九つの州



「そこのおにーさん、怪我はどんな具合?」
水道の水を頭から被って擦過傷を冷やしていた、不動峰中学テニス部部長・橘桔平は、その声に己の事 かと頭を上げた。持ってきていたタオルで顔を拭き、声の出された方向に視線を向ける。
一人の少年が立っていた。付近に他の人影はなく、恐らくこの人間が先程の声を発したと思われるのだ が。
橘は眉をひそめた。見覚えが無い人物だ。
否、正確には違う。先刻までの試合で、相手チームの中に いた人物だということは見て取れた。来ているユニフォームからもその所属が判る。
立海大学付属中学 校テニス部のレギュラーの一人。
しかし試合中には無論会話も交わさなかったし、その後も接する機会等はなかった。何故今、このよう に馴れ馴れしく声をかけてくるのだろうか?
すると橘の心中の疑問を察したように、目の前の少年はクツクツと笑った。
「あー、薄情じゃのう。昔馴染みをもう忘れてるわ。」
その言葉と声の調子に記憶を刺激され、橘は目を見開いた。次いで驚きの声を上げる。
「お前・・・、仁王か!」
橘が九州にいた小学生時代、テニスの試合で何回か顔を合わせたことがある少年の名前を口にする。
「ご名答。」
ニヤリと笑いながら、彼は答えた。その仕草に昔の影が被り、言葉を更に重ねる。
「判るか、そんな髪型して! 昔と随分違うじゃないか。」
遠慮も何もなしに、相手の銀髪の頭を指差す。
「中学に入る時にな、ちょいと好奇心で染めた。それよりお前さんの方がやたら地味になったの う? テニス雑誌に載っていた『九州二強』の一人は、随分とハデな長髪だったと思うたが?」
「まあ、色々あってな。」
そう言って橘は自分の頭に手を伸ばす。そして改めて突然の訪問者に向き直った。
「で、何の用だ?」
「だから先刻聞いた通りじゃけん。怪我の具合はどんなじゃ?」
橘は己の顔に出来ている赤く腫れた個所に手を触れる。
「大したことはない。」
これは先程の試合で出来た傷だった。
立海対不動峰の3試合目。シングルス3。不動峰中学は部長の橘が、立海はその実力が鳴り響いている 2年生・切原赤也が出場していた。橘とて、全国区と呼ばれる強者。前年度優勝校とは言え、まだ2年 生の切原赤也より優勢と見られていた試合だったのだが。
切原赤也は徹底的にボールを相手にぶつける戦法に出てきた。相手に隙が無い場合、身体に叩きつける のは常道とはいえ、その頻度は高く威力は強すぎた。不動峰ベンチは蒼白になり、そのプレイに激昂 していた。そのボールを受けていた橘自身といえば、まだ冷静だったのだが、それでもやりにくい相手 だったのは確かだ。ずるずると点を与えてしまい、結果としては、負けてしまったのだった。
「あー、立海!」
いきなり怒鳴り声が響き渡る。仁王がその方を振り向けば、橘を捜しに来たのか、見覚えのある不動峰 のレギュラーの二人が立っていた。一人はまだ大人しいが、一人はかなり頭に血が上っているよう だ。
「神尾、声デカイ。」
「うるさい! 立海! 橘さんに何言いに来てんだよ!」
その剣幕に、仁王は宥めるように手を振る。
「あー、ちょいと様子見に。」
その言葉は、更に火に油を注いだようだった。
「なんだとっ! あんなことやっといて、よくも・・・っ!」
今にも掴みかからんばかりに詰めよる姿に、仁王はやんわりと言葉で遮った。
「ウチのがヤンチャし過ぎた。悪かったな。」
ふわり、と笑いかけられて、虚を付かれる。怒鳴り散らしていた神尾は、ぐ、と言葉に詰まり、伊武は 胡散臭げにそう言った男の顔を見た。
その様子に、橘は耐え切れなくなったように笑い声を上げた。しかし出された言葉は辛らつだった。
「お前ら、こいつの言う事はあまり信用するな。」
「「え?」」
後輩は同時に同じ言葉を発する。
言われた方は気にせず、
「あら酷い。」
と言って更にクツクツと笑う。
「ペテン師の二つ名は伊達じゃないだろう?」
「さあて? 本気でお前さんのこと、心配しているとは思わん?」
「思わん。」
ピタリと笑うのを止め、それでも楽しげな光を瞳に宿らせたまま、仁王は橘を真正面から見据える。 ゆっくりと、橘は口を開いた。
「勝つことが第一で、その為の手段にこだわりは無い、と見たが?」
仁王は口に上らせた笑みを更に深くした。
「ご明察。まあ、うちにも負けられない理由、っちゅうもんがあってな。」
そして『反対に、』と仁王は言葉を続ける。
「お前さんの方こそ、随分と大人しゅうなったもんじゃな? 勝ちにいく気迫が昔と段違いじゃなか と?」
「・・・ウチは、どこぞの名門学校とは違ってな。レギュラーの数もぎりぎりなんだ。」
ハ、といった声を仁王は漏らす。
「無理して大怪我背負って全国には行けないってか?」
「全国行きの権利は得た。後は後顧の憂いが無くなった時に王者と当たるだけだ。」
「言う言う。」
そしてひらり、と手を振る。
「その言葉、赤也に伝えておくわ。」
「ああ。」
「じゃ。それまで達者でな。」
そしてそのまま、別れの挨拶のつもりか、手をひらひらと振って背を向ける。
「・・・ねえ。」
その背中に声を掛けたのは伊武深司だった。
「あん?」
その声に足を止め、顔だけ振り返る。伊武は淡々と言葉を継いだ。
「負けられない理由、って何?」
ストレートな物言いに、仁王は一瞬笑みを浮かべた後、すぐに大真面目な顔付きとなった。
「うちの副部長が恐くてな。負けるとぶん殴られるんだ。」
「・・・へえ。」
「信じるなよ、深司。」
「本当のことだけどなあ?」
クツクツと笑いながら、今度こそ仁王は不動峰陣を残し、その場を去ったのだった。


