| 1、はじめに |
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真田幸村は、信州上田の戦国大名・真田昌幸の次男として生まれました。母は、公家の娘(山手)で、兄弟には、兄の信幸がいます。幸村の生き様には、若年期に出会った武将たちの信義を大切にする精神が強く影響しています。まずは、幸村のその生い立ちについてご紹介いたします。 |
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1-1、武田家の中で |
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幸村が誕生した頃の真田家は、祖父の幸隆が当主であり、武田信玄に従って上杉謙信や北条氏康と戦っていました。武田家臣団の中での真田家は、長男・信綱、次男・昌輝が武田二十四将に列しており、三男・昌幸(幸村の父)も信玄の側で采配を学び、信玄の両眼と呼ばれる程の軍略家でした。この頃の真田家は当に最強武田軍団の中心的存在であり、三方原の戦い(1572)での徳川・織田連合軍撃破にも大きく貢献しました。 |
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しかし、信玄が没してからの真田家は、主家と共に暗転していきます。信玄の死(1573)から1年後、後を追うように幸隆も没して信綱が家督を継ぎましたが、その1年後の長篠の戦いで信綱と昌輝も戦死し、期せずして昌幸が真田家の家督を継ぎました。傾く武田家を見限る家臣が続出する中、昌幸は主君・武田勝頼(信玄の四男)を岩堰城に招いて戦うことを出張しましたが、結局は同様に受け入れを表明していた一族の小山田信茂を信用して岩殿山城に向かう途中で裏切られ、天目山で滅亡してしまいました。 |
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1-2、苦労の中での独立 |
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主君を失った真田家は、独立大名としての道を歩み始めます。とは言えども弱小大名である真田家は、どこかの強い勢力に属するより生き残る術はなく、結局武田家臣の時代から川中島合戦などで因縁のある上杉景勝(謙信の養子)と敵対していた徳川家康と手を結びました。しかし、家康は真田家を属国だとしか考えておらず、北条氏政(氏康の長男)と同盟する見返りとして勝手に真田領の沼田城を譲渡する約束をしてしまいます。これをきっかけに昌幸は家康と手を切り、敵対していた景勝に信繁(後の幸村)を人質に出して同盟を結びました。 |
| 2、出会い |
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幸村の当初の名前は、信繁でした。真田家は、初代・幸隆(幸村の祖父)、二代・昌幸(幸村の父)、三代・信幸(幸村の兄)と歴代「幸」の字を家督の証として継承しています。このことから、次男であった幸村には家督を継承する予定がなかったことが分かります。また、信繁の名は、主君・武田信玄の賢弟・信繁(典厩)にあやかったものと考えられ、兄・信幸をしっかりと守り立ててほしいという父・昌幸の願いが伝わってきます。 |
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2-1、上杉家での交流 |
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同盟を破棄して沼田城の明け渡しを拒否してきた昌幸に面子を潰された家康の攻撃に対抗するには、仇敵・上杉景勝との同盟しかありませんでした。しかし、因縁のある景勝との同盟は簡単ではなく、次男・信繁(幸村)を差し出すことでようやく成立しました。上杉家は謙信以来「義」を重んじる家風があり、敵であっても誠意には誠意をもって返すという逸話がたくさん残されています(敵に塩を送るなど)。この真田家との同盟も、次男・信繁(幸村)を差し出すという誠意に応えたものと思われます。 |
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人質として送られた信繁(幸村)は、景勝に丁重に扱われ、上杉家中の武将たちと親密な交流を図りました。中でも、直江兼続との出会いは後の運命を大きく左右するものであり、幸村の義の精神はこの頃に芽生えたものと思われます。この同盟によって、第一次上田合戦では見事に家康の攻撃の撃退に成功しました。 |
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2-2、秀吉への臣従 |
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第一次上田合戦のあった年は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が四国の長宗我部元親を降して関白に就任した年であり、景勝も秀吉に臣従しました。家康も前年(1584)の小牧・長久手の戦いの後、秀吉に臣従しており、家康と敵対することは秀吉への抵抗を意味しました。このことから、景勝が秀吉に臣従するのを機に、昌幸も臣従しました。そして、その臣従の証として、またも人質として信繁(幸村)が大坂に送られることになりました。 |
