下ろしの新作を中心にご紹介します。期間は6月10日土曜日まで。週末の9日、10日は茂本さん本人も在廊予定です。
茂本さん、がんばっていきまっショイ!
(2006年6月5日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第9回「さよなら、古町公衆市場」
市場、そこは人と人がいきかう場所。新潟には市の立つ町がたくさんあります。その土地ならではの野菜やお惣菜を手にいれるのも魅力ですが、なにより店の人とのお喋りが楽しみですよね。しかし、こういった市場は、新潟県内でも都市部では珍しくなりつつあります。いつしか私たちは、売る人の顔が見えない場所で、パックに包装された商品を黙って籠に放り込むことに慣れてしまいました。
この夏、昭和二十四年から続いてきた、古町通り三番町の古町公衆市場も姿を消します。
市場ができてからずっと、手のこんだおいしいお惣菜で愛されてきた美谷商店も、上古町の別の場所に移転することになりました。
この市場に思いを寄せる人たちが集い、今週末二日と三日だけの展覧会を行います。ありがとう、お疲れさまの気持ちをこめ、市場にちなんだ内藤雅子さんと高橋巧さんの写真や遠藤在さんのイラストで空間を飾り、高橋徹さん、迫一成さんがライブ・ペインティングを行います。
新潟を拠点に世界で活躍する舞踏家・堀川久子さんも市場に特別な思いを持つひとり。お母様が山ノ下の公衆市場で魚屋を営んでおられた堀川さん。学校帰りに市場に寄り、やさしくときには怖い大人たちに見守られながらお手伝いしたり遊んだり。そこには温かくゆるやかな時の流れがあったことでしょう。その思いを、堀川さんは、田中トシユキさんのアコーディオン演奏に合わせ、「道に口笛?公衆市場で」で表現します。「公衆市場が積み重ねてきた時間、活力、そこに生きてきた人々に思いを馳せる、感じる、交流する一日としてみたい」という堀川さん。公演は三日午後二時と六時の二回です。
二日から新潟絵屋で個展を開く茂本ヒデキチさんもこのイベントに共感し、三日午後三時半からライブ・ペインティングを行い、フィナーレを賑やかに飾ります。
いつかまた、人と人が交流する場の再生を祈って…。がんばっていきまっショイ!
(2006年5月29日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第8回「暮らしを彩る器たち」
先週ご紹介した野本久美さんの染織展。28日まで開かれていますが、この会場の画廊フルムーンは東堀通りにある昔ながらの町屋を活かした情緒のある和風建築です。美術館で鑑賞するのとは違った味わいがあります。
こういった町屋を活用したもうひとつの画廊が並木町の新潟絵屋です。アート好きな人が会員になり企画運営するユニークなNPO法人です。私もボランティアで企画委員として知人の芸術家、工芸家を紹介しています。
この新潟絵屋で本日22日から30日まで渡部昭彦「暮らしの器展」が開かれます。
渡部昭彦さんは益子焼の陶芸家。私が東京で働いていた広告代理店の同僚のお連れ合いです。ご出身は山形県酒田市。14年前、栃木県芳賀郡市貝町に窯を開きました。その作品はまさに暮らしの器。肩の力が抜けていて、控えめな佇まいなのに、存在感があります。
私が最初に出会った厚手の大皿は、どんな料理でも受け入れる懐の深い作品。ビアマグは、グラスのように薄く軽く、ビールが何倍もおいしくなります。
渡部さんはこう言います。
「陶器は家の中で生きる自然です。指でふれるたび、口をつけるたび、安らぎをあたえてくれる温かさ。静かに佇み、沸沸とエネルギーを醸し出す力強さ。そんな素朴な風合いを大切にしながら、使いやすく、飽きのこない機能美を極めていきたいと想っています。」
東京の大学で経済を学び、大学の陶芸部をきっかけに益子で修行を積んだ渡部さん。アーティストよりも工芸家でありたいという気持ちが作品に結晶しています。
ふだん使いの器は結婚相手と同じ。一緒にいて楽なほうがいい。お高い相手とは長く暮らせません。かといって野暮なのも困ります。シンプルで粋な渡部昭彦さんの器。お皿から犬の餌鉢まで暮らしをさりげなく彩る器たちです。下町の散歩がてら出かけてみませんか。
暮らし楽しく、がんばっていきまっショイ!