「ありゃ、柳生?」
そう歩かない内に自チームの仲間の一人にぶち当たる。
「何、お迎え?」
「ええ。ミーティングが始まります。」
「いつからいたと?」
柳生が答えるのに、一瞬の間が空いた。
「・・・不動峰の2年生が来たのと同じ位、でしょうか。つい出そびれました。すみません。」
紳士らしく律儀に頭を下げる姿に、仁王は苦笑する。
「別に謝らんでも。」
いえ、と柳生は頭を振った。
「立ち聞きのようなことをしてしまいました。」
「別に悪い事してた訳じゃなし、構わん。」
と仁王は言い切る。柳生はしばらく躊躇うような素振りを見せていたが、思い切ったように口を開 いた。
「不動峰の部長と、知り合いだったんですね。」
「ああ、」
無頓着に仁王は頷く。
「小学生ん時な。住んでいる所は離れてたけど、試合になると結構顔を合わせてた。」
そしてひそやかな笑い声を漏らす。
「全国大会ならともかく、まさか関東大会で顔を合わせるとはの。」
そして隣を歩く、自分より背の高い人物の顔を覗き込む。
「全国大会が楽しみだな?」
「・・・まだ決勝戦が残ってますよ。」
やや素っ気無い柳生の態度には気付かないかのように、仁王は一つ手を打ち鳴らす。
「おう、そうだ。それが残っとったわ。」
「随分と気楽ですね。」
憮然とした指摘が返るが、仁王は軽やかに首を振った。
「いーや? 楽しみにしとるよ? 今度こそオレらのダブルスの復活かもしれんし?」
さりげなく出された仁王の言葉に、柳生の返事は一瞬遅れた。
「どうでしょうね。」
眼鏡を押し上げる手で口元を隠し、柳生は前方に視線を固定したまま答えた。

その柳生を見て、仁王はそっと笑った。


END



(後書き)
仁王、九州出身説大プッシュ!



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