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信繁(幸村)は、秀吉の下でも大変気に入られ、腹心の石田三成やその家臣・島左近、大谷吉継らと出会い、交流を図りました。特に、大谷吉継とは縁が深く、娘(安岐)を後に正室として迎えています。 |
| 3、犬伏の別れ |
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信繁(幸村)の通称は「源二郎」ですが、昌幸の次男なので何の不思議もありません。しかしながら、長男・信幸の通称が「源三郎」と呼ばれていたことから、実は信繁(幸村)の方が兄だったという説が存在します。戦国時代には、年長なのにも関わらず弟にされるケースが多く見られますが、それは例外なく側室の子だった場合です。しかし、そうなると「源太郎」は誰なのか?私は父・昌幸が三男であったことから、長男・信幸に自分と同じ三男を意味する「源三郎」という通称を与えたのだと考えています。 |
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3-1、天下人の狭間で |
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秀吉は臣従した真田家に家康の与力になるように命じました。これは、小牧・長久手の戦いで勝利したにも関わらず秀吉に臣従してくれた家康に対しての返礼として、秀吉が家康の第一次上田合戦での敗北を実質的な勝利へと訂正する狙いがありました。この命令は昌幸にとって屈辱的なものでしたが、後ろ盾の景勝も秀吉に臣従した今、従わざるを得ませんでした。 |
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家康の傘下に組み込まれた昌幸は、家康から長男・信幸と家康の重臣・本多忠勝の娘(小松)との縁談を迫られました。昌幸にとって真田の跡取りに家臣の娘を嫁がされるのは屈辱でしたが、秀吉政権下での家康と昌幸の力の違いは明確であり仕方ない状況でした。さらに、頑なに守り続けた沼田城も取り上げられ、氏政に譲渡させられました。 |
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3-2、駆け引き |
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昌幸がこれほどの屈辱に耐えられたのは、天下を左右する大局的な駆け引きが見えていたためだと思われます。信繁(幸村)と信幸をそれぞれの天下人・秀吉と家康に接近させ、また沼田城を秀吉が氏政を打倒するための口実を作るための貢物として差し出し、戦後さらに大きな恩賞を得ることも見込んでいた可能性があります。何はともあれ、氏政は秀吉への臣従を拒んで目論見どおり沼田城から真田領の名胡桃城を攻撃し、昌幸もあっさりと城を放棄しています。さらにこの攻撃の裏には、氏政に対して昌幸から挑発があったとも言われています。 |
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これを契機に秀吉は北条氏を滅ぼして、再び沼田城は信幸が城主になることを条件に真田氏に分配されました。これには、北条の遺領を引き継いだ家康の(家康の重臣・本多忠勝の娘婿を城持ちにしたいという)意向が強く影響しています。 |
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3-3、兄弟の決別 |
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秀吉の死後、天下取りを目指して、豊臣家を打倒すべく家康が動き始めます。昌幸は、家康の与力であったことから自然に家康陣営(東軍)に組することになりました。そして、家康に敵対する上杉氏への討伐軍に参加しました。討伐軍が関東から奥州街道に入った頃、大坂で景勝と通じていた三成を中心とする西軍が挙兵し、天下を二分する対立が始まりました。 |
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三成は東軍の切り崩しとして、昌幸と同行していた信繁(幸村)を誘いました。三成には豊臣政権(秀頼)を護るという大義がありました。そして、その志に恩義ある上杉景勝、直江兼続、そして舅である大谷吉継までもが同心するに至り、信繁(幸村)も父・昌幸とともに西軍につくことになりました。 |
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信繁(幸村)が西軍(大谷吉継)と縁があるように、長男・信幸には東軍(本多忠勝)との縁がありました。親兄弟3人は、犬伏に集って話し合い、今生の別れの杯を交わしました。信幸もまた義を貫いたと言えますが、この兄弟の別れは東西どちらが勝っても真田家が生き残るための昌幸の作戦であったとも言われています。しかし、戦後に信幸が恩賞を断って強く昌幸と信繁(幸村)の助命を嘆願したところから、信幸も義理人情に厚い性格であったことが分かります。 |
| 4、もう一つの関ヶ原 |