(2006年5月22日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第7回「糸は絵の具、着物はキャンバス」
人と人の出会いは不思議なもの。無理せず、自然の流れで巡り会った人は、なぜか、おつきあいが長く続く気がします。
野本久美さんは、そんな友人のひとりです。
私が実家のある愛媛県松山市で広告の仕事をしていたころ、クリエイターの交流会で、藍色の爪の女性と出会いました。それが染織家、野本久美さんでした。
久美さんは糸を染め、織り、布にする織姫。工房を訪ねるたび、その作業の複雑さに、私はため息が出ます。それは長編小説を書くときのプロット、人物の設定に似ています。
久美さんの仕事は糸紡ぎから始まります。愛媛県産の繭を75度の熱湯で茹で、細い糸をとり、何回かの工程を経て絹糸を作ります。染める原料も自宅の庭や周囲の山で採った木や草花。庭には徳島の藍を立てた甕が埋められています。染めは一度では終わりません。染まった糸を干し、同じ色、あるいは全く違う色を何度も染め重ね、深みのある世界でただ一つの色になっていきます。
いよいよ織るその前に、久美さんは、ストールで数百本、着物であれば千数百本に及ぶ糸を、数ミリ単位で配色した図面を書きます。それに添って経糸をかけ、横糸を通して織りあげます。一本切れても間違えてもやり直し。緊張の連続です。そうやって、ようやく、天女がまとう五色の羽衣のような、軽く、華やかな布が完成します。その作品に民芸品的な野暮ったさがなく、洗練された粋な仕上がりになるのは、子どものころから二十代前半まで、油絵を描いてきたなかで培われたものでしょう。今も常に絵画や工芸品を見て勉強を続ける久美さん。その姿は、物作りにおいて大事な心構えを教えてくれます。
野本久美さんの個展が新潟市東堀通四丁目の画廊フルムーンで実現することになりました。期間は今週の金曜日十九日から二八日日曜日まで。詳しくは画廊のHPをご覧下さい。
久美さん、がんばっていきまっショイ!
(2006年5月15日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第6回「生きづらいのは、あなただけじゃない」
連休も終わり、今朝はいつもにも増してつらい月曜ですね。気分も身体も重く、やる気が出ない方もおられるでしょう。
私は鬱病の経験者です。父親に殴られて育った私は、自己評価が低く自分を愛せない人間で、鬱傾向があります。二九才のとき仕事の挫折がきっかけで最悪の鬱状態に陥りました。酒に酔っ払った状態で風邪薬をひと瓶飲みカッターで手首を傷つけたりしました。でも、本気で命を断つ度胸はありませんでした。
そんな私の転機は離婚です。苦境に立ったとき、不思議なことに、私はこんなことで死んでたまるか!と思いました。「がんばっていきまっしょい」を書いたのはそのときです。作品を松山市主催の第四回坊っちゃん文学賞に応募したら、大賞を受賞したのでした。
「人生はわからない、生き抜いてみないとわからない/今はまっくらやみでも、十年後は光輝いているかもしれない」。これは新潟市在住の作家、月乃光司さんの詩「死ななければ大丈夫」の一節です。月乃さんはアルコール依存症。そのどん底体験はまさに地獄でした。月乃さんはそこから抜け出し、お酒を飲まない生活を続けています。転機はアルコール依存症の自助グループの発表会だったそうです。ある男性がありのままの自分をさらけだして語る姿に、月乃さんはカッコイイと思いました。そして自作の詩の朗読を始めました。情けない自分を笑いのネタにして肯定し受け入れるわけです。月乃さんの魂の叫びも観客に化学反応を起こしました。ライブを聞き引きこもりから抜け出した男性もいます。
月乃さんの詩はこう続きます。「今日から、今から始めよう/始められなくてもいい/ただ、うずくまってしばらく我慢してみよう」。
生きるのが辛いとき、月乃さんの本、『家の中のホームレス』や『窓の外は青』を読むと、身体の内側から生きる力がじわりと湧いてきます。そう、生きていれば、大丈夫!
今週も、がんばっていきまっショイ!
