1.下ヶ戸から覗岩
  2.四垂附から猿岩山
  3.へひ岩から竈場
  4.宗ヶ入と七曲り
  5.高山不動と奥ノ院
  6.四寸道道程図
  7.高山不動尊

  

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【四寸道を駆ける】 2.四垂附から猿岩山

ここで断らなければならないのは、高山街道は交易を主にした街道であり、四寸道は高山不動への参詣道であったという事だ。『新編武蔵風土記稿(天保元年・1830)』の龍ヶ谷の記事には「秩父郡高山村に通う道あり、これを四寸道とよぶ。その幅狭くして馬の通はざるほどなる故この名あるべし」と、記載されている。これを見ても、両者にはその起点においてわずかな距離の隔たりがある。つまり、本来は険しい山道を登っていた四寸道も、参詣者の増加に対して次第に便宜が図られるようになり、後に交易の為にも利用される街道へと変遷していったのではないだろうか。だとすれば、四寸道の呼称を用いるのが龍ヶ谷の古老に多いのもうなずける。

覗岩から平坦な道を行くと、やがて両側が開けた場所に出る。一見して痩せ尾根の道ようなのだが、じつはそうではない。これは土砂で谷を埋めて架けられた橋で、先人達が大変な労力をかけて架けたものであろう。ちなみにこの場所を四垂附という。四垂(紙垂)とは結界を張る際に用いられるもので、その地名からしてここからは神域であるということを示している。そしてこの橋からわずかばかり進んだ所に御嶽山への登山道があり、その道を登ればすぐに尾根を乗り越し、御嶽神社の鎮座する頂きへと至る。そこからは下ヶ戸から続く大高取山山塊が一望できるので、立寄ってみても損はないと思う。ところで、ここで四寸道の起点に話を戻そう。高山街道が走る尾根に乗り、さらに『風土記稿』に「その幅狭く馬の通はざるほど」と書かれるほど狭く険しい道は、龍ヶ谷からは少なくとも二つある。そして、その道の一つは龍ヶ谷の道沢を起点とする。


遠い昔、道沢には堂沢観音と呼ばれる天台寺院があったという。この記述は『龍穏寺縁起』によるもので、その寺院は龍ヶ谷村の中心ともいうべき位置にあり、その霊地を継承して龍穏寺が創建されたのだという。四寸道の起点が道沢だとすれば、関八州見晴台が龍穏寺の奥ノ院だという話にも信憑性がでてくるはずだ。道沢から御嶽山への道はやや判然としなくなっているものの、今でもこの道を辿る事ができる。かつては道沢から横吹峠へ向かう途中で分岐して御嶽山へと続いていた。分岐からはかなり険しく狭い道となるので、確かに馬では厳しいだろう。山頂手前の岩上には小さな祠が祀られ、そこが霊場であった事を物語る。そして急峻な山道を登りあげると、頂でおよそ四寸(12cm)の狭い岩間を通過する。道はそのまま御嶽神社の脇を抜けて尾根へと向かい、峯で高山街道と交わる。そして、もう一つの道は黒山と龍ヶ谷境の平倉から龍ヶ谷川を渡り、すでに消滅しかけた道を小沢沿いに登って396△を乗り越し、覗岩を下に見て四垂附へと至る。

ではどちらが四寸道の起点だといえるのだろうか。成立年代は不祥だが、高山不動本坊に残る『御鳥居七ヶ所版木』に、そのてがかりをさぐってみよう。そこにはまず一ノ鳥居として「カワカト村山王脇礎」が描かれている。そして「前ノ下村トリイクホ」、「子ヲイ村高山木」、「大谷村高山木」、「マツ山フトウ坂」、「大トリイ村礎」、そして「タツヶ谷竜クツ」と続く。丘の上に描かれた龍ヶ谷龍窟の鳥居からは細い山道となって雲上に向かい、一段下がった道からやや離れて四寸岩が描かれている。そこからの曲りくねった道は四十八曲リと記され、再び雲から出るとそこが山ノ内トリイ山である。仏教でよく使われる四十八という数字は阿弥陀如来の誓願の数で、実際の折れ曲がりを数えたものではない。だが、七曲りが四十八曲りの一部だとすれば、四寸岩はかなり手前に位置したはずだ。 そもそも四寸道がそう呼ばれるには理由がある。修験のメッカ、大峰山系には四寸岩山1236mという山があり、大峰奥駈けの修行を行う時の通過点でもあった。


その名の由来は「山頂付近に岩が二つあり、その岩と岩の間が四寸だったことからそう呼ばれるようになった」という。じつは四寸道の名の由来もこれとまったく同じなのだ。すでに鎌倉時代以前から「熊野もうで」をする習慣があったのだから、越生の修験がこの四寸岩を知っていた事に疑念を抱く余地はない。だとすれば四寸岩は山頂にあるはずで、龍ヶ谷に残る伝承もそれを裏付けている。そして、それらの条件にピタリと符合するのが、御嶽神社の目前に2つ並んだ岩なのである。龍ヶ谷や大満の人々は、忘れてはならない霊地として、そこに御嶽社を勧請したのだろう。 御嶽山からわずかに進んで四寸道となると、その南面の山腹に杉林の中にわずかな平地跡が確認できる。慶長2年(1597)の『黒山検地帳写』には、この「みね」の田畑・屋敷についての記述がみえる。遠い昔、人里離れたこの場所で、人々は何を想って暮らしていたのだろう。 そこから何度か掘割道を折れ曲がり、道が峯の北斜面となった所に樹齢数百年を経た大杉が立っている。その大杉の傍らにはやはり小さな祠が祀られていて、目前にはわりと平坦な土地が拡がっている。

大杉の裏から登った峯の山頂454.8mは、ちょうど黒山三瀧の天井で、展望の開けていた時の山頂からは、黒山の霊場を一望できたのではないかと思う。向かい側の山本坊の聖地・大平山山頂では、かつて修験者達によって柴燈護摩と火渡り式が行われていたという。室町時代の応永2年(1395)、相馬掃門介良人栄円は黒山を拠点として熊野霊場を開いた。すなわち、これが後に本山派二十七先達といわれる山本坊である。その昔、奥武蔵の山々を走る尾根道は峰入りの修練道でもあったという。この峯から奥武蔵の尾根に向かうという事は、文字通り「峰入り」となるわけだ。そして山本坊が檀那達を引率していたのは、なにも高山不動と限ったわけではない。山本坊の勢力は武蔵国入西郡・上比企郡・秩父郡及び常陸国と越後国の一部にまで及び、当然ながら秩父にはその霞下となる院坊も数多く存在していた。秩父観音霊場の成立には修験が深く関わっていたという事から、山本坊が秩父霊場に向かったという事も容易に想像できる。だが、もはや何も語ることのない四寸道は、峯から猿岩山を抜け、やがて舗装のされた猿岩林道が現れる。

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