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関ヶ原の戦いは、「天下分け目の戦い」の代名詞として用いられますが、もしこの戦いで西軍が勝っていたら上田合戦が「史上最大の過ち」の代名詞になっていたかもしれません。なぜなら、この戦いは天下の大勢に影響がなく、むしろ家康の私怨によるところが大きかったことから東軍の各大名から支持が得られず、家康自身の軍を主力とせざるを得なかったからです。そして結果、関ヶ原に徳川主力軍を投入することができず苦戦を強いられました。この第二次上田合戦は、関ヶ原の地にいたはずの徳川主力軍4万をわずか真田2千の兵が幻のものにした奇跡の戦いでした。 |
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4-1、合戦前夜 |
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東軍から離脱した昌幸と信繁(幸村)は、それぞれ居城の上田城と戸石城に入城しました。戸石城は、上田城の東にあってかつては武田信玄が攻略に失敗して大敗を喫した(砥石崩れ)城として有名な堅城でした。信繁(幸村)は、この城で上田城に攻め寄せてくる東軍を足止めして時間稼ぎをする作戦でした。 |
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与力であった真田家の裏切りに怒った家康は、上杉討伐軍を二隊に分けて一隊を東海道に三成討伐に急がせ、もう一隊を中山道に真田家討伐に向かわせました。この真田討伐軍は、徳川主力軍と身内裏切りの汚名を拭うための真田信幸軍を中心に編成され、総大将には三成討伐軍の指揮を執る家康に代わって嫡子・秀忠が選ばれました。 |
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戸石城に迫った真田討伐軍がまず先鋒に立てたのは真田信幸軍でした。それを見た信繁(幸村)は、身内同士の戦いを回避し、かつ兄・信幸に東軍内で信頼を得るための戦功を与えるため戦うことなく城を明け渡し上田城に移りました。 |
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4-2、第二次上田合戦 |
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戸石城をあっけなく奪った真田討伐軍は、残る上田城の攻略も時間の問題と判断し、関ヶ原での西軍との決戦を前に戦力を温存する目的で降伏勧告を行いました。昌幸も20倍の軍勢を相手に勝ち目はなく、せいぜい足止めすることが目的だったので降伏する素振りで日数を稼ぎ、いよいよ相手も我慢の限界というところで降伏勧告を拒否しました。 |
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これには秀忠も何もしないで時を浪費したとは報告できず、また関ヶ原での合流予定が近づいていたことから、短期決戦(総攻撃)に打って出ました。しかし、昌幸にとっては時間稼ぎが目的だったので、ゲリラ戦で相手を攪乱するなどして決戦を避け、ついに時間切れに追い込むことに成功しました。 |
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上田城の攻略にこだわり過ぎた真田討伐軍は、結果として真田家を討伐することが出来なかっただけでなく、関ヶ原にも間に合わないという大失態を演じることになってしまいました。 |
| 5、日本一の兵 |
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真田三代(幸隆、昌幸、幸村)にあって、前述のとおり幸隆、昌幸の実績は申し分ないのに対して、幸村の戦果は後述の大坂冬の陣だけである。しかしながら、現在に至ってもこれだけの人気を誇る理由には、幸隆、昌幸にはない「義」の心に従った潔い生き様があります。もう少し生きられたであろう数十年の命を「義」のために捨てることで、幸村は数百年の名声を得ました。 |
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5-1、幸村の誕生 |
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4万近い真田討伐軍を足止めしたにも関わらず、西軍は関ヶ原で敗北を喫したことから、昌幸と信繁(幸村)は所領を没収されて紀州・九度山に蟄居させられることになりました。徳川家は当初、大恥をかかされた真田父子を切腹させる予定でしたが、信幸とその娘婿・本多忠勝の助命嘆願によりやむを得ず命だけは助ける形になりました。この時、信幸は徳川家の敵であった真田家の「幸」の字を捨てて信之と改名し、その礼に応えています。 |
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一方、昌幸と信繁(幸村)が蟄居させられた九度山の場所はあまり知られていませんが、高野山のすぐ麓にあります。すなわち、九度山蟄居とはいつでも高野山に登って出家しろという無言の圧力であり、武士を捨てる事(武士としての死)の勧告を意味していました。しかし、昌幸はこの境遇にも負けることなく「幸」の字を捨てた信之に代わって信繁に「幸」の字を与えて幸村が誕生しました。 |
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関ヶ原での東軍(家康)の勝利は、豊臣家の政権でありながら実力では徳川家というねじれ現象を引き起こしました。昌幸はこの現象は長く続かず、必ず再度天下分け目の決戦が起こることを確信し、その機会を伺っていました。しかし、存命中にその機会は訪れることなく、真田家再起の夢は幸村に託されることになりました。 |