(2006年5月8日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第5回「平和というたからもの、みぃつけた!」
私の友人、二十歳のティムール君はチェチェン出身の留学生です。三年前、大好きなアニメを学ぶため新潟に来ました。平和な日本なら落ち着いて勉強できると考えたからです。「戦争を知らない子どもたち」というフォークソングがありますが、ティムール君はその逆で、戦争しか知らない子どもでした。彼の身近な人の多くが爆撃で命を落としました。
ティムール君が新潟に来てまもなく、中越地震が発生しました。彼は被災地に向かうヘリコプターの音をとても怖がりました。チェチェンではヘリコプターは地上に爆弾を落とす人殺しの道具だったからです。それも落ち着き、おびえたようなティムール君の表情は、ようやく穏やかになってきました。
ティムール君だけでなく、日本人誰もが当たり前のように実感している平和。いうまでもなく、日本の平和は、永遠に戦争を放棄し、軍隊を持たず、交戦権を認めないと謳う憲法第九条によって保障されています。しかしどういうわけか、この数年、憲法を変え日本を戦争のできる国にする動きが出ています。
上越の童話作家、杉みき子さんも、この憲法改悪を心配し、童話「あ!たからもの、みぃ〜つけた!」を書きました。もちろん宝物は憲法第九条。これにティムール君が絵をつけ、アニメ化し、憲法記念日の五月三日の午後二時からクロスパルにいがた「主役はあなたとわたし、大好き平和憲法市民集会」で上映されます。参加費は五百円。メインの講演は、燕市出身、国際NGOアムネスティ・インターナショナルの和田光弘弁護士です。
今の日本、本気で戦争を始める馬鹿はいない、だから憲法第九条を変えても大丈夫と反論する人がいます。しかし太平洋戦争に向かい始めた日本を誰も止められなかった事実は、歴史が証明しています。私は憲法第九条のありがたさを、今こそ考え直したいと思います。
今週も、世界平和を守るため、がんばっていきまっショイ!
(2006年5月1日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第4回「忘れない、阿賀のお地蔵さん」
九年前の五月、私が初めて新潟に来たとき、最初に夫に案内されたのが阿賀野川でした。河口から鹿瀬ダムまで、川幅いっぱいに流れる水と深い森。自然の豊かなこの地こそが水俣病の発生した流域だと知りました。なぜこの美しい場所を選んで有害な廃液を流したのか。私は腹が立ってしかたありませんでした。
安田に住む大工、旗野秀人さんは水俣病を患いながら生きてきた阿賀の人々を支えてきました。ドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」の神戸上映会で、旗野さんは絵本作家の湧嶋克己さんと友だちになり、その縁で、絵本『阿賀のお地蔵さん』が完成しました。
主人公は小池たかし。腕白な小学生です。神戸から新潟に転校してきたたかしは、阿賀の大自然の中を自転車で走り回り、のびのび遊んでいました。ある日、たかしは千唐仁の二体並んだお地蔵さんの前で、ひとりの老人と出会います。その人は悲しい顔で、阿賀野川に工場の毒水が捨てられ、汚染された魚を食べた人が水俣病になり、今も手のしびれなどで苦しんでいるんだよ、と伝えます。二つのお地蔵さん、右は阿賀にあったもの、左の新しいのは九州の熊本県水俣市から石を運んで作ったものです。「この世からこんな悲しいことを人間が起こさないように願ったり、この病気でなくなった人の霊を慰める気持ちをこめて、村のみんなが手を合わせているんだよ」と老人はたかしに静かに語るのでした。
この絵本の作者、涌嶋克己さんが五月四日安田公民館にやってきます。午後三時から患者の渡辺参治さん得意の民謡に乗せ、涌嶋さんが絵を描きます。入場無料。これは「阿賀に生きる」十四周年追悼集会の催しの一つで、午前十時から映画上映、午後一時半から元水俣市長吉井正澄さんが講演します。夜の交流会では患者さんから話を伺えます。問合せは電話09036498945、旗野さんまで。
阿賀に生きるみなさん、これからも、がんばっていきまっショイ!
(2006年4月24日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第3回「夢の降る町・上古町」
かつて商店街は、大人も子どももわくわくするところ。物や人と出会う、お祭りに似たエキサイティングな空間でした。
その賑わいが、日本全国の商店街から消えつつあります。そしていま、再生へのさまざまなチャレンジも起こり始めました。
新潟市には白山神社の鳥居前から長い長い商店街が続いています。不況の中でふんばってきた味のある店が、やむをえない事情から、ひとつ、またひとつと暖簾を下ろすのを、寂しく感じていたのは私だけではないと思います。とりわけ上古町商店街は活気を失い、さびれたと言わざるを得ない状態でした。
その上古町に、賑わいが戻りつつあります。
シャッターを閉めていた店が、カフェ・レストラン、ブティック、洋書や輸入雑貨店、美容室、古着の着物屋などとして新たに開店しました。昔から続く店の表情も明るく見え、沈んでいた町全体がいきいきとしています。
この流れを後押ししている若い経営者の何人かは、福岡、静岡、東京、北海道など、県外出身。いわば「よそ者」です。新潟生まれだとしても、赤の他人にバトンを渡し、また、商売仲間として受け入れるのは、ご年配の店主のみなさんにとって勇気のいることだったでしょう。それができたのは、迫一成さんをはじめとする若者たちの人柄、アイデアの豊かさとおもしろさ、そして行動力です。
上古町は、若い人の、夢が降る町。
この週末、古町一番町から四番町の通りはチューリップで飾られます。その名も「カミフル・チュリー2」。チューリップの花の部分は無料でもらえ、「ワタミチ」では午前十一時から午後四時までチューリップ染めの講習会も行われます。参加費は三百円。四月二十二日土曜日と二十三日日曜日は、生まれ変わった上古町のふるさと散歩。私のおすすめです。お問合せは電話0252285739。
越後の若ぇ衆ら、今週もがんばっていきまっショイ!