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5-2、大坂冬の陣 |
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昌幸の死から4年後(1614)、幸村は豊臣秀頼から大坂城への入城の誘いを受けます。実力に勝る家康は、なかなか臣従しない豊臣家を討伐する準備を進めていたため、秀頼も自衛のためには兵力を集める必要がありました。しかし、名のあるほとんどの武将は既に他家に仕官しており、集まるのは足軽ばかりであったため、その指揮を執ることが出来て家康を撃退した実績もある幸村は豊臣家に絶対に必要な人材でした。 |
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幸村にとっても、豊臣家には恩義があったにも関わらず西軍の一員として護ることができなかったという無念の思いがありました。また、家臣のいない蟄居の身であったため、大軍を指揮して家康と合戦するには願ってもない機会でした。 |
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大坂城は、三方(北:淀川、西:木津川口、東:平野川)を海と川に囲まれた難攻不落の要塞でした。しかし、唯一の弱点が南に広がる摂津平野であり、家康も南の茶臼山に本陣を構えました。幸村は、弱点である南の外堀のさらに外側に突き出た形で郭(真田丸)を設けて立て篭もり、徳川軍にそこを集中攻撃させることで他所への攻撃を軽減させる策を執りました。 |
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大坂城の外堀から突き出た形の真田丸は、当に第二次上田合戦での勝利にヒントを得た奇策でした。第二次上田合戦でも、上田城の最も弱い東の外堀のさらに外側に出丸(お屋形跡)を築いて、そこで真田討伐軍を撃退しています。徳川軍は、真田家の得意の戦法によって大坂城でも唯一の大敗北を喫しました。 |
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5-3、大坂夏の陣 |
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真田丸では勝利を収めたものの、所詮は局地戦での勝利であり、結局は講和(実質上の降伏)により大坂冬の陣は終結しました。講和の条件は、兵を引く代わりに大坂城の外堀を埋めるというものでしたが、本丸を除く全ての堀が埋め立てられた上、秀頼に大坂城を退去するように命令されるに及んで再び合戦を行うことになりました。 |
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今度は、全く堀がない状態なので、出丸を築く奇策を使うこともできず、家康の得意な野戦を挑むしかありませんでした。長期戦を不利と読んだ幸村は、徳川軍最強の呼び声高い伊達政宗軍に襲い掛かって蹴散らすことで味方の士気を高め、さらにその勢いで家康本陣を衝く突撃作戦を敢行しました。この攻撃は成功し、幸村の迫力に気圧された徳川本陣は大いに混乱して、家康は武田信玄に敗れた三方原の戦い以来の逃走を余儀なくされました。 |
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しかし、多勢に不勢で家康の首を取り損ねた幸村は力尽き、安居神社の境内で休息中に討ち取られたと伝えられています。しかし、幸村には複数の影武者がいたと言われており、実は安居神社で討ち取られたのも影武者の1人で幸村本人の最期を見届けたものはいないとも言われています。幸村を最後に見たという複数の目撃情報は、いずれも徳川本陣に突入する獅子奮迅の姿であり、敵味方から日本一の兵(つわもの)と呼ばれ後世に語り継がれることになりました。 |
| 6、その後 |
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幸村の死は、大坂夏の陣の終結を伝える決定的瞬間と言っても過言でなく、その後はほとんど大きな戦闘もなく降伏・自刃して終結しています。幸村が九度山で蟄居中に生まれた嫡男・大助は、大坂夏の陣の直前に元服して幸昌の名を与えられて秀頼の側での護衛についていましたが、初陣を果たすことなく秀頼とともに自刃しました。 |
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奇説では、幸村は生きていて、大助に手引きされて大坂城を脱出した秀頼を伴って薩摩(鹿児島県)に落ち延びたという言い伝えがあります。実際に、鹿児島市には秀頼の墓があり、南九州市(旧頴娃町)雪丸にも幸村の墓と幸村の子孫を名乗る真江田氏が存在します。この雪丸という地名は、幸村の名に由来しており、真江田という名も江戸幕府からの追求を警戒して改姓したものと言われています。 |
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機会があれば是非、現地調査に行って自分の足で確かめてみたいと思います。 |
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