(2006年4月17日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第2回「女も男も楽な世の中」
四月十日は女性の日。今日から十六日までの一週間は「女性週間」です。一九四六年、昭和二十一年のこの日、第二十二回総選挙で、日本の女性は初めて投票し、三十九人の女性議員が誕生しました。
それから六十年。女性候補が「刺客」として担がれ、その一方で、多くの女性も投票を棄権した昨年の衆議院選挙。この現状を明治、大正の女性が見たら、どう思うでしょう。
四十四歳の私が振り返っても、女性の社会進出はずいぶん進みました。みんなの意識が変わったと思う反面、まだまだ男社会だな、と感じることもたくさんあります。また、女と男、ふたつの性別ではとらえきれない個性を持った人たちへの理解も、やっと始まったばかり、という印象です。
私は三十過ぎまでコピーライターでした。広告の文章を書く専門職で、男性以上に残業もこなしましたが、その当時勤めていた外資系の広告代理店の制作部は、女性だけ嘱託社員で正社員になれず、待遇面では男女の格差がありました。広告業界なんて、進んでいそうですが、その体質は古いものでした。
私にとって、性差にまつわる問題がさらにシビアになったのは結婚してからです。夫婦の苗字をどうするか。家事の分担はどうするか。夫の家族とどうつきあうか。不妊治療をするかしないか。あげるときりがありません。
こういった問題に向きあうとき、私の助けになったのは、新潟県女性財団や新潟市男女共同参画センターの女性学入門講座でした。
男女共同参画センターは、長岡市、上越市、三条市にもあり、さまざまな講座が催されています。もちろん男性も参加できます。 いろいろ学んで私が思うのは、女性の生きやすい社会は、男性にとっても楽だということ。男性中心の世の中は、逆に男性へのプレッシャーも大きいんじゃないでしょうか。
男も女も楽チンな世の中で、今週もがんばっていきまっショイ!
(2006年4月10日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
第1回「一年間、がんばっていきまっしょい」
「ひがしこー、がんばっていきまっしょい!」「ショイ!」「もひとーつ、がんばっていきまっしょい」「ショイ!」。
高校の入学式、生徒会長が講堂の壇上に呼び出され、「がんばっていきまっしょい!」と叫ぶ。上級生の生徒みんなが「ショイ!」と返す。大きな声が講堂に響きわたり、入学したての私たち一年生は、目を白黒させ驚きました。終わると、列の後ろに控えたブラスバンド部が校歌を演奏し始め、すべて生徒が自分で行う、自由な校風を肌で感じました。
それが愛媛県立松山東高校での私の第一日目です。映画の冒頭に出てくる主人公の入学式のシーンは現実とほぼ同じでした。
あのときの私は、まさか自分がこの合言葉を題にした小説を書くとは予想もしていませんでした。正直言って、高校時代の私は、この言葉も、生徒全員で叫ぶ習慣も、軍隊を連想させられるからイヤでした。
小説が世に出てまもなく、私はこの言葉を作ったのが、昭和三十年代に在校した体育の高橋先生であること、その方は小柄で、ラグビーをやっていたけれど、決して花形選手ではなかったこと、その先生が五十代の若さですでに亡くなったことを知りました。
日本人はがんばりすぎ。「がんばらない」という本がベストセラーになり、私が高校時代を過ごした昭和五十年代とは、世相は変わりました。しかし、どういうわけか、この言葉は後輩に受け継がれ、愛媛県内の別の高校にも広まっているそうです。人生のある時期、みんなでがんばることも、悪いことではないかもしれません。
私自身はがんばりがきかない人間です。「がんばっていきまっしょい」は、うつむきがちな気持ちを、少しだけ上げ、前向きになる言葉。そう考えています。
四月、みなさんはどんなスタートを切りましたか。さあ、今日も、新しい一日を、ちょっとだけ「がんばっていきまっしょい!」。
(2006年4月3日月曜日8時25分放送、無断転載不可)
